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2013年11月15日(第89号)


日本の領有権…皆さんは、アメリカ人に説明できますか?

 「尖閣諸島」と「竹島」の政府広報動画で勉強

 外国に住んでいると、「外人」にあれこれ質問され、時には日本国民を代表して返事しなければならないことがありますね。たいていのことは適当に受け流して回答しておけばよろしいのでしょうが、領土問題や歴史の問題については、でたらめをいうわけにはいきません。

 中国や韓国の反日宣伝に業を煮やした日本政府が、10月に「尖閣諸島」と「竹島」の言いがかりを封じる動画を作ったのはご存じですか?上品な動画ですから、皆さんもごらんになって、そのままアメリカ人に説明なさったらいいと思います。それぞれ英語版と日本語版があります。

 領土問題がなぜ起こったかというと、戦前は台湾や韓国も日本の一部で台湾や韓国の漁師さんも日本人扱い…日本の領土に立ち入れたからでしょう。それを考えれば、今も漁業権については配慮してあげなければならないかもしれませんが、領有権を主張したり不法占拠するのはとんでもないことです。

 外交の基本は、相手の横道にそれた議論に乗せられて、相手の土俵で一々反論しないことです。相手が大昔の地図を持ち出し信ぴょう性に欠ける説明をしたからといって、こちらも地図を取り出してウソや間違いを指摘する必要はありません。「尖閣諸島や竹島は昔から日本の領土だったけれど、わざわざ昔に戻って議論するまでもなく日本の領有権は国際的に認められているのですよ」で取り合わないようにしましょう。


尖閣諸島には村があり日本人二百人が暮らしていた


⇒ 英語版

(補足)

 日本は1945年に連合国に無条件降伏し、1952年まで米軍に占領されていました。沖縄の占領はその後も続き、1972年にようやく日本に返還されました。その間は沖縄県尖閣諸島も米軍の施政権下にあり、日本政府は台湾漁民の海鳥乱獲など尖閣諸島で問題が起きていることに気がついていても、直接抗議することもできなかったそうです。

 1968年の国連の調査で周辺海域に石油が埋蔵されていることが分かり、初めて中国と台湾が尖閣諸島の領有権を主張し始めたのは1971年。日中平和友好条約が締結されたのは1978年です。いわゆる「領有権問題の棚上げの合意」については一方(中国)が棚上げすると言い、他方(日本)が聞き流せば、外交的には会話になるので、真相は合意の有無を曖昧にすることであうんの妥協があったのでしょう。

 中国は、今あらためて「領有権問題を棚上げしよう」と提案し、日本政府は「領有権問題は存在しない」と言っています。安易に中国の誘いに乗れば「領有権に疑問の余地がある」と日本が認めたことになり、紛争の火種が一層大きくなってしまいます。

 仮に国際司法裁判所で争うなら、竹島や北方4島については、不法占拠されている被害者の日本が訴えるのが筋ですが、日本が実効支配している尖閣諸島の場合には、領有権を主張する中国が訴えるのを待つしかありません。


サンフランシスコ講和条約で日本の竹島領有権確認


⇒ 英語版

(補足)

 若い皆さんの中には、最近まで韓国の竹島不法占拠の事実を知らずにおられた方も多いことでしょう。2012年に政権運営に行き詰まった李明博(イミョンバク)大統領が竹島を訪れて、韓国は「寝た子を起こし」てしまいました。国際的に問題が大きくなれば日本は国際司法裁判所に提訴せざるを得なくなり、韓国は裁判に応じて敗訴するか、応訴を拒否して国際的なメンツを失うか選ばなければならなくなります。

 第二次世界大戦後、朝鮮半島は南北を米ソ両軍に占領されましたが、南の韓国で初代大統領に選ばれた李承晩は徹底した反共・反日主義者でした。一方、占領下の日本では日本漁船の活動がマッカーサー・ラインという海域内に限られていましたが、サンフランシスコ講和条約では制限ライン外の竹島も日本の領土であることが確認されます。

 そこで李承晩は、1952年、講和条約の発効直前に李承晩ラインという一方的な境界線を定めます。対馬はさすがにライン外でしたが、竹島の周辺で操業する漁船は次々と韓国に拿捕され、その後13年間に日本人抑留者は3929人、拿捕された船舶数は328隻、死傷者は44人を数えたそうです。

 しかし、独裁的な李承晩政権はアメリカの支持も失っていました。1960年には選挙の不正をきっかけに四月革命が起こり李承晩はハワイに亡命。続く1年は南北統一を夢見る学生運動を抑えられない第二共和国時代。1961年に政治混乱を見かねた軍部が5・16クーデターを起こし、クーデターを主導した朴正煕が1963年に大統領に就任します。

 朴正煕政権は親米親日政策を取り1965年に日韓条約が締結されます。この条約は、韓国は戦勝国でなく、戦前は日本の一部でしたから日本は韓国に戦争賠償金を払う立場にはないが、約11億ドルの無償資金と借款を援助することにより、お互いの請求権は個人請求権も含めて放棄するという約束でした。

 最近は、慰安婦や戦時徴用など韓国側の個人請求権が注目されていますが、日本の企業や個人にも敗戦時に没収された在韓資産の請求権があり、この時に正式に放棄されました。ひとりひとりの請求権を調べ、損害額に応じて個人補償をするのは事実上不可能ですから、個人救済はそれぞれの国がそれぞれの国民に対して行うという原則です。

 この時の日本の経済援助を契機に韓国は「漢江の奇跡」といわれる経済発展を遂げたわけですが、国民の不満を押し切って締結された日韓条約は、韓国民の心の中で信任されていないのかもしれません。韓国では、1910年の日韓併合の合法性が未だに問題にされることがありますが、これも韓国民が日韓条約に納得していない証拠です。

 しかし、それだけで現在の反日世論が形成されたわけではありません。日本側に信ぴょう性に欠ける慰安婦強制連行ストーリーを証言する人物がいて、1989年にその韓国語訳の本が出版されたのがきっかけになりました。それを受けて1991年に一部の元慰安婦が訴訟を起こし、さらに1993年に当時の河野官房長官が強制連行は否定しつつも謝罪する曖昧な談話を発表したために、話は一層こじれてしまいました。

 仮にご本人の意思だとしても、経済的な事情でやむを得ず慰安婦になった方も多数おられることでしょう。でも、外交でやみくもに同情的な発言をするのは極めて危険です。村山内閣は「女性のためのアジア平和国民基金」を作り、民間から寄付を集めて285名の韓国・台湾・フィリピンの元慰安婦という女性に償い金を届け、政府予算で医療・福祉支援事業を行いました。ただし、訴訟を起こした元慰安婦は償い金を受け取らなかったようです。

 2011年に韓国憲法裁判所で、慰安婦の対日賠償請求を政府に命令する判決が下されました。困った李明博大統領は、2012年に竹島に上陸という八つ当たりのような行動で世論の支持を集めようとしました。後継の朴槿恵(パククネ)大統領は、父親が日韓条約締結を強行した張本人で、しかも(日本の)関東軍中尉だった経歴から、少しでも親日的な言動をすると世論の離反を招く非常につらい立場にあります。