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2015年8月15日 (第110号)

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【戦後70年】 当初は「敵はソ連」…アメリカと戦いたくなかった日本

  転機は、「三国同盟」、「西安事件」、「南部仏印進駐」

 戦後70年の首相談話では、「第一次世界大戦を経て、民族自決の動きが広がり、それまでの植民地化にブレーキがかかりました」、特に満州事変以降「日本は、次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとしていた『新しい国際秩序』への『挑戦者』となっていった。進むべき進路を誤り、戦争への道を進んで行きました」とあります。

 『新しい国際秩序』の一つは、当時、アメリカが提唱していた「門戸開放政策」でしょう。全ての国に等しい通商の機会が与えられるべきという自由貿易の主張です。アメリカは、中南米で独占的に自国権益を拡大していましたが、中国では、英仏独露に日本も加わり分割競争が進む中、ひとり取り残されて面白くありませんでした。アメリカは、他の列強諸国に、中国の主権尊重と港湾の自由使用を求めていました。


(1910~1920年代) 日米関係の悪化


 1914年8月に第一次世界大戦が始まると、日本は日英同盟の下でただちにドイツに宣戦布告。わずか開戦後3ヶ月で、ドイツが租借する中国の膠州湾とドイツ領のミクロネシアの島々を占領しました。戦後、赤道以北の南洋諸島は日本の委任統治領となりますが、おかげで、日本はアメリカのハワイ⇔フィリピンのシーレーンを分断する危険な存在になります。

 中国では辛亥革命で清が倒れ、1912年に中華民国が誕生していましたが、実態は北洋軍閥の袁世凱の独裁政権と化していました。そんな中 1915年に、日本は対華21ヶ条で中華民国に旧ドイツの膠州湾利権と旧ロシアの満州利権を譲るよう迫り、日中戦争につながる最初の種がまかれました。列強に貿易の機会均等(門戸開放政策)を要請していたアメリカも、日本が東アジアに排他的経済ブロックを築く意図ありと警戒します。

 さらに大戦中の1917年にロシア革命が起きると、日本はシベリア出兵で、領土的野心を一層あからさまにします。出兵を依頼したのは共産主義革命の波及を恐れる英仏でしたが、日本は7万人あまりの兵力を送り北樺太・沿海州・満洲からバイカル湖周辺までソ連領奥深くに侵攻、撤兵まで4年も駐留を続けたのです。

 アメリカの圧力で、1921年に日英同盟は、太平洋の権益を相互尊重する日米英仏の四ヶ国条約に発展する形で解消しました。折からアメリカでは黄禍論が台頭し、中国人や朝鮮人の移民が規制されていた時代です。日本は国際連盟で人種差別撤廃の提案をしましたが、逆にアメリカは国内で排日移民法を成立させて日本人の移民を禁止します。

 一方、中国では、1916年の袁世凱の死後に軍閥割拠の時代が続きました。ようやく1928年に国民党の蒋介石が北京に攻め上り、関東軍(満州駐留陸軍)の支援を受ける奉天派の張作霖政権を倒し、満州を除く中華民国をひとまず再統一します。

軍閥割拠時代の中華民国 (⇒拡大)

 ところが、関東軍は、日本政府の意に従わず日中戦争を引き起こし拡大させた問題児です。軍閥を介した満州の間接支配に満足せず、根拠地満州に逃げ帰る張作霖を爆殺し、混乱に乗じて南満州を占領しようと企みました。しかし、謀略は露見。奉天派を継承した長男の張学良は、親日幕僚を粛清し、一転して蒋介石の国民党政府の傘下に入ります。続いて、中東鉄道(旧東清鉄道)を取り戻そうと無理をして、かえって北満州におけるソ連の権益を強めてしまいました。

 既に1927年には国民党と共産党の国共内戦も始まっており、中国では20年余にわたり、欧米とソ連や軍閥がらみで日・国・共の三つどもえの戦争が続くのでした。


(1930年代前半) 満州事変


 張作霖爆殺事件で日本政府は関係者の処分に及び腰で、その後の関東軍の暴走に歯止めがかからなくなってしまいました。一方、北満州でソ連追い出しに失敗した張学良は、南満州で極端な排日政策に乗り出します。競争路線を建設し日本の満州鉄道を赤字経営に陥らせたかと思えば、日本人・朝鮮人には土地の貸与や売却を禁じ事業許可も取り消すといった具合で、関東軍の怒りは頂点に達しました。

 1931年に起きた満州事変は、正に張作霖爆殺事件の再現でした。関東軍は、奉天近郊の柳条湖で形ばかりの鉄道爆破事件を起こし、それを口実に5ヶ月で満州全土を制圧。翌1932年には清朝最後の皇帝だった宣統帝溥儀を擁立し、満州国を建国してしまいます。清は中国を征服した満州族(女真族)の王朝でしたから、傀儡(かいらい)国家とはいえ、満州に満州族の国ができることは理屈の上で不思議ではありません。

+++++ 中華帝国主義…五族共和 +++++

中華民国の五族共和国旗(1912~28年)

 実際、中華民国側にも微妙な弱みがありました。辛亥革命の孫文ら革命派の指導者は、清王朝を発祥の満州の地に帰し、中華民国は漢民族の明が支配した黄河・長江の流域周辺に限るつもりでした。綱領の三民主義で、民族自決をうたっているからです。ところが、後から革命に加わった立憲派(清朝の改革派)の人々が五族共和(漢人・満州人・チベット人・モンゴル人・ウイグル人等)を唱え、中華民国は清の領土を踏襲することになりました(満州で使われた五族協和の標語は、日本人・漢人・朝鮮人・満州人・モンゴル人の五族で微妙に字も違います)。

 しかし、清朝期に漢民族と同化が進んでいた満州族はともかくも、チベット族やモンゴル(蒙古)族にも、イスラム教の回族・ウイグル族にも、漢民族の支配は受け入れがたいものでした。

 一部は太平洋戦争の戦後の出来事で、この記事の中では余談になりますが、各民族の行く末は以下のようになりました。次の図と対照して、お読みください。

 当時のチベットでは、1904∼05年の英領インド軍の侵攻におびえた清が、それまでの自治権を奪い直接統治に乗り出していました。インドに亡命していたチベット仏教の法王ダライ・ラマは、1913年に辛亥革命に乗じて帰国し西蔵地方の領土を回復。1951年に中共が首都ラサを占領するまで、独立を保ちました。1956~59年、チベット仏教の排撃と漢民族の大規模な入植に反発して青海で始まった抗中蜂起(チベット動乱)は、チベット全土に広がりましたが人民解放軍にいったん鎮圧されます。しかし、その後も大規模な蜂起が止まず、1959年には民衆が首都ラサのダライ・ラマの宮殿に人垣を築いてチベットの独立を宣言するも、またもや鎮圧されて、以来今日に至るまでダライ・ラマ14世の亡命生活が続いています。

 外モンゴルも、チベットより一足早く1911年に、ロシアの後押しでいったんは独立します。元首も、チベットのダライ・ラマに相当する最高位の僧で、両国は相互承認条約を締結しました。内モンゴルも追随して独立を宣言しますが、軍閥に弾圧され夢は果たせません。外モンゴルも独立したはずが、なしくずしで自治とされ、次いで中華民国の宗主権(主従関係)を認めさせられ、さらに革命で帝政ロシア政府が転覆すると、もとのもくあみで中華民国に吸収されてしまいます。1920年のことでした。

 しかし、今度は白軍(ロシア帝政の残党)がやってきて、中国軍を追い払い、外モンゴルは復活します。ところが、その白軍が横暴で、外モンゴルは逆に軍閥に助けを求める始末となります。短期間に情勢は二転三転どころか四転五転し、ついに1921年には社会主義者の革命政府ができ、それまでの法王政権と連合政府を樹立。1924年に法王が亡くなると君主制を廃し、モンゴル人民共和国が誕生したという次第です。

 そんな中で新疆は、チベットやモンゴルと異なる道筋をたどりました。清朝官僚の楊増新が、清崩壊後も漢人や回族・ウイグル族の反乱を弾圧し、旧体制のままで独裁政治を続けたのです。ロシア内戦中も白軍の侵攻を撃退し、1928年に楊は中華民国政府から新疆省長に任命されます。回族というと、今の中国ではイスラム教を信仰する漢人を表すそうですが、本来はウイグル族を含む新疆のイスラム系諸民族を指す言葉でした。ウイグル族は、カザフスタン・キルギス・ウズベキスタンなど中央アジアに広く住んでいるトルコ系民族で、東西の人々と混血し目が青く髪の色が明るい人もいます。ご存じの通り、昨今中国政府との対立が深刻化しています。

+++++ リットン調査団 +++++

 話は戻って満州ではその後、中華民国が日本の謀略を国際連盟に提訴。リットン調査団が満州国の独立を認めずと決めつけたので、日本は国際連盟を脱退した…というのが大方の皆さんのご理解だと思いますが、今回初めて調査団の報告書を読んでみると、意外に日本に好意的なので驚いてしまいました。むしろ満州の開発に貢献した日本に対する中華民国の無法を非難し、柳条湖事件さえ関東軍の謀略と100%は断定していないのです。要するに、国際連盟の指導下で満州を中華民国の自治政府にしようという日中和解案だったのですね。

 国際連盟脱退も日本が初めてではなく、国際連盟自身がそもそもは提唱者アメリカが加盟しなかった不完全な組織ですから、今の私たちが想像するほど決定的な事件ではなかったのかもしれません。実際、アメリカは対日経済制裁に反対しています。その上に、満州国は、世界中に独立国が60未満の時代に、20ヶ国もの承認を受けたほどですから、この頃の日本には、まだ太平洋戦争を避ける道があったかもしれません。


(1930年代後半) 日中戦争


 1927年以降の中国で日・国・共の三つどもえの戦争が続くといいましたが、世界レベルでは、枢軸国・連合国・共産主義陣営の3系列ができかけていました。満州事変で、欧米が日本に寛容だったのも、ソ連を警戒してのことかもしれません。当時はコミンテルンという共産主義者の組織があり、ソ連主導で、列強の戦争を利用し世界各国で共産主義革命を起こす相談をしていました。

日中戦争戦線拡大図 (⇒拡大)

+++++ 西安事件 +++++

 中華民国の国民党政府も抗日戦争より国共内戦を優先し、1936年には共産軍を壊滅の一歩手前まで追い詰めていましたが、蒋介石が張学良に拉致されて(西安事件)から、国共合作(抗日戦争協力)に路線が転換します。ソ連が張学良に指示したクーデターで、日本と国民党政府を戦わせ共倒れをねらったものと言われています。取敢えず米英仏と手を結び、日本とドイツを倒して共産主義革命を起こすのがソ連の戦略でした。

 日本にも対ソ戦の準備が必要との認識があり中国戦線は不拡大の方針でしたが、1937年7月に北京の盧溝橋で起きた些細な事件で不用意に出兵してしまいます。共産党は国民党政府に対日抗戦を迫り、8月に中華民国軍は上海の日本人租界を包囲しました。これが上海事変で、日中全面戦争の幕開けでした。戦闘は日本に有利で国民党政府は南京から重慶に後退しましたが、軍事的に全土を制圧することは困難です。日本は占領地に傀儡政権を設け、講和の機会もなく、終わりのない戦いが続きました。

 日本は上海事変で中国内陸の諸都市に爆撃を加えましたが、当時は無差別爆撃が珍しい時代で、国際連盟は対日経済制裁を決議します。非加盟国のアメリカも同調しましたが、経済制裁は最初から厳しかったわけではありません。日本とアメリカが戦うとは、まだ決まっていなかったからです。しかし、仏印(フランス領インドシナ)やビルマの援蒋ルートを通じて物資を届け国民政府を支援していました。その後の日本は世界情勢を見誤り、右往左往の末に孤立して太平洋戦争への道を突き進んでしまいます。 


(1940年代) 太平洋戦争への道


 この時代にヨーロッパはどうなっていたかというと、ヒトラーのドイツは東に領土を拡大していく野望に取りつかれていました。英仏は、反共の砦としての期待からドイツに宥和政策を取ってきましたが、ソ連は、先手を打って1939年8月に独ソ不可侵条約を結び、東欧領土の切り分けについて取決めます。翌9月にポーランドは東西からドイツとソ連に侵攻され、英仏は(ソ連には目をつぶり)ドイツに宣戦布告しました。第二次世界大戦の始まりです。

 日本の外交は、日中戦争が膠着状態に陥る中、ドイツの破竹の進撃に引きずられ、北進論(ソ連敵視)から南進論(米英敵視)にゆれ動いていきます。1939年5~9月に満蒙(満州・モンゴル)国境でソ連と衝突し、大損害を出した記憶が新しいせいもあったかもしれません。ドイツがフランスを占領すると、日本はフランス傀儡政権の同意を得て北部仏印(フランス領インドシナ)に進駐し、仏印援蒋ルートを遮断します。

+++++ 日独伊三国同盟 +++++

 続いて9月に日独伊三国同盟を締結します。これは、ドイツと交戦中の英仏蘭の東南アジア植民地に日本が進出する口実を与えるもので、アメリカとイギリスを刺激しました。アメリカは、屑鉄や銅など対日禁輸品目を増やして経済制裁を強化し、イギリスは、日本の求めで閉鎖していたビルマ援承ルートを再開しました。

 翌1941年4月に、日本はヒトラーの反対を押し切ってソ連と日ソ中立条約を結びました。日独伊三国同盟や独ソ不可侵条約とセットで、日独伊ソが団結して米英と戦うユーラシア大陸同盟構想もつかの間、6月にドイツがソ連に侵攻して夢は潰えてしまいます。もともと独ソ間に信頼関係はなかったのです。

 逆に、いずれアメリカも加わり、英仏ソ中が日独伊と戦う連合国vs.枢軸国の構図が、この時にできてしまいました。同時期に並行して、日独伊三国同盟離脱を条件にアメリカが日中戦争を調停する外交交渉も進んでいましたが、対米強硬派の反対で実現しませんでした。

 また同じ頃、アメリカの経済制裁に追い詰められた日本は、蘭印(オランダ領東インド)と輸出統制の緩和について交渉していました。オランダ本国はドイツに占領されていましたが、仏印と違い、蘭印はロンドンのオランダ亡命政府の支配下で、基本的な利害は米英と一致していました。石油は前年の交渉で確保していましたが、ゴムや錫など最もほしい品目で交渉は妥結に至りませんでした。

地域

各地の資源

中国大陸

小麦、綿花、麻、石炭、鉄鉱石、ボーキサイト、タングステン

米領フィリピン

米、小麦、砂糖、木材、タバコ、麻、ポプラ、石炭、鉄鋼、銅、鉛、硫黄、クローム、モリブデン、金、マンガン

仏領インドシナ

米、とうもろこし、ゴム、ジュート、石炭、亜鉛、タングステン

英領ボルネオ

米、砂糖、タバコ、石油

蘭領東インド

米、とうもろこし、砂糖、ゴム、コプラ、キニーネ、石油、石炭、ボーキサイト、ニッケル、錫、金

英領マレー

砂糖、綿花、ゴム、タバコ、石炭、鉄鉱石、錫、ボーキサイト、タングステン

タイ

米、砂糖、木材、タバコ、鉄鉱石、石炭、錫、亜鉛、アンチモン、タングステン、マンガン

英領ビルマ

米、小麦、豆類、綿花、タバコ、石油、石炭、銅、錫、鉛、亜鉛、タングステン、ニッケル、金、銀

+++++ 南部仏印進駐 +++++

 八方ふさがりの日本は、7月に南部仏印進駐という支離滅裂な行動に出ます。シンガポールや蘭印に攻め入るという脅し以外の何ものでしょうか?北部進駐で欧米の反発が少なかったので、南部進駐も大丈夫と思ったという話ですが、空気が読めないにもほどがあります。今では大半の歴史学者が、この時が太平洋戦争の回帰不能点(後戻りできない点)だったと考えています。

 アメリカ(America)は7月に日本の在米資産を凍結し、8月には石油禁輸を決め、イギリス(Britain)やオランダ(Dutch)も追随しました。中国(China)を併せ、日本ではABCD包囲網と呼ばれる強力な経済封鎖が完成しました。石油備蓄がわずか1年半の日本に余裕はなく、勝算もなく12月8日の開戦に向けて時計が進みました。連合国と共産主義陣営に、日本が二正面作戦で挑む最悪の展開です。太平洋戦争の終戦後すぐに、中国と朝鮮とベトナムで米ソの代理戦争が始まったのも当然の帰結でした。

1937~42年の日本の侵攻 (⇒拡大)

1943~45年の連合国の反攻 (⇒拡大)

 先月亡くなった私の義父は、学徒出陣で出征。台湾からマニラに向かう途中で船が沈められ、8時間泳いで救助されたと先月号で書きましたが、その後はシンガポールで暗号部隊に配属されてジャワ島に渡り、運よく戦闘を経験することがなかったそうです。上の2枚の図を見ても、フィリピンとビルマを除いて東南アジアの大半は終戦まで(日本側から見ると)無傷で、義父が無事に帰還できた事情も理解できます。

 逆に連合国側の立場で見れば、南シナ海の制海権さえ握っていれば日本への資源供給の道は絶たれるので、この地域を奪還する必要がなかったということでしょうか。昔も今も、南シナ海の地政学的な重要性は変わらないようです。

+++++ ヤルタ会談とポツダム会談 +++++

 ちょっと復習になりますが、第二次世界大戦は、敵対するドイツとソ連が手を結び、領土的野心を満たす目的で同時にポーランドに侵入…英仏がソ連には目をつぶり、ドイツに宣戦布告したのが始まりでした。ですから、英仏やアメリカにとって第二次世界大戦はファシズムとの戦いだったとしても、ソ連にとっては最初から露骨に領土拡大の戦いだったはずです。少し上品に言い換えても、共産圏拡大が目的の戦いでした。 

 ドイツの敗戦が秒読みの1945年2月に、クリミア半島のヤルタで開かれた米英ソ首脳会談の本質は、終戦後のソ連の分け前を取り決める目的だったのでしょう。当時の米大統領はフランクリン・ルーズベルト、英首相はチャーチル、ソ連の首相はスターリンでしたが、米英首脳はスターリンを信頼し過ぎていました。密約で南樺太と千島列島の領有を認め、見返りにドイツ降伏後3ヶ月以内のソ連の対日参戦を求めたようです。

 その後、ルーズベルトは4月に脳卒中で急死し、トルーマン副大統領が大統領に昇格します。一方、5月8日(日本時間5月9日)のドイツ降伏以降は、東欧で共産主義政権を樹立するなどソ連のヤルタ協定違反が相次ぎ、7月にベルリン郊外のポツダムで、その年2度目の米英ソ首脳会談が開かれることになりました。既に、冷戦が始まっていたのです。

 アメリカの関心も、今や東アジアでソ連の領土拡大を抑えることに重点が置かれました。アメリカとイギリスは中華民国と連名で、7月26日に無条件降伏をうながすポツダム宣言を日本に突きつけます。日本がすぐに受けてくれれば、原爆を使うこともなく、ソ連参戦前に終戦できます。しかし、ソ連に終戦の仲介を頼んでいた日本は、ポツダム宣言への回答を保留。ソ連は知らんぷりで、対日参戦期限の8月9日に向け準備を進めます。二度の原爆投下もソ連参戦を防ぐには手遅れでしたが、アメリカは北海道を守ろうとしたのかもしれません。

+++++ 北方領土 +++++

 ソ連は、日本軍が全面的に停戦した8月22日以降も、日本政府が降伏文書に調印した9月2日以降も侵攻を続け、8月29日に択捉島、9月1∼4日に国後島・色丹島、3∼5日に歯舞群島を占領しました。北方四島は、1855年の日露和親条約で取り決めた日露国境線の内側というのが、日本の北方領土返還交渉の最大の根拠です。