南北戦争後の黒人差別 南北戦争を経て奴隷制は全米で廃止され黒人は自由を得たはずでしたが、頼りのリンカーン大統領は暗殺され、南部諸州の政府は、実質的に黒人から参政権を取り上げ、公然と人種隔離政策を進めるようになっていきました。今は中国などを相手に「人権外交」などと威張っているアメリカですが、50年前まではひどいものでした。南部では、白人秘密結社のリンチ殺人が繰り返され、学校や公共の場所で白人と黒人が同席することが許されていなかったのです。 モンゴメリー・バスボイコット事件 そこで、黒人が白人と同等の公民権(Civil Rights)を得るための非暴力的抗議=公民権運動の先頭に立ったのが、有名なキング牧師(Martin Luther King Jr.)。ヒロインとなったのがロザ・パークスさんです。
公民権運動のうねりは、1955年にアラバマ州のモンゴメリーで始まりました。当時のモンゴメリーの市バスには、白人が前の列から順に座り黒人が後ろの列から座るルールがあったそうです。満員で空いた列がなくなると、黒人は立たなければなりません。白人の席がなくなると、黒人最前列の人々は全員立って白人に席を譲らなければなりません。 1955年12月1日、デパートで縫製をしていた42歳の黒人女性ローザ・パークスは、帰宅途中の市バスで、運転手の指示に従わず白人に席を譲らなかったために逮捕されてしまいます。そして、当時、モンゴメリーの教会に着任したばかりで若干26歳のキング牧師らが、黒人市民に市バスのボイコットを呼びかけたのです。 ボイコットが始まったのはローザの公判予定日の12月5日(月)…バスに乗らず、乗り合いの車やタクシーも利用できなかった4万人の人々が、あいにくの雨の中を、歩いて通勤しました。乗客の圧倒的多数がボイコットしたら、市バスの経営は成り立たなくなってしまいます。しかし、当初は1日で終わる計画だったボイコット運動は結局 381日間、連邦最高裁の控訴審で人種分離の違憲判決が出るまで続いたのだそうです。 ワシントン大行進
公民権運動が頂点に達したのは1963年8月のワシントン大行進です。トム・ハンクスが主演した米ベビーブーマー(団塊)世代の青春回顧映画「フォレスト・ガンプ」にも登場した名場面…20万人の群集が行進し、奴隷解放を実現したリンカーン大統領の記念堂前に集まりました。キング牧師は、アメリカ人なら誰でも知っている「私には夢がある」という名演説を残します。 私には夢がある。いつの日か、ジョージア州の赤い丘の上で、かつての奴隷の子達と、かつての奴隷の所有者達の子達が、兄弟愛というテーブルで席を共にできることを!! (翻訳:Wikipedia) ケネディー兄弟とキング牧師の暗殺 公民権運動の影には、ケネディー大統領の後押しがありました。その年の11月にケネディーは暗殺されますが、遺志を継いだジョンソン大統領とロバート司法長官が翌年7月に公民権法(Civil Rights Act)を成立させます。1968年にはキング牧師と大統領指名選挙中のロバートが相次いで暗殺され、公民権運動は過激化して1970年代半ばまで続きました。 39歳の若さで世を去ったキング牧師のですが、メンフィスで凶弾に倒れる前夜の演説には、翌日の死を予期しているような言葉が連ねられていました。 前途に困難な日々が待っています。でも、もうどうでもよいのです。私は山の頂上に登ってきたのだから。皆さんと同じように、私も長生きがしたい。長生きをするのも悪くないが、今の私にはどうでもいいのです。神の意志を実現したいだけです。 神は私が山に登るのを許され、私は頂上から約束の地を見たのです。私は皆さんと一緒に行けないかもしれないが、ひとつの民として私たちはきっと約束の地に到達するでしょう。今夜、私は幸せです。心配も恐れも何もない。神の再臨の栄光をこの目でみたのですから。(翻訳:Wikipedia) キング牧師の日の祝日化 さて、キング牧師の誕生日を祝日にしようという運動は暗殺事件の直後に始まりましたが、その道のりも、公民権運動と同様に、平坦ではありませんでした。1979年には下院で2票差で否決されてしまいます。6百万人の署名付きの史上最大の陳情が実り、連邦祝日として法制化されたのは1983年。全米50州が足並みを揃えて祝うようになったのは今世紀、ようやく2000年に入ってからのことでした。
ロザ・パークスは有名になって地元に居づらくなったために1957年にデトロイトに引っ越しますが、2005年に92歳で亡くなるまで、生涯、穏やかな人権教育取り組んだのだそうです。 |