アラバマの歴史 ★デ・ソトの探検とマビラの虐殺 ★クリーク戦争と涙の旅路 ★綿花王国の盛衰と公民権運動 北米探検は、1492年にコロンブスがカリブ海の島々に到達してから間もなく始まりましたが、しばらくは沿岸部に留まっていました。 === デ・ソトの探検とマビラの虐殺 === 最初の内陸部への探検に成功したのはスペインのデ・ソト隊で、1539年にフロリダ半島に上陸、金鉱を探す目的で現ノースカロライナ州まで北上した後、アパラチア山脈の山麓伝いに南行したといわれています。 デ・ソト隊はセントラルアラバマのマビラという村でタスカルーサ酋長率いるモービル族の待ち伏せを受け、村を焼き尽くし2〜6千人のインディアン戦士を殺戮しました。 これが、その後1890年まで続く白人とインディアンの争乱の中で最初に起きた大虐殺となりました。デ・ソト1行も、総勢620名で馬220頭を越える大探検隊でしたが、戦闘で200名と1/4の馬を失ったそうです。 === クリーク戦争と涙の旅路 === 18世紀半ば…独立戦争前夜の頃から、アメリカの西部開拓史が始まります。当時の西部といえばアパラチア山脈の西の全地域で、独立戦争によりイギリスから領土を得たとはいえ、インディアンが支配する土地でした。開拓者たちはケンタッキーからテネシーに入りチェロキー族を追い出して支配地を拡大していきますが、アラバマはミシシッピー準州の一部で、クリーク族と呼ばれるインディアンが実効支配していました。 一方で、アメリカ政府はインディアンを文明化して懐柔しようと努めていましたが、1811〜12年にかけてミシシッピー川とオハイオ川の合流点付近を震源とする大地震が起き、地震を神の怒りと信じた保守派の人々と文明開化を進める人々の間で争いが起きます。 そこに第二次米英戦争(1812〜14年)が結びついて、保守派クリーク族+イギリスvs.アメリカ+開明派インディアン連合のクリーク戦争が勃発。後の第7代大統領ジャクソン将軍が、ホースシューベンドの戦いに大勝し、アラバマの大半とジョージアの南部が白人に譲渡されました。 === アラバマフィーバーと涙の旅路 === 時は、ホイットニーが発明した綿繰り機が普及し、綿花栽培の採算性が飛躍的に改善した南部プランテーション農業の発展期でした。クリーク族が立ち退いたアラバマに黒人奴隷を連れた白人が殺到し、アラバマフィーバー(熱)というアラバマ入植ブームが起きます。 一方、ジャクソン将軍はその後もスペイン領フロリダに侵入してインディアンの弾圧を続け、大統領になるとインディアン移住法を制定して南部の5部族を現在のオクラホマ州に追い立て、南部全域をついに白人の支配下に入ったのです。これが、アメリカ史に悪名高い「涙の旅路」と呼ばれるインディアンの強制移住です(ジャクソンは大統領ベストテンに入る人気者ですが…)。 === 綿花王国の盛衰と公民権運動 ===
南北戦争(1861〜65年)前に、アラバマの綿花生産は全米の約1/4を占めるまでに発展しました。アラバマ州内では陸上戦もなしに戦争は終わり、黒人は奴隷から小作農と身分を変えたものの戦後も貧しい生活を強いられ、綿花王国を支え続けます。 1910〜30年に第一次の黒人大移動が起き、ブラック・ベルトの黒人も中西部や東部・西部の都会に出て行くようになりました。南部では人種差別が激しくリンチが横行していたことや移民法が厳しくなり都会では労働力の確保が難しくなってきたことが主因です。 1955年に、モンゴメリーでローザ・パークスが市バスで白人に席を譲るのを拒否して逮捕されると、キング牧師を中心に市バスのボイコット運動が起き、これが全米を動かす公民権運動に発展しました。 綿花栽培は機械化が進み、最近はテキサスが全米の3割を生産。アラバマは、すっかり脇役に徹しています。 www.jlifeus.com(アメリカ生活・e-百科)
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