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2014年4月15日(第94号)


インディアン戦争の歴史シリーズC-2

 平原インディアンとバッファロー(19世紀後半)

 いよいよ昔の西部劇映画で有名なインディアンと騎兵隊の戦いが始まります。スー族は大草原の覇者として他部族からは憎まれる存在でしたが、白人に対してはシャイアン族やアラパホ族と力を合わせて戦いました。第7騎兵隊のカスター中佐がクレージーホースらに敗れて戦死するリトルビッグホーンの戦いを含む大スー戦争のストーリーは次回です。

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@ 初期の入植者とインディアンの対立 (17〜18世紀初頭)

A 英・仏・米とインディアンの四つどもえ (17世紀末〜18世紀)

B-1 中西部インディアンの一掃 (18世紀末〜19世紀前半)

B-2 南東部インディアンの一掃 (18世紀末〜19世紀前半)

C-1 オレゴントレイルとゴールドラッシュ (19世紀後半)

C-2 平原インディアンとバッファロー (19世紀後半)

C-3 平原インディアンの最後の戦いと末路 (19世紀後半)

C-4 南西山岳部とユート族・アパッチ族の戦い (19世紀後半)


スー族が大草原北部を席巻


War Bonnet

平原インディアンの戦いの正装

 17世紀には、現ニューヨーク州北部にいたイロコイ連邦のインディアンが銃を得て、ビーバーの毛皮を手に入れるために他部族の領土に進出し、中西部一円と周辺地域を席巻しました(第90号のビーバー戦争

 スー族もその頃に、現ミネソタ州のミシシッピー川の源流付近に移住してきたものと考えられています。

=== ウマ・銃・疫病の伝播 ===

 18世紀の半ばにウマと銃を得て、インディアンは乾燥地帯で農耕に頼らず、バッファローの狩猟だけで暮らしていけるようになりました。

 銃は東から、ウマは南から、それぞれ別々に伝播します…スペイン人はアメリカにウマを伝えましたが、銃はインディアンに売らなかったからです。その二つの文化を初めて融合させたのがスー族でした。

 ウマを駆り銃を自在に操るカッコいいスー族は、西部劇映画に登場するインディアンの花形で、実際、その武力は他部族を圧倒していました。

 折も折、やはり白人から伝来の疫病で病死が増え他部族の勢力が衰える中、中西部でイロコイ連邦がしたように、スー族は大草原(プレーリー)北部の現南北ダコタ・ミネソタ州からワイオミングやモンタナ州にかけて大勢力を築きます。

Buffalo Hunting

バッファロー生息地の変化  

18世紀以前 1870 1889 (⇒拡大)

 スー族は、ダコタ、西ダコタ(ナコタ)とラコタの3部族に大別されます。中でも、丈の短い草しか生えない高原地帯…グレートプレーンズのラコタ族は、バッファローの群れを追いかけて常に移動テント(ティピー)で暮らす典型的な狩猟民でした。

 他部族もスー族にならい、ウマと銃の文化を融合させました。グレートプレーンズに暮らす部族はラコタ族のように狩猟専業の移動生活を選び、丈の長い草が生えるプレーリーの部族は東西ダコタ族のように村に定住して半農半猟の道を選びます。

 一方、1832年のブラックホーク戦争では白人が騎乗のソーク族戦士に苦しめられ、これに対抗するため、戦後、連邦陸軍に最初の騎兵隊が組織されました。

=== バッファロー・ハンティング ===

 平原インディアンの力が衰えたのは、疫病の流行に加え武器に勝る白人との戦いに敗れた結果ですが、もう一つ、狩猟生活を支えるバッファローが絶滅寸前に追い込まれたことが特別に大きな理由と考えられます。

 かつて北米には6千万頭ものバッファローの群れがいました。バッファローの肉は、干し肉(ジャーキー)として重要な保存食でしたが、そのほか皮や骨まで全身が衣料品やテント(ティピー)、日用品、燃料などに無駄なく使われました。

肥料用に積み上げられたバッファローの頭骨

 最初にバッファローの生息数を減らしたのは、当のインディアン自身でした。上の絵のように、バッファローの群れを崖っぷちに誘い込んで追い落とす荒っぽい狩猟で、一度に必要以上の頭数を殺してしまっていたのです。

 次に、西部で鉄道網が拡大するにつれて、バッファローの群れが列車運行の妨げとなっていきます。同時に、1870年には新しいなめし皮の製法が開発され、バッファローの狩猟は採算のいいビジネスに変わります。

 そこで、バッファローは1870〜80年代に白人の手で一気に処分され、1890年には生息数が推定でわずか750頭にまで減ったといわれています(2000年には36万頭まで回復)。

 バッファローの保護を求める声はかき消され、軍の指導者も含め一部には、インディアンを滅ぼすためにバッファローを根絶やしにしようという露骨な議論もあったようです。


1836〜75年 コマンチ戦争(テキサス)


 テキサスのインディアン戦争の主人公はコマンチ族です。時に同じ平原インディアンのカイオワ族やアラパホ族と組んでテキサスの入植者と戦いました。

 一方、アメリカ人の入植はテキサスがまだスペイン領メキシコの時代に始まりました。コマンチ族の侵入と略奪を抑えられないメキシコ政府は、メキシコの盾となってくれることを期待しアメリカ人の入植を歓迎しました。その方針は1821年にメキシコが独立した後も引き継がれます。開拓者とメキシコ政府の対立が始まるのは、しばらく後のことです。

Texas Rangers (1845年頃)

 開拓者は最初からコマンチ族の襲撃に悩まされ、1823年には300家族を率いて入植した「テキサスの父」オースティンが、民兵組織テキサス・レンジャーズを創設します。

 開拓者の数は1845年のテキサス独立戦争時点でもわずか3万人。対するコマンチ族の人口は二度の疫病の流行を経て2万人から8千人に激減していたものの、他の部族を合わせて数えれば1万5千人というきわどい人口差です。

 しかも、当時の単発銃は騎乗のコマンチ族の機動的な攻撃の前に無力でしたから、初期の開拓者の戦いは困難を極めました。

Quanah Parker

 初めて連発のライフル銃やリボルバーの拳銃が使われたのは1841年にサンアントニオの北西で起きたバンデラパスの戦いでした。この頃から、開拓者側は優勢に戦えるようになります。1860年にはインディアン8千人に対して、入植者が60万人という圧倒的な差になっていました。1875年にコマンチ族の酋長クアナ・パーカーが降伏し、テキサスのインディアン戦争は終結します。

Cynthia Ann  Parker

 クアナは1836年のパーカー砦(現ウェイコー東部)の虐殺の際に拉致され、コマンチ族の酋長と結婚して3人の子をもうけたシンシア・アンの長男です。砦を築いた77歳のパーカー家長老と4人の息子のうち3人、ほかに2名がこの時に殺されました。

 8歳で拉致されたシンシア・アンは1860年のピース川の戦いの際に発見され、娘とともに白人社会に連れ戻されます。4年後に肺炎で娘が死んでからは、悲しみのあまり食を断って亡くなりました。

 5歳で拉致され、身代金を払って6年後に解放されていシンシア・アンの弟も、白人社会になじまずコマンチ族のもとに逃げ帰っていました。


1854〜56年 第一次スー戦争(北部平原)


 オレゴントレイルは1810年代に徒歩や騎乗のルートとして開拓されましたが、最初の幌馬車隊が開拓者を乗せて通ったのは1836年。それも太平洋はだいぶ先のアイダホ東部までの旅でした。

 そんなわけで、1804年にルイス・クラーク探検隊が見つけたミズーリ川の源流をたどるルートも重要でした。その途中、船で川を上る猟師を襲って悩ませていたのが、アリカラ族というインディアンです。

=== アリカラ戦争 ===

 1823年、第6歩兵隊230名と猟師50名にスー族戦士750名の混成部隊がアリカラ族を懲らしめるために攻撃しました。スー族とアリカラ族は犬猿の仲です。この時はスー族が白人側に味方しましたが、スー戦争が始まってからは立場が入れ替わります。

 アリカラ族は、ミズーリ川の下流に住むポーニー族や上流のイエローストーン川流域で暮らすクロウ族と同じく、白人に協力し仇敵のスー族と戦う道を選びました。

=== グラッタン虐殺事件 ===

Fort Laramie, Wyoming (before 1840)

 ゴールドラッシュでカリフォルニアに向かう幌馬車隊の数が急増し、連邦政府には街道の安全確保が喫緊の課題に浮上します。

 そこで、1851年にグレートプレーンズのインディアン17部族を集めてララミー砦条約を締結しました。骨子は、白人はインディアンの旧来の領土を認め毎年迷惑料を払うので、インディアンは白人が街道沿いに砦を築くことを認め幌馬車の通行を妨害しないことを約束するというものです。

 しかし、1854年のグラッタン虐殺事件で関係が悪化します。ちょうどその年の迷惑料が支払われる時期で、スー族(ラコタ)がララミー砦付近に移動してきていました。

 旅の途中のモルモン教徒のウシがスー族の宿営地に迷い込み、処分されてしまいました。ララミー砦にいた士官学校を出たばかりのグラッタン少尉は、権限外にもかかわらず兵を引き連れて出向き、スー族に法外な賠償と犯人の引渡しを求めます。

 相手をしたコンカリングベア酋長は、スー族の中でも特に尊敬を集める人物でした。要求は飲めないが代わりに自分のウマで補償すると提案。しかし、通訳が悪く交渉は決裂…混乱の中でコンカリングベア酋長は撃たれ、9日後に亡くなってしまいます。

 この時のグラッタン少尉の配下はわずか29名で、通訳も含め全員が戦死しました。対する宿営地のスー族は4800人で、うち戦士が1200名。その気ならララミー砦を落とすことも可能な兵力でしたが、3日後にはおとなしく狩猟地に引き揚げて行きました。

=== アッシュホローの戦い ===

 ところが、グラッタン少尉の非を棚上げにしてアメリカの世論はスー族討伐で盛り上がりました。翌1855年、ハーニー将軍が指揮する600名の騎兵隊が、報復のために現ネブラスカ州西部の250人の村を襲い、婦女子を含む86人のスー族を殺戮します。

 翌年になってスー族の捕虜が解放され紛争はいったん収まりますが、これが30年を超える一連のスー戦争の発端となりました。


1862〜64年 ダコタ戦争(ミネソタ)


Falls of St. Anthony

 現在のミネソタ州南部にはスー族系のダコタ族、北部にはチペワ(オジブウェ)族が住んでいました。

 白人の入植はあまり進んでいませんでしたが、1818年に北緯49度以南がアメリカ領に編入されて以降カナダのレッドリバー流域に入植していた開拓者が移住してくるようになります。

 1848年にはセントアンソニー滝(現ミネアポリス)に最初の製粉所が設けられ、やがて蒸気船でミシシッピー川を旅する人々の観光名所となりました。

 白人は、1837年にウィスコンシン北部とミネソタの一部をインディアンから購入。お互いに狩猟地を狭められて困ったダコタ族とチペワ族は、1842年に領土争いを起こしました。

 1851年には残りのダコタ族の土地の大半が接収され、開拓者の狩猟で次第に野生生物の数も減っていくようになります。

 1858年にミネソタが州に昇格した際は、どさくさに白人型農耕文化を押し付けられ、土地も小区画に切り分けられて私有地として再配分されます。

 おかげでダコタ族は森や野原と切り離され、季節ごとに伝統農業と狩猟や漁労、ワイルドライスの採集を繰り回してきた生活スタイルをを続けられなくなってしまいました。

 頼りにしていた年金(立ち退き料)も、インディアン監督局の役人にピンハネされ手元にはわずかしか届きません。

=== ダコタ族の蜂起 ===


Siege of New Ulm

 1862年の夏、前年の干ばつでダコタ族は飢餓に直面していました。南北戦争(1861〜65年)のせいで、連邦政府から届くはずの年金(立ち退き料)が届きません。

 8月4日、北スー族監督局は押しかけた5千人のダコタ族に対し、穀物倉庫を解放して未然に暴動を防ぎました。

 一方、南スー族監督局の方は有償で食料を貸し与えることも拒否してダコタ族を門前払い…8月15日のことでした。

 実は、年金(立ち退き料)は8月16日にミネソタに到着していました。皮肉なことに、翌17日にダコタ族の若者が白人を殺してしまう事件が起き、リトルクロウ酋長は蜂起を決意します。

Chief Little Crow

 8月18日にリトルクロウ酋長率いる一隊は、南スー族監督局を焼き討ちしました。リッジリー砦から駆けつけた47名の兵も、半数以上がレッドウッド・フェリーの渡河地点で戦死します。

 続いて近隣のニューアルムが包囲され、二度の攻撃で町を破壊し尽くされます。生き残った2千人の住民は153台の幌馬車で安全な町に避難しました。

 ダコタ族の快進撃は9月2日のにバーチクーリーの戦いで頂点に達します。戦場に残された遺体を埋葬していた170名の部隊が襲われ、兵士13名が戦死、さらに47名が負傷し90頭のウマが殺されました。対するダコタ族側の戦死者は2名…圧倒的な勝利でした。

 西の州境を北に流れるレッドリバーへの街道(レッドリバートレイル)もダコタ族の手に落ちました。水運は停止して郵便物も途絶え、ミネソタ北部やノースダコタ東部の開拓者は孤立状態に陥ります。

×戦い Dakota Wars (⇒拡大) 

=== 連邦政府の反撃 ===

 事態を重く見たリンカーン大統領は、南北戦争中にもかかわらずノースウェスト地方方面隊を創設し、陸軍の兵力を増強しました。鎮圧の任に当たるシブリー大佐はミネソタ州の初代知事を務めた人物です。ダコタ族に降伏を勧めましたが、リトルクロウ酋長はインディアンが蜂起せざるを得なかった事情を説明し、説得に応じません。

1862 mass hanging, Mankato, Minnesota

 9月23日のウッドレイクの戦いで、ダコタ族はたった一度の決定的な敗北を喫します。主戦派の酋長も失い、捕虜269名を解放して降伏しました。

 12月には裁判でダコタ族の303人が殺人と強姦の罪で死刑を宣告されましたが、リンカーン大統領が判決を自ら精査し、うち264人を減刑します。

 (執行猶予の1名を除き)残りの38人はクリスマスの翌日に公開の絞首刑を執行されました。アメリカ史上でも最多の集団処刑でした。

 それでもミネソタの白人の世論は収まりませんでした。ダコタ族1600人の婦女子と高齢者が捕えられ、ミネソタ・ミシシッピー川合流点の川中島に幽閉されます。そこで約3百人が病死した後、翌年は干ばつの傷のいえないダコタ族居留地に帰され、さらに3年後にはミネソタから追放されネブラスカ州の新たな居留地へと送られたのです。

=== スー族連合の戦い ===

Badlands, North Dakota

 一部の残党は、同じスー族仲間のラコタ族のもとに逃げて戦いを続けました。1863年は現ノースダコタ州中部と南部の平原で4回会戦したものの劣勢。 1864年は西部の山岳部に後退して戦いましたが、キルディア山の戦いで大敗し、さらに荒涼としたはげ山が続くバッドランズまで追撃されます。

 敗走時に持ち去れなかった生活基盤のテント(ティピー)や糧食は破壊されたり奪われたり…足手まといで野営地に残された子供たちも、3千頭の犬とともに殺されました。


1864〜65年 コロラド戦争


 これも南北戦争(1861〜65年)中に起きた戦争です。戦場こそ離れていますが、ラコタ族と白人の関係に注目すると、切れ目なしに一続きの戦争と見ることができます。

=== コロラド・ゴールドラッシュ ===

Colorado Piedmont (⇒拡大)

 シャイアン族とアラパホ族は、ロッキー山麓の大平原でバッファローを追いかけて暮らしていました。1851年のララミー砦条約では、ミズーリ川支流のプラット川とアーカンザス川の間の平原が固有の狩猟地として保証されていました。

 しかし、1858年に現在のデンバーで金が発見され探鉱者がコロラドに殺到するようになると、その約束も怪しくなります。1860年に白人はインディアンに狩猟生活を捨て、アーカンザス川の南に設けた1/13のサイズの居留区に移住して、白人式の農業を営むよう求められたのです。

Denver 1859

 インディアンの対応は、好戦派と和平派に二分されます。和平派6酋長の一族は新条約に調印して移住しましたが、ドッグソルジャーと呼ばれるシャイアン族の好戦派グループとラコタ族はバッファローの豊かな平原に残って狩猟を続け、時に開拓者の家畜を盗みました。

 好戦派インディアンと白人の緊張は、カンザスからデンバーの金鉱地帯に通じる新ルートの周辺で特に高まります。南北戦争で北軍に組するコロラド準州は、南軍の攻勢に備えて兵力を強化していましたが、アリゾナ準州との戦いに勝利して凱旋…その兵力をインディアン対策に向けられるようになりました。1864年4月、チビントン大佐旗下の陸軍部隊が宣戦布告もなくシャイアン族の宿営地に攻撃を仕掛けます。

=== サンドクリークの虐殺 ===

Colonel John Chivington

 コロラド戦争は拡大して続き、和平派インディアンまでも飲み込む勢いでした。その中で、ブラックケトル酋長と800人のシャイアン族の一団が、11月28日、陸軍のライアン砦に近いサンドクリークの地に宿営します。成年男子は狩りに出かけ、残るは婦女子と高齢者のみ。しかし、あらかじめチビントン大佐に恭順の意を伝え、指示通りに和平の印の星条旗を掲げていたので安心なはずでした。

 ところが、翌朝、チビントン大佐は700名の部隊を引き連れて宿営地を襲います。確かな数字は不明ですが、インディアン側の死者は130〜140人で、うち100〜110人は婦女子。極めて残虐な方法で殺されました。陸軍側にも犠牲は出ましたが、前夜に戦勝の前祝いで酒を飲み過ぎ同士討ちで落命した者が多いと伝えられるほど、後世に悪名を残す大虐殺でした。

 チビントン大佐は、当初、勇猛なインディアンを打ち破った英雄として人々の賞讃を受けます。しかし、従軍者の中にインディアンの遺体の一部を持ち帰り、酒場で自慢げに見せびらかす者がいました。やがて虐殺の疑惑が持ち上がり、ついに連邦議会の戦争管理委員会が調査の末にクロと判定…それでも、チビントン大佐が処罰されることはありませんでした。既に除隊済みで、南北戦争の功績も認められたからです。

 おまけに、チビントン大佐の命令に背いて戦闘を拒否、議会証言で虐殺の事実を訴えたスーレ大尉は何者かに暗殺されてしまいます。友人が容疑者を探し出してコロラドに連行しますが、容疑者は逃走。友人も毒殺されるという奇怪な事件が起こりました。

=== ジュールバーグの戦い ===

 サンドクリークで和平派の長老8人を失い、インディアンは一層好戦的になりました。翌1865年元日、シャイアン族とアラパホ族に、かつて敵対していたラコタ族も加わり、戦士千人がカンザス北部の平原に集まり、白人への報復を誓います。

 そして1月7日、最初に襲撃されたのはデンバーに通じる南プラット川沿いの街道の町ジュールバーグ…馬車の停車駅はもちろん、大商店や倉庫に郵便局や電報局もある交通の要衝でした。大陸の東西を結ぶ電報回線が1861年に開通したばかりの頃です。

 ジュールバーグの110名の守備隊は、インディアンに上手におびき出され18名が戦死してしまいます。陸軍は野砲を携え騎兵640名の大部隊で追撃しましたが、ようやく12日後にインディアンの根拠地を探し当てた時は既にもぬけの殻。寒さに震えて引き上げるしかありませんでした。

=== パウダー川地方移住 ===

Powder River Country, Northern Wyoming

 一方のインディアンは、真冬の4百マイル(640q)に及ぶ大移住を決意していました。婦女子を合わせ4千人の大キャラバンです。

 プラット川沿いの街道の町や牧場を片っ端から焼き討ち。長旅に必要な糧食や家畜を掠めて蓄え、2月2日に凍てついた南プラット川を渡り、ブラックヒルズとビッグホーン山脈に挟まれたパウダー川地方を目指して出発しました。

  ブラックヒルズとパウダー川地方はシャイアン族の故郷です。パウダー川をはじめとするイエローストーン川の支流が南から北に並行して流れる平坦な高原地帯です。

 ラコタ族らスー族にウマを伝え、勇猛な平原インディアンに仕立て上げたのはシャイアン族でしたが、その後、チペワ(オジブウェ)族により西に押し出されたスー族は、1776年にシャイアン族を圧倒してブラックヒルズを制圧。以降、パウダー川地方にも攻め込まれ、シャイアン族はアラパホ族を頼ってコロラドの大平原に移住しました。

 ついでにいえば、シャイアン・アラパホ同盟ができたせいで、カイオワ族はアーカンザス川の南に押しやられました。一種の民族大移動のような状況で、グレートプレインズのインディアン部族分布図は、この時代に大きく書き換えられたのです。

×戦い  コロラド戦争-パウダー川戦争-レッドクラウド戦争-大スー族戦争(⇒拡大)


1865年 パウダー川戦争


 移住は無事に終わりました。ところが、パウダー川地方には、白人がインディアンの狩猟地を横切ってモンタナの金鉱に向かう目障りなルート(ボズマントレイル)ができていました。

=== プラットブリッジの戦い ===

 そこでインディアンは、1865年7月にノースダコタやモンタナのスー族にも呼びかけて3千人の戦士を動員。ルートの入口に当たる北プラット川の橋と周辺を制圧し、いったんは白人にボズマントレイルばかりかオレゴントレイルの交通まで遮断できる力を見せつけます。

 しかし、インディアン戦士は職業兵士ではありません。戦いの後は占領地に未練を残さず、バッファローの狩猟のために各地に散開して行ってしまいました。

=== トング川の戦い ===

 一方の陸軍も、1万2千人の兵でプラット川地方のインディアンを討伐する大作戦(パウダー川遠征)を考えていました。しかし、南北戦争が終わり総兵力が削減されたために計画は大幅に縮小。駆け付けた二つの部隊2千名も装備は既にボロボロで、本隊を探してさまよううちにインディアンに襲われ、役に立ちません。

 やむを得ず600人の本隊だけで出かけ、8月、成年男子が留守中のアラパホ族の村を破壊し500頭のウマを奪って帰還します。討伐作戦は失敗でした。


1866〜68年 レッドクラウド戦争


Chief Red Cloud

 武力解決に行き詰った連邦政府は、あらためてインディアンに年金(迷惑料)を払うことにより、円満解決を目指すことにしました。それには、好戦派も含め地域の全ての部族のリーダーを集めて条約に署名してもらわなければなりません。

 1866年6月、話し合いは、好戦派のレッドクラウド酋長を交え、ララミー砦で何とか順調に進んでいました。ところが、交渉が合意に達する前に、別の部隊がやって来てボズマントレイルに新砦の建設を始めたのです。これに怒ったレッドクラウド酋長は、条約の調印を拒否して帰ってしまいました。以降、ボズマントレイルの砦や幌馬車が頻繁に襲われる事態になります。

=== フェターマンの虐殺 ===

Fetterman Massacre

 この新砦に南北戦争で歴戦のフェターマン大尉が赴任してきたのは11月。インディアンの怖さを知らないフェターマン大尉には、砦の司令官キャリントン大佐の弱気な戦術が不満でした。翌12月の21日、また幌馬車が襲われたとの報を受け、フェターマン大尉は立候補して救出の任務を引き受けます。

 フェターマン大尉はキャリントン大佐の命に背き、丘の峰を越えてインディアンを追い大軍に囲れてしまいます。81名全員がその場で殺され、ラッパ手1名を除き遺体はひどく切り刻まれていました。

 この戦闘で問題になったのは、銃器の性能です。フェターマン大尉ほか50名の歩兵が装備していたのは、弾丸を銃身の先端から込める旧式の銃で、せいぜい1分間に3〜4発しか打てなかったのです。

=== ヘイフィールドの戦闘・ワゴンボックスの戦闘 ===

 翌1867年、砦の装備は1分に8〜10発の連射が可能な1866年式スプリングフィールド銃に変わっていました。7月に2日続いて起きた付近の戦闘では、数で上回るインディアンを相手に勝利を収めます。

=== 1868年ララミー砦条約 ===

 その後インディアンの大規模な襲撃は減りましたが、旅行者の安全を確保するには常時2万人の兵力が必要でした。連邦政府は1868年11月、パウダー川地方をインディアンの領地と認め、ボズマントレイルの全ての砦を放棄します。サウスダコタのミズーリ川以西は、永遠にインディアンの聖地、おまけにプラット川支流域での狩猟権まで保証する寛容さでした。レッドクラウド酋長は「史上初めてアメリカが代償なしに敵の要求を丸呑みした平和条約」と喜びます。

=== ユニオンパシフィック鉄道 ===

 当時の連邦政府には、何よりも大陸横断鉄道の建設が急務でした。東側を担当するユニオンパシフィック鉄道は、ワイオミングでオレゴントレイルの南を迂回しましたが、それでも測量技師が1867年6月に襲われて亡くなる事件が起きていたのです。


1965〜69年 コロラド大平原の戦い


Plains Indians (⇒拡大)

 さて、ここからは話を整理するために、@ラコタ族らスー族と北に移住したシャイアン・アラパホ族を北部平原インディアン、Aコロラドやカンザス西部に残ったシャイアン・アラパホ族を中部平原インディアン、Bさらに南でカンザス南部からテキサスに住んでいたカイオワ族やコマンチ族を南部平原インディアンと呼ぶことにしましょう。

 ポーニー族やクロウ族はスー族と対立関係にあり、白人に協力することが多かった部族です。

== ドッグソルジャーズ ==

 サンドクリークの虐殺の後、東部を中心に、インディアンに同情する世論が沸き起こりました。

 そこで、1865年10月、連邦政府はアーカンザス川の南の広い地域に、中部と南部の平原インディアンの居留地を設ける寛大な約束をします(リトルアーカンザス条約)。

 シャイアン族の好戦派集団ドッグソルジャーズもアーカンザス川の南に退き、一時は戦闘を控えていました。

 しかし、1867年春には、北部のレッドクラウド戦争に呼応してカンザス川流域に舞い戻り、再び開拓者の集落が襲われるようになっていました。

== ビーチャー島の戦い ==

Battle of Beecher Island

Cheif Roman Nose

 翌1868年9月には、カンザスパシフィック鉄道の貨物列車が襲われました。シェリダン司令官は、インディアンの追跡に50名の斥候隊を派遣します。斥候隊は、1週間後にカンザス川支流のアリカリー川でドッグソルジャーズの宿営地を見つけましたが、敵は600人と多勢に無勢。逆に、翌朝未明に奇襲されて一隊は孤立してしまいます。

 さらにそれから1週間、救援部隊が駆け付けるまで、斥候隊は中州にこもって戦いました。結果は、6名が戦死で15名が負傷。戦死した副官のビーチャー中尉の戦勲を讃え、ビーチャー島の戦いと呼ばれています。

 ドッグソルジャーズの攻勢は、翌1869年、リーダーのトールブル酋長がサミットスプリングの戦いで戦死するまで続きました。

=== メディスンロッジ条約 ===

 リトルアーカンザス条約のインディアン居留区の区割りは行われないままに、2年の月日が経ちました。結局のところ、連邦政府の気は変わり、中部の平原インディアンも、南部の平原インディアンも、インディアン準州(現オクラホマ州)の狭い居留区で我慢してくれと言い出します。もちろん、狩猟生活を捨てて白人型の農業をする前提です。

 条約は、1867年10月に500名の騎兵隊とガトリング砲2門を構えた砲兵隊がものものしく警備する砦の中で調印されました。

 これまでの和平交渉と違うのは、白人側の当事者が連邦議会の代表だったことです。農業や牧畜を覚えて居留区に定住する「いいインディアン」と、居留区の外で狩猟生活を続け開拓者を襲う「悪いインディアン」を区別…シロクロつけて「悪いインディアン」はやっつけようというのが議会のねらいでした。

=== シェリダンの冬季作戦 ===

 南軍のリー将軍を降伏させ南北戦争を終結に導いた北軍の英雄で、有名なシェリダン将軍が陸軍ミズーリ地方方面隊の司令官に就任したのは1867年8月でした。

 陸軍の兵力は、広大な平原にくまなく展開できるほど十分ではありません。ビーチャー島の戦いの敗戦に懲りたシェリダン司令官は、南北戦争で成功した戦術を思い出し、雪が降るを待ちました。

 狩猟や採集で食料の補給ができない冬にインディアンを襲い、備蓄していた糧食や家畜を奪うのです。飢えたインディアンは、居留区に移動して白人の施しを受けるしかありません。

=== ワシタ川の虐殺 ===

General Custer

 二度目の悲劇に巻き込まれたのは、サンドクリークの虐殺に遭い、自らは命からがら生き残ったシャイアン族のブラックケトル酋長です。加害者は、シェリダン司令官の南北戦争時の元部下で、第7騎兵隊の連隊長に招聘されたカスター中佐でした。

Washita River Massacre

 命知らずの突撃で敵を震え上がらせ、弱冠23歳で騎兵旅団の司令官に任じられたほどの勇将ですが、1968年11月に雪の中を進軍し、夜明けとともにブラックケトル酋長の一族を「悪いインディアン」と間違えて奇襲、婦女子を含め多数のインディアンを一方的に殺してしまいます。確かな犠牲者の数は、証言がバラバラで分かりません。

 連隊が、6千人のインディアンの大宿営地に迷い込んでいたことを知ったのは、襲撃後のことです。カスター中佐はインディアンの組織的な反撃をおそれ、婦女子を人質にとり夕暮れを待って逃げ帰りました。

 ブラックケトル酋長も、今度は助かりませんでした。妻と騎乗して逃げようとしていたところを、背後から射殺されてしまったと伝えられています。


1869〜73年 グラント大統領第一期


Generals Sherman, Grant and Sheridan

 陸軍総司令官を務めていたグラント将軍が1869年に大統領に就任すると、その後釜にシャーマン将軍が座り、さらにその後釜のミズーリ地方師団司令官にはミズーリ地方方面隊のシェリダン司令官が昇格しました。

 左の記念切手(1932年発行)にもあるように、南北戦争の北軍の英雄が3人揃い踏みした格好です。

 ミズーリ地方師団は、西海岸を除くフロンティア全域を管轄する軍隊で、その後のインディアン戦争はシャーマン-シェリダン・ラインの意思決定で遂行されることになりました。

=== インディアン講和政策 ===

 グラント大統領は、東部のリベラルな人道主義者に共感していて、インディアンに対しても(当時の他の政治家に比べ)大いに寛容でした。大統領に代わり、実際に講和政策(Peace Policy)を推進したのは、イロコイ系セネカ族出身のイーリ・パーカー…インディアンの中から初めてインディアン監督局の局長に任じられた人物です。

 パーカー局長は2年で退任しましたが、就任前には年間101件あった軍事衝突が、翌年は58件にまで激減したそうです。1870年にはラコタ族のレッドクラウド酋長らを列車に乗せて首都ワシントンに招き、グラント大統領に国賓並みの夕食接待をさせています。

 講和政策の中でも特に際立つのは、各地のインディアン監督官にクエーカーやプロテスタントの教会指導者が配されたことです。1870年1月に、またも「いいインディアン」が間違いで騎兵隊に襲われる事件(モンタナ州ボズマン付近の「マリアス川の虐殺」)があり、これを機に、汚職や不正で腐敗していた各地の監督官が一挙に更迭されました。

 しかし、グラント大統領の講和政策の目的は最終的にインディアンを白人社会に同化されることで、インディアンの土地や権利を保護してあげるものではありません。1871年には議会に働きかけ「インディアン部族は独立の主権団体と認められず、インディアンは個人または合衆国を後見人とする制限行為能力者として扱われる」という勝手な法律を成立させます。これで、連邦政府は、いちいちインディアンの各部族と条約を締結することなしに、合法的に土地を買収することが可能になりました。