アメリカの 「社会と歴史」・e-ガイド(印刷ページ

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アイルランドとイギリスの歴史

★中世以前 ★宗教改革 ★三王国戦争と清教徒革命 ★名誉革命とウィリアマイト戦争

★スコットランド系アイルランド移民 ★カトリック系アイルランド移民 ★アイルランドの独立スコットランド議会の復活


 アイルランドはイギリスの隣の国で、スコットランドはイギリスの一地方としか知らない方も多いことでしょうが、中世までは両方とも独立した王国で、異民族のイングランドに植民地化された不幸な歴史があります。少し、朝鮮や台湾と日本の関係に似ているかもしれません。


中世以前


アイルランドの音楽と踊り  スコットランドのバグパイプ 

 アイルランドは、1927年まで連合王国(United Kingdom)の一部でした。スコットランドやウェールズと同じくケルト人の国です。音楽性豊かな民族で、現代音楽に強い影響を与えています。

 連合王国の中でイングランドだけは非ケルト系の国です。イングランドには、まずローマ帝国に支配された歴史があります。その後は、アングロ‐サクソン人、デーン人、ノルマン人と、ゲルマン系で近縁の民族が次々に渡来し、同化しながらイングランドの支配権を引き継いできました。

 イングランドは、古くから経済力で他の3ヶ国を圧倒していました。13世紀以降、ウェールズは政治的にイングランドと一体化します。アイルランドも12世紀にイングランドに征服されましたが、14〜15世紀には実質的な独立を回復しました。ちょうど、イングランドが、フランスとの百年戦争(1337〜1453年)や内乱の薔薇戦争(1455〜87年)に忙しかった頃です。

 スコットランドはイングランドとたびたび衝突していたものの、勇敢なスコットランド北部の高地人の奮戦とフランスとの同盟関係を頼って何とか独立を維持していました。しかし、両王家には婚姻関係が生じ、状況は微妙に変化し始めます。


宗教改革


Henry VIII

 アイルランドはイングランドに反攻を試みて失敗。逆に再び征服されて、1536年にはイングランド王のヘンリー8世がアイルランドの王位につきます。さらに、ヘンリー8世が自らの離婚を正当化するためにカトリックを捨てたために、アイルランドのカトリック教徒は次第に不利な扱いを受けるようになります。

 ヘンリー8世が始めたイングランド国教会は、最高権威がローマ法王からイングランド王に替わっただけで、教会制度の基本は、それまでのカトリックと変わりません。時は宗教改革の時代で、イングランドでも、国教会を中から改革しようとする清教徒の運動と、国教会とはたもとを分かとうとする分離派の運動が興ってきました。メイフラワー号でアメリカを目指したピルグリムファーザーズも分離派の人々でした。

  その頃、スコットランドではカルビンの改革派の流れを汲む長老派プロテスタントが広まり、フランスびいきでカトリック信者の国王と対立が生じいました。聖職者の選び方は、カトリックや国教会は中央集権主義、長老派は議会制民主主義、分離派は直接民主主義にたとえられます。


三王国戦争と清教徒革命


 さて、17世紀は、イングランドに2つの革命が起きて立憲君主制が確立した時代ですが、スコットランドとアイルランドにとってはイングランドによる植民地化の始まりでした。

 ことの起こりは、エリザベス1世の死で、イングランドに王位継承者が途絶えた事件です。イングランドは、母方でイングランド王の血を引くスコットランド王ジェームズ6世にイングランド王を兼ねるよう要請しました。これを「同君連合」といい、このとき両国の国旗を重ねた現イギリス国旗(ユニオンジャック)の原型ができました。

 一見、スコットランドに有利な協定のようですが、国王はロンドンに居を移してしまいます。次のエドワード1世は、イングランド国教会の儀式を、スコットランドの長老派教会に押し付けようとします。

 怒ったスコットランドの氏族は盟約を結び、主教戦争(1639〜40年)でイングランドに勝ち、1641年には、アイルランドでもカトリック教徒の貴族が同盟を組んでイングランドに反乱を起こしました。

 社会格差が増大し財政が悪化していた当時の情勢は、現代に通じるところがあります。国王は主教戦争の賠償金など予算承認を求めて議会を召集しますが、議会は専制的な国王に反発し、国王を支持する国教会派と議会を支持する清教徒派に分かれてイングランド内戦(1942〜51年)が起きました。

 国王軍はアイルランド同盟軍と結び、議会軍はスコットランド盟約軍と結び、大勢は1945年に議会軍の勝利で決しましたが、実は、その間にスコットランド盟約軍の穏健派が国王について、スコットランド内戦(1644〜47年)が起きていました。

Oliver Cromwell

 話は、さらにややこしくなります。穏健派にしろ強硬派にしろ、盟約軍の目的は、イングランドにスコットランドの自治と長老派教会を認めさせることでした。内戦に勝った強硬派は、早速、イングランドに詰め寄りますが、イングランド議会は長老派勢力を追い出し清教徒分離派のクロムウェルに牛耳られていました。

 1649年にチャールズ1世は処刑され、イングランドは共和国になりました。裏切られたスコットランドは、イングランドの長老派と結び、チャールズ2世を擁立して戦いましたが、1651年に共和国軍に敗れてしまいます。

 アイルランドには、同じ1649年にクロムウェルが自ら攻め込み、カトリック教徒に対し残忍な殺戮と土地の没収をしたと伝えられています。1653年にはゲリラ勢力も降伏して、スコットランドもアイルランドも、イングランド共和国に併合されてしまいます。

 しかし、こうして軍事的に勝利した共和国も、議会は諸派乱立で意見がまとまらず、財政難も解決することはありませんでした。1658年にクロムウェルが死んで間もなく、1660年に三国はチャールズ2世を迎えて王政復古を果たすことになったのです。


名誉革命とウィリアマイト戦争


James II

William III

File:Flag of Ireland.svg チャールズ2世に続いて即位したジェームズ2世はカトリック信者で、イングランド国教会の権威を弱め、フランス的な絶対王政を推し進めようとして議会と対立しました。

 議会は、ジェームズの甥で娘婿のオランダ総督オレンジ公ウィリアムを招いて、ジェームズの追放を画策します。イングランドとオランダが共同して、フランスに対抗するという外交的な意味合いもありました。

 1688年に、ウィリアムは、フランスが大同盟戦争(1688〜97年)でドイツに侵攻した隙に、2万人のオランダ兵を率いてイングランドに上陸しました。ジェームズは亡命し、ウィリアムは翌1689年に、妻のメアリーとともにイングランド王に即位、「権利の章典(Bill of Rights)」が制定されてイングランドの議会制民主主義が確立します。

 この間、イングランドでは流血事件がなかったことから名誉革命と呼ばれるようになりましたが、実はアイルランドではジェームズを支持するジャコバイトとウィリアムを支持するウィリアマイトの戦争が起きていました。ジェームズが、フランス軍を借りてカトリック教徒が多いアイルランドで蜂起したのです。現在のアイルランド国旗の緑はアイルランドのカトリックのシンボルですが、オレンジ色はオレンジ公ウィリアムを奉じて戦ったプロテスタントの人々のシンボル・カラーです。


スコットランド系アイルランド移民


 17世紀にアメリカのイギリス植民地に移住していたのは、国教会系から清教徒の分離派までイングランド人が大半でしたが、清教徒革命と名誉革命を経てスコットランドとアイルランドの植民地化が進み、その結果、18世紀以降にアイルランドからアメリカに移民する人たちが急増しました。

 そもそも、スコットランド王にイングランド王を兼ねさせて「同君連合」を提案してきたイングランドが、勝手に王の首をすげ替えたのですからスコットランドは怒ります。スコットランドは、共和国時代にイングランドが制定した航海条例で交易を制限され、経済的に衰退しつつありました。

 そこで、スコットランド議会が「独自に王を立てる権利を有する」と宣言したところ、イングランドは交易制限の強化で脅し、議会の解散を迫りました。1707年にスコットランド議会はイングランド議会と合同します。

Elvis Presley

 経済的に困窮したスコットランドからは、多数のプロテスタントの人々が北アイルランドに移民しました。しかし、1740〜41年にアイルランドで飢饉があり、移民の多くが北アイルランドをあきらめ、さらに次の新天地アメリカを目指して移民して行ったのです。

 大西洋沿岸部には、既に先客のイングランド人が入植していました。スコットランド系アイルランド人の移民は、幌馬車で、アパラチア山脈のシェナンドーア渓谷を抜けて、当時は奥地と呼ばれていたノースカロライナのピードモント(山麓地帯)や西部に植民しました。

 ケンタッキーにウィスキーや競走馬をもたらしたのは、こうした人々です。かつてウィリアマイト戦争でウィリアム王(キング・ビリー)を支えて戦った先祖はビリーボーイズと呼ばれたものですが、アパラチア地方に住み着いた人々はヒルビリー(半ば蔑称)と名づけられ、ヒルビリーが生み出したブルーグラス・ミュージックは、ロック・ミュージックとミックスしてロカビリーという音楽になりました。そういえば、エルビス・プレスリーもスコットランド系アイルランド人の末裔です。

 アメリカの大統領はオバマ大統領で第44代を数えますが、その中でスコットランド系アイルランド移民の子孫を名乗る大統領が12人もいます。初期の西部開拓に貢献した自負から、国勢調査(Census)で「アメリカ人の子孫」と回答する人たちの大半もスコットランド系アイルランド移民の血を引くアメリカ人ではないかと考えられ、地図で分布を見てもお分かりの通り、政治的にも宗教的にも南部保守層の中核です。


カトリック系アイルランド移民


John F. Kennedy

Joe Biden

 アイルランドは1801年に正式に連合王国に併合され、このときに、アイルランドを象徴する聖パトリック十字が重ねられ、現在のイギリス国旗(ユニオンジャック)が完成します。プロテスタントの住み心地は改善して、スコットランド系アイルランド人の移民ブームはもう終わっていました。

 1820年頃からアメリカでは運河の建設が盛んになり、今度はカトリック信者のアイルランド人が土木労働者として移民して行くようになります。1845〜49年にはアイルランドをジャガイモ飢饉が襲い、移民ペースが加速します。当時、大西洋を渡る船内で息を引き取る人々も多く、船は「棺桶船」と呼ばれていました。

 初期のカトリック系アイルランド移民は、奴隷として連れて来られた黒人を別にすれば、元祖少数派移民でした。今でもアメリカでセントパトリックスデーが盛大に祝われる裏には、祖国はイングランドに征服され、移民してきた新天地アメリカでも差別されたアイルランド移民の苦難の歴史があったのです。

 男は、成長期の東部から中西部の諸都市で、熟練技能を求められない警察や消防の仕事につき、女はマサチューセッツ州で勃興期の綿紡織の女工やメイドなど低賃金の仕事につきました。それでも、移民の数は増え続け、ニューヨーク市内のアイルランド移民の人口は、ダブリンの総人口を超えるようになりました。

 第35代のケネディ大統領はアイルランド系アメリカ人で、アメリカの政治史上で初めてカトリックを信仰する大統領となりました。第47代のバイデン副大統領もアイルランド系アメリカ人で、初のカトリック信者の副大統領です。それほど、アメリカはプロテスタント勢力が強い社会です。


アイルランドの独立とスコットランド議会の復活


 アイルランドのユニオニスト(プロテスタント)とナショナリスト(カトリック)の対立は、イスラエルとパレスティナの対立によく似ています。19世紀中にも反乱はたびたびありましたが、20世紀に入って対立は激化しました。

 1914年にはイギリス議会でアイルランド自治法(Home Rule Act)が何とか制定されました。しかし、第一次大戦の勃発で施行が延期されている間に、武闘派がダブリンでイースター蜂起を起こします。蜂起は失敗に終わったものの、大戦後初の1918年12月の選挙でナショナリストのシンフェイン党が躍進し、議席の7割を獲得します。さらにシンフェイン党はイギリス議会への登院を拒否して革命議会を開き、共和国の樹立を宣言しました。続いてアイルランド独立戦争を経て、1922年に(北アイルランドを除き)アイルランド自由国が成立します。

 その後も、新国家が(カナダやオーストラリアのように)イギリス国王を元首に抱くことをよしとしない過激派が蜂起して内戦が1年近く続きましたが、時を重ねて、アイルランドはイギリスと対等な共和国となり、1949年には英連邦も離脱して平和な国となりました。

Rory McIlroy

 問題は北アイルランドで、1960年代半ばから、アメリカの公民権運動に刺激されて、少数派カトリック住民の差別に抗議するIRA(アイルランド共和軍)のテロ活動が始まりました。一時はロンドンでも爆破事件が頻発したこともありますが、90年代以降は経済の好転により紛争も沈静化してきました。 最近は、ゴルフの世界で北アイルランドの選手の活躍が目立っていますが、選手の順位表に表示される国旗は、アイルランドの独立から50年間存在した北アイルランドの行政府の旗です。

Tony Blair

 余談になりますが、マッキロイ選手はじめハンバーガーのマクドナルドなど、イギリス人やアメリカ人の苗字で頭に「Mc‐」がつく名前が多いですね。これは、アイルランドやスコットランドのケルト人の言葉で「の息子」を表していますから、ポール・マッカートニーもマッカーサー元帥もご先祖はケルト系だったということです。

 さて、スコットランドの方はどうかというと、19世紀前半まで散発したジャコバイト勢力の反乱も、その後は収まって、外国人の目からすると正にイギリスの一部としか見えないわけですが、そういえば第2次大戦の映画で、バグパイプを吹いて進軍するスコットランド部隊を見たことがありませんか?

 1997年には、スコットランド出身のブレア首相の下で国民投票が行われ、290年ぶりにスコットランド議会が復活しました。限られた範囲で、独自の法律を決めることができます。今更スコットランドが独立すると思っている人はいませんが、2014年には、念のため独立をかけた国民投票が行われるそうです。