★グリーンズボロ ★ウィンストン-セーラム ★ハイポイント
「ノースカロライナ州・e-ガイド」のページで簡単に述べましたが、ノースカロライナ州の中央部にはピードモント(山麓)の三日月地帯と呼ばれる産業地帯があり、その真ん中に位置するのが、グリーンズボロとハイポイントにウィンストン-セーラムのピードモント三市(トライアド)都市圏です。 ひとくくりにピードモントといっても、州都ローリーあたりは沿岸平野と境を接し標高も約100mと低いせいか、こちらは同じ三市でもシンプルにトライアングル(三角形)都市圏と区別して呼ばれています。 今は発展するピードモント地方も、植民地時代には「奥地(Back Country)」でした。富裕な沿岸平野の役人と対立し、ピードモントにはイギリス軍に味方する王党派の住民も少なからずいて、独立戦争の終盤で激戦の舞台になりました。
=====≪グリーンズボロ≫=====
独立戦争では、北部戦線に見切りをつけたイギリスが、南部の王党派やチェロキーと組んで沿岸部から進軍、サウスカロライナとジョージアを制圧することに成功します。 そこへ、チェロキーと対立するテネシーの愛国派民兵が現れ、キングスマウンテンとカウペンスの戦いでイギリス軍は手痛い打撃を受けることになったのですが、続いてピードモント三連戦を締めくくる「ギルフォート郡庁舎の戦い」があったのがグリーンズボロ、指揮を執ったのがナサニエル・グリーン少将でした。少将は、その後、サウスカロライナとジョージアを回復し、南部戦線の英雄になります。 19世紀末に既製服販売の創案者としても知られるモーゼス・コーンがジーンズ用デニムの生産を始めてから、グリーンズボロは南部繊維工業の中心都市として発展。一流建築家の設計による建造物も多く、今日でも景観の美しい町として知られています。 1950〜60年代の人種差別解消を求める黒人の公民権運動でも、グリーンズボロは重要な役割を果たしました。「グリーンズボロのシット・イン」…1960年、グリーンズボロの百貨店の白人専用ランチカウンターに4人の黒人学生が座り、退去を命じられても座り続けました。翌日からは参加者が増え、運動は瞬く間に南部全域に拡大。売上が激減した百貨店は、半年後にランチカウンターを黒人に開放せざるを得ませんでした。この店は、現在は国際公民権運動センターとして保存されています。 しかし、1964年に公民権法が制定された後も白人至上主義者による違法行為は各地で後を絶たず、グリーンズボロでは1979年に「グリーンズボロの虐殺」と呼ばれるおぞましい事件が起きました。黒人活動家の集会に右翼団体が殴りこみ5人を殺害したあげく、全員が白人陪審で無罪放免されたのです。事件から四半世紀が経った2005年、グリーンズボロでは、真相を究明し人種間の和解を進める市民運動が起こりました。 =====≪ウィンストン-セーラム≫===== セーラムは、1753年に
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