探検時代

(1492-1607…戦国時代の頃)


コロンブスのサンタマリア号

 世界史で、15〜17世紀初頭は「大航海時代」だったと教わりましたが、英語では発見の時代(Age of Discovery)ないし探検の時代(Age of Exploration)と呼ばれています。当時のアジアでは、既に自由貿易のモンゴルに代わってオスマン・トルコがシルク・ロードを支配しており、ヨーロッパのキリスト教世界にとっては東西通商と布教のための海路開拓が急務となっていました。

 イギリスとフランスが百年戦争(1337-1475)にかまけている間に、イスラムを追い出してイベリア半島を治めたポルトガルとスペインが世界各地の植民地化に乗り出します。ポルトガルが一歩先んじて東進し、アジア、アフリカとの貿易で富を築きます。スペインは、西進して日本を探しに行くコロンブスのプレゼンに賭け、結果的にアメリカ方面に進出して行くことになります。

 直ちに莫大な富を得ようとしたスペインは、メキシコのアステカ帝国(〜1521年)やペルーのインカ帝国(〜1533年)を征服して金銀を略奪したものの、恒久的な植民地の建設に熱心ではありませんでした。そこへ、出遅れていたイギリスやフランス、オランダが(太平洋への抜け道を探すのが第一目的だったようですが)まだスペインの手が付いていない北米東海岸の探査を始めます。1564年にはフロリダのジャクソンビルにフランスがカロリーヌ砦(Fort Caroline)を築きますが、あわてたスペインが1565年にこれを滅ぼしてセントオーガスティンに植民地を開き、さらに1598年には現在のニューメキシコ州一帯をスペイン領としたのです。

 フランスは、16世紀の前半に現カナダのノバスコシアやケベック州の付近の領有を固めた後、セントローレンス川を五大湖にさかのぼり、さらにミシシッピー川を下ってメキシコ湾に至るルートを切り開いていきます。デトロイト、セントルイス、ニューオリンズなど現在の大都市も、最初はフランスの植民地として建設されたのだそうです。


植民地時代

(1607-1773…江戸時代初期・中期)


バージニア開拓民の船の複製

メイフラワー号

 1588年にスペインの無敵艦隊がイギリスに敗れて壊滅したのを契機に、世界の制海権はスペイン、ポルトガルのカトリック諸国からイギリス、オランダなどのプロテスタント諸国の手に移っていきます。

 1607年には現バージニア州ジェームズタウンにイギリス領の植民地が開設され、1620年には有名なピルグリム・ファーザーズがメイフラワー号でニューイングランドに上陸しますが、この二つの植民地が、後の南北戦争の原因ともなるアメリカ南部と北部で対立する文化の源流となるのです。

 バージニア植民地は半島状の湿地…マラリアなどの病気が蔓延して初期の入植者は生き延びるだけで必死でしたが、良質なタバコの栽培に成功して、その後の南部農業発展の基礎ができます。17世紀後半には南北カロライナやジョージアにも植民地が建設され、フランスからはユグノー(プロテスタントの農民)がぶどうやオリーブの栽培法を携えて移住し、黒人奴隷が使役されるようになっていきます。メリーランドには、アイルランド貴族のボルチモア卿が、独立13州で唯一のカトリック教徒による植民地を作りました。

 ニューイングランドには、マサチューセッツ地方を中心に、その後も新天地を求める清教徒の集団移住が続きました。移住者の中には、農民のほかに中産階級の商人や職人も多く、政治的にも経済的にもイギリス本国から自立した植民地として発展していきます。

 両植民地の中間地=ハドソン川の流域はオランダの植民地でしたが、デラウェア川下流のスウェーデン植民地を併合して間もなく、1664年に第二次英蘭戦争前哨戦で戦利品としてイギリスに奪われてしまいます。後に、ニューヨークやニュージャージー、ペンシルバニア、デラウェアとなる地域です。


独立戦争と建国期

(1773-1789…江戸時代後期)


独立宣言

 

 独立戦争は英語では「革命戦争(Revolutional War)」…13植民地の人々が当初から独立を目指して戦ったのではありません。

 当時の常識は現代人には想像できないほど保守的で王政を公然と否定することは進歩的な人々の間でもタブーでした。

荒野の道(ケンタッキーへ)

 最初は、イギリス政府の悪行を正してもらおうと国王に請願したのですが、その国王に反乱軍扱いされて、やむなく君主抜きの国家を作ろうという機運が生まれました。 そのため、1775年4月の開戦から独立宣言まで、1年3ヶ月もの月日が必要だったのです。

 植民地が正規軍を持っていたわけではありませんから、戦争は民衆の蜂起で始まりました。当時、ボストンには、反乱民を鎮圧するよう本国から軍隊が派遣されていたのですが、周辺の村の偵察に出かけたイギリス軍を民兵(一般農民)が迎え撃ったのです。これこそ世界史上初の本格ゲリラ戦だったのかもしれませんね。

 南北カロライナの山麓(ピードモント)や奥地(バックランド)には、対立関係にある沿岸部の大農園主が愛国派(ホイッグズ=Whigs)についたので、王党派(トーリーズ=Tories)となってイギリス軍を支えた農民も多かったようです。西部最前線のケンタッキー方面では、イギリス軍と同盟するインディアンと戦って、植民者の土地を広げることこそが独立戦争でした。


領土拡張の時代

(1789-1849…文化文政〜幕末)


ルイス&クラーク探検隊

アラモの戦い(テキサス独立戦争)

インディアンの涙の旅路

カリフォルニア行きの船の広告

 独立戦争に勝ち、晴れて連邦共和国となったアメリカは、五大湖の南でミシシッピー川東のイギリス領を獲得しました。フロリダやニューオリンズなど南部に残ったスペイン領は、後の1819年にスペインから購入します。

 次に、1803年にはナポレオンからミシシッピー西岸のフランス領ルイジアナを購入。スペインの介入を懸念したジェファーソン大統領はただちにルイス&クラーク探検隊を派遣して、陸路で太平洋に出るオレゴン街道(Oregon Trail)を確保しました。

 1812年の第二次米英戦争で、アメリカの英領カナダ併合の野望は頓挫しますが、1818年のアングロ-アメリカン会議で北緯49度線がロッキー山脈以東の国境として定まりました。その後、1846年のオレゴン協定で国境線は太平洋まで西に延長されて現カナダ国境が確定します。

 1830年にはジャクソン大統領主導の下にインディアン移住法が制定され、1838年までに南部のインディアン5部族がミシシッピー以西(現オクラホマ州)へと強制移住させられていくのです。

 メキシコは、1810年に始まった独立革命の長い戦いを経て1823年に連邦共和国となっていましたが、変節の激しいサンタ・アナ大統領が、副大統領が推進した自由主義的改革を放棄、一転して中央集権化を図ったため、1835年から各地で反乱が起きます。現テキサス地方へのアメリカ人入植者も決起して、翌年にテキサス共和国を樹立しました。

 アメリカは、生まれたばかりの共和国から要請があった国家併合を、メキシコに配慮して、取敢えず拒絶します。しかし、拡張主義者のポーク大統領が当選して、結局、アメリカは1845年にテキサスを併合するのです。ポーク大統領のおそらく期待通り米墨戦争が起こり、勝ったアメリカは、1848年に、当時は不毛の砂漠として軽く見られていたニューメキシコやカリフォルニアなどを得ます。同じ年に、そのカリフォルニアで金鉱が発見され、翌年、ゴールドラッシュが始まるのです。


南北戦争と大西部開拓の時代

(1849-1890…明治維新〜中期)


南北戦争

カウボーイ(1888年)

大陸横断鉄道の開通式(1869年)

インディアンを追う騎兵隊

 前の時代に、北部では運河の開発で運輸網が整備され産業革命を経て急速に工業化しつつありましたが、南部では奴隷制に頼り伝統的な綿花やサトウキビの農業を発展させてきました。北部と南部は、準州で人口が増えて州に昇格するたびごとに奴隷制をめぐり対立を深めていきます。

 1850年には米墨戦争で得られた領土の扱いについて対立が再燃、1820年のミズーリ協定で南北の妥協を取り付けたヘンリー・クレー(ホイッグ党)が再び調停に努めますが、彼の死後、1854年のカンザス-ネブラスカ法で協定は廃棄されてしまいます。

 1860年の大統領選挙では民主党が南北に分裂し、奴隷制廃止を主張する共和党のリンカーンが漁夫の利を得て当選すると、南部諸州は連邦離脱を宣言して南北戦争が始まりました。

 リンカーン大統領は暗殺されてしまいましたが、北軍が勝ってアメリカは分裂の危機を乗り越えます。交通の大動脈は運河から鉄道に替り、後に「泥棒男爵(Robber Baron)」と呼ばれることになる実業家たちが強引な手段でアメリカン・ドリームを実現し財閥に成長していきました。

 彼らに独占的な利権を与えたのは、金権政治で腐敗した共和党の連邦政府と各地の州政府でした。「トム・ソーヤの冒険」の作家マーク・トウェインは、この時代を「金ぴか時代(または金メッキ時代=Gilded Age)」と名付けています。表面を金で粉飾している中味のない時代という意味でしょう。共和党は民主党と妥協を繰り返し、南部では、奴隷制は廃止されたものの、黒人は小作人と姿を変え、南部の農業経営の基盤がゆるぐことはありませんでした。人種差別は、むしろ公然と立法化されていきます。

 西部では、ユタ州で1869年に東西のレールが連結され大陸横断鉄道が貫通しました。カウボーイ全盛の時代で、1866〜1886年の間に、テキサスの2千万頭の牛がカンザスの貨物駅からシカゴに出荷されたと言われています。鉄道会社は列車の運行の邪魔になるバッファローの群れを駆逐し、食料を絶たれたダコタ地方のスー族は連邦と条約を結び、家畜やとうもろこしと引き換えにインディアン居留地に移住することになります。

 そして、ついに1890年の第7騎兵隊によるウーンデッド・ニーの虐殺を最後にインディアンは全土で制圧されます。アメリカは、国勢調査の中で「フロンティア(辺境地帯)の消滅」を宣言したのです。


帝国主義と進歩主義の時代

(1890-1929…明治後期〜大正)


テネシー100周年国際博の電飾(1897)

ブルックリン橋(1883完成)

T型フォード(1908発売)

婦人参政権要求のデモ

移民許可を得た移民

禁酒法の取締官

 日清戦争は1894〜95年、日露戦争は1904〜05年でしたが、アメリカも、ちょうど同じ頃に帝国主義国家の仲間入りをしました。1898年の米西戦争は、各地の独立勢力を助ける正義の戦争だったはずですが、アメリカは、戦後、フィリッピンをスペインから現金で購入し保護領にしてしまいます…このために米比戦争が起こりました。

 キューバについては、確かに独立だけは許したものの、今日まで残るグァンタナモ基地の租借権と内政干渉権を認めさせ、実質的な自治領としたのです。続いて、1903年には、パナマ運河の建設を始めるに先立って、南米コロンビアに圧力をかけてパナマを独立させた上で、パナマ地峡の永久租借権を獲得します。

 こうした帝国主義を支えたのは、センセーショナルな新聞報道にあおられた大衆世論でした。第二次産業革命で、石鹸や肥料が出回り、ラジオでニュースを知り、電話で話し、映画や蓄音機を楽しむ中流市民の時代になってきたのです。鉄鋼の大量供給により各地で大構造物が建設されました。博覧会といえばハンバーグやコカコーラがトレンドィ。そして、大衆車T型フォードが発売です。アメリカ経済はイギリスを追い越したのです。

 この時代を貫いた思想が進歩主義(Progressivism)…43歳で大統領に就任したセオドア・ルーズベルトは、共和党ながら、スクエア・ディール(Square Deal=公正な取扱)を旗印に、資本家と労働組合の双方に不信感を抱く中流市民の立場で、独占禁止法の厳格な適用など進歩主義的な政策を実施して資本主義の行き過ぎの是正に努めました。進歩主義は、後継のタフト、ウィルソン両大統領に引き継がれ、時を置いて、セオドアの甥のフランクリン・ルーズベルト大統領のニューディール政策に結実することになります。

 ところで、当時、進歩主義の一翼を担って、婦人参政権の付与や児童労働や売春の禁止、公衆衛生と世界平和の推進などを訴えたのがキリスト教婦人禁酒同盟(Women's Christian Temperance Union)です。婦人参政権もめでたく1920年に認められますが、それに先立つ1919年にはウィルソン大統領の拒否権発動も空しく禁酒法が成立してしまいます。カトリックの新参移民労働者からアルコールを取り上げ生産性向上を目指すヘンリー・フォードなどの産業界が、(第一次世界大戦の敵国)ドイツ系が経営するビール会社に反発する世論を後押ししたとも言われています。

黒人の大移動(

 さて、前の時代、(ダイナマイトの発明前で)危険な鉄道建設の人手は中国人の苦力(クーリー=Coolie)に頼っていましたが、1870年代に経済が悪化すると一転して排斥運動が起こり、1882年に排華移民法(Chinese Exclusion Act)が制定されます。当初は期限付きで中国人移民の受け入れを停止するものでしたが、10年後に更新されて強化されました。

 この時代になると、イタリアやポーランドなど東欧系の移民が増え、大都市にリトル・イタリーなどと呼ばれる過密で不衛生な一角を作って住み着くようになります。1920年代には特にユダヤ系、イタリア系、スラブ系にねらいを絞って移民を制限する法律が制定されますが、審議の過程で日系移民の全面禁止の条項が加えられ日米関係が悪化します。

 移民制限によって生じるはずの労働者不足をカバーしたのは、「黒人の大移動(Great Migration)」です。1915〜30年の間に、130万人の黒人が人種差別のひどい南部から東部・中西部と西海岸の諸州に移り住んだといわれています。しかし、人種差別組織も後を追って北部に勢力を拡大し1925年にはクー・クラックス・クランの会員がインディアナ州の知事になったほどです。

女優ルイーズブルックス(1827)

 そして、時代は、密造酒があふれマフィアが暗躍する「狂騒の20年代(Rolling Twenties)」に入ります。進歩主義の政権が3代続き、共和党が政権を取り戻したのは第一次大戦後の不況の真っただ中…早速、ハーディング大統領が戦時中に引き上げられていた高額所得税率を緩和すると、景気は1922年に見事に回復します。次のクーリッジ大統領も減税策を引き継ぎ、その上、民間ビジネスへの政府介入を徹底的に嫌いました。おかげで、アメリカ経済は空前のブームに沸いたのです。

 自動車は庶民のものになり、各地にガソリンスタンドやモーテルが建てられました。ラジオからはルイ・アームストロングやデューク・エリントンのジャズが流れ、摩天楼がそそり立つ都会では、手足が露出した細身のドレスのオカッパ娘がダンスホールでチャールストンを踊っていましたが、単純労働の低賃金労働者でも映画くらいは楽しめるようになっていました。

 ベーブ・ルースはルー・ゲーリックとともにヤンキースの黄金時代を築きました。イリノイ大学ランニングバックのグレンジはシカゴ・ベアーズに入団してNFLの発展に貢献しました。野球のルース、フットボールのグレンジ、ボクシングのデンプシー、テニスのチルデン、ゴルフのボビー・ジョーンズの5人は、20年代スポーツ界のビッグ・ファイブとして知られています。

 女性が社会進出するようになって性の解放も進みました。男女共学のカレッジでは、娘たちが伴侶を求めてぎりぎり冒険的なデートをするような風潮でした。都会ではマイノリティー(少数派)への偏見が弱まり、同性愛者まで一定の範囲で受容されようとしていました。それでも、女子大生の専攻といえば家政学が定番で、女性は結婚して家で子供を育てることを期待されていた時代で、進歩的な女性は歯がゆい思いを我慢するしかありませんでした。


大恐慌とニューディールの時代

(1929-1945…昭和=戦前)


銀行前に並ぶ預金者

労働者と警官隊の衝突

TVA法に調印する大統領

連邦政府のPR壁画

TVAの最初のダム

 世界的に農鉱産物の過剰生産が生じていました。今回の世界的なバブル・マネーを供給したのがゼロ金利政策の日本だったとすれば、当時の資金スポンサーは実力以上の相場で金を解禁したイギリスだったようです。ヨーロッパから流れ込んだお金がアメリカにあふれ、怪しい相場師が市場を動かし、怪しい会社が次々に設立され、銀行は投機資金をむやみに融資するありさまでした。

 1929年10月24日(Black Thursday)の株価暴落をきっかけにアメリカはデフレ経済に突入しますが、銀行がつぶれ失業者が増えても、時のフーバー大統領(共和党)は事態を甘く見て放置します。古典経済学では、資本主義経済は市場原理によって自律的に回復すると考えられていたからです。さらに、翌年には国内農業保護のために高関税をかけて保護貿易に走り、世界経済は一挙に縮小してしまいました。

ダストボウル

 たまたま時を同じく1930年代には、ダストボウル(Dust Bowl=土ぼこりの嵐)が、アメリカ大平原地帯の農民をたびたび襲っていました。農地の乱開発と干ばつがもたらした災害でしたが、250万の農民が家と農地を捨てて各地に移住して行きます。

 1940年にピューリッツァー賞を受賞したスタインベックの小説「怒りの葡萄」は、オクラホマから苦難の末カリフォルニアにたどり着いた青年が、大恐慌でろくな仕事に付けず日雇い仕事をするうちに、労働組合活動に巻き込まれ殺人を犯してしまう物語です。

=========≪ニューディール政策≫=========

 ニューディールは、ルーズベルトが民主党の大統領候補指名受諾演説をしたときに使った言葉…「新規まき直し」と訳されることもありますが、トランプで札を配り直すのもニューディールです。現政府に忘れられた人々にも、もっと公平に国富が分かち与えられるチャンスを作りますから、私に投票してくださいというメッセージです。

 全く新しい言葉かというとそうでもなくて、

キャッチフレーズ 大統領
スクエア・ディール セオドア・ルーズベルト(共和党)
ニュー・フリーダム ウィルソン(民主党)
ニュー・ディール フランクリン・ルーズベルト(民主党)
フェア・ディール トルーマン(民主党)
ニュー・フロンティア ケネディー(民主党)

=========≪最初の百日間 (3/9〜6/16)≫=========

 アメリカには、ハネムーン期間(100-day honeymoon period)といって、議会が新大統領に最初の100日間は好意的に対応する慣習があります。ルーズベルト大統領は、与党民主党が圧勝した上下両院で、きっちり100日の間に13の法案を通してニューディール政策を実施に移しましたが、その道が平坦だったわけではありません。法案の多くは、その後のアメリカ経済の枠組みを作る革新的な役割を果たしましたが、当時としては「社会主義」的な政策として実業界を中心に猛烈な抵抗に会い、一部の法律は後に連邦最高裁で違憲と判断されてしまったほどです。

日付 法案 目的
3月 9日

緊急銀行法

閉鎖中の銀行再開
3月20日

節減法

公務員の給与15%カット(まもなく復元)
4月19日

民間自然保護部隊

植林や砂防ダム建設による雇用創出
5月12日

金本位制離脱

デフレ対策・貿易振興
5月18日

連邦緊急救済法

農業調整法

緊急農場抵当法

州・自治体の財政支援、公共事業推進

余剰農畜産物の買い上げ・生産調整

質流れ農場の返還

5月27日

テネシー川流域開発法

テネシー川流域開発公社設立

6月13日

証券法

住宅所有者金融法

証券取引委員会(SEC)の創設

個人住宅のローン支援

6月16日

全国産業復興法

グラス・スティーガル銀行法

農場信用法

労働条件の保障、ホワイトカラーの救済

銀行と証券会社の分離、預金の政府保証

農家のローン負担軽減

大恐慌時代にラジオを聴く子

 ケネディー大統領はテレビ、オバマ大統領はインターネットと、時のメディアを上手に利用して選挙戦を勝ち抜きましたが、ルーズベルト大統領の場合は、ラジオという時のメディアを使い、「炉辺談話(Fireside Chat)」という番組で国民に親しく語りかけました。

=========≪第二次ニューディール≫=========

 中間選挙で民主党が勝利したのを受け、1935年以降、第二次ニューディールとして、労働組合の支援、公共事業促進局の設立、失業補償を含む社会保障制度の創設などが進められました。1933年に25%だった失業率は1937年には14%まで改善しましたが、景気が急降下して1938年には再び19%まで悪化します。労働組合のストが多発しニューディール政策を批判する声が高まりますが、ほどなく始まった第二次世界大戦の軍需景気のおかげで1943年にほぼ完全雇用(失業率2%)を達成。さしもの大恐慌も、最終的に収束したのです。