コロンバスの南部近郊とオハイオ州南東部をご案内しましょう。北部近郊は別の記事でご案内しました。西部近郊は、主にデイトンのページでご案内します。 ===== ≪ホッキングヒルズと砂岩層≫ =====
オハイオはコーンベルトの一角で農業も盛んなので、大半は平坦な土地と誤解している人も多いことでしょう。でも、東部と南部にはアパラチア山麓の台地が張り出していて、意外に山がちな州です。
コロンバスから南南東に車で1時間ほど(60マイル)行くと、ホッキングヒルズ州立公園という運動不足解消には格好のハイキングコースがあります。岩山が浸食されてできた奇景が見られますから、観光を兼ねてお出かけください。 このあたりは、今から3~4億年前には広く内海の浅瀬だったそうで、その頃に川を流れて堆積した砂が砂岩層を形成しました。
中でも頻繁に写真で紹介される断崖がコンクルズホロー…1797年にコンクルさんが見つけたホロー(窪地)で、見下ろすと深さ60mの谷間が800m続いています。ほかに、キャントウェル断崖とシダーフォールズ、アッシュケーブやオールドマンズケーブにロックハウスなど、見どころの崖や滝や大洞窟が目白押し。隣接するロックブリッジ州立自然保護区やレイクローガン州立公園もホッキングヒルズの一部です。
周辺で、ホッキングバレー景勝鉄道は、南東の町ネルソンビル⇔ローガンの20kmのディーゼルの旅。ボランティアの運営ですが、時にはスモークライズ牧場の協力で"大列車強盗"のイベントも催します。乗馬は、ほかにもまだら馬牧場やアンクル・バックの乗馬トレイル。レイクホープ州立公園は、ハミングバードの呼び寄せができる人気スポットです。 ホッキングヒルズの砂岩層は、北はアクロンの西方から南はオハイオ川対岸のケンタッキーまで、南北に長く広い地域で露出しています。特に有名なのが、コロンバス(ダブリン)から東に55マイルのブラックハンド・ゴージ州立自然保護区…今は休日をカヌーやマウンテンバイクを楽しむ峡谷ですが、かつては運河や鉄道のルートに利用されてきました。
途中、ロンガバーガーというバスケット製造の会社のバスケット型のビルがありますから、見逃さないでください。会社見学で、昔ながらに草木でバスケットを編む体験もできます。
南の方では、レイクキャサリン州立自然保護区の分水路にも砂岩層が露出しています。付近の砂岩には鉄鉱が含まれていて、南北戦争前のアメリカでは、バックアイ製鉄炉州立記念物公園らホッキングヒルズからケンタッキーにかけてのハンギングロック製鉄地帯が製鉄業の中心地でした。ピッツバーグに近代的な大製鉄所が誕生する前の時代で、当時は溶鉱炉の燃料に木炭が使われていました。 ===== ≪チリコシーとインディアン遺跡≫ =====
コロンバスの南、サイオト川の下流にチリコシー(Chilicothe)という町がありますが、このあたりは紀元前200~西暦500年頃に栄えたインディアンのオハイオ・ホープウェル文明の中心地だったと考えられています。 氷河がもたらした肥沃な平野と手つかずに残った山地の境界で、農業にも狩猟にも好ましい環境だったせいでしょうか、チリコシーの周辺には6ヶ所の遺跡群があり、ホープウェル文化国立歴史公園に指定されています。 ただ、正直に申し上げれば、インディアン遺跡の中で観光的に楽しめるものは、アリゾナやニューメキシコの断崖住居を除き、あまりありません。地域によっては木造住居もあったはずですが、全て失われてしまいました。住居の再現遺跡も、オハイオでは、デイトンのサンウォッチ・インディアンビレッジくらいなもので、他の遺跡にはマウンドと呼ばれる盛り土が残っているだけ…マウンドは、祭祀や墳墓、住居用に築かれたと考えられています。
せっかく国立公園があっても、つまらなければ観光客は来てくれません。そこで、チリコシーはテカムセ!野外劇というインディアンの歴史劇で集客しています。テカムセは19世紀初めにチリコシーで生まれたといわれるインディアンの英雄で、ショーニー族の酋長です。諸部族に団結を呼びかけ、米英戦争(1812~14年)にさきがけて戦いを起こし、イギリス(カナダ)と連携して連邦政府と戦いました。
マウンドは見てもつまらないと言いましたが、チリコシー南西のサーペント・マウンドは、何と世界遺産に申請中…蛇の形をした墳丘で、推定建造時は西暦1070年前後。かに座の超新星爆発やハレーすい星到来など宇宙で人々を驚かす事件が続いて起きた時期で、インディアンは天文現象を意識してマウンドを築いたというメルヘンな仮説が、考古学会で真剣に議論されています。
チリコシーで庭園の美しいアデナ屋敷も、遺跡と無縁ではありません。屋敷の脇に紀元前1000~200年頃のインディアン文化のマウンドが見つかり、文化の方が発見地の名前をもらう慣行で、アデナ文化と名付けられました。オハイオでは、アデナ文化からホープウェル文化、さらにフォートエンシェント文化へと受け継がれます。
その後、17世紀半ばにビーバー戦争が起こり、オハイオは、白人から銃を得たオンタリオ湖南岸のイロコイ連邦のインディアンに征服されてしまいます。各地に逃亡していたショーニー族やマイアミ族は、18世紀初めにオハイオに戻ってきますが、フレンチ・インディアン戦争(1755~63年)から60年戦争とも呼ばれる白人との直接抗争が始まりました。 独立戦争(1775~83年)と北西インディアン戦争(1785~95年)を経て、オハイオは南西部を除き連邦政府の支配下に入り、インディアンの土地は白人に買収され失われていきました。1808年にテカムセらショーニー族の一派が現インディアナ州ラファイエット付近に移住して、諸部族にインディアン文化への回帰を呼びかけますが、テカムセは1813年にカナダで戦死。オハイオからイリノイ中部まで、連邦政府に刃向うインディアンは一掃されました。 ===== ≪オハイオ川≫ =====
サイオト川は、チリコシーの南のポーツマスでオハイオ川と合流しています。太古の昔、サイオト川はテーズ川という大河川の一部で、今とは逆の北に流れ、大きく迂回してイリノイ川の下流からミシシッピ川に注いでいました。氷河期に、チリコシーまで押し寄せた氷河がテーズ川の水をせき止めて巨大な湖を形成、その湖が決壊して現在のオハイオ川の流路ができ、サイオト川の流れも南向きに変わりました。
オハイオ川景勝バイウェーは、イリノイのミシシッピ川との分岐点からインディアナを通ってオハイオ州の西端に至るまで、オハイオ川の北岸伝いの967マイル(1547km)の国立景勝道路。ポーツマスなどオハイオ川やミシシッピ川の沿岸では、町を洪水から守る防水壁に壁画が描かれて名物になっています。
州南東部のマリエッタは、シンシナティやクリーブランドとともに独立戦争後にいち早く入植が始まった地域ですが、その後の他の地域の急速な発展についていけませんでした。それだけに古い街並みが残されています。 オハイオ川博物館脇のマスキンガム川河岸には、1918年に建造され、1953年まで石炭のハシケを引いていた船尾外輪蒸気船W.P.スナイダー・ジュニア号が係留されています。オハイオ川の船尾外輪船フェスティバル(⇒公式サイト)は、毎年9月。 ===== ≪ゼーンズビルとマスキンガム川≫ =====
オハイオとインディアナの大半の川は、幅広でも、川底が砂が積もって浅く船の航行には向いていません。そこで、川と並行して運河が掘られ、鉄道が発達する前の時代の産業発展に貢献しました。 しかし、氷河の浸食を受けなかったマスキンガム川は例外で、ミッドイースト・オハイオのゼーンズビルまで蒸気船でさかのぼることができました。今でも、ゼーンビルに行けば観光用の船尾外輪船でマスキンガム川のクルーズを楽しむことができます。
マスキンガム川は、河岸伝いのパークウェー州立公園をドライブして下流のマリエッタまで11の水門を見て回る楽しみ方もあります。水門(第11水門/第10水門/第9水門/第8水門/第7水門/第6水門/第5水門/第4水門/第3水門/第2水門)の正確な場所は地図にマーク済みです。
ゼーンズビルは陸路でもナショナルロードが通る交通の要衝でしたが、白人の入植前からバッファローやインディアンが使ってきた大切な道もありました。ケンタッキーのメイズビルから浅瀬を渡り、チリコシー経由で、ゼーンズビルからホイーリングやピッツバーグに至るルートです。結果的に西部開拓のスピードが速く、ナショナルロード(ナショナルロード- ゼーン・グレイ博物館)の重要性が増しました。 付近には、乗馬や宿泊もできる触れ合いタッチのサファリ動物園ザ・ワイルズや、やはり宿泊もOKのKD観光牧場などのリゾートもあります。 |