アメリカのウィスキーは最近まで衰退産業と見られていました。最大の危機は1920年施行の禁酒法で、ある資料によればピークの1899年に965ヶ所もあった蒸留所が、医療用免許を与えられた30ヶ所前後を除いて閉鎖させられたのだそうです。 その後、一時的に需要は復活しましたが、1970年代から再び人気はかげリ始め、これまでに大多数の蒸留所が閉鎖されてきました。ところが、ケンタッキー州のバーボン出荷量は1999年に底を打ち、現在は元気を取り戻しつつあります。日本への輸出が増えたのも一因なのだそうですが、日本でも放送されたTVドラマ「セックス&ザ・シティー」の生活スタイルに触発された若者の間でウィスキー・ベースのカクテルが飲まれるようになったからだとも言われています。 ウィスキー蒸留所巡り バーボン巡り(Bourbon Trail)という7つの大手ウィスキー蒸留所を見学するよくできたプログラムがあります。「パスポート」にスタンプを7つ押してもらったら、蒸留所協会からプレゼントがあるそうです。八十八ヶ所の霊場巡りほど日数はかかりませんが、1日では回り切れませんよ。 バーボン・ウィスキーと呼ばれるには主成分がとうもろこしで樫材の樽に入れて2年以上寝かすなどの条件がありますが、必ずしもケンタッキー州内で生産される必要はないそうです。 右上のグラフは「売れ筋バーボン」と題しましたが、正確には米国産ストレート(=混じり気のない)ウィスキーの銘柄別販売シェアを表しています。実際、トップの「ジャック・ダニエルズ」はテネシー・ウィスキーで、加工工程が若干違うので「バーボン」には分類されません。 もっとも、トップをテネシー・ウィスキーに奪われたからといっても、「ジャック・ダニエルズ」のオーナーはルイビルのブラウン-フォアマン(=1870年創業の老舗蒸留所)という米国アルコール飲料最大手の会社ですから、ケンタッキーにお住まいの皆さんも口惜しがることはありません。ブラウン-フォアマンは、ケンタッキー州では、ルイビル工場で「アーリー・タイムズ」などと(注)由緒あるラブロット&グラハム蒸留所(地図D)で「ウッドフォード・リザーブ」を生産しています。 (注)1820-30年代にバーボン製法を確立させたことで名高いドクター・クロウがいた蒸留所。 「ジム・ビーム蒸留所(地図@)」は、2位の「ジム・ビーム」と8位の「オールド・クロウ」を作る生産者です。3位の「エヴァン・・ウィリアムズ」は1783年にルイビル近郊でウィスキー作りを始めた人物の名前に由来…バーズタウンの「ヘヴン・ヒル蒸留所(地図A)」で作られています。5位の「メーカーズ・マーク(地図B)」と6位の「ワイルド・ターキー(地図E)」も蒸留所の見学を一般公開しています。いずれも、最近、ショールームなどの設備を改装して見学者の来訪を待ち構えています。「メーカーズ・マーク」のボトルの口は赤いロウで封印するのが特徴ですが、自らの手で液に浸してオリジナルのボトルを作って持ち帰るサービスが好評です。
「フォー・ローゼズ(地図F)」が売れ筋に入っていないのは当然…これまでは主に日本とヨーロッパで売られてきたバーボンです。カナダのシーグラム社の事業再編を機に、2002年に日本のキリン・ビールが買収しました。現在は、アメリカ国内市場の販売に力を注いでいます。ツアーでは、原料の入荷を受け付けるところから醸造して蒸留する過程をつぶさに見せてくれます。樽詰め前の半製品や高級製品など何種類も味見させてくれるサービスもありますから、飲み過ぎないよう心して訪問してください。
「バッファロー・トレース(地図C)」は「エンシェント・エージ」ブランドで知られた名門蒸留所です。競走馬のキャップを冠した高級品の「ブラントンズ」は、日本はもちろん世界中で宝酒造が販売しています。 「バーボン」の由来 ケンタッキー州にはフランス語の地名がたくさんあります。ルイジアナ州やミズーリ州のようにフランスから買った土地ではないのに不思議ですね。 ケンタッキーへの入植が始まったのは18世紀後半のことですが、当時のケンタッキーはバージニア植民地のカウンティで、また、南北から多数のインディアン部族が自由に出入りする狩猟地でした。開拓者にとって独立戦争(1775〜83年)は、イギリス軍と結託したインディアンに勝って土地を支配する戦い…アメリカを支援してともに戦ってくれたフランスに感謝して、フランスにちなむ地名がたくさん残ったのも不思議ではありません。バーボン(Bourbon)は、フランスのブルボン王朝の名前を取って1785年に誕生したケンタッキー州で4番目のカウンティーです。 ところで、初期の開拓者の中には、スコットランド系アイルランド人(スコッチアイリッシュ)が大勢いました。17世紀に北アイルランドに入植したスコットランド人ですが、そのまた多くが18世紀にアメリカを目指して移住してきます。その頃、大西洋沿岸部の土地は、一足先にやってきたイギリス人に既に分け与えられていましたから、スコットランド系アイルランド人はアパラチア山脈の山麓地帯やケンタッキーへと足を踏み入れたのです。 ケンタッキーでは、新大陸の作物トウモロコシの栽培に成功します。余ったトウモロコシは東部に運んで換金したかったのですが、当時の交通手段では運送中に傷んでしまって売り物になりません。そこで、故郷のスコッチウィスキー製造技術を応用してトウモロコシでウィスキーを作りました。 ウィスキーは、オハイオ川のメイズビルというバーボンカウンティの港から船積みされたので、ウィスキー樽には「バーボン」と刻印されたそうです。 最初のバーボン・ウィスキーは、1789年にイライジャ・クレーグ牧師が(現在はトヨタ工場がある)ジョージタウンで作ったと言われています。創始者については諸説がありますが、スコットランド系アイルランド人がバーボン・ウィスキーの祖である点については、疑いを挟む余地は少ないものと思われます。 ケンタッキーとテネシーのウィスキー蒸留所とブランド
(注) BFCは*Brown-Forman Corporationの略で、Diageoはギネスやコニャックのヘネシーを販売するイギリスのアルコール飲料の多国籍企業「ディアジオ」のことです。 |