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2014年11月15日(第101号)


「全米各地のインディアン戦争」の連載を終えて…

 去年の感謝祭から、ちょうど1年かかりました!!

 インディアン戦争について書くなら感謝祭(サンクスギビング)からだろうと思い、昨年11月の第86号から北米のインディアン戦争の連載を始めました。

 インディアンとアメリカ人のお付合いの歴史も、(真偽はともかく)メイフラワー号でケープコッド岬に流れ着いた清教徒の皆さんがインディアンに施しを受け、翌年の収穫を祝ってインディアンを招き神の恵みに感謝して一緒に食事をした故事に始まるからです。

 主に英語のWikipediaの記事を参照しましたが、簡略すぎたり詳しすぎたり、それぞれ断片的な記事が相互に矛盾したりで、予想以上にタフな仕事でした。それでも何とかやり遂げたのは、これまで各地の観光ガイドを書いていても腑に落ちなかったアメリカ史の隠れた部分が、次々と分かってきて興味深かったからです。


古傷に触れられたくないアメリカ人?


 一言でいえば当たり前に聞こえるでしょうが、もともとは全米くまなく、各地に数多くの個性豊かなインディアン部族が、そこそこ平和に暮らしていたのですね。ところが、白人が西部開拓と称して、土地と多くの命と伝統的な暮らしを奪ってしまった…白人が書く歴史書にインディアンの影が薄いのは、後ろめたいところがあるからに違いありません。私が資料集めに苦労したのも、そのせいです。

 といっても、記事を書く上で、私は、インディアンに同情したり白人に怒りを覚えたりせずに、過度に感情移入しないように努めました。また、昔のことを暴いて現代のアメリカ人を非難するつもりも毛頭ありません。


先祖の昔話を語り伝えるアメリカ人?


 逆に、現代のアメリカ人の中に、インディアンに対する罪の意識というか、申し訳なさのような気持ちを抱いている人がいるのを知って、驚きました。私が「最近、インディアン戦争の歴史を研究してるんだ」と話しただけで、急に相手の表情が曇ったのです。

 その相手とは、私が十年来親しくお付合いしているカイロプラクティックの先生…19世紀後半にドイツから来てアイオワに入植したご先祖の見聞きが、先生の家には昔話として語り継がれていたようです。当時は、ワイオミングやアリゾナで、スー族やアパッチ族が最後の戦いをしていた時代でした。

 先生は私より一回りとちょっと下ですから、幼年期に公民権運動やベトナム反戦運動をTVニュースで見て育った世代です。日本人が戦後復興に汗水流している時に、アメリカ人は苦もなく遊んでいたと思ったら大間違い。中には心優しい人たちも大勢いて、当時は人種差別やベトナム戦争に心を痛め、今も、大昔に決着がついたインディアンの不幸に思いを巡らせ、自らも一端の責任を感じているのです。

 皆さんも、こんな人をご存じですか?


連載で書き残したこと


 ほとんど無知に近い状態で連載を始めたので、当初は書きたくても書けなかったことがいっぱいあります。いずれ読み直して全体を書き改めなければいけないのですが、今回は、いくつかポイントを絞って補足することにしましょう。


インディアンの社会


 さて、今更の話ですが、インディアンって誰でしょう?

 左の地図は、白人が来る前の北米先住民の分布を、文化的な特色で大くくりして示しています。

 カナダやアラスカの寒帯や亜寒帯に住んでいる先住民には、イヌイットなど別の呼び方がありますね。また、南西部の下の白地部分は、スペインに征服されたアステカ帝国など先住民の国があった場所です。

 言ってみれば、都合のいいことに、インディアンは、現在のアメリカ本土とその国境付近で暮らしていた先住民で、メキシコやペルーの先住民と違い王や皇帝をいただいていませんでした。国がなかったせいで、スペインやイギリスに簡単に征服されずに済んだのかもしれません。

 それは、インディアンが狩猟採集経済の段階で遊牧生活を送っていたせいだと説明することもできます。遊牧生活では、大きな集団で移動することができないからです。

 それでも、今月号の記事にもあるように、南西部ではメキシコの先住民からトウモロコシ栽培を習得し、紀元900〜1150年には大規模な定住生活が始まっていました。もう少しで国家ができる段階に来ていたのかもしれませんが、気候の大変動で土地の乾燥化が進み、人々は大河の周辺に分散して集落を築くようになりました(後プエブロ文化)。

イリノイ南部のミシシッピー文化想像図

 東部でも、ミシシッピー川の流域を中心とする広い地域でトウモロコシ栽培と定住化が進み、大酋長に率いられる部族国家が各地に誕生しました(ミシシッピー文化)。

 最盛期は13〜15世紀でしたが、その後農業は干ばつで苦しみます。狩りの獲物の乱獲や薪材の過剰伐採などの問題も生じ、人口増に伴い集落は分散化していったようです。ここでも大国家には、発展しませんでした。


スペイン人デソトの探検


 スペイン人デソトの探検隊(1539〜41年)がアメリカ南東部にやって来たのは、ちょうど、このようなインディアンの社会変動期でした。様々な職種の620人とウマ220頭を引き連れた大探検隊です。

ミシシッピー文化群とデソト探検隊の推定進路デソト死後の進路帰途 (⇒拡大)

Massacre of Mabila

 さて、アラバマ川を下る途中で、一行が、地域を治めるタスカルーサ大酋長に物資の補給を頼んだところ、招き入れられたのは柵で厳重に周囲を囲った要塞都市でした。ここで、弓矢で武装したインディアンのだまし討ちを受けます。

 9時間の戦闘で、探検隊は200人が死亡し150人余りが負傷。インディアンは町を焼かれ、戦士2〜6千人が死亡したと記録されています。これが、インディアンと白人の間で起きた戦闘の中で、最初の激戦と見て間違いないでしょう(マビラの虐殺)。

 この後、デソトはミシシッピー川河畔で客死。残りの一行はメキシコを目指して帰途につきましたが、途中で一度陸路を断念して戻り、何とか作ったボートに乗ってインディアンの目を逃れるように川を下る困難な旅だったそうです。


伝染病で人口が急減


 デソトの探検隊が残したものは少なくありませんでした。一行が携えた食用のブタが、逃げてアメリカの野生ブタ(razorback)の祖先になったそうですが、もっと深刻だったのは、新大陸には存在していなかった伝染病の蔓延です。一行の探検路に沿って麻疹(はしか)、天然痘、水ぼうそうなどが流行り、全く免疫のないインディアンの死亡率は高く、社会構造を変えるほど人口が急減した地域もあったようです。

 数字でいえば、伝染病は、戦争以上にインディアンを苦しめた災禍といえましょう。白人が来る前のインディアンの人口については諸説あって、小は210万人から大は1千8百万人といったところですが、1800年には60万人、インディアン戦争が終息した1890年には25万人にまで減っています。

 戦争で死んだインディアンの人数も正確なところは分かりませんが、1894年のアメリカの国勢調査局の調査では(控えめに見て)4万5千人…残り全てが伝染病のせいとはいえませんが、病死がインディアン社会を崩壊させた主因の一つであったことは明白です。

 清教徒が入植した頃、ニューイングランドでは既に伝染病が流行し、インディアンの人口は急減してしまっていたところでした。放棄された集落もあったほどで、そこに入植してきた白人は、少ないうちは歓迎できる存在だったのです。実際、感謝祭発祥の逸話のようにインディアン(ワンパノアグ族)と白人の蜜月状態はしばらく続いていたようです。

 しかし、白人を暖かく迎えた大酋長の子供の代になると、白人の数が増え、いつの間にか白人の私有地が増え、気がついてみると、もとはインディアンのものだった土地から自分たちが締め出されるようになって、インディアン戦争が始まりました(フィリップ王戦争)。


ビーバーの毛皮と部族間抗争


 これには、もう一つ背景があります。ニューイングランドのインディアンは、西のイロコイ連邦と沿岸部の白人勢力の挟み撃ちにあって追い詰められていたのです。

 イロコイ連邦は、オンタリオ湖南岸のイロコイ語を話す5部族(後に6部族)の軍事同盟…オランダ人やイギリス人から銃の供給を受け、ミシシッピー川以西の中西部全域とケンタッキーから他部族を追い出し、ビーバーの狩猟地を拡大する戦い(ビーバー戦争)を進めていました。当時、ヨーロッパでは、フェルト帽にビーバーの毛皮が珍重されていたのです。

 一方で、ニューイングランドと隣接するカナダでも、フランス人と毛皮取引をする部族同盟との対立が激化してきます。そこで、ニューイングランドで始まったインディアン戦争は、フランスとカナダのインディアンが同盟を組み、イギリスとイロコイ連邦が同盟を組む戦争に発展し、ヨーロッパの英仏戦争と並行して繰返し戦火を交えることになるのです。


精神文化の荒廃


 ところで、インディアンは、毛皮を売って何を得たのでしょうか?銃は、弓矢に勝る狩猟と戦争のための必需品で、ほかに衣料や日用品など便利な白人製品もありましたが、インディアンはビーズなどの奢侈な装飾品やウイスキーを手に入れて喜び、借金を作って、ついには土地と交換するような時代がやって来ます。

 1799年にはアルコールの害を説くイロコイ族の預言者が現れましたが、それは白人に敵対するような教えではありませんでした。

 しかし、オハイオのショーニー族預言者テンスクワタワが唱えたのは、ウイスキーはもとより全ての白人文化を捨てて、インディアン伝統の生活に回帰する教えでした。テンスクワタワは、兄のテカムセをはじめ信奉者を連れてインディアナに移住し理想郷を築きますが、白人と戦って滅ぼされてしまいます。

 チェロキー族はじめ南部の諸部族が、比較的に穏やかに白人文化を受け入れたのは、逆説的ですが、ビーバー戦争のような戦乱がなくミシシッピー文化の生活基盤が壊れてはいなかったせいかもしれません。「涙の旅路」といわれる過酷な仕打ちを経てオクラホマの居留地に強制移住させられた後も、この人たちは白人文化に同化した生活を続けました。


生活様式の転換


 平原インディアン最強のスー族も、ビーバー戦争で逃げてきた中西部のインディアンの民族大移動の巻き添えになり、玉突きで大平原(グレートプレーンズ)に出てきたのかもしれません。それが1700年頃で、東から伝播した銃と南から伝播したウマを使いこなしてバッファローハンターとなったのは1750年以降で、意外に最近の出来事なのです。

 白人が暮らしの糧のバッファローを絶滅寸前に追い込んで、平原インディアンは息の根を止められましたが、それ以前に、無駄の多い狩猟方法で、平原インディアンは自らバッファローの生息数を減らし続けていました。

 コマンチ族も後から出てきて南部大平原で勢力を伸ばしますが、そのせいでアパッチ族はニューメキシコやアリゾナの山間部に追いやられました。

 こんな具合で、冒頭の言葉の繰り返しになりますが、インディアンには全米各地に色とりどりの個性の部族がいて、白人と戦ったり、白人が持ち込んだ文化に翻弄されながらも、ダイナミックに生活様式を変えながら、何とか生き延びようとしてきたのです。


 駆け足で1年の連載を振り返ってみましたが、皆さんはインディアン戦争の歴史をどのように思われましたか?

 欧米社会は、今でもグローバル化と言って、世界中の多様な個性を持った人々に自己都合を押し付けているのかもしれません。日本人は、そうした無理難題を聞き入れて、相手に合わせてあげることができる実に器用な存在ですね。

 地球の温暖化など、人類一丸で解決しなければならない問題が山積みの今日この頃、いよいよ私たち日本人の知恵の出番が増えてくるかな?