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2012年12月15日(第78号)


「ユダヤ人とイスラエル」検定…入門編

 パレスチナ国連加盟でアメリカは反対、日本は賛成

 11月29日に、国連総会でパレスチナがオブザーバー国として国連に加盟する是非について投票が行われ、賛成138ヶ国、反対9ヶ国、棄権41ヶ国、欠席5ヶ国の大差で可決されました。

 日本をはじめ、国際問題でいつもアメリカに歩調を合わせる国の中にも、この日だけは賛成に回った国が少なくありません。

 反対9ヶ国といっても、本気で反対したと見られるのはイスラエルとアメリカ、カナダのほかにはチェコの4ヶ国。残りはアメリカの信託統治領だったパラオなど太平洋の島々とパナマで、アメリカの意向に従っただけでしょう。カナダは国家経済がユダヤ系の財閥に握られているようなところがありますから、反対はもっともです。

 イギリスやカナダ以外のイギリス連邦の国々が反対でなく棄権に回ったのには隔世の感があります。ユダヤ人に縁が深い東欧・中欧の国々も棄権しました。

 今回は、日本で、あまり教えられることのないユダヤ人と中東の歴史を、さわりだけご案内します。


ユダヤ人と古代イスラエル王国


 エジプトで紀元前1207年に書かれた石碑に「イスラエル」の名が記されています。聖書では、モーゼがユダヤの民を率いて約束の地カナンに帰ろうとした「出エジプト」の時代に当たるそうです。

ダビデの星

 イスラエルは、紀元前995年頃、エルサレムを中心に統一王国を築きました。2代目のダビデ王の時代です。

 3代目ソロモン王の死後に南北に分裂、北は紀元前721年にアッシリアに滅ぼされます。南は紀元前586年に新バビロニアに滅ぼされました(バビロン捕囚)。

 その後、紀元前539年には新バビロニアが滅亡して一部のユダヤ人が帰還しました。さらに、紀元前143年には王国が復活するものの、間もなくローマ帝国の傘下に入ります。

 キリストの時代は、ちょうど新約聖書に登場するヘロデ王が死に、ユダヤがローマ総督直轄の属州に変わる時期でした。

 紀元135年に、反乱を繰り返すユダヤ属州に手を焼いたローマは、わざわざ千年も昔に消えたユダヤの敵ペリシテ人の名を復活して、地域をパレスチナ属州と改名…ユダヤ人を弾圧しました。本格的なユダヤ人離散の歴史の始まりです。


ポーランド分割とシオニズム


 ユダヤ人は世界に散らばっていきましたが、他民族に同化せず、ユダヤ教を軸に民族のアイデンティティーを守り続けて各地で迫害を受けることになります。

 中世ヨーロッパでは、キリスト教徒にいやしまれる金融業に進出して、ユダヤ人には狡猾な金貸しのイメージが付きまとうようにもなりました。特に西欧で嫌われたユダヤ人は、13世紀に蒙古に攻め込まれ荒廃したポーランドに信教の自由を保障され、次第に東欧に移住していきました。

 しかし、ポーランドは1795年にプロシャ・オーストリア・ロシアの3ヶ国に分割され、国がまるごと消えてしまいます。ユダヤ人が頼りになる庇護者を失ったところで19世紀が訪れ、ヨーロッパのナショナリズムがは最高潮に達し、各地で大規模な反ユダヤ暴動が頻発するようになりました。

 一方で、ユダヤ人のナショナリズムも起こります。エホバ(ヤーヴェ)の神に約束された地に帰還しようというシオニズム運動。シオン山(Mt. Zion)はエルサレムの南東にあった小さな丘で、「シオン」はエルサレムの別称です。


ヨーロッパの火薬庫…バルカン半島


 第一次世界大戦は、16世紀からバルカン半島を支配してきたオスマントルコが衰え、スラブ系諸民族のナショナリズムが高まる中で起きました。

 「7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、1つの国家」 といわれた旧ユーゴスラビアが崩壊して内戦が起きたのは記憶に新しい出来事ですが、全ては19世紀末から続く近縁者間の抗争です。

 オスマントルコは、露土戦争(1877〜78年)でロシアに負け、バルカン半島ではセルビア・モンテネグロ・ルーマニアの3公国が独立しました。しかし、大国の駆け引きの中、ボスニア・ヘルツェゴビナだけはオーストリアに編入されてしまいます。

 ブルガリアもマケドニアを含む大ブルガリア公国となるはずでしたが、ロシアの南下を恐れるイギリスの反対で南部を切り離され、マケドニアもオスマントルコの支配下に残ることになりました。

 しかし、1908年にオスマントルコで青年トルコ党革命が起きると、ブルガリアは南部を併合して独立します。1912年にはセルビア・モンテネグロとギリシャとともにバルカン戦争を起こしてマケドニアを奪還…と、ここまではいいとしても、分け前をめぐり仲間割れして、今度は3ヶ国を相手に戦争。さほど、ナショナリズムは偏狭です。

 一方、南スラブ系民族の盟主を自負するセルビアは、セルビア系住民の多いボスニア・ヘルツェゴビナに野心を抱いていましたが、オーストリアは先回りして1908年にボスニア・ヘルツェゴビナを正式に自国領に併合しています。

 このようにきな臭い情勢の下、1914年、オーストリア皇太子が、ボスニア・ヘルツェゴビナのサラエボでセルビアの民族主義者に殺される事件が起きました。オーストリアは、それを口実にセルビアに宣戦布告。第一次世界大戦が始まります。

 大国は、その都度、ご都合主義で合従連衡を繰り返していました。第一次世界大戦では、ロシアは同じスラブ系民族のセルビアを助けるために民主主義国家の英仏と組み、セルビアと対立していたブルガリアと、ロシアと敵対していたオスマントルコは中央同盟国に加わりました。


第一次世界大戦とイギリスの二枚舌


T. E. Lawrence

 さて、現在のパレスチナ問題は、イギリスが第一次世界大戦で、オスマントルコ領内に住むアラブの人々とユダヤ人シオニスト双方の協力を取り付けるために二枚舌を使ったときに始まったというのが通説です。

映画「アラビアのロレンス」

 オスマントルコと戦うイギリスは、イスラム教の聖地メッカの太守ハーシム家に対し、大戦後のアラブ人国家樹立を保障します。

 イギリス軍から単身派遣されたロレンスが、アラブの民族衣装をまといラクダに乗って、ゲリラ戦を指揮した「アラブの反乱」は、ちょうど50年前の名画「アラビアのロレンス」に描かれています。

 一方で、戦時財政に心細いイギリスは、ユダヤ金融資本のロスチャイルドにシオニズムを支持してユダヤ人のパレスチナ帰還を認める約束をしてします。

 「アラブの反乱」は成功し、1920年、ハーシム家三男ファイサルが王位についてパレスチナやヨルダンを含む地域にシリア・アラブ王国が建国されました。シオニズムを容認したファイサルは、閣僚にユダヤ人を多数受け入れたそうです。

 ところが、ファイサルは、イギリスとの秘密協定でシリア領有を決めていたフランスにダマスカスを追い出され、イギリスの誘いに乗ってイラクの初代国王となります。

 パレスチナはヨルダン川の東西に分けられ、東にはハーシム家次男のトランスヨルダン王国が築かれ、ユダヤ人の帰還先から外れることになりました。


ナチの迫害とイスラエル建国


 「先住アラブ系住民を排除するものではない」ことにはなっていましたが、シオニズムのユダヤ人移民運動は、1920年からイギリスの(国際連盟)委任統治下の西パレスチナで続けられることになりました。

  イスラム教徒 ユダヤ教徒 キリスト教徒 その他 総人口
1922 486,177 (74.91%) 83,790 (12.91%) 71,464 (11.01%) 7,617 (1.17%) 649,048
1931 493,147 (64.32%) 174,606 (22.77%) 88,907 (11.60%) 10,101 (1.32%) 766,761
1941 906,551 (59.68%) 474,102 (31.21%) 125,413 (8.26%) 12,881 (0.85%) 1,518,947
1946 1,076,783 (58.34%) 608,225 (32.96%) 145,063 (7.86%) 15,488 (0.84%) 1,845,559

 しかし、19世紀のユダヤ移民は農園を経営して小作人のアラブ系住民と協調関係を築いていたのに対して、シオニズム移民には社会主義傾向が強く、多くが閉鎖的な集団農場(キブツ)を作って入植したので、アラブ系住民との溝は深まっていきます。

1937年分割案

 1921年のメーデーの日に発生したアラブ人の暴動は、初期の衝突の中で大きなものでした。左翼ユダヤ人同士の乱闘が誤解されて伝わったのが原因です。ユダヤとアラブの双方にそれぞれ50人近い死者を出し、これを機に誕生した民兵組織が、後のイスラエル国防軍になります。

 両民族の経済格差は拡大し、対立も先鋭化します。1936〜39年には「アラブ大反乱(Arab Revolt in Palestine)」が起き、イギリスは鎮圧に手を焼いて初めて領土分割を提案しますが、双方とも受諾しません。

 時は第二次大戦直前…ナチのユダヤ人迫害が激化し難民は増える一方なのに、イギリスはパレスチナに精力を割く余裕もなく狼狽します。ついに、アラブの意向を尊重してユダヤ人移民枠を制限するとともに、分割案を撤回して10年後に共同統治国家を建設するよう勧告したのです。

 イギリスに見捨てられたヨーロッパのユダヤ人難民には、パレスチナに不法入国を試みるほかに行き場がありませんでした。密入国船の多くが拿捕されて人々はモーリシャス諸島に抑留されましたが、ほかにソ連潜水艦の攻撃を受け800人が死亡する事件も起きて、ユダヤ人の反英感情が一気に高まります。

1947年国連決議の分割案

 アラブ側にしても、少数ながらも引続きユダヤ移民を認め、独立を先送りさせたイギリスには不満を抱いていました。第二次世界大戦の直後には10万人のユダヤ難民がいましたが、パレスチナはイギリスの手に負えない状況で、困ったイギリスは国際連合に処理をマル投げしてしまいます。

1949年停戦グリーンライン

 国連は、アメリカとソ連の支持で、あらためてパレスチナの分割を決議しました。ユダヤ人は今度は大歓迎しますが、アラブ側は受け入れません。

 そのままイギリスの委任統治の期限が来て、1948年5月にイギリス軍は撤退。イスラエルは独立を宣言し、周辺のアラブ諸国(エジプトとレバノン・シリア・ヨルダン・イラク)との間で第一次中東戦争が起きます。

 イスラエルは、アラブ諸国軍15万人に対し、民兵3万人という劣勢を跳ね返し国連決議案より有利な境界で停戦に持ち込むことができました。 

 これがグリーンラインと呼ばれ、今も国際的に大方認められているイスラエルの国境です。結局、パレスチナにアラブ人国家はできずに、ヨルダン川西岸地域はヨルダン領に、ガザ地区はエジプト領に編入されたのです。


戦後のパレスチナ


第三次・第四次中東戦争

 第二次世界大戦後の中東は、アラブ社会主義を掲げてソ連の後押しを受けるエジプトとイスラエルが対立する形で始まります。

 1956年の第二次中東戦争は、スエズ運河を国有化したエジプトに対し、英仏がイスラエルを巻き込んで起こした戦争です。アメリカがエジプトを支持して英仏を撤兵に追い込み、エジプトはアラブの盟主の座を得ました。

 1964年に開かれた第1回アラブ首脳会議で、現在のパレスチナ自治政府の前身に当たるパレスチナ解放機構(PLO)が設立されます。

 1967年の第三次中東戦争は、好戦派の世論に押されてアラブ諸国が戦争準備を進める中、イスラエルが先手を打って奇襲攻撃をしたものです。シナイ半島やシリアのゴラン高原などパレスチナ域外まで一気に占領されて、エジプトの権威は失墜します。

 目的を果たせなかったPLOの過激派は、テロ活動を激化させ1970年には世界各地で同時ハイジャック事件を起こしました。PLOが本拠を置くヨルダンの国王は怒り、PLOをレバノンに追放。レバノンは、フランスがシリアから分離したキリスト教徒の多い観光リゾートでしたが、その後、パレスチナ難民が増えて1975年に内戦が始まります。

オスロ合意

 1973年に起きた第四次中東戦争は、エジプトが仕掛けた第三次中東戦争の報復戦です。エジプトは軍事的に勝つことはできませんでしたが、石油輸出機構(OPEC)が原油の減産に乗り出し、第一次石油ショックが発生。その後は世界経済とパレスチナ問題が切り離せない問題になってきます。

 シナイ半島は1978年のキャンプデービッド合意で、エジプトに返還されました。

 一方、PLOは1987年からテロ活動を激化させます。それに、いったん終止符を打ったのが1993年調印のオスロ合意で、イスラエルとPLOはお互いの存在を正式に認め、イスラエルは占領地から徐々に撤兵することになります。イスラエルのラビン首相とPLOのアラファト議長は、ともにノーベル平和賞を受賞しますが、それもつかの間で、ラビン首相は1995年に暗殺されてしまいました。

キャンプデービッド合意以降(2007年現在)

 その後は、具体的な和平プロセスが進まず、2000年以降は非PLOのテロ活動が活発化し、穏健派のアラファト議長は、イスラエルとアラブの双方の板ばさみで疎まれる存在になっていきます。占領地のアラファト議長はイスラエル軍に軟禁され、2004年に病死しました。今年11月には墓が掘り起こされ、死因が再調査されています。

 パレスチナ自治政府は2006年に実質的に分裂し、ガザ地区は過激派のハマスの支配下にあります。

 イスラエルは、ヨルダン川西岸の占領地でアラブ人居住地との間に壁を建設し、引続き入植地の拡大を続けています。

 新しい要素は、「アラブの春」の一連の革命でエジプトの親アメリカ政権が倒れ、シリアの親ロシア政権が危機に瀕していることですが、どのような影響があるか方向性は不透明です。