★ナッシュビル盆地と中部 ★チェロキー族のふるさと…東部 ★いわゆる ミッドサウス…西部
東部の小さな州でない限り、どの州にも大雑把な地域区分があるものですが、テネシー州の場合は、それが特別です。州法には三つの地方(=Grand Division)の区分が明記され、州最高裁の判事の数に不公平がないよう等々、東部、中部、西部のバランスに気配りがされています。州旗のデザインも三つ星…テネシー州は、地理的に分かれるだけではなく、歴史や産業、政治、音楽まで大きく違う三つの地方の共同体です。 右の地図を、矢印に注目してごらんください。テネシー川は、アパラチア山脈の山あいを南行して一度アラバマ州に入り、西部でテネシー州を再び北行します。北でオハイオ川に注ぎ、ミシシッピー川と合流してテネシー州の西の州境を南に流れ下ります。 東部地方は「山と渓谷(Ridge & Valley)」地帯で、東はアパラチア山脈の背骨で1500m級の峰が連なる山地、西はケンタッキーとバージニアの州境の延長で起伏の穏やかな500m級の山々が続く山地で区切られます。 中部地方はカンバーランド川が流れるナッシュビル盆地と周囲の高原(Highland Rim)です。テネシー川下流部から先の西部地方はメキシコ湾の湾岸平野でミシシッピー古代入り江(Mississippi Embayment)に連なっています。それぞれの中心都市の海抜は、ノックスビル(東部)270m、ナッシュビル(中部)182m、メンフィス(西部)103mです。 ===============≪ナッシュビル盆地と中部テネシー≫=============== (オハイオ川の南で)アパラチア山脈を越え、「西部」への本格的な植民が始まったのは正に独立戦争開戦の1775年前後からです。その頃まで、テネシーの北に隣接するケンタッキー地方はインディアン諸部族の狩猟場でしたが、ショーニー族との戦争や一部チェロキー族との取引などを経て、ケンタッキー川とカンバーランド川に囲まれた地域(図上では濃い緑で表示)への入植であれば、大きな障害がなくなりつつあったのです。 そのうち一番南のルートを進んだ開拓者たちが、現テネシー州の領域に入り、1779年、肥沃なカンバーランド川の谷間にナッシュボロー砦を築きました。中部テネシーはなだらかで美しい丘陵が連なる地域で、南北戦争さえなければ、ケンタッキーのブルーグラス地方と競う名馬の産地となっていたはずです。 1801年からジェファーソン大統領の先導でミシシッピー川下流のナッチェスとつながる陸路が建設され、綿花の交易や栽培を通じて中部テネシーは南部経済圏に組み入れられていきます。南北戦争で深い傷を負いますが、戦後は南部の交通の要衝として急速に復興します。 1925年には、今日まで続くカントリーミュージックのラジオ生放送「グランド・オール・オプリ」が始まり、ナッシュビルは音楽や出版を核とした文化都市に発展していきます。 ===============≪チェロキー族のふるさと…東部テネシー≫=============== 東部テネシーはスモーキー・マウンテン(アパラチア山脈南部)のふもとで渓谷沿いの山間です。この土地はチェロキー族の本拠でしたから、この地に無秩序な白人開拓者が押し寄せたことにより、チカマウガ戦争(1776-94)と呼ばれる一連の抗争が起きました。折からの独立戦争(1775-83)でアメリカと戦っていたイギリスが、インディアンの加勢に回りました。 現在のノックスビルの地にホワイト砦が築かれたのは1790年。結局、チェロキー族が東部テネシーの土地の大半を割譲することにより、その4年後に平和条約が締結されました。その後、チェロキー族は、現チャタヌガ付近に政府を樹立します。第二次米英戦争ではアメリカを助けてイギリスと同盟するクリーク族と戦ったり、連邦議会に代表を送ったりして友好関係の維持に努めますが、白人の要求は留まることがありません。 1828年にジョージア州北部で金鉱が発見されると、チェロキー族の存在が、一層、邪魔になってきます。1830年に、テネシー出身のジャクソン大統領が推進したインディアン移住法が制定され、チェロキー族も1838年に(途上で4千人が死亡する)オクラホマへの「涙の旅路」を強いられました。これで、最終的にミシシッピー川の東部全域が白人の土地になったのです。 東部テネシーはプランテーション農業には不向きな地域で、当然、奴隷制度にも無縁でした。南北戦争で西部と中部テネシーが南部連合に参加を決めた際にも最後まで抵抗したことで知られています。 ===============≪ミッドサウス…西部テネシー≫=============== 西部地方は、テネシー川とミシシッピー川に挟まれた一帯です。もとはチカソー族インディアンの狩猟場でしたが、1818年の「ジャクソン購入」を機に白人の入植が始まりました。 この地域はテネシー3州域の中で一段と南部的です。アメリカ南部を「アッパー」と「ディープ」の2つに大胆に区分すると、東部と中部テネシーは間違いなく「アッパー・サウス」ですが、西部テネシーは「ディープ・サウス」…この地方のために、特に「ミッドサウス」という言葉もあるそうです。 テネシー州の印章をごらんください。「農業」と「通商」の文字と「綿花」と「船」の絵が往年の西部テネシーの繁栄を物語っています。黒人奴隷を使役して大農場で栽培された綿花は、収穫後メンフィス港からミシシッピー川を下り、ジャズの都ニューオーリンズで積み替えられて、海外に輸出されていきました。今でもメンフィスの人口の6割は黒人です。 |