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2010年8月15日(第50号)

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50号記念特集…白人系アメリカ音楽の源流は北アイルランド

 二大最貧地域で生まれた「カントリー」と「ブルース」

 2年前に北米の各地をご紹介する「アメリカ生活・e-ガイド」を始めるに当って真っ先に書いたのは、私たちが住んでいるケンタッキー州の南隣にあるテネシー州です。テネシーといえば「音楽」…当時は、エルビス・プレスリーやテネシーワルツのキーワードで簡単にご説明できると思っていたのですが、中西部や南部の10州のページを開設したところで、テネシーに戻って詳しい説明を加えようとしたら、結局、「アメリカの音楽史」を一から勉強しなければならない破目になりました。


 テネシー各地の音楽を一言ずつで表せば、@東部では、フィドル(バイオリン)やバンジョーなどをバックに鼻声で歌う 「ブルーグラス」スタイルのカントリーミュージックが完成、A中部のナッシュビルには、著名な音楽プロデューサーが集結して、カントリーとウェスタンをベースに都会的な白人系現代ポップスを創造、そして、B西部メンフィスでは、ビールストリートにたむろするブルース・ミュージシャン達が新楽器エレキギターを使いこなして 「R&B(リズム&ブルース)」や「ロックンロール」を誕生させました。

 それぞれの音楽は、いずれジャンルごとに、別途、詳しく説明するつもりですが、今回は、取敢えず 「アメリカ音楽史の大筋」をご紹介します。記事中にはWikipediaの(注)音楽サンプルを転載しました。

(注) 音楽サンプルのプレーヤーを表示するにはQuickTimeのPlug-Inが必要です。プレーヤーなしでも、曲名をクリックすればWikipediaのページで聴くことができます。



ケルト系民族の居住地

 白人の中で、アメリカ音楽の創造に最大の貢献をした人々は、北アイルランドからやってきたスコッツアイリッシュ(Scots-Irish)またはスコッチアイリッシュ(Scotch-Irish)などと呼ばれるプロテスタントの移民です。主に、独立戦争が起きた18世紀にやってきました。

 アメリカでドイツ系に次いで二番目に多いアイルランド系アメリカ人の大半は、19世紀になってから飢饉を逃れてやってきたカトリック信者の末裔です。

 北アイルランド移民は、それより一足早くやって来たものの、平野部は17世紀のうちに開拓されつくしていたので、当時は奥地だったペンシルバニアや、「グレートワゴンロード」を通ってアパラチア山脈の谷あいから南北カロライナ方面にかけて入植することになりました。


 アイルランド人もスコットランド人も、ケルト(Celtic)系の民族です。アイルランドはカトリックの国でしたが、17世紀初めにイギリスに侵略されて、北アイルランドには南部スコットランドや北部イングランドのプロテスタントが移住してきました。

 北アイルランド人がアメリカに持ち込んだ音楽は、2種類に大別されます。一つは、ケルト民族のダンス音楽で、もう一つは、日本の唱歌にも多く私たちにも馴染みの深いスコットランド民謡(フォークソング)です。

================= カントリー・ミュージックの誕生 =================

 ケルトのフォークダンスには、フィドル(バイオリン)が付き物です。バグパイプやアコーディオン、縦笛、チェロ、打楽器などを加えてにぎやかに演奏されます。


The Kesh Jig Irish jig by The Bothy Band

 北アイルランド人が山間に移民してきた頃、平野部のバージニア植民地では黒人奴隷を使ってタバコや穀物のプランテーション農業が盛んになっていました。北アイルランド移民の音楽は、楽器にアフリカ伝来のバンジョーとマンドリンやベースを加えて、後にオールドタイムまたは(注)ヒルビリーと呼ばれる音楽になっていきました。


Big Eyed Rabbit by Matokie Slaughter, Clawhammer Banjo

1930年代の東部テネシー

ウェストバージニア

 次いで、独立戦争の前後から人々は幌馬車でアパラチア山脈を越え、音楽を携えてケンタッキーやテネシーの新しい土地に移り住んでいきます。

 1940年代になると、ジャズのようにメロディを担当する楽器が次々と交替する技法を取り入れて「ブルーグラス」と呼ばれるカントリーミュージックが完成します。

(注) ヒルビリー(Hillbilly=山中の田舎者)とは、イギリスの名誉革命の際に、プロテスタントのウィリアム(ビリー)を支えて戦った北アイルランド人の末裔の意とも言われていますが、アパラチアの貧困地域で暮らす偏屈な人々を指す蔑称に近い言葉です。炭鉱や林業に依存するこの地域だけは、アメリカの発展の中で、ポツンと取り残されてきました。1930年代のテネシー川開発計画のおかげで東部テネシーは豊かになりましたが、イースタンケンタッキーやウェストバージニアの山間は未だに全米で最貧地域の一つです。

ブルーグラス・ミュージック ビル・モンローのケンタッキーワルツ

==================== 現代ポップスの原点 ====================

Loch Lomond

 蛍の光、アニーローリー、故郷の空、マイボニー、麦畑(夕空晴れて)…北アイルランド移民が持ち込んだスコットランド民謡は、日本人に馴染み深いものだけでもまだまだあります。

 サンプルの一つめの曲はスコットランドのロックロモンドという湖の歌、二つめはサイモンとガーファンクルが歌って有名になったイングランド北東部スカボローの市場(スカボローフェア)を舞台にした失恋の歌、三つめは17世紀初頭のアイルランドで女性に贈られた歌のようです。


Loch Lomond 1917 recording by Marie Morrisey
Scarborough Fair Acapella solo
Give Me Your Hand by Ruairi Dall O'Cathain

Stephen Foster

 おおスザンナ、草競馬、ケンタッキーのわが家、オールドブラックジョー、スワニー川…「アメリカ音楽の父」の呼ばれるフォスター自身はアイルランド系ですが、周りに北アイルランド系アメリカ人が多いペンシルバニア州ピッツバーグで生まれ育ちました。

 この地方から、ギター一つで弾けるフォークソングが、カウボーイソングと進化しながらフロンティアに拡がって行ったようです。西部では、メキシコの音楽の影響も受け、ウェスタンミュージックとしてハリウッド映画に使われるようになります。


Home on the Range by James Richardson, 1939
El Paso by Marty Robbins, 1959

Grand Ole Opri

 アメリカのラジオ商業放送開始は1920年でしたが、わずか5年後には、有名な音楽の生番組「グランド・オール・オプリ」がナッシュビルで始まりました。

 その出演者のひとりでウェスタンのミュージシャンだったピー・ウィー・キングが1947年に作ったのが「テネシーワルツ」。ビル・モンロー(ブルーグラス)作曲のケンタッキーワルツに刺激されたのだそうです。1950年にパティ・ページが、都会的な感覚で歌って大ヒットしました。

ピー・ウィー・キング「テネシーワルツ」 パティ・ページ「テネシーワルツ」

 ナッシュビルのRCAやコロンビアレコードには、チェット・アトキンスをはじめとする優秀な音楽プロデューサーが続々と集まってきました。1950年後半から60年代にかけてはナッシュビルサウンドが白人系のポップスをリードし、ナッシュビルは(売上比較でもニューヨークに次ぐ)ミュージックシティとなったのです。

ブラウンズ「谷間に三つの鐘がなる」1959 スキーター・デイビス「この世の果てまで」1963

 「グランド・オール・オプリ」はエレキギターやドラムスの演奏を禁じているので、結果的にカントリー&ウェスタン寄りの番組になってしまいます。ナッシュビルの象徴のような番組がカントリー&ウェスタン寄りでは、ナッシュビルは何でもカントリー&ウェスタンと誤解されてもしかたありませんが、カントリーポップと名を変えたナッシュビルサウンドも実は健在で、あまりカントリー臭くない洗練された現代ポップスを発信しているのです。

==================== ブルースからロックへ ====================

 17世紀にアフリカから売られてきた黒人奴隷は、バージニア植民地でキリスト教に教化され、白人の賛美歌(聖歌)に出会いました。



 アフリカ伝来のワークソングと賛美歌が融合して黒人霊歌(スピリチャル)が生まれます。黒人霊歌の歌詞には、奴隷の脱走を助けるヒントが隠されていたとも言われています。「進めやモーゼ」もユダヤ人がエジプトから脱出する物語を、自らが白人支配から抜け出る夢に重ねているのでしょう。「ひしゃく」を目指して進みなさいというのは、北斗七星や北極星を頼りに北に進み、オハイオ川を越えて奴隷の自由州に逃げ込みなさいという意味です。

(注)ゴスペルも黒人霊歌と同様に神を讃える歌ですが、ゴスペルは、20世紀初頭に霊的体験を尊重するペンテコステ派が誕生してから信仰心を高揚させるために次々に作られた比較的新しい時代の歌です。


Go Down Moses by Les Petits Chanteurs de Montigny
Follow the Drinkin' Gourd (「ひしゃく」を目指して

クラークスデールの駅舎(現デルタブルース博物館)

 1793年にホイットニーが自動綿繰り機を発明して、綿花のプランテーション農業が、黒人奴隷と黒人霊歌を引き連れて、急速に南部一帯に拡がりました。

 …それから一世紀。ブルースは、メンフィス南方のミシシッピー・デルタと呼ばれる地方で、1903年に「発見」されました。ブルーノートという音階、白人の音楽にはなかったリズムやA-A-Bのように四小節のメロディを二度繰り返し別の四小節のメロディでしめくくるのがブルースの原形で、その後ジャズ化したブルースと区別して「デルタ・ブルース」と呼ばれています。

 楽器は、普通のギターもしくは四角い箱のシガーボックスギターやスチールギター、場合によってハーモニカが加わるくらいでした。残念ながら、当時のブルースは録音されて残ってはいません。代わりに1930年代に活躍した「デルタ・ブルース歌手の王」ロバート・ジョンソンの演奏を聞いてください。


Traveling Riverside Blues by Robert Johnson
Cross Road Blues by Robert Johnson

(注) ミシシッピー・デルタは、ミシシッピー川とヤズー川に囲まれて中小河川が縦横に走る綿花栽培地帯です。今もまだアパラチアと貧しい地方ですが、白人系アメリカ音楽ヒルビリーと黒人系アメリカ音楽ブルースが、それぞれ全米の最貧地域で誕生したというのも皮肉な話です。

W.C.Handy with his 1918 Memphis Orchestra

 南北戦争の結果、名ばかりの奴隷解放は実現しましたものの、人種差別はむしろ公然化した上に、大多数の黒人が小作農となり低賃金労働を強いられていました。

 ブルースを「発見」したのは、ミシシッピー州クラークスデールにバンドの指揮者として赴任したW,C.ハンディでした。ハンディのバンドは1909年にメンフィスに移り、ダウンタウンのビールストリートで「メンフィス・ブルース」や「セントルイス・ブルース」などの名曲をレコーディングしたのです。

市長選の応援曲だった「メンフィス・ブルース」 オリジナルの「セントルイス・ブルース」

 ハンディのブルースは、当時、セントルイスやニューオリンズの歓楽街で流行していたラグタイムやハンディの前職のマーチングバンドのスタイルも取り入れているようです。


The Wagon ragtime by Ben Harney, 1925

Beale Street

 アメリカの経済と文化が花開いた「狂騒の20年代(Rolling Twenties)」には、ルイ・アームストロングの共演ボーカリストとしても有名な「ブルースの女帝」ベッシー・スミスが、「セントルイス・ブルース」をけだるい解釈で歌い、ジャズとブルースの垣根も低くなっていきます。

 一方、メンフィスのビールストリートには、1940年代にエレキギターが普及し始め、ほとんどロックと変わらない演奏をするミュージシャンが登場してきました。

ベッシー・スミスの映画「セントルイス・ブルース」 メンフィス・ミニー「キッシング・イン・ダーク」

プレスリーの生家

 メンフィスのラジオ局でDJをしていたB.B.キングの演奏には、リズム&ブルースというニュージャンルが命名されました。ロックと明確に区別するのは困難ですが、R&Bは、より黒人的な歌唱で、さらにソウル・ミュージックに発展していきます。

 (異説もありますが)北アイルランド移民の末裔で、メンフィス・デルタからわずか100qのミシシッピー州トゥペロで生まれたエルビス・プレスリーは、正に、ロカビリー(ロック+ヒルビリー)で黒人系と白人系のアメリカ音楽を総合する立役者だったのです。


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