東部戦線…片腕ジャクソン将軍を友軍の誤射で失くしたリー
南部の命運は天下分け目の"ゲティスバーグ"
[目次]
1861年…首都ワシントン防衛(南軍リー将軍・海軍の海上封鎖・第一次ブルラン(マナサス)の戦い)/
バージニアの鉄道/ 1862年…北軍の攻勢・南軍の反撃(マクレラン将軍・半島方面作戦・七日間の戦い・南軍ジャクソンのバレー方面作戦・南軍の北バージニア方面作戦・南軍のメリーランド侵攻作戦/アンティータムの戦い)/
1862年末~1863年…北軍の攻勢不発・再び南軍の反撃(フレデリックスバーグ方面作戦・チャンセラーズビル方面作戦・南軍のゲティスバーグ方面作戦)/
1864年…北軍の一方的な攻勢(オーバーランド作戦・第二次ピーターズバーグの戦い・リンチバーグ方面作戦・南軍アーリーのワシントン襲撃・シェリダンのバレー方面作戦)/
1865年…リー将軍の降伏(ピーターズバーグ包囲作戦・リバークイーン号・アポマトックス方面作戦・リーの撤退戦)/
人口で見る南北戦争
Jeferson
Davis
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Robert
Lee
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Stonewall
Jackson
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東部戦線は南北の首都リッチモンドとワシントン周辺の局地的な戦いで、大局は西部戦線と海上封鎖で決まったともいえますが、激戦の数が多かったことや戦場が北部の中枢部に近かったことで、南北戦争といえば、まず東部戦線を思い浮かべるアメリカ人が多いでしょう。
Stone
Mountain Carving
|
西部戦線の記事では、北軍のキーパーソンにリンカーン大統領とグラント、シャーマンの両将軍を上げましたが、東部戦線では、南軍のキーパーソンとしてリー将軍とストーンウォール(石の壁)とあだ名されたジャクソン将軍に注目してください。アトランタの観光名所ストーンマウンテンの山腹には、両将軍が、南部連合のジェファーソン・デイビス大統領とともに騎乗する姿が掘られています。
11月にリンカーン候補が大統領に当選。12月にサウスカロライナが連邦脱退。1月に相次いで5州が脱退して2月に南部連合を結成。3月にリンカーン大統領が就任。4月に開戦。南北戦争が避けられないと覚悟していた人々にも、たった半年の事態の進行が速すぎて、南北ともに戦う準備が整う前に戦争が始まってしまいました。
+++++
南軍リー将軍 +++++
中でも、リー将軍のケースは滅茶苦茶です。リーは奴隷制に反対でした。開戦直前の3月28日には、老齢のスコット総司令官に代わって、連邦陸軍(北軍)の指揮を取るよう頼まれ受諾しています。この時は南軍の誘いを無視していたのですが、4月15日に南北戦争が始まって2日後、17日に出身地バージニアが連邦から脱退すると、20日に北軍に辞表を提出。23日に、バージニア州軍の司令官に就任しました。翌1862年初めには南軍北バージニア軍の司令官となり、終戦まで東部戦線の指揮をとりました。
よく南軍の方が北軍よりエリートの将軍をそろえたように言われますが、陸軍士官学校卒業生のうち南軍に加担したのは26%で、65%は北軍で戦ったそうですから、数字で見る限り事実とはいえません。北軍は、リンカーンが総司令官のクビを何度もすげ替えたせいかもしれません。南軍は、州の自治権を主張する州の集まりだけあって、まとまりはイマイチ。各州の将軍のそりが合わず、作戦が思うように進められないことが起きました。
年月日
|
東部戦線の主な戦闘
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勝敗
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司令官
|
兵力
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損失
|
損失率
|
1861年4月12日
〜14日
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サムター要塞の戦い
(南北戦争開戦)
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✕北軍
|
アンダーソン
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85
|
0
|
ー
|
●南軍
|
ボーリガード
|
6,000
|
0
|
ー
|
1861年5月~1862年1月 海軍ポトマック川・チェサピーク湾封鎖作戦
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1861年5月24日 北軍が首都ワシントンの対岸アレクサンドリアを占領
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1861年6月3日 フィリパイの戦い
(北軍の西部バージニア侵攻作戦) 1861年6月20日 ウェストバージニア州が連邦加盟
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1861年7月21日
最初の大会戦
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第一次ブルランの戦い
(マナサス方面作戦)
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✕北軍
|
マクドウェル
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35,000
|
2,896
|
8.20%
|
●南軍
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ボーリガード
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34,000
|
1,982
|
5.80%
|
余談ですが、東部戦線の戦いは最初から最後まで陣取り合戦のようなもので、西部戦線のように地図に矢印では説明できません。私自身よく分からなかったので、全てではありませんが、日付つきでGoogleマップに記載して整理してみました。今のところ、戦いの場所を、時期別、戦役別に整理して示しただけです。
+++++
海軍の海上封鎖 +++++
1861年東部戦線 |
準備不足・兵力不足の開戦直後に、北軍が最優先したのは、境界州の確保と海軍による首都圏の海上封鎖でした。
境界州については、今月号の最初の記事に書きましたね。東部戦線では、メリーランド州は開戦前に連邦政府が力づくで北部に引き留めていました。バージニア州は4月に南部についたので、北軍は6月に西部バージニアを制圧し、新州ウェストバージニアを創設して、連邦に加盟させました。
海上封鎖は、5月から翌1862年1月まで、北軍の首都ワシントンにつながるポトマック川河口と南軍の首都リッチモンドにつながるジェームズ川の河口の南軍砲台を、北軍の砲艦が砲撃する作戦が繰り返されました。
南北海軍が対決する海戦もあり、装甲艦の前には木造艦は歯が立たないことが立証されました。北軍の装甲艦は、その後、西部戦線のフォートヘンリーの戦いやビックスバーグの戦いで重要な役割を果たしました。
5/29-6/1/1861
Battle
of Aquia Creek |
USS
Cairo |
3/8-9/1862
Battle
of Hampton Roads |
+++
第一次ブルラン(マナサス)の戦い +++
第一次ブルランの戦い
(⇒拡大) |
もう一つの課題は、首都ワシントンの守りでした。何しろポトマック川を隔てた対岸は敵地バージニアです。北軍は、5月24日に対岸のバージニア州アレクサンドリアを占領し、差し迫った危険だけは取り除きました。
ワシントンを守る北東バージニア軍も、7月には3万5千名に増えていましたが、訓練不足でまだ使い物になりません。ところが、北部の人々は、北軍に過大な期待を寄せ、すぐに南軍の首都リッチモンドに進軍し戦争を終わらせろと大騒ぎです。
世論に押され7月21日、北東バージニア軍は、ワシントンの西40kmのマナサス鉄道ジャンクションを攻撃、付近のブルラン川で2万名の南軍ポトマック軍と戦いが起きました。しかし、戦闘に慣れない北軍がモタモタするうちに、南軍シェナンドーア軍1万2千名の援軍が到着。南北戦争で初めての大会戦となります。結果は南軍の勝利…短期戦で決着をつける北部の楽観的な期待は消し飛んでしまいました。
この戦いの活躍で、ジャクソン将軍は、ストーンウォール(石の壁)の誇り高いあだ名で呼ばれるようになります。その後も周辺では戦闘が頻発しますが、南北戦争の全期間を通じて、北バージニアはおおむね北軍の支配下にありました。
下の図は陸軍が作成した東部戦線の主要戦闘を示す地図に私が少し手を加えたもので、当時の鉄道が記載されていています。南北戦争は、鉄道や水路を押さえる戦争だったことがお分かりになるでしょう。
東部戦線の主な戦闘と当時のバージニアの鉄道
(⇒拡大) |
第一次ブルラン(マナサス)の戦いで意気消沈した北部社会も、1862年は2月から西部戦線でグラント将軍の快進撃が続き、戦意は再び盛り上がっていました。
+++++
マクレラン将軍
+++++
さて、ワシントンの桜並木で有名なポトマック川の南には、ラパハノック川、ヨーク川、ジェームズ川と3本の川が流れ、並行してチェサピーク湾に注いでいますが、南軍の首都リッチモンドはジェームズ川をさかのぼったところにあります。
そのジェームズ川とヨーク川にはさまれた陸地が、バージニア半島。北軍の初めての大作戦は、半島に上陸してリッチモンドに攻め上る作戦でしたが、すんなり決まったわけではありません。
北軍の「アナコンダ戦略」を編み出した老将スコットは第一次ブルランの戦いの責任を取って引退し、北軍の総司令官は、前年11月に西部バージニア戦線で功績があったマクレランに変わっていました。
マクレランは近代戦をよく理解し北軍の軍制構築に大きく貢献した人物ですが、同時に、第一次ブルランの戦いに負けた現場責任者です。実戦は慎重で遅く、南軍の首都リッチモンドの攻略について、早速リンカーンと意見が対立しました。
リンカーンが北から陸路で攻めろというのに、マクレランは半島を攻め上ると言って、大統領命令を聞き入れないのです。結局、リンカーンが妥協して、マクレランの半島作戦を認めます。その代り、マクレランはポトマック軍の司令官に降格。北軍総司令官は、7月に西部戦線からハレックを移動させるまで空席でした。
+++++
半島方面作戦 +++++
3月17日に、北軍ポトマック軍(旧北東バージニア軍)は、海軍と協同作戦でバージニア半島の先端に上陸します。半島を攻め上って、南軍の首都リッチモンドを陥落させる作戦です。
対する南軍の司令官は、後の1864年に、西部戦線でズルズルと戦いながら退却しシャーマンのアトランタ攻略を許してしまったジョンストン将軍。マクレランに負けず劣らず堅実な戦いぶりで、言い換えれば超消極的な戦術家です。この時も、北軍がリッチモンドの目と鼻の先に迫るまで、決定的な反撃をしぶっていました。
しかし、両軍にとっていずれに幸か不幸か、セブンパインズの戦いでジョンストンが重傷を負い、指揮をとれなくなってしまいました。
+++++
七日間の戦い +++++
後任の司令官にリーが就任した途端、戦いの主導権は一転して南軍に移り、6月25日~7月1日の七日間の戦いで、北軍はジェームズ川のほとりに追い詰められます。
北軍は、背後を味方砲艦に守られて半島に踏みとどまったものの、マクレランは無理な戦いは好みません。その頃、リンカーンは北軍に新軍を創設し、ポトマック軍には南軍を挟み撃ちにするチャンスが生まれていました。しかし、マクレランは、8月半ばに撤兵するまで、むし暑さと病気に耐えて野営を続けただけでした。
南軍は勝ったとはいえ、七日間の戦いだけで、北軍の損失15,855名(戦死1734,負傷8066,捕虜・不明6055)を上回る20,204名(戦死3494,負傷15758,捕虜・不明952)の損失を出しました。マクレランは、ワシントンに帰って半島作戦失敗の責任を追及されましたが、兵力の温存という点では、リーに勝る働きをしていました。
年月日
|
東部戦線の主な戦闘
|
勝敗
|
司令官
|
兵力
|
損失
|
損失率
|
1862年3月8~9日 ハンプトンローズの海戦
(半島方面作戦)
1862年3月21~6月24日 南軍ジャクソン将軍のバレー方面作戦
|
1862年5月31日
〜6月1日
|
セブンパインズの戦い
(半島方面作戦)
|
▲北軍
|
マクレラン
|
34,000
|
5,031
|
14.80%
|
▲南軍
|
ジョンストン
|
39,000
|
6,134
|
15.70%
|
1862年6月27日
|
ゲインズミルの戦い
(七日間の戦い‐半島方面作戦)
|
✕北軍
|
マクレラン
|
34,214
|
6,837
|
20.00%
|
●南軍
|
リー
|
57,018
|
7,993
|
14.00%
|
1862年7月1日
|
マルバーンヒルの戦い
(七日間の戦い‐半島方面作戦)
|
●北軍
|
マクレラン
|
54,000
|
2,100
|
3.90%
|
✕南軍
|
リー
|
55,000
|
5,650
|
10.30%
|
1862年8月29日
~30日
|
第二次ブルランの戦い
(南軍北バージニア方面作戦)
|
✕北軍
|
ポープ
|
62,000
|
10,000
|
16.10%
|
●南軍
|
リー
|
50,000
|
8,300
|
16.60%
|
1862年9月17日
|
アンティータムの戦い
(南軍メリーランド方面作戦)
|
●北軍
|
マクレラン
|
75,500
|
12,401
|
16.40%
|
✕南軍
|
リー
|
38,000
|
10,316
|
27.10%
|
1862年9月22日 リンカーン大統領「奴隷解放宣言」
|
+++++
南軍ジャクソンのバレー方面作戦
+++++
話は前後しますが、北軍の半島作戦が失敗したのは、ほかにも理由があります。南軍のジャクソン将軍が3~6月にかけて実行したバレー(シェナンドーア渓谷)方面作戦が、大成功したからです。ジャクソンの1万7千名の南軍に周囲の北軍が振り回され、少なくとも6万人の将兵が、半島方面作戦に参加できなくなっていたのです。
当時、半島作戦に動員された北軍の兵力はピーク時で12万名。ほかに、半島作戦に合わせてフレデリクスバーグ方面からリッチモンドに攻め下るはずだった兵力が4万名、ウェストバージニアに1万5千名、シェナンドーアにも、ジャクソンの南軍に備えて1万8千名がいました。
ところが、北軍は、ジャクソンが半島方面に移動したと思い込み、シェナンドーアを引き上げようとします。そこで、あわてたジャクソンは北上して北軍の後尾に追いつき、3月27日に第一次カーンズタウンの戦いを仕掛けました。結果はジャクソンが生涯で唯一喫した敗戦でしたが、シェナンドーアの北軍は引き返し、フレデリクスバーグの北軍にもリッチモンドへの進撃をあきらめさせたので、戦略的には南軍の大勝利でした。
ジャクソンはいったん南に戻って体制を立て直し、5月8日から48日間で646マイル(1040km)を行軍。各地で北軍を破り、6月24日にリッチモンド入りして半島方面作戦に加わりました。
3月23日~5月8日
(⇒拡大) |
5月21日~6月9日
(⇒拡大) |
+++++
南軍北バージニア方面作戦 +++++
6月26日、リンカーンは、ジャクソンに振り回された部隊らを再編して、新たにポープ将軍のもとにバージニア軍を設けました。その直後の7月1日に、マクレランのポトマック軍はジェームズ川のほとりに追い詰められてしまいます。そこで、バージニア軍は、ポトマック軍の半島撤退を助けるため、ゴードンズビルでバージニアセントラル鉄道を切断し、リッチモンドの南軍を自軍に引きつけようとしました。
ところが、時は既に遅く南軍がゴードンズビルを守っていました。南軍は、今がバージニア軍を個別撃破するチャンスと捉え、7月13日に軍を割き、ジャクソンを先回りさせていたのです。最初の衝突は8月9日のシダー山の戦いで、南軍の勝利。その後も南軍優勢で、北軍バージニア軍は防御線をラパハノック川に下げ、徐々に北バージニアに退いて行きました。
リーは、北軍ポトマック軍の半島撤退を確認し、ほぼ全軍を北バージニアに振り向けます。ジャクソンは、マナサス鉄道ジャンクションの北軍補給廠を占領。8月29~30日にかけ第一次ブルランの戦いと同じ戦場で、再び両軍が会戦しました。結果は再び南軍の勝利。北軍は、ワシントンに敗走しました。
作戦を通じて、北軍7万5千名の損失は16,054名(戦死1724,負傷8372,捕虜・不明5958)と2ヶ月前の七日間の戦いに匹敵し、損失率では大きく上回りました。それに比べて兵力2/3の5万名弱で戦った南軍の損失は9,197名(戦死1481,負傷7627,捕虜・不明89)にとどまり、「強い南軍」伝説を後世に残すことになった戦いでした。
北バージニア方面作戦
8月7~28日 (⇒拡大) |
メリーランド侵攻作戦
9月3~15日 (⇒拡大) |
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南軍メリーランド侵攻作戦 +++++
南軍は勝ったとはいえ、兵力が5万5千名に減っていました。しかし、リーは敢えて賭けに出ます。リッチモンドに戻らず、休まず州境を越えて北部メリーランド州内に侵攻しました。ワシントンやボルチモアに通じる鉄道を切断し北部に混乱をもたらすのが主目的で、ケンタッキーに侵攻した西部戦線と呼応する作戦です。
11月には、北部で連邦議会の中間選挙が控えていました。北部の人々に厭戦気分が蔓延し、選挙で南部連合を認める勢力が大勝すれば、円満に停戦交渉が始まるかもしれません(実際、この年の下院選挙では、民主党が大きく議席を伸ばし、共和党が単独過半数を割っています)。
南部連合のジェファーソン・デイビス大統領も、北部侵攻に征服の意図はなく、北部に南部との休戦を強制するための攻勢であると声明を発表していました。奴隷州メリーランドなら、南部連合に同情的な人々が南軍と連携して北部に反乱を起こしてくれるとの淡い期待もありました。
メリーランド州フレデリックを行進する南軍 |
しかし、南軍は、メリーランド住民に予想外の敵意の目で迎えられます。逆に、南軍兵の中で、南部の自衛の戦いに身を投じた者は北部侵攻を拒否して脱走しました。住民の支援が得られない中で、生のトウモロコシを食べて腹を下し落伍する者もいて、兵力は10日間で1万名減って4万5千名になっていました。
一方の北部でも、パニックが起きていました。ボルチモアでは、混乱を抑えるためにアルコール販売が停止され、市民は包囲戦を恐れ、競って食料や生活必需品を備蓄しました。隣州ペンシルバニアでは、5万人の民兵が緊急に徴募されました。
リンカーンが困ったのは、北軍の司令官です。マクレランが言うことを聞かず、消極的で勝機を逸することは既に有名でしたが、崩壊したバージニア軍を、短期間でポトマック軍に編入して立て直せるのは、ほかに誰もいません。周囲の反対を押し切ってマクレランを再任し、9月7日に、再編した8万7千名のポトマック軍を引き連れて南軍の追跡に向かわせました。
+++++
アンティータムの戦い
+++++
アンティータムの戦い後の南軍兵の死体 |
ポトマック軍は、半島作戦の負け組と第二次ブルランの負け組の混成部隊で意気消沈していましたが、メリーランド住民の熱狂的な出迎えに戦意が覚醒しました。案の定、マクレランは消極的で、この時も絶好の攻撃機会を失います。しかし、それが結果的にリーの油断を誘ったといえましょう。南軍は戦わずしてバージニアに帰るのを潔しとせず、数に劣る兵力で北軍と全面対決する道を選びました。
9月17日、シャープスバーグの近くで、アンティータム川の西に築いた南軍の防御線に北軍が攻撃を仕掛け、アンティータムの戦いが起こります。兵力に倍近い差がありましたが、南軍は有利な地形を活かして奮戦しました。南軍が、負けても壊滅を免れたのは、慎重なマクレランが、最後まで全体の1/4を予備兵として、使わずに残していたせいかもしれません。
両軍合わせて22,717名の損失は、南北戦争で1日の戦闘としては最大でした。1日の戦死者3,654名の記録も、米軍史上最大で未だに破られていません。南軍は、遠征継続に必要な兵力を失い、バージニアに撤退しました。西部戦線のケンタッキーでは南軍の侵攻作戦が続いていましたが、リンカーンは南北戦争の勝利を確信して、9月22日に奴隷解放宣言を発布しました。メリーランドやケンタッキーなどの奴隷州が、もう連邦脱退を企てることはないと思ったからです。
1863年東部戦線
(⇒拡大) |
マクレランは、またもリンカーンの命に背き、アンティータムの戦いで逃げる南軍を追撃しませんでした。ポトマック軍の司令官には、11月7日に将官の中から特筆すべき軍功もないバーンサイドが昇格します。
バーンサイドとフッカーの作戦計画
(⇒拡大) |
この後、北軍ポトマック軍の2人の司令官が、相次いで致命的な敗戦をしますが、その前にもう一度、地理の勉強をしておきましょう。
北バージニアはおおむね北軍が支配していると申し上げましたが、どこまでが北バージニアかというと、目途として境界はラパハノック川。いわばラパハノック川は、南軍の自然の防御線です。
そこで、南軍の首都リッチモンドに鉄道伝いで攻め下りたい北軍と、ラパハノック川の防御線で喰いとめたい南軍が、フレデリックスバーグの周辺で、三度も衝突を繰返しました。1862年12月のバーンサイドのフレデリックスバーグの戦い、1863年5月のフッカーのチャンセラーズビルの戦い、1864年5月のグラントのオーバーランド作戦(荒野の戦い)です。
+++++
フレデリックスバーグ方面作戦 +++++
フレデリックスバーグの戦い
(⇒拡大) |
13日午後1時の突撃
(⇒拡大) |
13日午後3時半の突撃
(⇒拡大) |
バーンサイドは南北戦争が始まり初めて軍務についた人物で、半島作戦の失敗の時も、第二次ブルランの戦いの敗戦時にも、後任司令官を打診され、自信がないと断ってきました。この時は三度目の正直でしぶしぶ引き受けたようですが、リンカーンも、とにかく言うことを聞き、積極的に戦ってくれる司令官を期待していたのでしょう。
リンカーンに急かされたバーンサイドは、秋も深い11月15日に大がかりな陽動作戦を実行します。北軍にはゴードンズビル方面に向かうと見せて、急転してラパハノック川の北岸を下り、渡河してフレデリックスバーグから鉄道沿いにリッチモンドめがけまっすぐ南下する作戦です。成功のカギは迅速な進軍でしたが、船橋の手配ミスで川を渡れません。
北軍左翼の船橋 |
船橋がそろったのは月末で、その時は南軍が北軍の動きを知って、フレデリックスバーグの周囲に塹壕を掘り防御線を完成していました。それでも、バーンサイドは南軍主力がはるか下流にいるものと思い込み、12月11日に「意表をついて」フレデリックスバーグの正面を渡河、13日朝に総攻撃を開始しました。
しかし、そこは正に南軍が塹壕を築いて待ち構える高台の正面でした。援護射撃するはずだった対岸の北軍の大砲は、霧で砲撃できません。特に北軍右翼のメアリーズハイツは、排水路にかかる2本の細い橋が狙い撃ちされ「屠殺」に例えられるほどの凄惨な前線でした。計16回の突撃で6~8千名の損失があったといわれています。
年月日
|
東部戦線の主な戦闘
|
勝敗
|
司令官
|
兵力
|
損失
|
損失率
|
1862年12月11日
~15日
|
フレデリックスバーグの戦い
(フレデリックスバーグ方面作戦)
|
✕北軍
|
バーンサイド
|
114,000
|
12,653
|
11.10%
|
●南軍
|
リー
|
72,500
|
5,377
|
7.40%
|
1863年5月1日
~4日
|
チャンセラーズビルの戦い
(チャンセラーズビル方面作戦)
|
✕北軍
|
フッカ―
|
133,868
|
17,197
|
12.80%
|
●南軍
|
リー
|
60,892
|
13,303
|
21.80%
|
1863年7月1日
~3日
|
ゲティスバーグの戦い
(南軍ゲティスバーグ方面作戦)
|
●北軍
|
ミード
|
93,921
|
23,055
|
24.50%
|
✕南軍
|
リー
|
71,699
|
23,231
|
32.40%
|
バーンサイドは14日に休戦を申し入れ、前線の負傷者を回収し翌15日に撤退しました。北軍の絶望的な敗戦に南部は溜飲を下げ、北部ではリンカーンも巻き添えで非難の嵐に襲われました。バーンサイドは名誉挽回のため冬の野営を続け、翌1863年1月下旬に次の攻勢を試みましたが、恥の上塗りに終わってしまいました。今度は、少し上流の浅瀬を渡ろうとしたのですが、折からの嵐であたりはぬかるみ、大砲や幌馬車の車輪が取られて前進できず、戦闘もせずに引き揚げるしかなかったのです…「泥の進軍」と呼ばれています。
ポトマック軍の幹部将官は、リンカーンに軍紀違反を覚悟でバーンサイド更迭を嘆願し、後任司令官には部下のフッカーが昇格します。
+++++
チャンセラーズビル方面作戦 +++++
フッカーは、ポトマック軍を3ヶ月休養させ、兵力も補充し13万名に達していました。逆に、リーの南軍は物資不足に悩まされ、1万5千名の部隊をバージニア南部の沿岸部に派遣し、リッチモンドの防御と食料調達に当たらせていたので、北からの脅威に対抗する兵力は北軍の半分以下の6万名です。
念には念を入れ、綿密な偵察情報に基づき周到な作戦が練られました…フレデリックスバーグと約10km西のチャンセラーズビルという小村に渡河し、南軍を挟み撃ちにする作戦です。これに対し、リーは、兵力劣勢を承知で戦略的タブーをおかし、自軍を分割し二方面で北軍を受けて立つことにしました。
Battle
of Chancellorsville |
チャンセラーズビルの西には「スポットシルバニアの荒野」と呼ばれる林が広がっています。北軍主力は林に陣取って、南軍の砲撃を避けながら、効果的に南軍を攻撃しました。しかし、ここでフッカーの臆病さが出て、会戦初日の5月1日は、意味もなく攻勢を短時間で終わらせてしまいます。
そこで、リーは、さらに大胆に部隊を分割。2日目に、ジャクソンの部隊2万6千名が大回りで西から林の中に攻め入りました。夕食の準備中だったドイツ系移民部隊は予期せぬ南軍の出現に驚いて、4千名が無抵抗で捕えられ、残りも潰走してしまいました。フッカーは、一転して東西の南軍に挟撃されることになった最前線の部隊に、急いで後退するよう指令します。北軍は重砲を構えられる林で唯一の拠点を失い、チャンセラーズビル方面で守勢に回ってしまいました。
チャンセラーズビルの戦い
5月2日 (⇒拡大) |
チャンセラーズビルの戦い
5月3日 (⇒拡大) |
フレデリックスバーグ高台の南軍兵の死体 |
フレデリックスバーグの北軍部隊2万3千名は、3日目の朝になって初めて動き出しました。午後には南軍の防御線を破ってチャンセラーズビルの救援に向かいますが、途中、リー部隊の一部に押し戻されてしまいます。不覚にも、攻略したフレデリックスバーグの高台に兵を残して来なかったため、4日目には撤退したはずの南軍が戻り、いつの間にか挟み撃ちにされていました。
5日目には、フレデリックスバーグの北軍が夜明け前に渡河して撤退、夜にはチャンセラーズビルの北軍主力も撤退。並行して試みた騎兵隊の後方襲撃作戦も失敗し、チャンセラーズビルの戦いは、兵力に劣る南軍の番狂わせの勝利に終わりました。北軍敗戦の原因の一つに、フッカーが砲撃で昏倒し作戦の指揮が取れなかった際にも、指揮権を副官に渡さなかったことがあげられています。フッカーも部下の信頼を失い、ポトマック軍幹部の不和は解消しませんでした。
しかし、南軍は、今回も大きな損失を避けられませんでした。しかも、優秀な将官を数多く失くしています。中でも、かけがえのないジャクソン将軍が味方の誤射で負傷し、治療中に肺炎を起こし亡くなってしまったのは、リー将軍にとって南北戦争で最大の痛恨事でした。
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南軍のゲティスバーグ方面作戦 +++++
Gettysburg
Campaign (⇒拡大) |
チャンセラーズビルの戦いには勝ちましたが、南軍の兵力にはもう余裕がありません。西部戦線では、北軍グラントのビックスバーグ包囲戦が始まり、南部連合のジェファーソン・デイビス大統領は、リーに援軍の要請をしてきました。しかし、リーは、援軍の派遣を断り、前年のメリーランド方面作戦の再現を計画します。ちょうど、前年の作戦で、北軍が南軍の作戦計画書を偶然手に入れ、戦いを有利に進めたと知ったばかり…チャンセラ―ズビルで大敗したフッカーの北軍が相手なら、次は間違いなく勝てるでしょう。
西部戦線の状況が悪化する中、北部の一般市民に直接戦争の脅威を与え、世論を和平推進に傾かせる以外に策がなくなっていました。逆に、バージニアの市民には、戦場を北部に移し、しばらく骨休めさせてあげなければなりません。
6月3日、南軍は、フレデリックスバーグから、北軍の監視の目を盗んで北部に出発しました。騎兵隊の戦線攪乱のかげで、シェナンドーア渓谷を北上。中旬に、ポトマック川を越えてメリーランド入り。さらにペンシルバニアに進んで、月末には一部がサスケハナ川に到達…対岸の当時の州都ハリスバーグを脅かしました。人々は難民化して北に東に逃げ、州知事は緊急募兵をしましたが間に合わず、ニューヨークとニュージャージーに州兵の派遣を依頼し、防備を固めます。
Battle
of Gettysburg (⇒拡大) |
フレデリックスバーグを引き揚げた北軍ポトマック軍は、しばらくマナサス鉄道ジャンクションで待機していましたが、6月25日に南軍北部侵攻の報に接し、ただちに南軍を追跡します。28日にフッカーが辞任し新司令官に配下のミードが就任するハプニングがありましたが、リンカーンはポトマック軍に、南軍がサスケハナ川を越えたりボルチモア方面に転進したりする前に、戦いを仕掛けるよう厳命しました。
そこで、ポトマック軍はゲティスバーグめがけて北上します。南軍も、北軍の動きに呼応して、離散した部隊をゲティスバーグの北方に集結させます。しかし、7月1日朝、両軍ともに全ての部隊がそろっていないうちに衝突が起き、戦いが始まってしまいました。
ゲティスバーグの戦いの直後 |
戦闘の初日は、ゲティスバーグを背にする北軍を北と西から攻めた南軍が優勢でしたが、北軍が町の南に撤退するのを許してしまいます。友軍の到着を待って南軍が翌日の遅くに攻撃を再開したときには、北軍が自然の地形を利用した堅固な陣地を築いていました。2日目は、両翼を攻撃して多数の犠牲者を出しました。3日目も同様で、南軍は、歩兵12500名を1200m先の北軍正面に向けて前進させる決死の攻撃(ピケットの突撃)を試みましたが、北軍陣地は崩せません。
4日目は、自軍陣地で北軍の攻撃を待ちましたが、北軍は仕掛けてきません。その夜、南軍は、バージニアへの撤退を始めます。両軍の損失は、3日間で計46,286名。うち北軍は23,055名(戦死3155,負傷14531,捕虜・不明5369)で、南軍は23,231名(戦死4708,負傷12693,捕虜・不明5830)で、南北戦争でも最大の激戦でした。
南軍は、撤退にも苦労しました。ポトマック川が洪水で渡河できず、ウィリアムズポートで退路が断たれていたのです。12日には北軍に追いつかれてしまいますが、北軍が塹壕を掘っているうちに何とか川を渡って逃げることができました。
ミードは北部に大勝利をもたらした英雄となるはずが、一転して南軍を取り逃がした臆病者になってしまいました。
10~11月に名誉挽回のバージニア侵攻を試みましたが、兵力不足で失敗に終わります。ポトマック軍は、チャタヌガで包囲されている西部戦線の北軍に援軍を割いていて、全兵力を動員できなかったのです。
ポトマック軍司令官は今度はクビになりませんでしたが、西部戦線のグラントが陸軍総司令官に昇格し、ポトマック軍に加わって直接指揮をとることになったので、実質的には降格と変わりません。
南北戦争は最終ステージに入り、南軍は受身に回る一方で、戦局を逆転する力は残っていません。南北の兵力差や兵站(軍需品や食料の補給)の格差が露骨に現れてきました。リンカーンとグラントは協議して、全戦線で協調した一斉攻勢をかけることにしました。
+++++
オーバーランド作戦 +++++
Gettysburg
Campaign (⇒拡大) |
その中で、最も重要な二本立てが、南部経済の心臓部アトランタを攻める西部戦線のアトランタ方面作戦と南部連合の首都リッチモンドを攻める東部戦線のオーバーランド作戦でした。北から南に攻め下るのは偶然としても、同じ時期にセットで実行された双子のような作戦です。
一つ大きく異なるとすれば、アトランタ方面作戦では南軍が自主的に防御線を後退してくれたのに対し、オーバーランド作戦では北軍が南軍の防御線を跳ね除け、力ずくで前進した点でしょう。北軍は、過去に1862年の半島作戦と1863年のフレデリック・チャンセラーズビル方面作戦で、リッチモンドの攻略に失敗していました。オーバーランド作戦では、個々の戦いの勝ち負けにこだわらず、北軍の犠牲が南軍の犠牲を上回ろうとも、リッチモンドに到達する覚悟がありました。
5月5日、緒戦の荒野の戦いは、1863年と同じく北軍がラパハノック川を渡った所で起きました。チャンセラーズの戦いでは、北軍が南軍の砲撃を避けるために「スポットシルバニアの荒野」という広大な林の一角に立てこもりましたが、今度は南軍が、大砲の数で勝る北軍の砲撃を避けるために林を利用しました。
北軍は大きな損失を出し戦場から撤退しますが、これまでの戦いの後とは違い、東に迂回し、かまわずリッチモンド方面に進撃を続けます。次は、戦場を変え、スポットシルバニアコートハウスの戦いです。
年月日
|
東部戦線の主な戦闘
|
勝敗
|
司令官
|
兵力
|
損失
|
損失率
|
1864年5月5日
~7日
|
荒野の戦い
(オーバーランド作戦)
|
▲北軍
|
グラント
|
101,895
|
17,666
|
17.30%
|
▲南軍
|
リー
|
61,025
|
11,125
|
18.20%
|
1864年5月8日
~21日
|
スポットシルバニアコートハウスの戦い
(オーバーランド作戦)
|
▲北軍
|
グラント
|
100,000
|
18,399
|
18.40%
|
▲南軍
|
リー
|
52,000
|
13,421
|
25.80%
|
1864年5月31日
~6月12日
|
コールドハーバーの戦い
(オーバーランド作戦)
|
✕北軍
|
グラント
|
108,000
|
12,737
|
11.80%
|
●南軍
|
リー
|
59,000
|
4,595
|
7.80%
|
1864年6月15日
~18日
|
第二次ピーターズバーグの戦い
(ピーターズバーグ包囲作戦)
|
✕北軍
|
グラント
|
62,000
|
11,386
|
18.40%
|
●南軍
|
リー
|
38,000
|
4,000
|
10.50%
|
林を味方にできなくなりましたが、南軍は何とか北軍を先回りして、スポットシルバニアの町の周りに堅固な塹壕を築きました。しかし、12日に北軍は塹壕の突出部分を攻略します。この日は一昼夜、両軍血みどろの戦いが続きました。その後、いったん北軍が退いた後、南軍は新たな塹壕を掘り再び守りを固めます。北軍は攻めあぐねて、また東回りで南下します。
Battle
of the Wilderness |
Battle
of Spotsylvania Courthouse |
Battle
of Cold Harbor |
これを繰り返して、5月31日、北軍騎兵隊はついにリッチモンドの北東10マイル(16km)のオールド・コールドハーバー交差点を占領しました。これを機に両軍が付近に集結し、低い尾根沿いの全長7マイル(11km)の前線で対峙します。6月3日、北軍の総攻撃は、夜間行軍で疲れた一部部隊に休息を与え、1日遅れで始まりましたが、その間に南軍が巧妙な塹壕を掘っていたために、フレデリックスバーグの戦い以来の一方的な敗北を喫しました。塹壕を掘る技術は、南北戦争の間に、劇的に進化していたのです。
+++++
第二次ピーターズバーグの戦い +++++
2nd
Battle of Petersburg |
第二次ピーターズバーグの戦い
(⇒拡大) |
グラントは、リッチモンドを直接攻めるのは得策でないと考え直しました。ねらいを南の鉄道の拠点ピーターズバーグに定め、補給路を断ちリッチモンドの首を絞めようとしたのです。
ピーターズバーグは、既に北軍の小部隊が単独で攻略を試み、失敗はしましたが、防御は甘いと分かっていました。しかし、6月15日の第二次ピーターズバーグの戦いでは、北軍の先遣部隊がモタモタ戦っているうちに、南軍が防備を固めてしまいました。
18日にはリーも援軍を連れて到着し、北軍は絶好のチャンスを失います。グラントが油断して、頼りない指揮官に先鋒を委ねたのが失敗でした。
そこで、北軍は市街南部に延々と長い塹壕を掘り、ピーターズバーグをグルリと包囲します。南軍も向かい合って塹壕を掘り、南北がそれぞれの塹壕にこもって対峙する展開になりました。
こうして、ピーターズバーグ包囲作戦はその後10ヶ月にわたり翌1865年4月まで続きました。
+++++
リンチバーグ方面作戦 +++++
バージニア西部のシェナンドーア川は首都ワシントンを流れるポトマック川の源流で、農産物の豊かなバレー(シェナンドーア渓谷)地方は、北部にとっても重要な地域でした。いつまでも、南軍の勢力下に置いておくわけにはいきません。担当は、北軍ウェストバージニア軍です。
5月の北軍一斉攻勢で、北軍は1万名で攻め上り、渓谷南部の町リンチバーグを占領することになっていました。南軍は大半がリーの援軍に駆り出され、守りは手薄。東テネシーから駆けつけた南軍救援軍も、6月5~6日のピードモントの戦いで北軍に敗れてしまいます。
時はちょうど、グラントの北軍がリッチモンドとピーターズバーグに肉薄していた頃です。リーの南軍は6万名余り…難しい決断ですが、貴重な兵力を割いて1万名をシェナンドーア渓谷に派遣しました。指揮官は、故ジャクソン将軍の下でシェナンドーア渓谷の戦闘を学んだアーリー将軍。すんでのところで間に合い、17~18日のリンチバーグの戦いで北軍を破り、リンチバーグの鉄道拠点を守りました。
+++++
南軍アーリーのワシントン襲撃 +++++
しかし、シェナンドーア渓谷を取り戻し兵力を1万6千名に増したアーリーは、リーの手許には戻りません。メリーランドに侵攻し、一気にワシントンに向かったのです。リーは、アーリーが連邦政府を慌てさせ、リッチモンドの北軍圧力を減らすことに期待をかけました。
Fort
Stevens |
グラントは、7月6日にワシントン遠征軍を編成し蒸気船で急派しますが、危機は切迫していました。9日、最初に着いた援軍の一部とボルチモアに駐屯する小部隊がメリーランドに進軍し、兵力が倍以上の南軍を相手に大敗します。しかし、おかげで南軍が1日足止めされました。
11日の正午頃にワシントンに北軍の残りの援軍が蒸気船で着いたのは、南軍の先頭がホワイトハウスの北8kmのスティーブンス砦の前に現れたのとほぼ同時でした。南軍は、暑さと行軍の疲れで奮わず、13日にポトマック川を越えいったんバージニアに撤退します。
北軍の遠征軍は、南軍を追撃してシェナンドーア渓谷に追い込みました。ワシントン防衛の目的を果たし、遠征軍は20日に帰還を始めます。ところが、南軍はシェナンドーア渓谷に残された北軍ウェストバージニア軍にねらいを定めていました。24日にカーンズタウンの戦いで撃ち破り、後を追って再びポトマック川を渡り、30日にはペンシルバニアのチャンバーズタウンの町を焼き払いました。
+++++
シェリダンのバレー方面作戦 +++++
事態を重く見たグラントは、ウェストバージニア軍と遠征軍を新シェナンドーア軍に再編成して、攻撃的で知られる騎兵隊のシェリダン将軍を司令官に任じました。しかし、11月に2期目の大統領選挙を控えるリンカーンは、再選に差支える大失点を避けたくて、8月中はシェリダンに慎重な戦闘を命じていました。これを、アーリーはシェリダンの消極性の表れとみて油断します。
南軍アーリー‐北軍シェリダン
5~7月
(⇒拡大) |
南軍アーリー‐北軍シェリダン
8~10月 (⇒拡大) |
Sheridan
at 3rd Battle
of Winchester |
9月19日、南軍は、離れた2つの鉄道拠点に部隊を散開していました。シェリダンの方は、2日に西部戦線でアトランタが陥落…リンカーン再選が確実視されるようになって、もう遠慮する理由はありません。アーリーがマーティンズバーグでボルチモア‐オハイオ鉄道を襲撃しているすきに、シェリダンは、ウィンチェスターの南軍を個別撃破しました。
北軍の損失が数で南軍を上回っても、南軍の損失率が高ければかまわないのは、グラントのオーバーランド作戦と同様です。南軍は、チャンセラーズの戦い以来、またもや優秀な将官を数多く失ってしまいました。
北軍は21~22日のフィッシャーズヒルの戦いにも勝って、シェナンドーア渓谷全般を制圧しました。続いて南部に攻め上り、そこから作物や農家の設備や作業所を焼き払いながら渓谷をゆっくり北に戻ります。11月にシャーマン将軍がジョージアで実行した「海への進軍」の前ぶれで「バーニング」と呼ばれた焦土作戦でした。
Philip
H. Sheridan |
George
A. Custer |
食料の調達もできなくなった南軍は、援軍を得て北軍を追撃するしかありません。10月19日にシダークリークで未明の奇襲に成功し、いったんは北軍の兵士を潰走させます。
しかし、飢えた兵士が北軍宿営地の略奪に夢中になっている間に北軍は体制を立て直し、最後は南軍が完敗。アーリーの部隊は、大砲や多数の古参兵を失って崩壊しました。捕虜を免れた兵は、大多数がリッチモンド‐ピーターズバーグの戦線に戻って戦いました。
余談ですが、この作戦で活躍した北軍のカスター将軍は、1876年のリトルビッグホーンの戦いで、スー族・シャイアン族連合軍を相手に不覚を取って落命した有名なカスター将軍と同一人物です。南北戦争以降のインディアン戦争は、グラント大統領−シャーマン陸軍総司令官−主にミズーリ軍管区のシェリダン司令官−第7騎兵隊カスター将軍ほかのラインで、遂行されたのです。
年月日
|
東部戦線の主な戦闘
|
勝敗
|
司令官
|
兵力
|
損失
|
損失率
|
1864年9月19日
|
第三次ウィンチェスターの戦い
(シェリダンのバレー方面作戦)
|
●北軍
|
シェリダン
|
40,000
|
5,020
|
12.60%
|
✕南軍
|
アーリー
|
12,000
|
3,610
|
30.10%
|
1864年10月19日
|
シダークリークの戦い
(シェリダンのバレー方面作戦)
|
●北軍
|
シェリダン
|
31,610
|
5,764
|
18.20%
|
✕南軍
|
アーリー
|
21,102
|
2,910
|
13.80%
|
1864年11月8日 リンカーン大統領再選
|
1864年11月19日 リンカーン大統領「ゲッティスバーグ演説」
|
シダークリークの戦いの20日後に大統領選挙があり、リンカーンは、無事に再選されました。さらに11日後の1864年11月19日に、有名なゲティスバーグ演説がありました。「人民の人民による人民のための政治(が、地上から消え去ることは決してない)」は、前年の夏の戦いで亡くなった北軍兵士に捧げる短い追悼演説でしたが、同時に北軍の勝利が不動のものと誇らしく宣言したのかもしれません。
第二次ピーターズバーグの戦いの後も、北軍は、地下道を掘って南軍陣地の真下で大爆発を起こしたり、あらゆる手段でピーターズバーグの攻略を試みましたが、1864年は決定的な勝利を得られず暮れてしまいました。冬の間も、両軍はともに塹壕にこもり戦闘を交えながら過ごしましたが、南軍は絶え間ない戦闘に加え、病気と飢えや脱走でますます弱体化していました。
+++++
ピーターズバーグ包囲作戦 +++++
包囲軍の大砲
"独裁者" |
1864年秋の防御陣・包囲陣 (⇒拡大) |
翌1865年の2月に北軍はピーターズバーグ南西で道路を切断、市街包囲する塹壕もさらに西に延び総延長が15マイル(24km)を超えるまでになりました。南軍も、対面する塹壕を掘り進めましたが、もはや長い前線を守り切る兵力が足りません。さすがのリーも、自信を失ってきました。
ぐずぐずしていたら、シェナンドーアのシェリダンが復帰してグラントのポトマック軍が一段と強化されることでしょう。残された補給路も、いつ完全に切断されるか分かりません。南から西部戦線のシャーマンが迫ってきているとの情報もあります。一部部隊だけでも脱出させて、食料を確保し、ノースカロライナで南軍テネシー軍と合流して、体制を立て直さなければなりません。
3月25日、南軍は、北軍本部方面を守る最前衛の砦に奇襲をかけました(ステッドマン砦の戦い)。東部包囲陣の一部を崩し、北軍兵力を東に集めて、南軍が西から脱出するチャンスを探ろうとしたのです。しかし、作戦は失敗。結果的には、南軍の東部守備陣が弱くなってしまいました。一般的には、これがピーターズバーグ包囲作戦の最後の戦いとされています。
+++++
リバークイーン号 +++++
リンカーン大統領第2期就任演説
(3月4日) |
ピーターズバーグ包囲作戦の間、グラントの北軍本部はジェームズ川とアポマトック川の合流点を見晴らす岬のプランテーションハウスに置かれていました。ジェームズ川をさかのぼればリッチモンド、アポマトックス川をさかのぼればピーターズバーグです。
合流点より下流は太く、チェサピーク湾の入り江のように川幅が広い箇所で、蒸気船もさかのぼることができました。3月29~30日、蒸気船リバークイーン号の船上でリンカーンとグラント、ノースカロライナに攻め上った西部戦線のシャーマンと海軍のポーターの4人が作戦会議を開きました。2月3日に、チェサピーク湾の湾口で、南北の講和会議が物別れに終わった同じ船上です。
Appomattox
Manor at City Point |
River
Queen |
1865
meeting on the River Queen |
シェリダンは、3月2日のウェインズボロの戦いでシェナンドーア渓谷から南軍の残党を一掃し、26日にグラントのポトマック軍に復帰していました。グラントは、シェリダンの騎兵部隊を直属として、南北戦争終戦の切り札に使うつもりでした。午後にはグラントとともにリンカーンに招かれ、リバークイーン号のクルーズを楽しんでいます。
+++++
アポマトックス方面作戦 +++++
作戦は、3月29日から北軍主導で始まりました。シェリダンの騎兵部隊を中核とする北軍部隊が、南軍の防御線を大きく西に迂回して、南軍の残された補給路を断つ動きに出ます。南軍も部隊を西に動かして前線を守り抜こうとしましたが、4月1日のファイブフォークスの戦いで、戦術的に決定的に重要な五差路を奪われてしまいました。これにより、生命線のサウスサイド鉄道が北軍に切断されるのも時間の問題となりました。
年月日
|
東部戦線の主な戦闘
|
勝敗
|
司令官
|
兵力
|
損失
|
損失率
|
1865年3月4日 リンカーン大統領「第二期就任演説」
|
1865年4月1日
|
ファイブフォークスの戦い
(アポマトックス方面作戦)
|
●北軍
|
シェリダン
|
22,000
|
830
|
3.77%
|
✕南軍
|
ピケット
|
10,600
|
2,950
|
27.83%
|
1865年4月2日
|
第三次ピーターズバーグの戦い
(アポマトックス方面作戦)
|
●北軍
|
グラント
|
76,113
|
3,500
|
4.60%
|
✕南軍
|
リー
|
58,400
|
4,250
|
7.30%
|
1865年4月9日
|
アポマトックス・コートハウスの戦い
北バージニア軍(リー将軍)降伏
|
●北軍
|
グラント
|
28,000
|
164
|
0.60%
|
✕南軍
|
リー
|
10,000
|
~500
|
~5.0%
|
1865年4月15日 リンカーン大統領暗殺
|
1865年4月26日 ノースカロライナで南軍テネシー軍降伏
|
1865年5月9日 ジョンソン大統領「戦闘終息声明」
|
グラントは、その夜8時にシェリダンの勝利の報を聞いて、10時から南軍の前線に夜間砲撃を開始。ポトマック軍全軍に、翌2日午前4時のピーターズバーグ総攻撃開始を指令しました。そして、第三次ピーターズバーグの戦い。早朝の総攻撃で、西に長く伸びた南軍の防御線は4時40分に中央部で破られ、さらに6時に最西端で破られて、南軍は朝早いうちにも市街地周辺に閉じ込められてしまいました。
Battle
of Five Forks
(⇒拡大) |
3rd
Battle of Petersburg
(⇒拡大) |
リーは、南部連合政府にリッチモンドとピーターズバーグ両市の放棄を告げ、南軍はアメリア・コートハウスの町で再結集することに決めました。アメリアは、北軍にまだ切断されていないリッチモンド−ダンビル鉄道沿いで、ここならリッチモンドの避難物資を補給することができます。前もって疎開中の南部連合政府の臨時首都ダンビルにも通じていますし、その先には南軍テネシー軍が集結しているノースカロライナ州ゴールズボロがあります。
日暮れを待って、両市から南軍は撤兵を開始しました。リッチモンドでは群衆の暴動が起き、火災が町を呑み込みます。翌3日朝、南部連合の首都リッチモンドは、降伏しました。
+++++
リーの撤退戦 +++++
逃げるリーと追うシェリダンの競走が始まります。リーの南軍3万名は4日にアメリアで再集結しましたが、当てにしていたリッチモンドの避難物資は、北軍に奪われていました。南軍は周辺で食料の徴発に励みましたが、成果は乏しく、それどころか貴重な1日のロスで、以降は北軍に先回りされてばかりになってしまいます。
Appomattox
Campaign (⇒拡大) |
リー将軍の降伏
(4月9日) |
5日には、生命線のリッチモンド−ダンビル鉄道が北軍に占拠されていることが分かりました。頼みの糧食は、その先のファームビルに送ると南部政府がいうので、さらに西に進軍。しかし、ファームビルでも北軍に追いつかれ、糧食をあきらめて、さらに、次のチャンスのアポマトックス・コートハウスに進軍しました。
アポマトックス・コートハウスには糧食を積んだ貨車が待っているはずでしたが、それも先回りした北軍に焼き払われていました。
リンカーン大統領の暗殺
(4月15日) |
北軍を追い越してその先のリンチバーグに着くことができれば、今度こそ糧食にありつけるはずでしたが、リーの南軍には力が残っていませんでした。9日にアポマトックス・コートハウスで最後の戦いに敗れ、リーはグラントと会見、北軍の勧告を受け入れて降伏しました。
それから1週間も経たない15日に、リンカーンはワシントンのフォード劇場で凶弾に倒れました。そのせいで少し遅延しましたが、26日にゴールズボロの南軍テネシー軍も降伏。南北戦争は、事実上終戦します。
南北戦争の数字は、(南軍側は特にそうですが)様々な記録があり信頼度は高くありません。それを承知で、ざっと比較してください。
南北は、経済力の格差もさることながら人口の格差も大きく、奴隷を除く人口では北と南が4:1で、兵力は2:1でしたから、募兵も含め徴兵される確率は南部が2倍高かったわけです。仮に人口の半分が男子とすると、南部では老人や子供も含めた男子のうちの38%が参戦したことになります。きっと兵役適齢期の男子の3人に2人くらいの割合でしょう。
戦死・戦病死者の数も負傷者の数も、北軍が南軍をはるかに上回っていますが、戦死・戦病死者の率では南軍が上で、実に兵士の10人に3人が亡くなったことになります。ナイチンゲールが従軍したクリミア戦争は1853~56年でしたが、当時は戦死より赤痢などによる戦病死が多かったようです。南北とも、捕虜の待遇がひどく、収容所で死んだ兵士も含まれています。
兵力 |
年 |
北部(合衆国) |
南部連合 |
北部:南部 |
人口 |
1860 |
2210万人 |
910万人 |
71:29 |
1864 |
2880万人 |
300万人 |
90:10 |
(うち自由人) |
1860 |
2170万人 |
560万人 |
81:19 |
(うち奴隷) |
1860 |
40万人 |
350万人 |
11:89 |
1864 |
僅少 |
190万人 |
ー |
兵力 |
1860–64 |
210万人 |
106万4千人 |
67:33 |
戦死・戦病死者数 |
1861–65 |
36万5千人…17.4% |
30万人~…28.1%~ |
ー |
(うち戦死・戦傷死) |
1861–65 |
(141千人…6.7%) |
(75~94千人…7.0~8.8%) |
ー |
(うち戦病死) |
1861–65 |
(224千人…10.6%) |
(225千人~…21.1%~) |
ー |
|