(2016年)6月3日に、モハメド・アリが74歳で亡くなった。たいへんな騒ぎで、日本のニュースでも地元ケンタッキー州の葬儀の模様が報道された。プロレスのヒール(悪役)さながらに憎まれていたアリが、アメリカの英雄に神格化されたのはなぜだろう。 ほら吹きクレイアリは、太平洋戦争開戦から1ヶ月後の1942年1月に、オハイオ川の水運の要衝でケンタッキー・ダービーの開催地として知られるルイビルで生まれた。今では周辺を合わせ人口130万人の大都市だ。本名のカシアス・クレイは、南北戦争の20年も前から奴隷解放を訴えて活動した政治家の名前だった。 父親から誕生日プレゼントでもらった自転車を盗まれ腹を立てた12歳のクレイ少年は、いつか犯人をぶちのめそうと、警官のコーチでボクシングを習い始めた。州や連邦のタイトル戦で勝利を重ね、1960年のローマオリンピックに18歳で出場してアメリカにライトヘビー級の金メダルをもたらした。 プロに入ってからは、リング外でマスコミ相手に大言壮語し、観客を熱狂させて対戦相手を惑わしほら吹きクレイ(Loudmouth Clay)と呼ばれた。ずるさと紙一重の頭脳的な試合運びで、たちまちヘビー級王者の座を射止める。日本国技の大相撲と比べたら笑われそうだが、アリが出てくるまでは、(判定に疑問はあっても)ボクシングはもう少し正々堂々のリング勝負だったのではないか。
===== ジョー・フレーザー中傷事件 ===== 中でもジョー・フレージャーに対する個人中傷は卑劣極まり、度を越して虐待と呼ばれるレベルだった。フレージャーは、アリが徴兵拒否してボクシング界から追放されていた時期に、議会で証言しニクソン大統領にアリの復帰を請願したアリの友達で恩人である。しかし、そのフレージャーとの対戦が決まるや、アリは自分を黒人解放の旗手と売り込む一方で、フレージャーを白人に卑屈に仕える「アンクルトム」と非難する中傷キャンペーンを張り、フレージャーの子供たちは学校でいじめに遭い、一家には殺害の脅しさえあった。 ===== キンシャサの奇跡 ===== フレージャーは東京オリンピックのヘビー級金メダリストだが、フレージャーから王座を奪ったジョージ・フォアマンはメキシコオリンピックの金メダリストだった。アリがフォアマンを倒して王者に復帰したタイトルマッチは、興行主の金儲けの都合でザイール(現コンゴ民主共和国)の首都キンシャサで催された。二人は早くから現地に乗り込んで練習を重ねたが、その間にアリは現地ファンを扇動して一つの声援を覚えさせる。試合当日、会場は「ア~リ~、ボマイイェ(現地語でkill him)」の歓声に包まれた。 アリは、この試合で、攻められたふりをしてロープにもたれ、相手のパンチのダメージを上手に受け流す新戦術を用意していた。一方的にアリの肩を持つ場内の歓声にいら立ち、フォアマンは初回からKOチャンスと見て休まず攻め、8回に疲れ切ったところを反撃されTKO負けを喫した。アリの戦いは、常に試合の何ヶ月も前に始まっていた。 ===== その後の3人の王者 ===== だから、現役時代のアリは、後年のアリのように人格的に敬われる人物ではなかった。むしろ、ボクシングに興味のない平均的アメリカ人には、ひんしゅくを買う存在だった。アリ自身も若く、自分の行き過ぎた個人攻撃で傷つけられる人々の身になって考えることはできなかった。 アリは、1980年にラリー・ホームズに挑戦して4度目の王者復帰に失敗し、1年後の次の試合にも連敗しプロ通算56勝5敗でボクシング界から引退する。試合に勝つための大言壮語は不要となり、1984年にパーキンソン病と診断され、病気のせいで表情も穏やかになり動作も緩慢になって行く。アリは見違えるように温厚な性格に変わり、現役時代の過激な言動も時とともに次第に忘れられていった。 それでも、フレージャーに素直にはなり切れなかったようだ。2001年にニューヨークタイムズの紙面で、試合のプロモーション目的で行き過ぎた中傷だったと釈明し謝罪したが、直接会って詫びる勇気はなかった。フレージャーは、2009年にスポーツ雑誌の記者に対し、アリを恨む気持ちは消え失せたと述べている。プロ通算32勝4敗1分の戦績を残した元王者は2011年に亡くなり、身内だけで営まれた葬儀にアリも参列した。 フォアマンにとってアリ戦はプロ41戦目で初めての敗戦だった。しばらくリングを離れた後、1976年に復帰してフレージャーを引退に追い込んだが、翌年の試合中に体調を悪くして生死の境をさまよい、神に救いを求めて引退し宣教師となった。しかし、10年のブランクの後にまたリングに復帰、1994年に再びタイトルマッチの機会が訪れる。この試合で48歳と360日のフォアマンは、かつてのアリが自分にしたように、19歳年下の相手に初回から打ちまくらせ、たっぷり疲れさせた。10回KO勝ちで20年ぶりに王者に返り咲き、長年のアリへのわだかまりが解けた。1997年にプロ通算76勝5敗の記録を残し、フォアマンは宣教師に戻った。 黒人民族主義と公民権運動アリの少年時代は、人種分離教育が禁止されていた北部諸州でさえ、一部地域で差別がまかり通っていた時代だった。アリが生まれたルイビルは、同じ南部でもアッパーサウスで少しマシだったが、ディープサウスでは未だにリンチが横行していた。 1955年に、アリより1歳上の14歳で、都会シカゴから田舎の親類を訪ねた黒人の少年が、ミシシッピーデルタの小村でささいな恨みを買い、片目をえぐられて銃で頭を撃ち抜かれ川に沈められた。事件は少年の惨殺された遺体が雑誌に掲載され、公民権(人種差別撤廃)運動の起爆剤の一つとなる。 ミシシッピーデルタは、黒人が奴隷時代さながらに綿花栽培に使役されていた貧困地域で、黒人の哀愁を歌う「ブルース」の発祥の地として有名だ。 ===== 50年余り前の南部の人種差別 ===== この時代のアメリカを知らない若い方々には、ぜひ次の動画を見ていただきたい。日本では敗戦を機にアメリカ軍が進駐し、新憲法とともに基本的人権尊重の文化が一気に浸透したが、勝ったアメリカは戦前の文化を引きずり、ひどい人種差別が公然と続いていた。 下の動画は、1963年5月、今から50年余り前に、アラバマ州バーミングハムから全米にテレビ中継され、世界中に衝撃を与えた映像だ。動画開始後2分24秒から、大人たちが逮捕され尽くし、跡を継いでおとなしくデモ行進していた黒人の少年少女を、市警が警察犬と放水を使ってけ散らし一斉逮捕するシーンが始まる。 バーミングハムでは、同じ年の9月に人種差別団体クー・クラックス・クランのメンバーが、黒人教会に爆弾を仕掛け、4人の少女が爆死する悲しい事件が起きた。11月にはテキサス州ダラスで、公民権運動を後押ししていたケネディ大統領が暗殺された。 ===== オリンピック金メダル投棄事件 ===== アリがローマから金メダルを持ち帰った1960年に、ルイビルではまだレストランが黒人の入店を拒否することが許されていた。国の名誉を高めた金メダリストを入店させないレストランの仕打ちに怒り、アリがメダルをオハイオ川に投げ捨てたという有名な逸話は、後に本人が否定したとも言われているが、それに近い感情が湧いても当然の時代だった。 その年にノースカロライナ州グリーンズボロで、4人の黒人の若者がデパートのランチコーナーに(給仕されないのに)毎日座り続けた。いわゆるシット‐インだ。半年後にデパート側が折れて、差別を撤廃する。シット‐インが南部各地に波及し、翌1961年の夏にはルイビルでも市が差別撤廃に踏み切った。そんな時代背景を念頭に入れてほしい。 ===== ネイション・オブ・イスラム ===== アリが改名しイスラム教に改宗したのは、1964年にタイトルマッチでリストンを破りヘビー級の王者になった直後だった。世間は驚いたが、決してただの思い付きではなかったのである。アリが初めてネーション・オブ・イスラムという教団の集会に出たのは1961年のことだった。 ネーション・オブ・イスラムは、1930年にデトロイトで、シーア派の隠れイマム(救世主)を名乗る白人と混血の黒人が創始したイスラム教の異端的宗派だった。しかし、宗教活動の範囲を超え、キング牧師に代表される穏健な公民権運動を否定し、黒人民族主義を訴える過激派の側面が強かった。いわゆるブラック・ムスリム(イスラム教徒)である。 だから、先祖が奴隷時代に白人のご主人様から命名されたクレイの姓を捨て、イスラム教の預言者ムハンマドと、その従妹で娘婿のアリ(シーア派の初代イマム)の名をもらって、モハメド・アリと名乗った。フレージャーはじめ白人社会に同化する黒人ボクサーを激しくののしったのも、あながち試合を盛り上げるだけが目的ではなかった。アリは、公民権運動の過激な活動家の声を代弁し、キング牧師ら穏健な主流派のリーダーにも影響を与えた。 ===== マルコムX ===== 当時の教団幹部の中でアリが特に親しかったマルコムXは、教団リーダーのイライジャと対立し、アリと入れ違いに教団を去った。最初のいさかいは、1961~62年にロサンゼルスで信者が市警に弾圧された際に、イライジャが煮え切らない対応をしたのが原因だった。1963年11月にケネディ大統領が暗殺された際にはマルコムが「アメリカが、白人らに嫌いな者を殺し、非人道的に扱うことを許してきた因果応報の結果だ」と発言し、マスコミの注目を一身に集める。イライジャは、マルコムに教団を乗っ取られる危惧を抱くようになった。 マルコムは退団後、イスラム教の聖地メッカ巡礼と二度目のアフリカ諸国の歴訪を終え、アメリカの黒人とアフリカ諸国の連帯を呼びかけたが、1965年2月に教団の手で暗殺されてしまう。キング牧師と対比してマルコムは暴力主義の象徴のように語られるが、具体的な武力蜂起を扇動するほど危険な人物ではなかった。現にバーミングハムの公民権運動では、小学生を含む子供らを危険な目に合わせたキング牧師ら指導者の手法を批判している。 しかし、一方では弁舌が巧みで「投票か銃弾か」と題した演説で、公民権運動のゴールのハードルを高めるよう人々を鼓舞した。こうした部分に共鳴した若者らが、マルコムの死後にブラックパンサー党という武装集団を結成したことが、誤解を生んだ一つの原因だ。 ===== モハメド・アリの信仰 ===== 1972年にアリは、マルコムの跡をたどるようにイスラム教の聖地メッカに巡礼し、肌の色の違う世界中の人々と会って世界観が変わったと言っている。1975年にリーダーのイライジャが亡くなると教団は穏健化し、アリも教団を離れ伝統的なイスラム教に回帰した。1977年には引退後について、神の御心にかなう慈善活動や平和貢献に余生をささげると述べた。1988年には二度目のメッカ巡礼を果たし、晩年はスーフィズムという愛の力で神と人が精神的合一を目指すイスラム神秘主義の宗派に惹かれていたようだ。 だから、アリの度重なる外国訪問も人道目的の旅が多かった。初めて王者に就任した1964年にはガーナ、ザイールでフォアマンに勝って王者に復帰した1974年にはレバノンのパレスチナ難民キャンプ、三度目の王者復帰を果たした1978年にはバングラデッシュを訪問し、インディアンの人権擁護を訴えるロンゲスト・ウォークのイベントに世界中の信仰の垣根を超えた宗教関係者や、歌手のスティービー・ワンダーや俳優のマーロン・ブランドとともに参加している。6月10日のアリの追悼式には、本人の意思で、インディアンの代表や世界の主要宗教の代表者が招かれた。 徴兵忌避とベトナム反戦運動ベトナム戦争は、日本が太平洋戦争中に占領していたフランス領インドネシアの独立戦争に、東西両陣営が介入した泥沼の戦争だった。1953年11月にフランスがインドシナ戦争に敗れ、1954年7月にジュネーブ協定で南北ベトナムが分断される。1955年11月に共和党アイゼンハワー政権は南ベトナムに軍事顧問団を送り、フランスに代わり小規模な軍事介入を始めた。民主党ケネディ政権は兵力を1万6千人に増強。ジョンソン政権下で全面戦争に拡大する。ピーク時には陸上兵力だけで54万名を投入するも、戦果は得られない。 共和党ニクソン政権は1969年8月に兵力削減を始め、1973年3月に米軍を全面撤退させる。最後はフォード政権下の1975年4月に、南ベトナムが崩壊するまで20年にわたって続いた。アメリカは疲弊し、1971年8月にはニクソン大統領がドルと金の兌換停止を宣言し、1ドル360円時代が終わった。 ===== モハメド・アリの徴兵拒否 ===== アリは1964年の徴兵検査で筆記能力の不足により徴兵義務を免がれていたが、1966年初めに陸軍が基準を見直したせいで、あらためて徴兵対象になってしまった。そこで、公共の場で「コーランの教えによりアラーの神の命がなければ戦えない」と良心的兵役拒否(代わりの社会奉仕が課される)を宣言する。さらに「ベトコン(南ベトナム民族解放戦線)は俺をニガー(黒人の蔑称)と呼ばない」とも言い添えた。 ところが、1967年4月に招集令状が届く。アリは入隊手続きに出頭したが、名前を呼ばれても一歩前に出ようとしない。その場でアリは逮捕され、1971年6月に連邦最高裁で無罪が決まるまで、アリは各地の競技委員会によりプロボクサーの資格停止の処分を受けた。 戦前の日本を想像したらいいが、徴兵逃れは重罪だ。抜け道を探しコソコソと徴兵を逃れる若者はいても、世間に公言し堂々と徴兵拒否する有名人は皆無である。当初は、比較的リベラルなマスコミさえ、アリを「非国民」扱いした。しかし、この頃には学生の間でベトナム反戦運動が高まり、アリには全米各地の大学から講演依頼が殺到した。 ===== 戦後アメリカの徴兵制度 ===== 日本では終戦とともに徴兵制度がなくなったが、アメリカでは1972年まで徴兵制度が生きていた(今でも形だけは存在)。私は学生時代にベトナム帰還兵と話したことがあるが、私と同じ世代でベビーブーマーと呼ばれたアメリカ人の青春には、徴兵制度が重くのしかかっていた。 第二次世界大戦の戦時中に18~45歳だった徴兵年齢は、冷戦時には19~26歳に絞られ兵役も21ヶ月(予備役5年)と短縮された。平時に徴兵制度を残したのは、一つには自分の意思で軍務を選べる志願兵の数を確保する目的だった。朝鮮戦争は制度の微調整で済み、1963年9月にケネディ大統領は妻帯者の徴兵義務を免除してしまった。1年後にベトナム戦争が泥沼化するとは全く懸念していなかった証拠だ。 しかし、ジョンソン大統領は逆に徴兵制度を強化している。1965年8月には子持ち以外の妻帯者の徴兵義務を復活させた。1967年6月には徴兵対象を18~35歳に拡大し、学生の徴兵猶予に卒業または24歳の期限を設けた。ニクソン大統領は1969年11月に第二次世界大戦以来の抽選制度を復活し、1971年9月には学生の徴兵猶予を廃し公平性を高める。もっとも、1972年2月の抽選を最後に、徴兵制度は実質的に終止符を打った。 ベトナム戦争では、5万8千人が戦死し7万人が重度の障害を負った。ベトナム帰還兵は、当時の米軍の3割の270万人で、平均年齢は22歳、対象世代の9.7%に当たる。そのうち2/3は志願兵だから、徴兵されベトナムに派遣されたのは男子100人に対し3人の割合だが、徴兵免除者や志願兵の数を差し引くと、男子10人に2~3人が徴兵され、うち1人はベトナムに派遣される確率だったようだ。当事者にとっては、ぞっとするリスクの高さではないか。 ===== ベトナム反戦運動の国際化 ===== 戦後のアメリカは、共産圏の拡大を阻止するために、その場しのぎで世界各地の独裁者と手を結んだ。南ベトナムで最初に担いだゴ・ジン・ジェム大統領も、仏教徒を弾圧して世界に悪名をとどろかせる。ケネディ政権は親米軍人のクーデターを黙認しジェムは殺されたが、その後の南ベトナムは権力争いで13回ものクーデターを繰り返す。ベトナム戦争は大義名分のない戦争で、南ベトナムとアメリカは悪者になってしまった。 1968~69年には、パリの5月革命と呼ばれる学生の自治権拡大の運動と労働者のゼネストをきっかけに、世界中でベトナム反戦運動が盛り上がった。日本では東大や日大などの大学紛争や、新左翼の新宿騒乱事件等があった時代だが、アメリカでは、シカゴで開かれた民主党党大会の流血事件と、オハイオ州北東部のケント州立大学で州兵隊が発砲し学生4人が死んだ事件が、今も語り継がれている。 ===== シカゴ民主党大会 =====
1968年の民主党の大統領候補を決める予備選挙では、ベトナム即時撤退を訴えるマッカーシーに予想外の支持が集まり、現職のジョンソンは早々と撤退した。同じく反戦派のロバート・ケネディが立候補し、マッカーシーの票を奪って指名獲得をほぼ確実にするが、その矢先に暗殺されてしまう。情勢は一転し、現職のハンフリー副大統領が有利になり、反戦派の党員は不満を抱いた。8月の党大会では全米から1万人の反戦活動家らが会場のシカゴに押しかけ、8日間も警官隊と衝突を繰り返し、100人を超える負傷者が病院で手当てを受けた。 ===== ケント州立大学事件 ===== 新大統領には、徴兵逃れや反戦に熱心なホワイトカラー層に反発する、愛国的なブルーカラー層に支持されたニクソン元副大統領が当選した。ニクソンは公約の漸次撤兵を進める一方で、1970年4月にベトコン(南ベトナム解放民族戦線)の補給ルートを断つため米軍をカンボジア領内に侵攻させた。 5月1日にケント州立大学では前日のニクソン演説に抗議する学生集会が開かれたが、その夜、市内で少数の学生や暴走族の悪ふざけが暴動化した。市長はあわてて非常事態を宣言し、全てのバーの閉店を命じたが、追い出された客が暴徒に加わり事態はさらに悪化。警官隊は、催涙ガスを使って暴徒を追い払った。 翌2日、人口3万人足らずの大学町は過激派に襲われるとの噂に怯え、州知事に州兵の派遣を求める。その夜は大学キャンパスに千人を超える学生が集まり、軍の将校養成コースの建物に放火し騒いでいた。州兵は投石され、消防車のホースは奪われかぎ裂きにされる。州兵は催涙ガスを使用し、多数の学生を逮捕した。3日の夜には夜間外出禁止令が出されたが、一部の学生は市長と学長に面会を求め市内で座り込んだ。州兵に排除される際に、数名が銃剣でケガをする。 4日の月曜日は、暴動前から正午に集会が予定されていた。大学側は1万2千枚のビラを配り集会の中止を訴えたが、それでも2千人がキャンパスに集まった。学生と州兵は投石と催涙ガスで朝から小競り合いを繰り返したが、正午過ぎに突然77名中29名の州兵が67発の銃弾を撃ちかけ、学生4人が死亡した。たった13秒間の出来事で、ほかに9人が負傷、うち1人は終身にわたり身体不随の運命を背負った。 愛と平和のカウンターカルチャー公民権運動と反戦運動の間に橋を架けたのは、50年代の社会規範を否定するカウンターカルチャー(反体制文化)だった。バーミングハムで少年少女のデモが鎮圧されてから3ヶ月後の1963年8月に、公民権運動は一つのピークを迎えた。全米から20万人以上がリンカーン記念館前の広場に集結したワシントン大行進…有名なキング牧師の「I have a dream(私には夢がある)」演説はこの時のものだ。 I have a dream that my four little children will one day live in a nation where they will not be judged by the color of their skin, but by the content of their character. I have a dream today! 反戦歌手ジョーン・バエズは、群衆を前に「We shall overcome(勝利を我らに)」を歌った。黒人霊歌をもとに、ピート・シーガーが作った公民権運動のテーマソングだ。バエズはこの歌のB面に、大気圏内核実験にプロテストする「What Have They Done to the Rain(雨を汚したのは誰)」をレコーディングした。ソ連が2年前に史上最大の水爆実験をして、1年前にはキューバにミサイルを持ち込もうとした時代で、ベトナム戦争への危機感は乏しかった。キング牧師が初めてベトナム反戦デモを率いたのは、1967年3月…アリが徴兵拒否したのはその翌月だ。 ===== ベトナム戦争とヒッピー文化 ===== その頃には、カウンターカルチャーも変化して来ていた。1967年の夏は、全米各地の大都市で159件の黒人暴動が起こり「長く暑い夏」と呼ばれたが、一方で「サマー・オブ・ラブ」とも呼ばれ、欧米の多くの都市に膨大な数のヒッピーが群れてたむろした。中でもサマー・オブ・ラブに火をつけたヒューマン・ビーイン(動画)が開かれたサンフランシスコの場合は、ヘイト‐アシュベリー地区に全米から10万人のヒッピーが移り住んだ。
ヒッピーの文化は一言でいうなら、愛と平和、ロックミュージックや芸術に、麻薬やマリファナだ。これにはベトナム反戦運動の直接の影響だけではなく、多くの若者が徴兵逃れのために住所を捨てる理由があったことや、戦場の兵士が麻薬やマリファナの服用習慣を持ち帰ったことが、強く影響している。 ゴールデンゲート公園はこの世のユートピアで、食べ物や日用品から麻薬、果てはセックスまでが無料で手に入った。国の言うなりになって非人道的なベトナム戦争に行くより、古い性道徳を捨て人間らしい男女の愛に回帰するのが正義だった。ゲイやレスビアンらLGBTの公民権運動も始まっていた。 ママズ&パパズのジョン・フィリップスが作りスコット・マッケンジーが歌った「San Francisco (Be Sure to Wear Flowers in Your Hair)(花のサンフランシスコ)」がヒットしてから、ヒッピーはフラワーチルドレンと呼ばれるようになった。ビートルズのアルバム「Sgt. Pepper's Lonely Heart's Club Band(サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド)」に象徴されるサイケデリック(LSDなど麻薬による幻覚を連想させる)音楽が一世を風靡し、東洋的な瞑想がカウンターカルチャーの要素に加わった。 ヒッピー文化のピークは、1969年8月のウッドストック・フェスティバルだった。マンハッタンから北西に百マイルの農場で、4日間にわたり催された野外コンサートに40万人が参加した。 しかし、ちょうどその頃ロサンゼルスでは、砂漠で自給自足生活をしていたヒッピー的カルトのマンソン一家が、女優シャロン・テートらを惨殺する事件が起きていた。4ヶ月後には、サンフランシスコ付近で開かれたオルタモント・フリーコンサートでは、観客の一人が刺殺された。刺したのはローリングストーンズが警備員に雇った暴走族で酒に酔っていた。刺された18歳の少年も覚醒剤をやっていて、ピストルを持ち舞台に駆け上がろうとしていたらしい。カウンターカルチャーの弱点が、透けて見えるようになって来ていた。 アメリカ人の青春グラフィティ1964年に公民権法が制定されてからも人種差別は終わらなかったが、1968年4月にキング牧師が暗殺されてからは過激派が台頭し、非暴力主義の公民権運動は下火になった。 ベトナム反戦運動はその後も続いたが、1969年にベトコンや北ベトナムの背後にいる中ソ両国の関係が悪化したおかげで、米ソは緊張緩和に向かう。ピンポン外交(日本で開催の世界卓球選手権後に、中国がアメリカ選手団を自国に招き友好姿勢を示した)を経て、1972年にニクソン訪中が実現し、1973年3月に米軍はベトナムから全面撤退した。 1975年4月に首都サイゴンは陥落し、南ベトナムはなくなった。もうベトナム反戦運動も、徴兵逃れのためにヒッピーを続ける理由もない。翌1976年の建国200周年に向け、アメリカのメディアは再び愛国心をあおるようになった。一つの時代が終わり、アメリカは一皮むけて新しい秩序の国に生まれ変わっていた。 ===== モハメド・アリと連邦政府 ===== アリの話に戻ろう。アリがフォアマンに勝ってヘビー級王者に復帰したのは、アリの宿敵ともいうべきニクソン大統領が辞任して2ヶ月後の1974年10月だった。アリはホワイトハウスでフォード大統領と会い、その後の大統領も必ず対面する有名人に仲間入りした。1981年の引退後は、宗教活動や慈善事業に打ち込んでいる。 中でも、1984年にアリがレーガン大統領の再選支持を表明したのは、公民権運動やベトナム反戦運動に参画した人々と連邦政府の和解をうながす大事件だった。レーガンは、カリフォルニア州知事時代に反戦運動を強く弾圧した経歴で悪名高い。1987年にアリは、アメリカ憲法で基本的人権を定めた「権利の章典」の制定200周年を記念するパレードの山車に乗った。キング牧師もマルコムXも亡き後、公民権運動の象徴として連邦政府に祭り上げられたといえば聞こえは悪いが、アリは日本の皇室やイギリスの王室のような儀礼的な役割を与えられた。 クリントン大統領時代のアトランタ五輪では最終聖火ランナーを任され、失ったローマ五輪の金メダルを、あらためて授与された。2001年9月11日の同時多発テロでは、ニューヨークのワールドトレードセンターの跡地に立ち、イスラム教徒としてテロリストたちを罰する多国籍軍の立場を支持すると宣言。2002年には国連の平和大使としてアフガ二スタンを訪問し、2005年にブッシュ大統領からアメリカ最高位の大統領自由勲章を授与された。 オバマ大統領はアリの功績として、アフガニスタン訪問のほかに、湾岸戦争の際にイラクのフサイン大統領に頼んで14名の米軍捕虜を解放したことや、南アフリカを訪問し後の大統領のネルソン・マンデラを牢獄から出したことや、絶え間なく世界中の病気や障害の子供たちを見舞い勇気づけていたことを讃え、冥福を祈った。 ===== 1960~70年代の光と影 ===== つまるところアリの人生には、アメリカが大きく価値観を変えた時代に青春を送った全てのアメリカ人に、共通のノスタルジーを呼び起こすところがあるのではなかろうか。徴兵された男にも、徴兵逃れした男にも、それを見ていた女たちにも、それぞれの感慨があるはずだ。
1973年に、ジョージ・ルーカス監督のアメリカン・グラフィティという映画が公開された。グラフィティは落書き…「1962年の夏、あなたはどこにいましたか(Where were you in '62?)」のキャッチフレーズ通り、ベトナム戦争前夜の平均的な高校生たちの卒業前の姿を書き留めた青春映画だ。1979年公開のアメリカン・グラフィティ2は、ベトナム戦争や反戦運動に巻き込まれた彼らの1964~67年の各大晦日の姿を書き留めている。 1994年公開のフォレスト・ガンプは、トム・ハンクス主演でアカデミー作品賞を取った名作で、愚鈍に生きて偶然に成功を重ねた白人の主人公ガンプと、カウンターカルチャーの世界に生きて落ちぶれていく幼なじみのジェニーの一生を描いている。 ガンプは、アリのようにフォード以降の大統領に会ってはいないが、逆にベトナム戦争時代のケネディ、ジョンソン、ニクソンの三代の大統領と対面した。フィクションの男女二人の人生を重ねたら、実在のアリの人生にどこか似ているように見えないか。アリ追悼の随筆の最後に、フォレスト・ガンプのあらすじをご紹介しよう。 ===== フォレスト・ガンプ ===== ガンプは、アメリカン・グラフィティの世代より若い計算だ。舞台はアラバマ州の架空の町。ガンプは俊足を見込まれフットボールの名門アラバマ大学に進学し、全米代表に選ばれホワイトハウスでケネディ大統領と対面した。1967年に卒業後、陸軍に志願してベトナム戦争に出征し、軽傷を負う。1971年に帰国して戦友を助けた功により、ジョンソン大統領より名誉勲章を授与される。ワシントンDCを見物中に反戦運動の群衆に巻き込まれ、今はヒッピーで幼なじみのジェニーと再会した。二人は公民権運動武装派のブラックパンサー党のアジトに立ち寄り、そこでジェニーは過激派指導者の男友達ともめる。 陸軍病院で卓球と出会い、ピンポン外交で米中の橋渡しをして国民的英雄となった。ショー番組で会ったジョン・レノンと後の名曲イマージン作詞のヒントを与える。ホワイトハウスでニクソン大統領と対面後にウォーターゲート・ホテルに泊まったところ、ガンプの勘違いで、ニクソン辞任のきっかけとなる政治スキャンダルが発覚してしまう。 1974年にガンプは除隊。亡き戦友が語っていた夢を代わりにかなえるため、両足を失った元上官を誘いエビ取り漁を始める。ハリケーン・カルメンで難破しかけるが、港に避難した漁船が全滅し漁獲はガンプらの独占で大儲け。1975年に、故郷に帰り母親を看取る。元上官の勧めで(果実会社くらいに思っていた)アップルの株を買い、また大儲け。しかし、儲けたお金は戦死した戦友の家族や教会の建設費に寄付してしまう。 麻薬とセックスに溺れた暮らしに疲れたジェニーも、1976年に故郷に帰ってくる。アメリカ建国200周年の7月4日にガンプはジェニーにプロポーズし断られるが、その夜二人は愛し合う。翌朝ジェニーは失踪し、ガンプは狂ったように走り始める。これが1978~79年のジョギング・ブームに火をつけ、ガンプは全米で再び有名になる。 1981年にガンプは手紙を受け取り、サウスカロライナ州サバンナでウエイトレスをしていたジェニーを訪ねる。ジェニーは、ガンプとの間に授かった息子を育てていた。ガンプは、当時は原因不明の病気(エイズ)にかかっていたジェニーを故郷に連れ帰って結婚。翌年、ジェニーは亡くなった。 |