ミシシッピーの歴史とナッチェストレース ★ナッチェストレース古道 ★ナッチェストレース・パークウェー(テネシー〜アラバマ〜ミシシッピー) 一般論ですが、西部開拓初期の重要な道路は、インディアンの道(インディアントレイル)を利用して作られました。さらに時代をさかのぼれば、もとはバッファローなどの動物が踏み固めて自然にできた「けもの道」です。 === ナッチェストレース古道 ===
アメリカは1783年のパリ条約で独立を果たし、ミシシッピー川以東のイギリス領を獲得しました。 インディアンによる襲撃の脅威が減ったケンタッキーやテネシー北部には新たな開拓者が押し寄せます。自給自足段階はすぐに卒業し、余剰農畜物を東部に運んで換金するニーズが生じました。
しかし、東には険しいアパラチア山脈が立ちはだっています。最善の交易手段は、フラットボートというイカダ同然の船でオハイオ川を流れ下り、ミシシッピ川下流のナッチェスで外洋船に荷を積み替えるルートでした。ただし、これは片道切符で、復路はナッシュビルまで陸路を歩くか馬に乗って帰らなければなりません。その道がナッチェストレース古道でした。 ナッチェスは、メキシコ湾岸のビロクシや現ルイジアナ州のニューオリンズとともにフランス人によって17世紀末から18世紀初頭に建設された古い都市です。しかし、ナッチェストレースは、チカソー族とチョクトー族の支配地域を通るインディアントレイルでしたから、合衆国政府は1801年、第3代ジェファーソン大統領の時代に両部族の了承を得た上で、幌馬車が通れる規格の道路の建設を始めました。 ナッチェストレースは1809年に完成しましたが、その後の賞味期間は長くありませんでした。陸路では1820年にできたジャクソン将軍のミリタリーロードに主役を奪われ、ミシシッピー川の水運もフラットボートの時代から蒸気船の時代へと変わり、次第に荒れ果てて行きます。 === パークウェーとトレイル === パークウェーの全長は444マイル(715km)。ナッチェストレースの古道沿いに走るオールアメリカンロード(格上の国立景勝バイウェー)で、アパラチア山脈を縦貫する469マイルのブルーリッジ・パークウェーと並んで内務省の国立公園局が管理する観光道路の中でも東西の横綱級です。 ナッシュビルの南、トゥペロの周辺、ジャクソンの北と、ナッチェスまでの2ヶ所に、古道を歩いて旅する計5つの国立景勝トレイル(ハイキングコース)があります。 テネシー州の区間はアパラチア山脈の山麓ですから、パークウェーも山間を縫うように走ります。やすらぎのクリーク(小川)が多く、鉱山や製鉄所の跡やタバコ農園、初めて太平洋への陸路を探検して帰還したルイス・クラーク探検隊の隊長メリウェザー・ルイスが謎の死を遂げた地などがあります。
アラバマでテネシー川を越えると、景色は一変して湿地が増えてきます。その昔繁栄したインディアンの遺跡も多数あります。トゥペロのチカソー村落跡は、1736年にイギリスと仲がよかったチカソー族をフランスとチョクトー族の連合軍が襲い、返り討ちをを喫した場所です。トゥペロ周辺は南北戦争の激戦地としても知られており、パークウェー沿いにも南軍兵士の墓地があります。
ジャクソンの北方の湿地「サイプレス・スワンプ」は、パークウェーの景勝地の中でも特に有名です。ここでいうサイプレスは、糸杉ではなくて沼杉の仲間、落羽松(ラクウショウ)という難しい名前もあるそうです。 パークウェーがナッチェスに近づくにつれ史跡の数は増えてきます。ロッキースプリングスは、1930年に最後の店が閉じて見捨てられたゴーストタウン。 マウント・ローカストには、その昔、往路ははケンタッキーやオハイオからフラットボートで物資を運び、復路は古道を歩いて帰った運送業者を泊めた宿があります。用済みのフラットボートはナッチェスで解体し、材木として売ったそうです。 かつては、ポートギブソンに近くミシシッピー川を見下ろす景勝地に4階建ての大邸宅がありましたが、1890年の火事で、ギリシャ神殿のような円柱を残して焼けてしまいました。ウィンザーの廃墟と呼ばれています。 |