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2015年9月15日 (第111号)

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【イラン核協議合意A】 英露のグレートゲーム

  ロシアの南下…黒海・バルカン半島・コーカサス

 今年7月にアメリカはイランと核協議で合意し、来年1月には経済制裁も解除されると予想されています。今回の一連の特集記事は、これまでの米・イラン両国のこじれた関係を説明するのが目的でしたが、背景を調べるうちに、世界史の研究のようになってしまいました。 

 この記事では、かつて「グレートゲーム」と呼ばれたロシアとイギリスの領土獲得競争のうち、ロシアが建国以来、黒海からバルカン半島とコーカサス方面に南下政策を進めてきた歴史について説明します。

 ロシアは、19世紀初めの二度の戦争で、イラン(ペルシャ)から、大油田が眠るコーカサスの領土を奪いました。イギリスは、19世紀末に石油探鉱権を得て、20世紀初頭にイランの油田を掘り当てました。

+++++ 民族(言語)と宗教 +++++

 特に注目していただきたいのは、バルカン半島とコーカサスの人々の民族(言語)と宗教です。ロシアは不凍港を求め、バルト海にペテルブルグを開港します。次に、ウクライナのコサックを制圧し、オスマン帝国からクリミア半島を奪って黒海の制海権を得ると、黒海西岸のバルカン半島と東岸のコーカサスを南進します。

東スラブ人西スラブ人南スラブ人

 東欧北部のスラブ系民族はカトリックで、正教のロシアとは歴史的に対立しています。東欧南部のスラブ系民族のうち西のクロアチアとスロベニアはカトリックです。ロシアと結び付きが強いのは、正教のセルビアとモンテネグロですが、隣のボスニアヘルツェゴビナにはカトリックと正教が混在し、旧支配層のイスラム教徒と三つどもえですから、第一次大戦をはじめ紛争の火種になりがちです。

 一方のコーカサスは、南北2本の4∼5千m級の山脈とその間の狭い平野部で、30近い数の言語を話す民族がひしめいています。しかも、言語が性格の違う3系統に分かれていますから、異民族と一つ屋根の下で暮らすのは難しいのでしょう…コーカサスには、4つの紛争地域があります。 


西暦1500年の世界


 さて、西暦1500年の東半球の地図をからスタートすることにしましょう。コロンブスが新大陸を発見したのが1492年ですから、既にスペインやポルトガルの大航海時代が始まっていました。東ローマ帝国は、1453年にオスマントルコに滅ぼされています。

 ティムール帝国は、依然としてペルシャを支配していましたが、西暦1500年は、ちょうど発祥の地の中央アジアをウズベクハン国に脅かされていた頃で、1507年に滅亡してしまいます。ティムール帝国と友好関係を保ちながら、イラクからペルシャ西部に至る地域を支配していた白羊朝も1508年に倒され、ペルシャは、カスピ海南東岸出身のサファビー朝が統一しました。

 サファビー朝の民族系統は明らかではありませんが、セルジュク朝以降は、支配者が誰であれ、例外なくペルシア人官僚が中欧で君主を支え、遊牧民の有力部族が地方の封建領主として実権を握る体制が続きました。

地図1 西暦1500年の東半球諸国家と黒海・カスピ海・ペルシャ湾の油田地帯 (⇒拡大)

 サファビー朝とペルシャの後継王朝は、その後、オスマントルコと領土争いを繰返します。ティムール帝国の残党は、サファビー朝の支援を受け、1526年にインドに侵攻してムガール帝国を建設しました。


ロシアの南進(ウクライナ・クリミア編)


 それでは、モスクワ大公国がロシア帝国に成長して、黒海の制海権を得るまでの歴史を追ってみましょう。

+++++ モスクワ大公国 +++++

8~10世紀の交易路 (⇒拡大)

 地図1の「ロシア諸公国」は、1240年に「キエフ大公国」がモンゴルに征服され分裂した地方政権の集まりで、その中にロシア帝国の前身の「モスクワ大公国」がありました。

 キエフ大公国は、9世紀末にドニエプル川の河岸で現ウクライナの首都キエフを中心とするルーシの地にできた東スラブ人国家で、10世紀にキリスト教(ギリシャ正教)化しました。ロシアのほかウクライナとベラルーシに共通の母体国と考えられます。

+++++ リューリク朝ロシア +++++

 モスクワ大公国は、ロシア諸公国の中で、モンゴル帝国への貢納を取りまとめる役を請け負って力を蓄えました。リューリク朝のイワン3世(大帝: 1462~1505年)は侵略と婚姻で諸公国の統合を進め、1480年にはモンゴル軍を破って、貢納を廃止しました。

 さらに、イワン4世(雷帝:1533~84年)の時代には皇帝への権力集中と行政や軍隊の近代化を進め、前の記事(中央アジア編)のように、東方ではシベリアに進出しロシア帝国の基礎を固めました。

 しかし、西の現バルト3国をめぐるリボニア戦争では、ポーランド・リトアニアの同君連合と新興のスウェーデンを相手に、1558年から25年も戦って得るものがなく押し返されます。また、南にもオスマントルコとクリミアハン国の脅威があり、1571年にはクリミアハン国に攻め入られて、首都モスクワが壊滅する事件も起きています。

+++++ ロマノフ朝ロシア +++++

 その上に失政で経済も低迷し、それを親衛隊を通じた恐怖政治で押さえこんでいたため、イワン雷帝亡き後の皇帝の権威は失墜しました。次帝に子がなく、1598年にリューリク朝が途絶えると、ロシアは動乱時代に入ります。空位の皇帝を大貴族が争ってロシアは国家機能を失いました。1601~03年には、異常気象で大飢饉にも襲われます。そこへ、カトリックのポーランドが介入してモスクワに入城して皇帝を名乗り、プロテスタントのスウェーデンが北西部を占領、南部はイスラムが侵入して無人化し荒廃する事態でした。

 しかし、これは異民族との宗教対立の図式となり、国民意識に目覚めた民衆が立ち上がり1618年にポーランド軍を撤退させます。リューリク朝期に創設された議会が、後継皇帝にリューリク朝と姻戚でつながるミハイルを選んで、ロマノフ朝が始まりました。ポーランド軍が降伏した11月4日は、今も国民団結の日として祝われています。

+++++ ウクライナ争奪戦争 +++++

 初代ミハイル(1613~45年)は、貴族や議会と合議で国内秩序の回復に努め、経済復興には成功しましたが、ポーランドから動乱時代に失った領土を回復することはできませんでした。

 しかし、栄華を誇るポーランドは絶頂から一気に転落し「大洪水」と呼ばれる軍事的災禍に見舞われます。発端は1648年に始まるウクライナ・コサックの反乱でした。コサックの起源は遊牧民や没落貴族の盗賊団らしく、半ば独立国家の軍事共同体を形成していました。ドニエプル川が流れる中部ウクライナのコサックと、黒海北東部のアゾフ海に注ぐドン川流域のコサックに二分されます。

 コサックの反乱はいったん収束したのですが、1654年にロシアの第2代アレクセイ(1646~76年)がウクライナの保護を口実に攻め込み、ポーランド・リトアニア領の東半分を占領しました。すると、かねてから敵対していたスウェーデンも、翌1655年に侵攻。首都ワルシャワも含め、残りのほぼ全土を占領します。この戦争で、ロシアはウクライナ東部を手に入れました。

+++++ ステンカラージンのペルシャ侵攻と反乱 +++++

 その頃、サファビー朝ペルシャは衰退期に入っていました。1669年には、ロシア民謡で有名なステンカラージン率いるドン・コサックがペルシャ領に侵攻し、カスピ海の西部から南部沿岸を荒らしました。コサックは、イスラム勢力と戦う尖兵として重宝される一方で、しばしば政府に反乱を起こす両刃の剣でした。ステンカラージンも、1670年に旧アストラハンハン国で旗揚げし、ボルガ川流域に身分差のないコサックの共和国を建国すると訴えましたが、ロシア軍に鎮圧されてモスクワで処刑されました。

+++++ ピョートル大帝と大北方戦争 +++++

 ロマノフ朝第4代のピュートル大帝(1682~1725年)は開明的な君主で、西欧化改革を進め、官僚制度を確立したほか、黒海北東部のアゾフ海に海軍を創設しました。

 しかし、バルト海への出口にはスウェーデンが立ちふさがっています。そこで、ポーランドほかの国々と同盟し、大北方戦争(1700~21年)でスウェーデンを破りました。ロシアはフィンランド湾の最深部と現在のバルト三国地方を獲得し、ネヴァ川の河口に新首都ぺテルブルグ(ピュートルの都)を建設。バルト海の制海権を握って、北方最強国としてヨーロッパ列強に仲間入りしました。

 1721年に元老院から皇帝(インペラトール)の称号を贈られ、名実ともに「ロシア帝国」が始まります。それまでの皇帝(ツァーリ=カエサル)の称号より一段上の称号です。

+++++ ピュートル大帝のペルシャ遠征 +++++

 ペルシャ辺境では諸民族の反乱が相次ぎ、1722年には、アフガニスタンに興ったホタキ朝が首都イスファハンを奪取。サファビー朝が事実上滅亡して、ペルシャは混乱に陥りました。

 そこへ、ピョートル大帝が遠征します。総兵力は、カスピ海艦隊が運ぶ歩兵と陸路の騎兵を合わせ4万4千名の大部隊でした。その間に、オスマン帝国もペルシャに侵攻。争いは、ホタキ朝、サファビー朝に、ロシアとオスマン帝国の四つどもえになりましたが、フランスの仲裁で、コーカサスとカスピ海南岸のペルシャ領が、ロシアとオスマン帝国に分割して割譲されました。

 しかし、ロシアは、ピョートル大帝の死後、オスマン帝国に同盟して対処するため、ペルシャに新領土を返還しましす。

+++++ 女帝エカチェリーナとポーランド分割 +++++

 ロマノフ朝第8代の女帝エカチェリーナ(1762~96年)は、夫の第7代ピョートル3世と同じくドイツ生まれでした。前帝が急死して夫が即位した時には、プロシャ・イギリス対オーストリア・フランス・ロシアの七年戦争(1756~63年)も末期で、ロシアはプロシャを崩壊寸前に追い詰めていました。しかし、プロシャびいきの夫が単独講和を結び、占領地もプロシャに返還する暴挙に出たのを見て、皇后エカチェリーナがクーデターが起こし、女帝に即位した経緯です。

 その頃、ポーランドは衰退して既にロシアの強い影響下にありましたが、女帝は親露派貴族の元愛人スタニスワフ2世を王位につけ、露骨に内政干渉をしました。ポーランドがまるごと奪われるのを警戒したプロシャは、オーストリアを誘って、ロシアに第1次のポーランド分割を提案します。1772年に、ポーランドは、それぞれ3国に隣接する領土を割譲しました。

 しかし、スタニスワフ2世は、女帝の意に反し、ポーランド再興を目指します。民衆の支持を頼み、1791年に立憲君主制の成文憲法を制定しました。アメリカの憲法制定が1787年で、フランス革命が1792年ですから、当時の専制国家には実に刺激的な挑戦です。そこで、ロシアはポーランドに進軍。1794~95年の第2~3次分割で、ポーランドは滅亡するしかありませんでした。

+++++ ウクライナとコサック +++++

1751年現在のコサック国家ロシア (⇒拡大)

斜線部がクリミアハン国とオスマン帝国割譲地

 それでは、同時代の黒海方面に目を転じましょう。

 ウクライナ西部は、1世紀前のウクライナ争奪戦争でポーランド領に残った地域です。ウクライナ系正教徒が、ポーランド系カトリック信者の迫害に耐え切れず、また、ロシアの支援を期待しつつ、1768年に反乱を起こしました。

 しかし、反乱は、次第にコサックの自治国家の復活を目指すようになり、ロシアにも不都合な方向に進みました。そこで、ロシアはポーランドを支援し、翌1769年に反乱を鎮圧されました。

+++++ 第一次露土戦争(1768~74年) +++++

 ところが、反乱軍の一部がオスマン帝国領に侵入したことから、第一次露土戦争に発展します。ロシア軍は、ドナウ川で奇襲に成功し、さらに現ブルガリアまで深く侵攻してオスマン帝国の大軍を破り、勝利を決めました。

 その結果、ロシアは、黒海への複数の出口と地中海に通じるボスポラス海峡・ダーダネルス海峡の自由通航権を獲得し、ドン川とドニエプル川はロシアの物流の動脈として一層重要になります。

 また、オスマン帝国が宗主権を放棄したクリミアハン国の黒海沿岸部とコサック国家を併せて新行政区新ロシアを創設し、帰農したコサックとロシアや中・東欧から招かれた入植者により、農地開拓を進めました。1783年には条約を破り、クリミアハン国の全土をロシアに併合してしまいます。

 ロシアにより、1775年に要塞を壊され自治権を取り上げられたコサックの一部は、オスマン帝国領内に逃げ、オスマン帝国の庇護のもとにドナウ・コサック軍を創設しました。農奴制強化策により1760年代からロシア領内では反乱が頻発し、特にドン・コサックのプガチョフが1773~75年にボルガ・ウラル両河川の流域で起こした反乱が、女帝にコサック弾圧を決意させたものと考えられます。

+++++ 第二次露土戦争(1787~91年) +++++

 ロシアのクリミアハン国併合に怒ったオスマン帝国は、英仏の支持を取り付けて、再び開戦しますが、ロシアに呼応するオーストリアの侵攻(墺土戦争)も受け、陸・海双方で主導権を取れずに完敗しました。ドナウ・コサック軍の一部は、またロシア側に寝返って黒海コサックを創軍、その後、黒海東岸のクバーニ地方に移住しコーカサス征服のロシア部隊の一翼を担います。

 この戦争の勝利で、ロシアのクリミアハン国併合は正式に承認され、黒海北部沿岸全域の領有を果たしました。オスマン帝国は黒海の制海権を完全に失い、逆にロシアには自由航行が可能となります。沿岸には貿易都市が次々に建設され、中でもオデッサは穀倉地帯「新ロシア」の穀物輸出港として繁栄しました。

 しかし、同じスラブ系民族(ブルガリア・旧ユーゴスラビア諸国)が住むバルカン半島が、黒海経由で近くなり、次第にロシアとオーストリアの関係は冷え、対立の芽が膨らんでいきます。また、コーカサスへの南進により、イランでも英露のグレートゲームが始まろうとしていました。


黒海・カスピ海・ペルシャ湾油田


 その前に、ユーラシアの油田との関連で、コーカサスの国々について軽く予習してください。

 石油の機械掘りは1859年にアメリカのペンシルバニア州で始まりました。初期の用途は、それまでの鯨油産の灯油に替わるくらいでしたが、1876年に灯油精製後の副産物で動くガソリンエンジンが誕生し、その後20年で自動車や飛行機が実用化されました。第一次大戦では戦車や軍用機に加え重油炊きの軍艦が登場し、第二次大戦時には石油が各国の軍事上の死命を制する戦略資源としてなっていました。

コーカサスの言語分布 (⇒拡大)

 ユーラシアで最初に開発されたのは、ルーマニアのプロエシュティ油田とロシアのカスピ海沿岸の油田…旧ペルシャ領アゼルバイジャンのバクー油田でした。二度の世界大戦で、両油田は同盟国と連合国の衝突の舞台となります。クリミアやウクライナ東部の帰属問題も、ロシアのチェチェン共和国やジョージア(旧称グルジア)の南オセチアの独立紛争も、純粋な民族問題ばかりでなく、この地域が石油と天然ガスやその他の鉱物資源に恵まれているために複雑なのです。

 イランで油田が最初に見つかったのは1908年で、中東に膨大な埋蔵量があることは1920年代に明らかになりました。しかし、サウジアラビアとクウェートで大油田が発見されたのは1938年で、本格開発は第二次世界大戦の戦後でした。

 英露対決のグレートゲームも、初期のロシアの不凍港探しから、次第に石油の利権争いに焦点が移っていきます。ただし、英露も単純に領土争いで対立していたわけではありません。バクー油田で、第一次世界大戦前に最大の鉱区を持っていたのは、イギリスのユダヤ資本から利権を買った英蘭系石油メジャーのロイヤルダッチ・シェルでした。それより、大戦中に共産主義革命が起き、ソ連が油田を国有化してロイヤルダッチ・シェルが大損したことこそ問題でした。


ロシアの南進(コーカサス・バルカン編)


コーカサスの地形図 (⇒拡大)

グドーリ峠(海抜2200m)

アララト山(海抜5137m)

 北コーカサス地方に、現ロシア連邦オセチア共和国の首都…ウラジカフカスが建設されたのは、1784年、クリミアハン国併合の翌年でした。ウラジカフカスの名は、極東の軍港都市ウラジオストク(東方を支配する町)と同じくコーカサス(カフカス)を支配する町という意味です。

+++++ コーカサスの地理 +++++

 南には、アジアとヨーロッパを隔てる大コーカサス山脈の5千メートル級の山々が連なります。山越えの間道は、今でもウラジカフカスからジョージア(旧グルジア)の首都トビリシに抜けるグドーリ峠(写真)しかありません。

 その南山麓の細長い平野部は、ヨーロッパから見て山向こうなので、トランスコーカサス地方と呼ばれています。西がジョージアで、東がアゼルバイジャン…首都は油田で有名なバクーです。

 さらに南には小コーカサス山脈が連なり、その先のアルメニア高原の東端にアルメニアがあります。さらに南に一際高くそびえるアララト山は、一説にノアの方舟が流れ着いた場所と言われていますが、今はトルコ領ながらアルメニア人の心の故郷です。

 さて、北コーカサス地方には6つの自治共和国がありますが、これらは現ロシア連邦の構成国。ジョージア、アゼルバイジャン、アルメニアの3ヶ国はソ連崩壊後に独立した国々で、今は、ジョージアとアゼルバイジャンが反ロシア、アルメニアが親ロシアのグループに属しています。

+++++ コーカサスの言語と宗教 +++++

 コーカサスには、30近い言語が混在しています。大きく3分類される中で、2つは西欧と共通の印欧語族と日本語と共通のアルタイ諸語で、馴染み深い言葉ですが、3つめのコーカサス諸語は、どちらとも近縁性のないコーカサス地方独特の言語で、しかも、北東・南・北西コーカサス語の3系統に分かれています。

 現代のコーカサスの紛争も、3つまでは民族問題です。ジョージア(南コーカサス語)の南オセチア地方(イラン語系オセット人)が仲間の北オセアチア共和国がいるロシア連邦編入を求めている紛争。アルメニア人(印欧語族)が住むアゼルバイジャン(アルタイ語系トルコ諸語)のナゴルノ・カラバフ地方が、アルメニアへの統合を求めている紛争。ジョージア(南コーカサス語)独立の際に、当時は少数派のアブハズ人(北西コーカサス語)が分離独立を求めた紛争。いずれも国際的には承認されていませんが、事実上は独立を果しています。

 宗教的には、大雑把なところ、北コーカサスはイスラム教スンニ派で、アゼルバイジャンはイスラム教シーア派です。ジョージアとアルメニアはキリスト教の正教系ですが、ギリシャ正教とはそれぞれ教義などに違いがあるようです。山深い地域には、キリスト教にしろイスラム教にしろ、異端視され多数派に差別される宗徒が隠れ住む傾向があり、特に北コーカサス東部には伝統的にイスラム神秘主義が浸透しています。

 ロシア連邦のチェチェンの独立派のテロも、19世紀にロシアに征服された際に教団の下で激しく戦い、ロシア編入後も抵抗運動を続けてきた延長です。

+++++ ジョージア併合 +++++

 ジョージアは、コーカサス文化の中心です。古代からブドウの産地として知られ、楊貴妃やクレオパトラも飲んだと伝えられるワインでとりわけ有名な風光明媚な土地柄です。

 コーカサスは、有史以来、ペルシャやローマ、アラブ、トルコ、モンゴルと異民族の支配に甘んじてきましたが、ロシアの女帝エカチェリーナ時代に、ジョージアに存在した2王国は、第一次露土戦争(1768~74年)で、同じキリスト教を信奉するロシアについて参戦しました。

 次いで、ジョージア東部の王国は、1783年に保護国としてロシアの傘下に入り、ペルシャの脅威に備えました。当時は、まだ、ペルシャが王朝三つどもえで覇権を争っていた頃でした。

 しかし、1794年にアゼルバイジャン(現在は紛争中のナゴルノ・カラバス地方)出身のカジャール朝が天下を取ると、故郷のお隣のジョージアの失地回復を図ります。翌1795年に首都トビリシがペルシャに焼き払われ、追い詰められた東部の王国は、1801年にロシアに併合される選択をしました。西部の王国も、1810年にロシアに併合されます。

+++++ 第一次ロシア・ペルシャ戦争(1804~13年) +++++

 第一次ロシア・ペルシャ戦争は、1804年にロシア軍がアルメニアの現首都エレバン方面に侵攻して始まりました。しかし、この時代にはペルシャも軍の近代化を進めていたので、簡単には攻略されません。その間にナポレオン戦争と第三次露土戦争が始まり、ロシアは対ペルシャ戦争に1万名以上の兵力を割くことができず、戦争が長期化します。

+++++ ナポレオン戦争(1803~15年) +++++

 ナポレオン戦争で、ロシアは、オーストリアと組んで戦い、1805年に有名なアウステルリッツの三帝会戦で大敗します。ここで、オーストリアが対仏大同盟から脱落。1807年には、新たに対仏大同盟に加わったプロシャとも共に戦って再び敗れ、フランスと休戦します。この時の3ヶ国条約(ティルジットの和約)で、プロシャから一部領土を獲得。しかも、寝返ってイギリス主導の対仏大同盟に宣戦布告し、1809年にスウェーデンからフィンランドを取り上げています。

+++++ 第三次露土戦争(1806~12年) +++++

 第三次露土戦争は、1804年に起きたセルビア人の蜂起に伏線があります。バルカン半島の国々は15世紀に占領されて以来、オスマン帝国の支配に甘んじていました。同じスラブ民族で正教徒のロシアが、黒海の制海権を握りバルカン半島に手が届くところにきたことが、セルビアの独立運動に勇気を与えました。 

 オスマン帝国はロシアの三帝会戦で大敗した機会を捉え、セルビアの反乱民支援に手を貸した現ルーマニアの北東部モルダビアと南部ワラキアの親露派総督を罷免、さらにロシア商船の地中海への自由通航権を停止します。これに対し、ロシアがモルダビアとワラキアに侵攻し、開戦しました。

ドナウ川流域 (⇒拡大)

 このように、1806~09年のロシア軍は、中欧・北欧とバルカンとコーカサスの3方面の戦線に展開し、特にコーカサスでは西と東でオスマン帝国とペルシャに対峙していたわけです。しかし、オスマン帝国の方も、改革派と守旧派の対立で内紛を繰返し、加えてナポレオンのエジプト・シリア戦役後の情勢が不穏で、お互いに決定打が打てない状況が続きます。

+++++ ナポレオンのロシア遠征(1812年) +++++

 ナポレオンの大陸封鎖令に従ったロシアは経済的に困窮し、ティルジットの和約を破り、1810年に対英貿易を再開しました。そこで、ナポレオンは、1812年6月に有名なロシア遠征を決行します。27万名のフランス軍を含む70万名の大陸軍がロシア国境を越えました。しかし、ロシア軍は、ご存じのように、次々に自国の町を焼いて領内深く撤退します。モスクワも市民の大半が脱出後で、大火により町の4分の3が焼失。大陸軍は住居も食料も失い、冬を前に、ナポレオンは10月にロシア撤退を決めるしかありませんでした。

 撤退する大陸軍にはコサック騎兵や農民ゲリラが襲い掛かり、11月以降は飢えと寒さで死ぬ兵が絶えませんでした。帰途だけで大陸軍の37万名が死亡。20万名が捕虜となり、12月にロシア国境を越えて帰れた兵はわずか5千名と伝えられています。しかし、ロシア軍も40万名を失っていました。

 一方、対オスマン帝国と対ペルシャの戦争は、これをきっかけに次々に終息します。

 第三次露土戦争は、1812年5月、戦況で有利な立場にあったロシアが終戦を急ぎ、ナポレオン遠征に備えました。ロシアがベッサラビア(モルダビアの一部)を併合し、残るモルダビアとワラキアの占領地をオスマン帝国に返還。セルビアにも、若干の自治権が付与されることになりました。

 第一次ロシア・ペルシャ戦争も、1813年にナポレオン遠征後にロシアとよりを戻したイギリスの調停で終結し、カジャール朝はジョージアに対する宗主権の放棄を確認し、現アゼルバイジャンの大半をロシアに割譲しました。

+++++ デカブリストの乱(1825年) +++++

 ナポレオン遠征で、撤退する大陸軍を追ってロシア軍はパリまで進軍し、従運した青年貴族は、自由主義に触れ、祖国ロシアの格差に衝撃を受けます。また、不遇な農奴出身の兵士に直接接し、社会改革の必要を強く意識するようになり、過激派がクーデタの機会をうかがっていました。そこへ、1825年に皇帝の急死と後継皇帝指名にかかわる混乱が重なります。焦った一団が準備不足のままに決起し、鎮圧された後に首謀者5名が処刑、残る600名弱がシベリアに流刑されました。

+++++ 第二次ロシア・ペルシア戦争(1826∼28年) +++++

 1826年、カジャール朝は、デカブリストの乱後のロシアの混乱に乗じ、コーカサス回復を企み第二次ロシア・ペルシア戦争を起こしますが、反対に北部の主要都市タブリーズに攻め入られ、ロシアに対し新たな譲歩を強いられました。

 領土的には、現アゼルバイジャン領の残りとペルシャ領アルメニアの割譲及び賠償金。さらに、ロシアの領事裁判権とロシア軍艦のカスピ海独占通行権の承認です。この条約を皮切りとして、カジャール朝は他の西欧列強にも不平等条約を押し付けられることになってしまいます。

+++++ 第四次露土戦争(1828∼29年) +++++

 この間、オスマン帝国では、1821年にギリシャ独立戦争が始まっていました。列強各国は、自国への革命の波及を恐れギリシャの勝利を望まない点で一致していたのですが、誰かが抜け駆けして東地中海の権益を独占しまいかとの疑心暗鬼にとらわれ海軍を派遣します。一時はギリシャ独立軍が追い詰められる場面がありましたが、1827年に英仏露の海軍が偶発的に起きた海戦でオスマン帝国艦隊が壊滅し、流れが変わりました。最終的にギリシャが完全独立を果たしたのも、ギリシャがオスマン帝国の下で自治を認められ、結果的にロシアの影響力が増すことを英仏が懸念したからです。

 オスマン帝国は、予期せぬ英仏露の軍事介入に怒り、ボスポラス・ダーダネルス両海峡を封鎖し、ロシア船の地中海への航行を禁じました。1828年に、第四次露土戦争が開戦します。当初、ロシア軍は簡単にワラキアの首都ブカレストを陥落させましたが、補給路を断たれ、飢餓と病気で多数の犠牲者を出しました。

 しかし、翌1829年には、コーカサス方面で現トルコ領の小アジアに進撃し、バルカン方面ではオスマン帝国の首都イスタンブールの目前まで迫りました。

 オスマン帝国は、黒海東岸の大半とドナウ川河口をロシア帝国に割譲。ジョージアと現アルメニア地方におけるロシア主権を認め、セルビアは自治権を獲得しました。さらに4年後には、ロシアの軍事支援を受ける見返りに、ロシア艦隊にボスポラス・ダーダネルス両海峡の独占的航海権を与える協定に調印しますが、これには列強諸国が強く反対し、実現しませんでした。逆に、1841年に国際海峡協定が結ばれます。

+++++ コーカサス戦争(1817~64年) +++++

 ロシアは、既に1817年からジョージアの首都トビリシを拠点に北コーカサス諸部族の征服に乗り出していたのですが、デカブリストの乱と、それに続く第二次ロシア・ペルシャ戦争や第四次露土戦争で、1825年に第一次遠征がいったん打ち切られました。

 1830年には、東部のダゲスタンとチェチェンの山間部を中心にイマム国が建国され、ロシアに対する聖戦が宣言されます。その後もクリミア戦争などで再三中断され、イマム国を投降させるまで42年もかかってしまいました。この戦いでは、ウクライナ・コサック系の黒海衆とドン・コサック系の防衛線衆が活躍し、1860年に統合されてクバーニ・コサック軍に編成されました。 

 1859年のイマム国投降後も、北コーカサスの西部では1864年までチェルケス人の抵抗運動が続き、虐殺とオスマン帝国領への集団移住が進められました。

+++++ クリミア戦争=第五次露土戦争(1853∼56年) +++++

 さて、話は少し戻りますが、ナポレオン戦争の後始末のウィーン会議で、列強諸国は協調して自由民主主義を抑圧し、戦前の国際秩序を復活させて勢力均衡を保つよう誓い合います。これが、ウィーン体制です。しかし、1848年にはフランス2月革命を皮切りに、「諸国民の春」と呼ばれる革命の波が欧州全土に広がります。結果的にはウィーン体制が保持され、ほぼ全ての蜂起が鎮圧されましましたが、特に領内に多民族を抱えるオーストリアは自治の要求を抑えきれなくなっていきます。

 オスマン帝国でも、セルビアの自治やギリシャの独立を経て、各地でナショナリズムが台頭してきていましたが、中でもボスニアやヘルツェゴヴィナでは、イスラム教徒の封建領主に、多数派のキリスト教徒の貧農が搾取される社会構造で、セルビアやモンテネグロの民族主義者の反オスマン宣伝に利用されていました。

 そこで、1852年に、オスマン帝国はヘルツェゴビナで反動的な支配層を追い出し、農民の自作農化や税の公正化を進めようとしましたが、その前に農民の武装蜂起が起きてしまいます。それを、モンテネグロが越境ゲリラにより支援し、ボスニアのイスラム教徒がオスマン帝国側に武器を供給し、紛争は泥沼化しました。

 そこで、ロシアがオスマン帝国相手に仲裁に乗り出しますが、英仏を外して交渉を進め、停戦条件にスラブ系商人の厚遇などあからさまにロシアのバルカン進出を利する条項を入れました。英仏は、ロシアの際限ない領土拡張主義を懸念し、列強の相互信頼関係は失われます。ロシアと独立を望む被支配民族が組んで英仏土ら列強諸国と戦う図式となりました。クリミア戦争は、ウィーン体制の崩壊を象徴する戦争として歴史に名を残しています。

 カトリックのフランスが、正教国ロシアへの意趣返しに、オスマン帝国からエルサレムの聖地管理権を獲得したのが正式な開戦理由のようですが、4ヶ月にわたる交渉は決裂。ロシアとオスマン帝国は断交し、1853年7月にロシアがモルダビアとワラキアに侵攻し、クリミア戦争が始まります。

 イギリスは、しばらく戦況を静観しますが、11月にトルコの港がオスマン帝国艦隊もろともロシア黒海艦隊に粉砕された事件を機に、世論が対露強硬論に転換し、フランスとともに参戦しました。ロシアの兵力は220万名、オスマン帝国側は、土30万名、仏40万名、英25万名の計95万名と、ナポレオン戦争を上回る大兵力が衝突したのです。

 攻防の焦点は、ロシア黒海艦隊の基地クリミア半島のセバストポリ。ロシアは、英仏艦隊の砲撃を避けようと、黒海艦隊を自沈させて港湾封鎖します。セバストポリ自身も要塞と化していましたから、英仏も塹壕を掘って包囲戦で対抗しました。戦線は1年にわたって膠着しますが、1855年に、後にイタリアを統一するサルデーニャ王国の1万5千名の援軍を得て、状況が動きました。英仏の最後の総攻撃は数えて6回目でしたが、307門の大砲で4日間に15万発の砲弾を浴びせた末に、6万名の突撃でようやく成功しました。

 この戦争で、産業革命を経た英仏に比べ、ロシアの建艦技術や武器や装備が著しく劣後することが明白になりました。戦死者はロシアが14万3千名、英仏側が21~29万名という記録がありますが、英仏側では、病気や戦傷による死者が戦死者数をはるかに上回り、ナイチンゲールの活躍の舞台となりました。

 英仏はセバストポリでは勝ったものの、コーカサス戦線ではロシアに降伏したため、全体の勝敗は決着がついていません。イギリスには戦況を有利に持ち込んで終わらせたい気持ちがありましたが、厭戦気分の世論に従うフランスに同調して講和に持ち込みました。悲惨な近代戦の経験以外に、誰も得るものがなかった戦争です。戦線は、バルト海や極東のカムチャッカ半島にも拡がりました。日本に、ちょうどペリーの黒船が来航した時代です。

+++++ 第六次露土戦争(1877∼78年) +++++

 セルビアとモンテネグロは、前年に起きたヘルツェゴヴィナ蜂起を支援し、1876年6月にオスマン帝国と開戦しますが、歯が立たなくて一時休戦します。同じ年のブルガリア4月蜂起も、既に鎮圧されていました。ところが、その際にブルガリア人4万人が虐殺されていた事実が明るみに出て、欧州諸国に衝撃が走ります。おかげで、オスマン帝国はイギリスの支援を期待できず、単独でロシアと戦うしかなくなります。

 ロシアは、オーストリア・ハンガリー帝国と秘密協定で、ボスニア・ヘルツェゴビナの併合を条件に、中立を維持する約束を取り付けました。現在のボスニア・ヘルツェゴビナの民族分布は、ボシュニャク人が48%、クロアチア人が14%、セルビア人が37%で、それぞれがイスラム教、カトリック、正教の信者と一致しているとすれば、当時もカトリック信者が多数派だったとは言いがたいでしょう。特にセルビアは、海に出口を持つためにボスニア・ヘルツェゴビナを仲間にしたかったようですから、かなり安易な協定です。これが、第一次世界大戦の引き金になります。

 年末から翌年にかけバルカン紛争調停の国際会議が開かれますが、物別れに終わり、ロシアは参戦を決意します。ただし、クリミア戦争の非を繰り返さず、表向きは領土拡張の意図を隠し、バルカン半島のスラブ民族救済を旗印に掲げました。

 戦線はバルカン半島と小アジア東部の二方面で争われましたが、兵制改革で1874年に導入した徴兵制が功を奏します。ロシアは1年で両戦線を制し、イスタンブール近郊のサンステファノで条約が締結されました。セルビア、モンテネグロ、ルーマニアの各公国完全独立と、自治領大ブルガリア公国の建国が決まります。

 しかし、ロシアの勢力拡大を懸念する欧州諸国の介入で条約は改訂され、あらためてベルリン条約が調印されます。最大の修正点は大ブルガリア公国の扱いで、三分割され、マケドニアと東ルメリ自治州がオスマン帝国に返還され、ロシアがブルガリア経由でエーゲ海に出ることはできなくなりました。

 ブルガリアやコーカサスでは、戦後に多数のイスラム教徒が難民となり、オスマン帝国領のシリアやヨルダンなどに移民しました。オスマン帝国では、戦時の非常事態を口実に無期限の憲法停止と議会の閉鎖が行われ第一次立憲制が崩壊し、スルタンの専制政治が復活しました。

+++++ トルコのアルメニア人虐殺(1894年~第一次世界大戦) +++++

 アルメニア人は、オスマン帝国時代の末期まで、アルメニア高原一帯に数百万人規模で暮らしていました。トルコ政府は今も否定していますが、1894~96年と1909年と第一次世界大戦中にアルメニア人の大虐殺があり、残りもほぼ全員が強制移住でトルコ領内から退去させられたと言われています。

 第一次世界大戦後の条約では、広くアルメニアは広く高原を領有できるはずでしたが、ソ連の侵攻で領土が二分され、過半がトルコ革命軍に奪還されてしまいました。一方、アルメニア高原に残った人々の大半はクルド人で、トルコはクルド人とも民族問題を抱えています。

アルメニア人の分布(1914年)

 アルメニア人は、キリスト教の正教徒です。スマン帝国東部には、アルメニア人とクルド人が多数住んでいましたが、クルド人の反乱が頻繁に起きても、アルメニア人の反乱は起きず「忠実な共同体」と呼ばれるほどでした。しかし、19世紀になると、アルメニア人の中でカトリックに改宗し、西欧諸国の庇護の下で財を成す者が現れ、また、民族主義に目覚める者も現れ始めます。

 一方で、ロシアの南下政策により故郷を追われたコーカサスやバルカン半島の難民には、キリスト教徒への復讐心が強く、アルメニア人をロシアと通謀するテロ分子と見なす噂が広まりました。1894年に、小アジア東部でイスラム教徒とアルメニア人の大規模な衝突が起きると、オスマン帝国は、ロシアのコサックを真似て編成したクルド人やトルコ系遊牧民の騎兵を使ってアルメニア人を鎮圧しましたが、この非正規部隊ハミディエが大虐殺の主犯で、2万人とも言われる犠牲者を出しました。

 欧州諸国はオスマン帝国に小アジア東部の行政改革を要求しましたが、返って民衆の感情を逆なでし、また1896年にはアルメニア人過激派がイスタンブールの銀行を襲撃して、イスラム教徒とアルメニア人の衝突が再燃。この間を通じて、アルメニア人8~30万人が犠牲になったそうです。その後は、富裕層を中心にアルメニア人の欧米への移住が相次ぎ、都市部のアルメニア人人口は急速に減少に向かいました。

 その後、1908年には青年トルコ党革命が起き、アルメニア人は宗教による差別税制の廃止など期待がふくらませます。ところが、翌1909年に反革命で皇帝(スルタン)が一時的に復権した際に、アルメニア人反乱の噂が南部の町で広まり、2∼3万人が殺されてしまいました。

 また、第一次世界大戦の際の虐殺については、戦時中にアルメニア人がロシア軍に味方したり、反オスマンのゲリラに加わって村落を焼いたりした敵対行為への自然発生的な復讐心によるものか、政府や軍の指示によるものかが、議論になっています。