ミズーリ州の歴史 ★ルイジアナ購入 ★幌馬車の道
カナダのケベック州は今でもフランス語圏ですが、フランスの北米探検隊はカナダの東部から、セントローレンス川⇒五大湖⇒イリノイ川⇒ミシシッピー川という経路をたどったので、イリノイ川のミシシッピー川合流点付近(現在のセントルイスの対岸)には、17世紀末に早くもフランス人の町が建設されていました。 ===== ≪ルイジアナ購入≫ ===== ミズーリ州も含むミシシッピー川請願の広大な領土は、幸運にも、1803年にアメリカがフランスから15百万ドルで購入したものです。栄華を極めたルイ14世の名前をもらってルイジアナと呼ばれていました。フランスが築いた植民地をフランスから購入したのですから、何の不思議もない取引のようですが、実は、ルイジアナとフロリダは、英仏西の三国間でゲームのコマのように頻繁にやり取りされていました。境界の取り決めも曖昧で、常に紛争の火種がくすぶっていたのです。
フランス領はミシシッピー川の両岸に拡大を続けましたが、ミシシッピー川から東の領土は、フレンチ-インディアン戦争(1754〜63年)の賠償でイギリスに没収されます。さらに、イギリスは、フランスの同盟国スペインにフロリダから手を引かせ、スペインは、見返りにフランスからルイジアナをもらいます。1811〜12年の大地震で有名になったブーツヒール地方のニューマドリッドは、時代に建設された町です。フランスの領土は、北米本土から消失しました。 そのイギリスも独立戦争(1775〜83年)に負けて、皆さんご存じの通り、ミシシッピー川東岸のほぼ全域がアメリカのものになります。フロリダは、スペインの手に戻りました。 アメリカでは、ケンタッキーやテネシーなどアパラチア山脈の西部が発展してきました。1796年のスペインとの協定で、シシッピー川の自由航行権が認められ、農産物はミシシッピー川河口のスペイン領ニューオリンズから東部やヨーロッパへ積み出すようになりました。 その頃、フランスではブルボン王朝が倒れ、革命を経てナポレオンが権力の座についていました。ヨーロッパで頂点に立ったナポレオンは、新大陸の植民地復活の野心を抱き、かつてのフランス領ルイジアナを、1800年にスペインから秘密裡に取り返していたのです。 しかし、軍事力に優れたフランスが本気で戻ってきては、アメリカの西部開拓の道は閉ざされてしまいます。1802年に、表向きニューオリンズを管理するスペインの役人が協定を破棄、ミシシッピー川の自由航行が認められない事態になって西部の農民は激しく動揺。困ったジェファーソン大統領は、フランスにニューオリンズ周辺領土の売却を打診してみました。 ところが、当時の世界情勢はめまぐるしく変化していました。フランスはイギリスと一触即発の状況に陥り、ナポレオンは莫大な戦費を急いで調達しなければなりませんでした。他方で、フランス領ハイチの反乱にも手を焼いていたナポレオンは、一転して新大陸への興味を失い、驚いたことに、ルイジアナ全土を買うようアメリカに持ちかけたのです。 スペインとの約束には、「フランスがルイジアナを放棄するときはスペインに返還し第三国には譲渡しない」とありましたから、明らかな協定違反です。アメリカ議会も、賛成ばかりではありませんでした。「住民を自動的にアメリカ国民に編入するのは憲法違反」との解釈やスペインとの対立が激化するとの懸念から、下院では59-57のわずか2表差でかろうじて可決されたそうです。 ルイジアナ購入で、アメリカの領土は一気に2倍に増え、フランスと交渉に当たったリビングストン駐仏公使は「アメリカは、今日から第一級の列強に仲間入りした。」と宣言しました。 === ≪幌馬車の道≫ === ルイス&クラーク探検隊(⇒セントルイス・e-ガイド)は、セントルイスからミズーリ川をさかのぼり、太平洋への道を探しました。1812年には毛皮商人の一隊がミズーリ川の支流プラット川をさかのぼり、後のオレゴントレイルに近いルートを開拓しました。1821年には、ミズーリ州の商人が、スペインから独立したメキシコとの通商路「サンタフェ・トレイル」を開拓します。 これらの道が整備されて、開拓者が幌馬車を連ねて西部へ旅立って行ったのは、イギリスとの話し合い(オレゴン協定)でノースウェストの国境が確定した1846年頃からです。米墨戦争(1846〜48年)に勝ってアメリカが広大なメキシコ領を獲得する前に、気の早い開拓者はさっさとカリフォルニアに乗り込んでいました。 大陸横断鉄道が開通する1869年まで25年間は、ほとんどの開拓者が、セントルイスから一本道でミズーリ川をのぼり、インディペンデンス(カンザスシティ都市圏)で上陸して、それぞれの目的地に向かって行ったのです。正にセントルイスは西部への入場門で、カンザスシティは最初の大きな分かれ道だったのです。 |