南北戦争の境界州…ケンタッキーとミズーリには南北2政権
メリーランドは戒厳令で北軍が南部派を逮捕
[目次]
北部強硬派"共和党"の台頭/
青の北軍・赤の南軍/ 奴隷州と自由州(ミズーリ協定・旧メキシコ領の編入・流血のカンザス・アッパーサウスとディープサウス)/
南部同盟の創設メンバー6州/
南軍側の境界州(サムター要塞の戦い・バージニア州・ノースカロライナ州・テネシー州)/
北軍側の境界州(メリーランド州・ミズーリ州・ケンタッキー州)
1790~1860年奴隷を含む人口推移(⇒拡大) |
南北戦争の原因が奴隷制をめぐる南北の対立にあったことは、広く知られていますね。でも、人道上の理由だけで、アメリカ人同士が4年も血を流し戦ったわけではありません。そのほかに、連邦主義と州権主義、保護貿易と自由貿易の対立軸があったことは、ご存じですか?
年代 |
連邦主義 |
州権主義 |
1792~1824 |
連邦党 |
民主共和党 |
1828~1854 |
ホイッグ党 |
民主党 |
1854~1900 |
共和党 |
民主党 |
1904~ |
民主党 |
共和党 |
当時の北部は産業革命の真っただ中で、ちょうど綿紡織工業が興隆しているところでした。しかし、南部諸州が連邦(アメリカ合衆国)から離脱して、安い綿花を商売敵のイギリスに輸出し、安い綿製品をイギリスから輸入することになったら、一大事…北部は、大事な原料の仕入れ先と製品の販売先を、一挙に失ってしまいます。
そこで、北部が地盤のホイッグ党は、南部諸州を連邦に引き留めておくため、奴隷制については弱腰で、民主党に妥協を繰り返してきました。ところが、独立戦争時代にあった南北一体の愛国感情を知らない若い世代や移民が増えるにつれ、北部には対南部強硬論が高まってきます。1854年にホイッグ党は消滅し、代わりに奴隷制廃止をはじめ北部の主張を正面から訴える共和党が登場します。南北の対立は先鋭化しました。
Union
(United States) |
Confederate
States |
1860年11月に共和党のリンカーン候補が大統領選挙に勝利すると、翌月にサウスカロライナが連邦離脱を宣言。翌年2月に南部連合政府が樹立され、4月に南北戦争が始まります。
連邦政府は南部諸州の離脱を公式に認めていませんから、星条旗の★の数は南部11州を含めて34個。対する南部連合の★の数は、南部側暫定政権ができたミズーリとケンタッキーを加え13個。
両政府とも国旗の基調が白地に青と赤で、北軍の軍服は青、南軍の軍服はグレーでしたから、南北戦争の合戦図は、北軍=青、南軍=赤で描かれるようになりました。
余談ですが、南北戦争以降、アメリカで州別の選挙結果を示す地図が、共和党=青、民主党=赤で色分けされる時代がしばらく続きました。しかし、1904年にセオドア・ルーズベルト大統領が登場し民主党が進歩的な政策を取り始めると、マスコミは色分けを逆転させます。
それからは民主党=青、共和党=赤。でも、民主党の基盤が南部から北部に変わり、結局、北部は北軍の青。共和党の基盤が北部から南部に変わり、結局、南部は南軍の赤。奴隷制度がなくなって150年経っても、南北戦争が残した色分けは存命中です。
南北戦争開戦時の奴隷州・自由州
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1789~1858年
奴隷州・自由州推移 (⇒拡大) |
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南北の対立は、最初のうち、議会で奴隷制を認める州(奴隷州)と認めない州(自由州)の数をめぐる争いに現れました。
独立直後には奴隷州の数が自由州の数を上回っていましたが、北部奴隷州のニューヨークやニュージャージーが自由州に転じ、19世紀初頭には州数が拮抗するようになっていました。
しかし、ご存じのように、アメリカ議会には上院と下院があり、上院議員の議席は各州に2つずつ割り当てられることになっています。議席数が人口比で決まる下院では、奴隷州は自由州に永久に勝てません。
そこで、ホイッグ党の穏健派が譲歩を重ね、上院で奴隷州が不利にならないよう、常に州数が均衡するよう配慮したのです。
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ミズーリ協定 +++++
有名な1820年のミズーリ協定は、ミズーリが奴隷州として州昇格を申請した際に生じた上院と下院の対立を、2年越しで解決する政治決着でした。下院を支配する北部は、ミズーリ州の昇格を認める代わりに、南部奴隷州側の議員に、メーン(自由州)の州昇格と、今後北緯30°30'以北の旧ルイジアナには奴隷州を設けない約束を認めさせました。その後、1836~37年に、奴隷州のアーカンソーと自由州のミシガンがセットで州に昇格します。
+++++
旧メキシコ領の編入 +++++
1845年に奴隷州のフロリダとテキサス、翌年に自由州のアイオワが州に昇格しましたが、1848年にウィスコンシンが昇格するまで上院を奴隷州が制し、上下院がねじれ状態になる時期がありました。アメリカが米墨戦争に勝利し、現在のカリフォルニア・ネバダ・アリゾナ・ニューメキシコとその周辺の広大な領土を手に入れたのは、この頃でした。
早速、議会では、旧メキシコ領を(将来)自由州とする提案が審議されますが、上院で否決されてしまいます。続いて北緯30°30'を延長し、旧メキシコ領でも以北を自由州とする修正案も否決されます。結局、1850年にカリフォルニアが州に昇格する際には、カリフォルニアは自由州ながら上院議員2名のうちの1名を奴隷制容認派とする条件が付されました。こうした議論を通じて、ホイッグ党も民主党も内部抗争が激しくなっていきます。
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流血のカンザス +++++
Sacking
of Lawrence (ローレンスの略奪)
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1850年代は、平原インディアンを居留地に封じ込め、西部フロンティアで開拓が推進された時代ですが、この地域の州昇格が現実化し、ミズーリ協定で解決したはずの議論が蒸し返されました。1854年に、ミズーリ協定を破棄し、奴隷州・自由州は住民の意思によって決められるというカンザス‐ネブラスカ法が成立します。
すると、カンザスには、隣接する奴隷州のミズーリから移住者が殺到しました。次いで、ニューイングランドからは奴隷制廃止論者が大挙して移住してきます。1855年には二つの州政府が誕生し、「流血のカンザス」と呼ばれる武力衝突が始まりました。1861年にかけ50~70名が殺され、南北戦争の前哨戦となった大抗争です。
Marais
des Cygnes massacre (マレデジーンの虐殺)
|
創設者ヘンリー・クレイが亡くなり既に無力化していたホイッグ党は、カンザス-ネブラスカ法の成立後に消滅します。北部のホイッグ党員に奴隷制廃止派の民主党員が加わり、新たに反奴隷制を旗印に掲げる共和党が誕生していました。
1853~61年にかけて二代続いた民主党大統領はいずれも北部出身でしたが、「流血のカンザス」で奴隷制擁護派の肩を持ちました。南部民主党の言いなりになることから、ドウ・フェイス(パン生地でできたお好み通りにこねられる仮面)の汚名を頂戴しています。北部民衆は、強い共和党大統領を待望していました。
南北戦争は、一言でいえば、アメリカで北部と南部が戦った内戦ですが、南部は文化的にアッパーサウスとディープサウス(ロワーサウスまたはディキシー)に区分され、迷いなく発足時に南部連合に加わったのはディープサウスの6州でした。ディープサウスは、コットン・ステートとも言いかえられます。1860年当時に、綿花栽培が盛んだった地域にほかありません。
1860年大統領選挙州別得票(⇒拡大) |
1860年当時の綿花栽培
(⇒拡大) |
1860年当時の奴隷分布
(⇒拡大) |
そもそも黒人奴隷の労働力に頼るプランテーション農業はバージニア植民地で始まり、18世紀まで作物は染料のアイや米やタバコに限られていました。ところが、1793年にホイットニーが綿繰り機を発明し、面倒な種とり作業が合理化されると、綿花は一躍採算のよいプランテーション作物として脚光を浴びることになります。綿花栽培は、サウスカロライナの沿岸平野から西へ西へ、インディアンの土地を奪いながら拡大して行きました。
州 |
総人口
(うち自由人) |
うち奴隷 |
奴隷所有世帯 |
ア
ッ
パ
|
サ
ウ
ス |
バージニア |
1,219,630
(1,105,453) |
31% |
26% |
ミズーリ
|
1,182,012
(1,067,081)
|
10%
|
13%
|
ケンタッキー
|
1,155,684
(930,201)
|
20%
|
23%
|
テネシー
|
1,109,801
(834,082)
|
25%
|
25%
|
ノースカロライナ |
992,622
(661,563) |
33% |
28% |
メリーランド
|
687,049
(599,860)
|
13%
|
12%
|
デラウェア
|
112,216
(110,418)
|
2%
|
3%
|
デ
ィ
|
プ
サ
ウ
ス |
ジョージア
|
1,057,286
(595,088)
|
44%
|
37%
|
アラバマ
|
964,201
(529,121)
|
45%
|
35%
|
ミシシッピ
|
791,305
(354,674)
|
55%
|
49%
|
ルイジアナ
|
708,002
(376,276)
|
47%
|
29%
|
サウスカロライナ
|
703,708
(301,302)
|
57%
|
46%
|
テキサス
|
604,215
(421,649)
|
30%
|
28%
|
アーカンソー
|
435,450
(324,335)
|
26%
|
20%
|
フロリダ
|
140,424
(78,679)
|
44%
|
34%
|
さて、アッパーサウス諸州には、綿花以外のプランテーション農業が盛んな平野部とアパラチア山麓地帯を中心とする自作農が多い地域があります。アパラチア山麓には、スコットランド系アイルランド人など18世紀に渡米してきた移民が住みつきました。
自作農の人々には奴隷制維持の必要もなく、アッパーサウス諸州の州民は1860年の大統領選挙で中立に近い候補者に投票(上図ご参照)、開戦が避けられない状況になってからは奴隷制の擁護派と廃止派が対立し、州ごとに異なる結論に到達します。これが、いわゆる「境界州」で南北戦争で陣取り合戦の舞台になりました。現代アメリカ国内の政治状況を理解するためにも、この間の経緯は1州ずつ丁寧に見ていかなければなりません。
1860年当時ののアメリカ各州の人口比率(奴隷を含む) |
1861年の2月18日に南部連合の発足時に設立メンバーに加わったのは、ディープサウスの6州と申し上げましたが、内訳は狭義でもディープサウスとされるサウスカロライナ・ジョージア・アラバマ・ミシシッピ・ルイジアナの5州と、当時はまだ人口希薄なフロリダでした。
上の表の通り州民の半数近くが奴隷で、自由人の家の3軒に1軒は奴隷を所有していました。その多くがプランテーション農家だったと推定されます。ルイジアナの奴隷所有世帯比率が少し低いのは、憶測ですが、ケイジャンやクレオール人など特別な民族が住んでいたせいかもしれません。
州
|
連邦脱退 |
南部連合加盟 |
州昇格・連邦加盟 |
連邦復帰 |
1861年11月6日 大統領選挙で共和党のリンカーン候補が当選 |
サウスカロライナ
|
1860年12月20日 |
1861年2月8日 |
ー |
1868年7月4日 |
1861年1月9日 スター・オブ・ザ・ウェスト号砲撃事件
|
ミシシッピ
|
1861年1月9日 |
1861年2月8日 |
ー |
1870年2月23日 |
フロリダ
|
1861年1月10日 |
1861年2月8日 |
ー |
1868年6月25日 |
アラバマ
|
1861年1月11日 |
1861年2月8日 |
ー |
1868年7月13日 |
ジョージア
|
1861年1月19日 |
1861年2月8日 |
ー |
1870年7月15日 |
ルイジアナ
|
1861年1月26日 |
1861年2月8日 |
ー |
1868年7月9日 |
カンザス
|
ー |
ー |
1861年1月29日 |
ー |
テキサス
|
1861年2月1日 |
1860年3月2日 |
ー |
1870年3月30日 |
1861年3月4日 リンカーン大統領就任演説
(南部に奴隷制維持を約束) |
1861年4月12~14日 サウスカロライナ州サムター要塞の戦い
(連邦=北軍の要塞陥落)
4月15日 北軍7万5千人募兵…テネシー・アーカンソー・バージニア・ケンタッキーは拒否 |
バージニア
|
1861年4月17日 |
1861年5月7日 |
ー |
1870年1月26日 |
1861年4月19日 北軍が現ウェストバージニア州ハーパーズフェリー撤退
(連邦兵器工場放棄)
|
アーカンソー
|
1861年5月6日 |
1861年5月18日 |
ー |
1868年6月22日 |
テネシー
|
1861年5月7日 |
1861年7月2日 |
ー |
1866年7月24日 |
1861年5月7日 バージニア州グロスターポイントの戦い
(北軍砲艦が南軍砲台を砲撃…海上封鎖) |
ノースカロライナ
|
1861年5月20日 |
1861年5月21日 |
ー |
1868年7月4日 |
6/3/1861 フィリパイの戦い
(北軍の西部バージニア侵攻作戦) |
ウェストバージニア
|
ー |
ー |
1861年6月20日 |
ー |
アメリカの大統領選挙は、議会選挙や地方選挙と合わせ11月の第1火曜日に実施されますが、当選者は選挙直後に就任する訳ではありません。今は翌年の1月20日正午に就任することになっていますが、1933年までは3月4日と約4ヶ月の準備期間がありました。
+++++
サムター要塞の戦い +++++
Battle
of Fort Sumter
|
軽い軍事衝突なら、リンカーン大統領の就任前に始まっていました。最初は1月9日、連邦政府の要塞に補給物資を届けようとした商船スター・オブ・ザ・ウェスト号が、サウスカロライナ州兵に砲撃された事件です。
焦点となったのは、サウスカロライナ州のチャールストン港内のサムター要塞。孤立した連邦政府の軍事施設が続々と南部連合に接収されてしまう中、サムター要塞の守備隊は、南部連合に従わず立ち退きを拒否していました。
二度目の補給船砲撃が起きたのは、4月12日…3月4日にリンカーンが大統領に就任した後でした。今度は、サムター要塞がサウスカロライナの砲台に反撃し、その瞬間に南北戦争が始まりました。
テキサスは、この時、既に連邦を脱退して南部連合に加盟していました。バージニア、アーカンソー、テネシー、ノースカロライナの4州は、まだ連邦に残っている状態でした。ところが、15日に連邦政府から募兵の要請(実質上の宣戦布告)があり、最後まで戦争回避を祈っていた南部寄りの州も、旗幟(きしょく)を鮮明にせざるを得なくなります。
+++++
バージニア州 +++++
Harpers
Ferry Armory and Arsenal
|
バージニアは連邦政府(北軍)の募兵要請を拒否し、その翌々日に連邦脱退を決めました。北軍は、連邦政府の兵器工場(写真)に自ら火をつけてバージニアを撤退しましたが、地元住民によって消火され、機械は州都リッチモンドに送られて南軍の兵器生産に利用されてしまいます。
しかし、当時のバージニアは、連邦支持者が圧倒的に優勢な現ウェストバージニア地方を含んでいました。南軍はボルチモア-オハイオ鉄道の要衝フィリパイに防衛隊を駐留させましたが、6月3日に北軍が侵攻し12月にかけて現ウェストバージニア地方を制圧しました。
これと並行して、連邦支持の住民は6月20日に州北部のホイーリングに集まって新州創設を決議、連邦政府はただちに連邦加盟を承認しました。
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ノースカロライナ州 +++++
ノースカロライナは連邦政府(北軍)の募兵要請に返事もせず、1ヶ月後の5月20日、南部連合の中で最も遅く連邦脱退を表明しました。連邦支持者が多い西部では、戦時中を通じて、徴兵忌避や徴兵後の脱走、納税拒否など南軍への抵抗が続いたそうです。
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テネシー州 +++++
テネシーは、アーカンソーと同じく即日に連邦政府(北軍)の徴兵を非難し拒否する電報を返信しました。その後5月7日に連邦脱退を宣言するまでは比較的速かったのですが、南部連合への加盟は7月2日と大きく遅れ最後の州になってしまいました。
これは、今でもそうですが、テネシーが地理や歴史・文化的な理由で三つの行政区に分かれていて、それぞれの住民の意思が大きく異なっていたのが原因です。
もともと西部はディープサウスの一角に数えられるほど綿花のプランテーション農業が盛んな地域で、東部は逆にほとんどが自作農という地域でした。2月に1回目の住民投票があった時には東部・中部で反対が大きく上回り、連邦脱退は見送られたのですが、6月の2回目の住民投票では中部が僅差で賛成に転じ、テネシーの連邦脱退が確定します。
これを受け、東部はテネシー州から脱退して新州を作り、連邦に復帰しようとしましたが、南部連合軍に占領されて試みは失敗してしまいます。
メリーランドやデラウェアは、今でこそ南部に区分されることはありませんが、当時は奴隷州で、1860年の大統領選挙でも、南部民主党の候補が最多得票しています。しかし、デラウェアは、北部経済に完全に組み込まれており奴隷所有世帯もわずか2%でしたから、州議会は連邦離脱を圧倒的多数で否決しました。
+++++
メリーランド州 +++++
メリーランドは、連邦政府の生命線です。仮にメリーランドが連邦を脱退し南部連合に加盟したら、首都ワシントンは地理的に孤立してしまうからです。しかし、大統領選挙のトップは奴隷制維持の南部民主党(45.9%)で、2位も僅差で南北融和の立憲連邦党(45.1%)。リンカーンは候補者4名の最下位で得票率2.5%という微妙な情勢でした。
自由黒人と奴隷の数はほぼ同数。州北部と西部はドイツ系が多く北部との経済的結びつきの強い地域でしたが、州都ボルチモアは綿花のイギリス向け輸出で南部経済との結びつきが強く、州南東の半島部は奴隷を所有するタバコ農家が多い地域で、いずれも南部連合支持者の牙城でした。
Baltimore
Riot |
1861年4月15日に北軍の募兵が始まると、早速、ペンシルバニアとマサチューセッツの兵士がボルチモアで乗り換え、鉄道で首都に移送されるようになります。すると、4月19日に、南部連合支持者が乗り継ぎの客車を襲い、兵士に投石する騒ぎが起こりました。連邦政府は兵士の輸送ルートを変え、その場をしのぎます。
4月29日に、州議会は連邦脱退の提案を否決しました。ただし、北部とつながる鉄道路線は再開せず、連邦政府にメリーランド撤兵を要求する条件付きで、実質的な中立宣言です。
これに対し、リンカーン大統領はメリーランド州に戒厳令を布告し、5月13日に1千名の部隊でボルチモアを占拠しました。現職下院議員1名とボルチモア市長や市と警察の幹部全員が、令状なしに拘禁されました。
6月4日、連邦裁判所はこれに違憲判断を下しましたが、連邦政府は非常事態として無視します。9月に招集された州議会でも議員の1/3が北軍に逮捕され、メリーランドの連邦脱退は阻止されました。
しかし、南部連合支持者の怒りはすさまじく、メリーランドでは、北軍に6万人が徴募される一方で、南軍に参加する者も2万5千人いたといわれています。
+++++
ミズーリ州 +++++
ミズーリ州では、もともと奴隷制支持者が多数派を占めていました。しかし、セントルイス周辺で急増したドイツ系移民には、1848年のドイツ3月革命の頓挫に失望して逃れてきた自由主義者が多く、州の世論は両極に分かれていました。
1861年3月21日、州の憲法会議で連邦脱退は圧倒的多数で否決され、ミズーリは中立を守ることに決まります。しかし、4月20日に連邦脱退派の民兵がカンザスシティ郊外の小さな武器庫を襲い、千丁の小銃を奪って逃げる事件が起きました。連邦政府は民兵を募り、4万丁の小銃が眠るセントルイス武器庫の守りを固めます。
ところが、前年の選挙で立場を曖昧にしていた知事が実は連邦脱退派で、こっそり南部連合から武器弾薬を調達し、セントルイス武器庫の北西7kmの地点に民兵の駐屯地を設けたのです。これを疑った連邦政府は、5月10日に兵6千人で駐屯地に乗り込み、駐屯地の民兵669名を捕虜としました。
Baltimore
Riot |
そして、事件が起きます。捕虜となった民兵はミズーリ育ちで、それを連行する連邦政府の民兵は大半が新参のドイツ系移民だったからです。セントルイス市内を引きたてられる仲間の屈辱的な姿を見て、群衆は移民の民兵に差別語を浴びせ、投石しました。さらに、(詳細は不確かですが、酔っ払いが隊列に転げ込んで将校を射殺したのがきっかけで)民兵が群衆に向かって発砲し、婦女子も含む28人が死亡、50人が負傷しました。
その後数日にわたりセントルイスは騒乱状態に陥り、戒厳令が敷かれました。ドイツ系移民がアメリカ人を殺すという噂が広まり、裕福な市民はイリノイやミズーリ州の田舎に避難。中立的だった市民も多くが南部連合支持に周り、知事に州兵を徴募する権限が与えられました。
Battle
of Boonville |
翌6月の知事と連邦軍司令官との会見は物別れに終わり、連邦=北軍vs.州兵=南軍の南北戦争が始まります。知事と州兵は州都を捨て、州中央のブーンビルの町で部隊の組織化を試みていましたが、連邦軍が追いついてきて最初の衝突が起きました。双方とも兵力15~17百名で犠牲者も少ない戦闘でしたが、訓練不足の州兵が「ブーンビルの競走」と歴史に名を残すほどみじめに潰走し、知事とともに州南西部に撤退しました。連邦政府は7月にミズーリ州暫定政府を設立し、州南西部を除く地域を支配下に置きます。
Battle
of Wilson's Creek |
しかし、南軍にも余力がありました。8月11日のウィルソンズクリークの戦いは、「西部のブルランの戦い」とも呼ばれる西部で最初の大会戦で、ブルランの戦いと同様に南軍が勝利しました。当時、北軍兵力6千名に対し、南軍部隊は州兵に南軍正規軍とアーカンソー州兵を加えて1万2千名に増えていたのですが、北軍は2倍の兵力差に気付かず攻撃を仕掛けてしまったのです。
その後、南軍はさらに兵力を3千人増して北に進撃。9月12~20日の第一次レキシントンの戦いに勝利し、一時的にミズーリ川一帯を支配しましたが、それが南軍の限度でした。南軍正規兵とアーカンソー民兵が撤兵し、再び州南西部に拠点を戻してからは負け戦が続きます。12月には州兵は壊滅し、知事はテキサスに退いて亡命政府の主となったものの翌年に死亡し、後は副知事が引き継ぎました。
+++++
ケンタッキー州 +++++
リンカーンは、1861年9月の手紙で「ケンタッキーを失うのは、全てを失うに等しい。ケンタッキー抜きではミズーリもメリーランドも持ちこたえられない。」と述べています。
当時のケンタッキーは、タバコ、トウモロコシ、小麦、アサ、アマなど農産物の主要供給地でした。余剰産品はミシシッピー川水系の水運で南部の消費地に送られていましたが、当時は鉄道網の整備が進み、北部経済との結び付きが次第に強まってきていました。住民の先祖の多くはバージニア、ノースカロライナ、テネシーなど南部の出身者でしたが、リンカーン大統領のように、ケンタッキーで生まれ北部に移住して行った子供たちも多数いました。
Henry
Clay |
19世紀前半に、ホイッグ党を創設したヘンリー・クレイはじめ有力な政治家を多数輩出し、南部と北部の妥協を促していたのもケンタッキーでした。ケンタッキー州知事は、1860年の大統領選挙で奴隷制廃止派の共和党リンカーン候補が当選後、奴隷州で結束して妥協をせまるため南部知事会議を開催しようと試みましたが実現せず、12月20日にサウスカロライナが連邦脱退に踏み切ってしまいます。知事は27日に特別議会を招集しましたが、議会は連邦脱退を否決します。
南北戦争は、翌1861年4月のサムター要塞の戦いで始まりました。ケンタッキーにも、15日にリンカーンの募兵要請の電報が届きましたが、知事は拒絶します。5月20日に議会は公式に中立を宣言。その後しばらくは北軍も南軍も中立を尊重し、ケンタッキーの領内には立ち入りませんでした。と言っても、両軍それぞれに州境に部隊を駐屯させて募兵を開始しましたから、北軍には歩兵60連隊、南軍には9連隊と多数の騎兵…多くの州民が個人の信条に基づいて南北に従軍しました。
こうして、中立の維持が困難になってきました。そこで、6月20日に議会の特別選挙が実施され、全10議席のうち連邦政府支持者が9議席を獲得します。南部連合派は、州最西部で「ジャクソン買収」と呼ばれるテネシー西部と経済的に一体の地域の選挙区で唯一の議席を獲得しただけでした。知事は、拒否権を行使して南部連合に有利な政策を進めることができなくなります。北軍はケンタッキー領内に駐屯地を設け、おおっぴらに募兵を開始しました。
Jackson
Purchase |
初めて中立が侵されたのは9月4日のことでした。「ジャクソン買収」地方の町コロンバスを南軍が占領…ミシシッピー川に面し、モービル‐オハイオ鉄道が通る交通の要衝でした。これが(ミシシッピー川以東の)南北戦争西部戦線の発端となります。
11月18日には、州南西部に約6割のカウンティから南部寄りの代表者が集まり、ボーリンググリーンを州都に南部連合傘下の州政府を設立することが決まりました。しかし、この政府は翌1862年2月に州外に撤退後、南軍の西部戦線部隊について移動するばかりで、行政機関として機能することはありませんでした。
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