ブルースの故郷 ★ビールストリート ★綿花とデルタブルース ★メンフィスブルースとR&B ★ロックやロカビリーとサン・レコード ★メンフィスソウルとスタックス・レコード
メンフィスのビールストリートは「ブルースの故郷」です。1977年に連邦議会が公式に宣言したくらいですから間違いありません。 それだけでもすごいのに、さらに「ロックンロールの生誕の地」とも名乗っています。これにはさすがに異論もあるようですが、ロックンロール一族のリズム&ブルースやロカビリーが生まれたのは確かにビールストリートの周辺です。まず右の年表をごらんください。 =====≪ビールストリート≫=====
ビールストリートは東西の通り…入口にはエルビス・プレスリーの像が立つ公園があり、二番街から四番街の歓楽街に10を超えるライブハウスや、劇場、ナイトクラブ、レストラン、土産物店などがひしめいています。入場料は取らないお店が多いので何軒かハシゴするのも難しくはありません。 歩行者天国の足元はウォーク・オブ・フェーム(有名人の銘入り歩道)…本家ハリウッドのウォーク・オブ・フェームは星型ですが、ここのブロックは音符型。裏通りには、エレキギターの老舗ギブソン・ギターの工場があって製造過程を見学することができます。 四番街の最後の区画には、サウスメンフィスから移築してきたブルースの父 WCハンディの粗末な家があって、今は博物館になっています。そのはす向かいの先にあるロバート・チャーチ公園の旧称ビールストリート・バプティスト教会は、公民権運動の初期に重要な役割を果たした由緒ある黒人教会です。 ================≪綿花とデルタブルース≫================
黒人の音楽家ハンディは、アラバマ州フローレンスで生まれました。各地でキャリアを積んだ後、1903年=30歳の年に、バンド・リーダーの職を得てミシシッピー州クラークスデールに移り住みます。そして、同じ年に近所のタトワイラーという町で偶然ハンディが耳にしたのが「ブルース」…駅で汽車を待ちうたた寝をしている間に隣の黒人がギターで弾き語りを始めたのだそうです。
このあたり一帯は、ミシシッピーデルタというミシシッピー川とヤズー川に囲まれ無数の河川が縦横に流れる湿地で、綿花の大生産地帯です。南北戦争の後も、黒人は奴隷から小作農に身分が変っただけで、厳しい人種差別と苦しい生活がなおも続いていました。 ハンディは1905年にビールストリートで演奏を始め、1909年にはバンドを引き連れてメンフィスに転居して来ます。その年の市長選挙で応援キャンペーンのために作った曲がヒットして、後に「メンフィス・ブルース」と呼ばれるようになりました。 =====≪メンフィスブルースとR&B≫===== メンフィスで育ったブルースは「メンフィスブルース」、ビールストリートやウェストメンフィスを中心に演奏活動を続けたミュージシャンたちは「ビールストリーターズ」と呼ばれています。
トランペット奏者のハンディがメンフィスブルースの創始者なら、フランク・ストークスは独特のギター奏法を編み出してメンフィスブルースを発展させた人物です。 1936年にギブソンが最初の実用エレキギターを売り出すと、ブルースの進化が加速します。初期のロックンロールとの違いは、少しテンポを早くして、楽器をリードギターとリズムギター、ベースギターにドラムスの典型的なロックバンド編成に変えるだけでした。 さて、南部で人種差別が続いていたことは述べた通りですが、1910〜30年に第一次の黒人大移動が起き、南部から北部の大都市に2百万人の黒人が移住しました。メンフィスのほかにも、南部のニューオリンズやセントルイスに加え、シカゴやデトロイト、ニューヨークなど黒人の音楽コミュニティが次第に育ってきます。 黒人系の音楽は一括して「レースミュージック(Race Music)」と呼ばれていました。差別用語ではなかったのですが、戦後の時代感覚にそぐわないとレコード会社が市場調査して新語「リズム&ブルース」が登場しました。ですから、当初はジャズからゴスペルまで幅広いジャンルを表す言葉だった予定が、いつの間にか、1940年代の後半に華々しくデビューしたB.B.キングらの音楽を指すように意味が変わってしまったようです。 B.B.キングのB.B.は、Beale Street Blues Boyの愛称が縮まってBlues Boy、そこからさらに縮まってB.B.となったもの。典型的なリズム&ブルースは、エレキギターとコントラバスやピアノにドラムスやサックスといった編成で、しばしばバックコーラスがつきます。 =====≪ロックやロカビリーとサン・レコード≫=====
レコードは19世紀のうちから実用化されていましたが、回転スピードが各社の規格が統一されたのは1925年。ジュークボックスは1930年代に普及し、シンシナティのビルボード社が最初のヒットチャートを発表したのは1936年のことです。1925年にラジオで始まったカントリーミュージックの公開生放送グランド・オール・オプリは、1939年にNBC系列で全国放送されるようになっていました。年を追うごとに、全米各地の文化的な地域差が縮まっていった時代です。 テレビの商業放送も1940年代の初めに始まっていましたが、戦争があったせいで一般家庭に普及し始めたのは1950年代です。1955年には2軒に1軒がテレビを保有するまでになっていました。プレスリーやビートルズも出演したCBSのエド・サリバンショーは1948年に始まって71年まで続いたそうですた。クリーブランドで、ラジオDJのアラン・リードが若者向けに黒人の音楽を聞かせる番組を始めたのは1951年…「ロック」や「ロックンロール」の言葉は1910年代からブルースの曲名や歌詞に使われてきましたが、音楽のジャンルとなったのはこの時からです。
ロックンロールとR&Bの違いは曖昧で厳密に区別しようとしても実りはないのですが、評論家が「最初のロックンロールのレコード」と呼んでいる曲がいくつかあります。その中で特に有力なのがロケット88…アイク・ターナーのグループが1951年3月にメンフィスのサンレコードでレコーディングしたものです。
それから2年経ち、1953年の夏、ミシシッピー州トゥルク生まれのプレスリー青年が、デモレコードを作るためにサンレコード(現サンスタジオ)を訪ねて経営者サム・フィリップスの目に留まります。それから1年後の7月、歴史的に最初のロカビリー(50年代の白人系ロック)のレコードといわれるザッツオーライトがカットされました。この頃は、ビールストリートから少し北の公会堂で毎週末にサタデーナイト・ジャンボリーというカントリーミュージックを交えたショーが行われていて、プレスリーやジョニー・バーネット(サンプル曲ロカビリーブギ)らの若者が新しい音楽作りに切磋琢磨していたのです。 最初のロカビリー・レコードについては、ジム・ヘイリーのロック・アラウンド・ザ・クロック(1954年4月)だという有力な異説もあります。しかし、ジム・ヘイリーも、1951年にはアイク・ターナーに少し遅れてやって来てサンスタジオでロケット88を吹き込んだというほどですから、サンスタジオが、音楽史上で果たした役割の大きさは十分お分かりでしょう。 プレスリーは1977年に42歳の若さで亡くなりましたが、晩年を過ごしたサウスメンフィスの邸宅グレースランドには舞台衣装や車や自家用機まで遺品が展示されています。2006年6月に、当時の小泉首相が訪れたのはご存じですね?サンスタジオとグレースランド間は無料のシャトルバスが行き来しています。 =====≪メンフィスソウルとスタックス・レコード≫=====
1960年代に入ると、R&Bからソウルミュージックというボーカル中心のジャンルが枝分かれします。デトロイトのモータウン・レコードはシュープリームズやジャクソンファイブなどの軽快な曲をヒットさせましたが、メンフィスのスタックス・レコードは、もっとゴスペル的で深みがあるいわゆるサザンソウルにこだわりました。 スタックスは1976年に倒産してしまいましたが、建物はスタックス・アメリカンソウル博物館となって一般に公開されています。デトロイトのモータウン博物館のニックネームが「ヒッツビルUSA」なのに対して、こちらは「ソウルビルUSA」と名乗っているのはソウルの本家はメンフィスにありという自負からでしょう。オバマ大統領の就任式でソロを歌ったアレサ・フランクリンもメンフィス生まれのサザンソウル・シンガーです。 ビールストリートの三番街には、首都ワシントンの有名なスミソニアン財団が運営しているメンフィス・ロック&ソウル博物館がありますが、ここでは1930年代のミシシッピーデルタの黒人小作農のワークソングをロックとソウルの源流として紹介しています。 |