★デビー・クロケット ★1812年戦争とジャクソン大統領 ★米墨戦争とポーク大統領 ★リンカーン暗殺とアンドルー・ジョンソン大統領 テネシー州の愛称は「ボランティア・ステート」、テネシー大学体育会のチームの愛称も「ボランティアズ」…確かに、テネシー州、特にイーストテネシーの市民はボランティア活動に熱心かもしれませんが、もともとは慈善行為系でなく、他州のアメリカ人同胞の戦いに義勇兵(ボランティア)として進んで加勢したテネシー人の伝統的な勇敢さを誇りにしているのです。 思えば、アメリカ独立戦争で山を越え南北カロライナの王党派を打ち破ったイーストテネシーのオーバーマウンテン部隊が、最初の義勇軍だったのかもしれません。有名なデビー・クロケットの父親ジョンも、この戦いに加わっていました。 ==========≪デビー・クロケット≫==========
「デイビー・クロケットの唄」は1955年からABCで放送されたテレビ・ドラマ「デイビー・クロケット…鹿革服の男(Davy Crockett, King of the Wild Frontier)」の主題歌(英語版YouTube)です。わが家がテレビを買ったのはだいぶ後のことで、当時の私は歌の由来も知りませんでしたが、何しろ分かりやすい歌詞だったので子供心にも焼きつき、一番だけはしっかり記憶に残っています。
クロケットは、テネシーに最初の入植者が築いた砦(ワトーガ砦)からほんの10マイルの地で1786年に生まれました。先祖はフランスのユグノー(プロテスタント)で、17世紀に北アイルランドに移住したので、スコッチアイリッシュやイギリス人の血も混じっています。 一家は、翌年インディアンの過激派ドラッギング・カヌーに襲われて祖父が殺されて転居、クロケットはモーリスタウンで育ちました。学校嫌いで13歳のときに家出、3年間各地を放浪する間に開拓者の技量を身につけたそうです。 ==========≪1812年戦争とジャクソン大統領≫========== 二番の歌詞では、クロケットがインディアンの襲撃を受けて戦いますが、史実でも、クリーク戦争(1812年の第二次米英戦争)の際に義勇兵としてアラバマに出征して、インディアンを相手に戦っています。
1812年戦争で、当初、南部は戦争の舞台ではなかったのですが、内戦中のクリーク族の一派とアメリカ軍の出会い頭の衝突から戦闘が始まりました。このときに活躍したのが、後の第7代大統領ジャクソン率いるテネシーの義勇軍です。ジャクソンは1814年3月にアラバマで決定的な勝利を収め、クリーク族の土地を取り上げてしまいます。続いてスペイン領ペンサコーラに侵攻してイギリス勢力を一掃、1815年1月ニューオリンズの戦いで打ち破りました。 行き場をなくしたクリーク族の残党はフロリダに逃げ込みます。タラハシー方面に反攻の拠点ができたのを見て、ジャクソンは再びスペイン領フロリダに侵攻しました。これが1818年の第一次セミノール戦争です。 ジャクソンはイギリス人を絞首刑にしたりして国際的には厳しく避難されますが、国内では英雄で、1828年についに大統領に選出されました。生まれは州外ですが、テネシーが州になると同時に下院議員に選出された言わばテネシー人の一世です。 ==========≪米墨戦争とポーク大統領≫========== デビー・クロケットの話に戻りましょう。その後、日本語の歌詞にはないのですが、1826年にクロケットは2回目の立候補で連邦下院議員になり、貧しい不法入植者の保護に努めます。しかし、ジャクソン大統領の強引なインディアン移住法(Indian Removal Act)に反対し、1935年の選挙では落選…政治に愛想をつかしたデビー・クロケットは故郷テネシーに別れを告げ、折からメキシコからの独立を画すテキサスの義勇軍に身を投じました。そして、1836年のアラモの戦いで玉砕したのです。 アラモの砦を守らんと♪ 単身敵をばなぎ倒し♪ 遂にタマ尽き 刀折れ♪ 壮烈きわまるその最後♪ デイビー、デイビー・クロケット♪ その名はとわに♪ アラモの守備隊約220名の中には、少なくとも30名のテネシー生まれが参加していました。
テキサス独立戦争に続く米墨戦争(1846〜48年)でも、テネシーの義勇軍が活躍しました。サンタアナの戦いに2800人の義勇兵を募集したところ、3万人の応募があったそうです。 米墨戦争は、テネシー人の第11代大統領ポークが、領土の買収交渉に応じないメキシコを巧妙に戦争に誘い込み、力づくで、現在のカリフォルニア、ネバダ、ユタ、アリゾナ、ニューメキシコ、ワイオミング、コロラド7州の土地を割譲させたものです。メキシコは国土の3分の1を失い、アメリカは新領土のカリフォルニアやテキサスで金や石油を見つけ、国際経済の盟主となる道を一歩踏み出すことになるのです。 ポークもスコッチ・アイリッシュ系のアメリカ人です。ジャクソンと同じく、ノースカロライナ州シャーロットの付近で生まれ、ミドルテネシーに移住しました。 ポークは、公約のテキサス併合を実現したばかりか、米墨戦争のかたわらイギリスとオレゴン協定を締結し北西部の国境を画定し、アラスカとハワイを除くアメリカ本土の領土をほぼ現在の姿にした豪腕大統領です。1849年に約束通り一期で退任したポークは、過労がたたり、離職後3ヶ月で他界してしまいます。ポークの死後、ナッシュビルの夫妻の新居ポークプレースでは、サラ夫人が南北両軍の指導者をわけへだてなくもてなしたそうです。 ==========≪リンカーン暗殺とアンドルー・ジョンソン大統領≫========== テネシー人の大統領といえば、もう一人第17代のアンドルー・ジョンソン大統領がいます。1865年4月にリンカーン大統領が暗殺されて、ジョンソンは副大統領に就任後わずか1ヶ月で大統領に昇格しました。この人の血筋は分かっていませんが、ノースカロライナ州のローリー生まれの貧農出身です。 イーストテネシーのグリーンビルの市長を務めた後、下院議員を経て1841年に上院議員になりました。南北戦争開戦後に南部連合11州の上院議員が首都ワシントンを去る中で、ジョンソンだけは連邦議会に残りました。ジョンソン自身は奴隷制には寛容でしたが、選挙区のイーストテネシーには北部支持者が多かったからです。1864年11月の選挙の頃には、南北戦争に北軍が勝つ帰趨が見えてきていましたから、リンカーンは、戦後の南部諸州を懐柔するために、南部出身のジョンソンを副大統領にしたのでしょう。 しかし、大統領就任後のジョンソンは南部諸州に寛容で、強硬派の議会と対立して29回も拒否権を発動。ついに弾劾裁判にかけられますが、賛成票が三分の二に1票足りなくて任期を最後まで全うしました。リンカーンの暗殺は、リンカーン自身の最大の誤算でした。奴隷解放は実現したものの名ばかりで、南部の黒人差別はその後も100年続き、1950〜60年代の公民権運動を待たなければ、黒人の社会的地位は向上しなかったのです。 |