海外赴任、留学、国際結婚…北米に住む日本人の皆さんのアメリカ生活をゆたかにするメールマガジンです。四季折々のタイムリーな話題や各地のお買物や観光の情報をお届けします。検索ボタンで姉妹サイト「アメリカ生活・e-百科」のワード検索もできます。

発行: KJBusiness Consulting, LLC 代表 山田  電話: (859)224-0087 Eメール: info@jlifeus.com  HP: www.jlifeus.com

2015年9月15日 (第111号)

サイト内ワード検索


【イラン核協議合意B】 英露のグレートゲーム

  イギリスの利権あさり…中央銀行さえ英資本

  今年7月にアメリカはイランと核協議で合意し、来年1月には経済制裁も解除されると予想されています。今回の一連の特集記事は、これまでの米・イラン両国のこじれた関係を説明するのが目的でしたが、背景を調べるうちに、世界史の研究のようになってしまいました。

 前の記事とこの記事では、かつて「グレートゲーム」と呼ばれたロシアとイギリスの領土獲得競争について説明しています。この記事は、ロシアの中央アジアを南下し、イギリスが英領インドから北上して、アフガニスタンで鉢合わせした歴史と、イギリスが、改革ぎらいのカジャール朝から、金融や専売、鉱山採掘などの国家利権を獲得した歴史を書きました。 

 当初の想定が甘すぎて、今月の記事は、19世紀末のイラン(ペルシャ)情勢について書いたところで、いったん打ち切らなければなりません。とはいえ、その後の歴史もサマリーだけは書いておきました。


グレートゲーム(英露の対決)


 地図1は、前の記事にも載せた地図ですが、黒海・カスピ海・ペルシャ湾周辺の油田の分布を記してありますから、地図2と併せて参考にごらんください。

地図1 西暦1500年の東半球諸国家と黒海・カスピ海・ペルシャ湾の油田地帯 (⇒拡大)

 地図2はイスラム教の宗派分布図ですが、それにサファビー朝ペルシャとオスマントルコの最盛期の領土と、第二次世界大戦後のソ連(点線は衛星国)およびイギリス領インドの領土を示しています。

 なぜ2つの地図をごらんにいれたかというと、19世紀以降の西アジアの軍事情勢は、オスマントルコとペルシャの対立から、ロシア(ソ連)とイギリスの対立に切り替わり、それが変形して現代のイランとアメリカの問題に結びついているからです。

+++++ ロシアの領土拡張と南下政策 +++++

 ロシア(ソ連)とイギリスの対立は、ユーラシアの東西に及ぶ領土と利権の争いで、グレートゲームと呼ばれました。日露戦争時にイギリスが日英同盟で日本を支えたのも、極東でロシアが満州と朝鮮に進出するのを阻止したかったからです。

地図2 イスラム教宗派地図とグレートゲーム説明図 (⇒拡大)

 地図1でロシアは「ロシア諸公国」となっていますが、ちょうどモスクワ大公国のイワン3世が、1240年のモンゴル侵攻以来キプチャクハン国にしいたげられていたスラブ系諸公国をまとめ、北東ロシアを統一していた頃に当たります(地図3…)。

 1533年にイワン雷帝が即位して1689年に清とネルチンスク条約を締結するまでは、広くシベリアに領土を拡げました()。ピョートル大帝(1682∼1725年)や女帝エカチェリーナ2世(1762∼96年)の時代には、バルト3国とベラルーシやウクライナを獲得()。19世紀の4帝()は、コーカサスや中央アジアと外満州の領土を追加しました。日露戦争前には、満州やモンゴルのほかカスピ海南岸のペルシャ領にまで勢力を伸ばしていました。

地図3 ロシア帝国領の拡大 (⇒拡大)

地図4 ロシアの保護国・占領地・勢力範囲 (⇒拡大)

 初期のロシアの悲願は、ロシア艦隊の不凍港の確保でした。バルト海や黒海から大西洋に出るには、海峡で狙い撃ちされるおそれがあります。1858年にアイグン条約で外満州を手に入れるまでは、極東にも海軍基地がなかったのです。となれば、中央アジア経由でインド洋に進出するしかありません。後にソ連版ベトナム戦争と言われるほど泥沼化した1979年のアフガン侵攻も、その延長線上でした。

+++++ イギリスの東インド会社 +++++

 一方、インドは、ティムール帝国の残党が1526年に建てたムガール帝国が支配していましたが、第6代アウラングゼーブ帝(1658∼1707年)の死後に衰退期に入り、代わりにイギリスの東インド会社が勢力を伸ばしていました。正式に英領インドが誕生するのは1877年でしたが、インド洋を目指すロシアの南下政策を迎え撃ったのがイギリスです。

 東インド会社が設立されたのはエリザベス1世治世下の1600年でした。商業ばかりか、外交や軍事も植民地経営も任された勅許会社で、東南アジアに強いオランダの東インド会社との衝突を避け、特にインドと西アジア相手の交易に努力しました。サファビー朝とも貿易協定を結び、1622年にはペルシャ軍とともにホルムズ海峡の拠点を占領して、ペルシャ湾からポルトガルとスペインの貿易商人を追放しています。だいぶ時代が下り1798年のことですが、オスマン帝国でも、バグダッドに商館が開かれ、イギリス領事が太守に次ぐ権限を与えられています。

+++++ アフガニスタンの独立 +++++

 英露の対立は別に詳しく書きますが、いったんペルシャに話を戻しましょう。18世紀に入ってからは、辺境で民族の反乱が頻発しました。その中で、1722年にアフガニスタンに興ったホタキ朝が、ペルシャの首都イスファハンを占領し、サファビー朝からペルシャ支配の実権を奪いました。

現代のアフガニスタンの民族構成

パシュトゥーン人

  

45%

タジク人

  

32%

ハザーラ人

  

12%

ウズベク人

  

9%

その他

  

2%

 しかし、名目化したサファビー朝の摂政にトルクメン(カスピ海東南岸のトルコ)系アフシャル族のナディル・シャーが就任。1729年に首都からホタキ朝を追い出します。1736年には、サファビー朝に替わっり、自身のアフシャル朝を創始しました。

 シャーは、ペルシャ語で「国王」。サファビー朝以降、スルタンやハンに替わって使われるようになりました。

 アフガニスタンは有史以来ほぼ一貫してペルシャ領の一部で、民族も大半がペルシャ系でしたが、発祥の地に舞い戻ったホタキ朝の下で、この時に初めて国家として独立しました。現在は、宗派的には8~9割がスンニ派で、少数派のシーア派は大半が12イマム派です。

+++++ カジャール朝ペルシャ +++++

 一方、ペルシャのアフシャル朝は、アフガニスタンやオスマン帝国に攻め入って一時はサファビー朝の版図を回復しますが、1747年のナディル・シャーの死とともに内紛が始まり、その後は衰退の道をたどりました。

 そこへ、サファビー朝の残党によるザンド朝が現れイラン高原を広く平定しましたが、これも後継者争いで内部崩壊。次第に、北部アゼルバイジャン生まれのカジャール朝が伸長して、1794年にザンド朝を滅ぼしました。しかし、新王朝も、封建地方政権の寄り合い所帯で軍事的な基盤は弱く、ペルシャは、アフガニスタンとともに、南北の英露勢力に従属することを強いられるようになります。


ロシアの南進(中央アジア編)


キプチャクハン国の金・青・白のオルド (⇒拡大)

コーカサス・中央アジア…19世紀ロシア南下 (⇒拡大)

 ここでは、中央アジアにおけるロシアの南進をご説明しましょう。

 13世紀にチンギスハンの一族が築いたモンゴル大帝国は、ご存じのように北西のキプチャクハン国、南西のイルハン国、中央部のチャガタイハン国、中国の元の4帝国に分かれます。そのうちキプチャクハン国は、さらに青と白のオルドと分かれ、次第にトルコ化していきました。オルドとは、遊牧民ならではの移動宮廷の呼び名です。

 地図1をごらんください。西暦1500年時点では、青のオルドからクリミア、カザン、アストラハン、シビルの4つのハン国が生まれているのがお分かりでしょう。クリミアを除く3ハン国は、ロシア諸公国から生まれたロシアに、16世紀末までに征服されてしまいます。

+++++ カザフスタン +++++

 中央アジアでは、白のオルドの後身のウズベクハン国が、北のカザフハン国(現カザフスタン)とシルクロードの3ハン国に分かれます。西から順にヒバ、ブハラ、コーカンドの3ハン国で、主に西トルキスタンの現ウズベキスタン・タジキスタン・キルギスから東トルキスタン(現中国の新疆ウイグル自治区)の西境にかけて存在しました。

 カザフハン国は、1723年以降、東トルキスタンに移動してきたモンゴル系オイラト族の侵攻に悩まされ続け、1730年にロシアに救援を要請しました。

 ロシアは、1735年に、南ウラル地方に東方の前線基地として要塞都市オレンブルグを建設、中央アジアの遊牧民族を制圧する拠点となっていきます。

 カザフハン国は、1820年代に、ロシアの直接統治を受け入れるようになりました。

+++++ アフガニスタンとインド +++++

 アフガニスタンではホタキ朝が1738年に滅ぼされ、国家の独立が途絶え、またアフシャル朝のペルシャに吸収されてしまいました。

 しかし、アフシャル朝の乱れに付け入って再度パシュトゥン人が旗揚げして、1747年にドゥラニ朝が誕生。アフガニスタンは再び独立を果たしまし、逆にイラン北東部に攻め入りました。さらに転進してムガール帝国からパンジャブ地方とカシミール地方を奪い、この時代にアフガニスタン領は大いに拡大しました。

ムガール帝国の領土 (⇒拡大)

 一方、インドでは、ムガール帝国が第6代のアウラングゼーブ皇帝の時代(1658~1707年)に、最大版図を更新しました。しかし、第3代アクバル大帝(1556~1605年)以来伝統の宗教宥和政策を捨て、また南部デカン高原でヒンズー教勢力との対決に没頭した結果、北インドでも反乱が頻発。戦費で財政も悪化し、ムガール帝国は衰退に向かいます。イギリスは1803年に首都デリーが占領し、その後ムガール帝国は形骸化しました。

 ヒンズー教のマラータ同盟は、ムガール帝国の退潮に乗じインド全土に勢力を伸ばしていましたが、1761年にアフガニスタンでドゥラニ朝に大敗。さらに三度の戦争でイギリスに敗れ、1818年に東インド会社は中部デカン高原の諸侯の領土を支配下に編入することができました。

 勢力を伸ばすイギリスとアフガニスタンのドゥラニ朝に対し、第三勢力として現れたのがパンジャブ地方のシーク教徒です。シーク教は一神教ながら他宗教を誹謗しない穏健な宗教でしたが、ムガール帝国との対決の中で、1765年にシーク王国を建国しパンジャブ地方からカシミールに勢力を伸ばしました。

+++++ 第一次アフガン戦争 +++++

 さて、話をアフガニスタンに戻しましょう。アフガニスタンでは約10年の内紛の後、1826年に同じドゥラニ族のバラクザイ朝に政権が移行していました。シーク王国は前王家を支援し、1834年に古都ペシャワールを回復し、アフガニスタン領を現在の国境線まで押し戻します。

 その頃、イギリスはロシアの南下を警戒し、バラクザイ朝に軍のアフガニスタン駐留を認めさせようとしていました。ところが、バラクザイ朝は筋違いのペシャワール返還をイギリスに要求。イギリスは、シーク王国とアフガニスタンの前王家を支援して、1838年にバラクザイ朝に宣戦布告しました…第一次アフガン戦争です。

 イギリスは1840年にアフガニスタン全土を平定し、前王家を復位させたものの各地で反乱が勃発します。そこで1842年にカブールから撤退しますが、冬の1月の峠越えを襲われて一行1万6千人が全滅。これを境に方針を転換しバラクザイ朝を復権させます。

 1855年にはアフガニスタンと相互防衛条約を締結。翌年はペルシャと戦い、帰属の曖昧な北東部のヘラート地方を割譲させた上で、以降はアフガニスタンから手を引く約束をさせました。

 それに先立ち、イギリスは、最後まで残っていたシーク王国を1849年に併合し、現パキスタン領も含む全インドの植民地化を完了しています。

+++++東トルキスタン +++++

 このままでは、西トルキスタンで英露衝突のシナリオでしたが、ロシアは、クリミア戦争(1853∼56年)やコーカサス戦争(1817~64年)が終わるまで、黒海の東岸のコーカサス地方と西岸のバルカン半島で南下するのに忙しく、中央アジアの南下には、あまり手が回らなかったようです。

 その間に、中央アジアの状況は大きく動いていました。18世紀は清の全盛期で、一時は東トルキスタン(現中国の新疆ウイグル自治区)を根拠地にしてカザフスタンを脅かしていたオイラト族も、1759年に乾隆帝が討伐されていました。

 東トルキスタンを併合し清朝はイスラム教徒に対し宥和政策を取りましたが、19世紀に入ってからは、それでも時に反乱が起きるようになっていました。1862年に陝西省と甘粛省で始まった漢人イスラム教徒の大反乱も、すぐに東トルキスタンに伝播し、ウイグル人・キルギス人・カザフ人らトルコ系の人々も蜂起に加わりました。アヘン戦争(1840~42年)以降の増税で清朝への反発が強まり、中国南部では太平天国の乱(1851~64年)が起きていた時代です。

 清朝はロシアに救援を頼みますが、損得勘定が定まらず、ロシアは協力を惜しみました。反乱は、1865年にコーカンドハン国の軍人ヤクブ・ベクが中核に躍り出て新ハン国を建国。ヤクブ・ベクは、英露双方の支援を受けて1870年に東トルキスタンを平定します。こうして、一時は東トルキスタンに英露衝突の緩衝国家が誕生したかに見えたのですが、1877年にドイツの支援を受けた清が大軍を派遣してヤクブ・ベクを破り、東トルキスタンは清の下に戻りました。

+++++西トルキスタンの3ハン国 +++++

 ロシアは、1735年に建設した東方前線基地のオレンブルグから、1853年にコーカンドハン国に侵攻。1865年には、コーカンドハン国北部のタシュケントにトルキスタン総督府を設置し、中央アジア支配の拠点としました。1868年にはブハラハン国を保護国化、1873年にヒバハン国も占領します。

 次に、1879~81年の2度のペルシャ遠征で、3ハン国の支配を確立するためにトランスカスピ海鉄道を建設。カジャール朝ペルシャに、ルートに当たるイラン高原山麓の領土を割譲させました。シルクロードは、カスピ海とウラル川やボルガ川経由で、オレンブルグやモスクワとつながるようになりました(下図ご参照)。1906年には、タシュケントからオレンブルグにトランスアラル鉄道も開通します。

ボルガ川 (⇒拡大) カスピ海 (⇒拡大) トランスカスピ海鉄道 (⇒拡大)

 こうして、ロシアは、現在の西トルキスタン4国(トルクメニスタン・ウズベキスタン・タジキスタン・キルギス)の領土を一気に獲得します。

+++++ 第二次アフガン戦争(1878~80年) +++++

 こうして、ロシアはアフガニスタンと国境を接するようになりイギリスは焦りましたが、一方のバラクザイ朝は、1863年に初代国王が死んだ後、内紛でなかなか王権が定まりません。

 1868年に第2代シール・アリ・ハンが反乱を鎮圧して復位すると、イギリスは使節を首都カブールに常駐させアフガニスタンの外交をコントロールしようとしましたが、アフガニスタンは中立の立場から拒絶します。

 そこへ、1878年に英露が同時に外交使節を派遣する事件が起きます。それも、英露とも国境で入国を拒否されたのに、ロシア使節だけが強引にカブールに到達したのです。そこで、イギリスはアフガニスタンに宣戦布告…現代の私たちには分かりにくい筋書きですが、日本も1854年までは鎖国していたのですから、あまり不思議でもないのでしょう。

 イギリスは戦争に勝ち、シール・アリは亡命。1879年に、3代目が、外交権を委譲しアフガニスタンがイギリスの保護下に入ることを認めましたが、その後も他の勢力の抵抗が止みません。3代目も退位して亡命。イギリスは、その兄弟と戦って苦戦の末に勝利。結局、亡命先から帰還した王族の一員に庇護を与え、あらためてアフガニスタンの保護国化を同意させるまで、イギリスは、アフガニスタンに1881年まで駐留し続けなければなりませんでした。

パキスタンに編入されたパシュトゥン人居住地域と地形

 この時にアフガニスタン南東部が英領インド帝国(現パキスタン)に編入されたために、パシュトゥン人が住む山岳地帯が両国にまたがってしまいました。そのうちの南部ワジリスタンが、今やタリバンやアルカイダの潜伏場所になっているようです。

 第一次アフガン戦争といい、第二次アフガン戦争といい、後に泥沼化する1979年のソ連のアフガン侵攻や現在のアフガン紛争の予告編の感があります。その後も、アフガニスタンを統一国家として統治する試みは、一度も長く続かずに今日に至っています。


カジャール朝の半植民地化


 さて、話は、もう一度、ペルシャに戻ってきました。

+++++ 不平等条約 +++++

 1796年に誕生したカジャール朝は、まずイギリスが接近しましたが、第一次ロシア・ペルシア戦争に敗れ、1813年にジョージア(旧グルジア)と北アゼルバイジャンをロシアに割譲します。翌1814年にはイギリスと防衛同盟条約を結びましたが、1826年の第二次ロシア・ペルシア戦争ではイギリスの支援が得られず、今度はロシアにアルメニアを割譲しました。

 さらに、多額の賠償金を支払った上、ロシア人の治外法権を認める不平等条約まで押しつけられてしまいます。危機感を抱いた皇太子が、工場建設や軍制改革など近代化を推進しますが、皇太子が1833年に病死して改革は挫折します。第3代モハンマド・シャー(1834∼48年)は、1837年に北東部ヘラート奪還のアフガニスタン遠征を強行して失敗。1841年には、イギリスに最恵国待遇を許し、関税自主権も失ってしまいました。

+++++ バーブ教徒の反乱 +++++

 第4代ナーセロッディン・シャー(1848∼96年)は、前帝時代に興ったバーブ教信者の弾圧で始まります。ペルシャ国教はイスラム教シーア派のうち12イマム派といい、最後の審判の日を前に、今はお隠れになっている第12代イマム(シーア派指導者)が、この世に再臨してくださると、信じられています。

 西暦1845年はイスラム歴で第12代イマムが隠れてからちょうど千年の年に当たり、隠れイマム(救世主)の出現を強く待ち望むシャイヒー派という過激派が現れました。またその指導者で、預言者ムハンマドとシーア派の祖アリの血を引くバーブ教の開祖が、自らの預言書を著し自らを隠れイマムの再臨と称し、自由主義的な立場から、コーランに基づくイスラム法を否定したのですから、大事件です。

 カジャール朝の度重なる敗北と英露への従属、富の流出と物価の高騰、様々な社会的混乱への民衆の不満と結びつき、バーブ教は急速に広がりました。

 もともと保守的なシャイヒー派の人々が教団を離脱したのは、開祖が獄中の1848年に、女性幹部のひとりが、イスラム法の男女差別を象徴するヒジャブ(頭部を覆うベール)をつけずに、会議に出席したからだと言われています。

 その後1850年に開祖は銃殺され、残るバーブ教徒もカジャール朝の大弾圧に遭います。この時に、バグダッドに追放されたバハオラが自ら預言者を名乗り始めたバハイ教は、モーゼ、キリスト、ムハンマドばかりか、ゾロアスターや釈迦も神の啓示者とうたう異教徒に寛容な宗教。また、この時に、アザリーとともに、政治的行動主義を維持しペルシャに残った人々が、アザリー派バーブ教徒です。

 もともと大半のシーア派には、弾圧から逃れるために信仰を隠す行為(タキーヤ)が認められています。そこで、ペルシャで立憲革命期にかけて活躍した自由主義者の中には、バーブ教徒も多数いたものと見られます。バーブ教の信仰は、現在のイランでも違法ですが、なお百万人以上の信徒がいると言われており、イラン政府の対応が国際社会から人権問題として批判されることもあります。

+++++ 宰相アミールの改革 +++++

 バーブ教徒の反乱を鎮圧し王権強化に貢献した宰相アミール・カビール(1848∼51年)は、ペルシャの近代化にも積極的に取り組みました。オスマン帝国の例にならって軍制改革を進め、軍事力の部族依存を脱します。欧米型の高等教育機関を創設します。宮廷の政治介入の抑制に努め、全土に駅逓を設け地方の行政に中央が関与する仕組みを整えました。しかし、アミールの改革は、シャーはじめ宮廷関係者や高位聖職者の反発を招いていました。バーブ教徒の反乱が一段落するとアミールは解任され、ペルシャの改革はまた頓挫します。翌1852年に、アミールは、シャーの命で暗殺されました。

 その後のシャーは、英露に領土で譲歩するばかりか、国家の公共利権を誰彼かまわず外資に切り売りする情けない君主でした。結果的に暗殺されたにもかかわらず、古代アケメネス朝以来数えて3番目に長い在位期間で、その間に失ったもの、英露に奪われたものは、今のイラン国民の心に深い傷を残しているに違いありません。

+++++ 領土の割譲+++++

19~20世紀のイラン領土増減 (⇒拡大)

 1856年に、シャーは、前シャーが失敗したヘラート遠征を再び試み、前年にアフガニスタンと相互防衛条約を結んでいたイギリスとの間に、アングロ・ペルシャ戦争を引き起こします。しかし、イギリス海軍にペルシャ湾岸各地を砲撃されて降伏。以降は、アフガニスタンに手出しできなくなりました。

 東部国境は、アングロ・ペルシャ戦争で見直された国境線を南に伸ばすように、イギリスの3度の「仲裁」で大きく後退しました。北東部の領土(現トルクメニスタン南部)は、既にご説明したようにロシアの2度の遠征で1881年に失っています。

+++++ 庶民の困窮とシャーの遊蕩 +++++

 この時代は欧米との交易が増え、世界中でペルシャ絨毯が珍重されましたが、ペルシャには逆に廉価な繊維製品が輸入され、手工業者の生活を直撃しました。また、綿花やナッツと果物にアヘンの需要が高まり、大土地所有制が進み、農民の生活も苦しくなりました。近代化の推進により、土地の収穫税も5%から10%に引き上げられます。

 シャーは、自分で旅行記を出版するほどの旅行好きで、ペルシャ王としては初めて、しかも3回も訪欧しています。博物館や動物園など気に入ったものがあれば自国にも作ろうとし、ペルシアの伝統音楽も、近現代音楽へと変貌し、シャーが創設した工芸館に職人が集まって楽器を制作しました。

+++++ ロイター利権とペルシャ帝国銀行 +++++

 1872年には、ロイター利権と呼ばれるスキャンダルが発生します。ロイターとは、ロイター通信の創業者でユダヤ系ドイツ人のロイター男爵(後にイギリスに帰化)です。

 シャーは、秘密裏に協議し、この男爵に、石炭・石油や鉄・銅・鉛の鉱山の採掘、道路や電信、鉄道と運河や灌漑設備の敷設、工場や銀行の開設、関税の徴収などの権利を、60年にわたり独占的に与える(謝礼は最初の5年間は規定額で、その後20年は利益の6割を配当…期間や条件については矛盾する情報もあります)と約束していました。

 シャーは、自国民のみならず、英露両国からも指弾されて、孤立無縁になります。そこで、鉄道敷設が計画通りに完了しなかった口実により、翌年にロイター利権の供与を一切取り消しました。

 しかし、ロイターはあきらめません。今度はイギリスの特命全権公使の助けを得て巻き返し、1889年に再び銀行設立と鉱山探鉱の利権を得たのです。事実上の中央銀行…しかもロンドン市場に上場の株式会社ペルシャ帝国銀行が創設され、別に中央銀行が設立される1929年までペルシャ紙幣の発券を独占しました。イギリスによるペルシャの財政と金融の支配が進みます。

+++++ 鉱山探鉱権 +++++

 ロイターが手に入れた鉱山探鉱権は、石油も含め、金銀その他の貴金属以外の全ての鉱物が対象でした。この利権は、ペルシャ帝国銀行から、英国系のペルシャ鉱山会社が15万ポンドで購入しましたが、この会社は10年後に資金不足に陥り、鉱山探鉱権はいったん取り上げられて、ペルシャ政府の手に戻ります。

 あらためて、石油探鉱権が民間企業に下付されたのは1901年で、最初に石油が発見されるのは1908年でした。この事情は、あらためて説明します。

+++++ タバコ専売権 +++++

 シャーは、翌1890年にも、イギリス公使の友人に対し、年に1万5千ポンドと配当後利益の1/4を条件で、50年間のタバコ専売権を与えました。しかし、ニュースが伝わると、大都市でいっせいに抗議の声が上がり、ペルシャは全土で騒擾状態に陥ります。当時のペルシャでは20万人がタバコ産業で生計を立てていましたが、この理不尽な取り決めで、生産農家とバザール商人の直接取引が禁止されるのです。

 南部シラーズでは、シーア派聖職者の禁煙勧告をきっかけにタバコ・ボイコット運動が始まります。すぐに、首都テヘラン、タブリーズ、イスファハーン、カズビン、ケルマンシャーなどの主要都市に波及します。オスマン帝国の首都イスタンブールに亡命した活動家は、ペルシャ語日刊紙に記事を掲載して反政府運動を続けました。

 タバコ専売は、イギリス側に50万ポンドの違約金を支払い、2年足らずで廃止されました。歴史家は、ロイター利権が英露の圧力で取り消されたのに対し、20年後のタバコ専売は国民運動の結果で廃止されたことに意味があると考えています。

 1896年にシャーが暗殺され、第5代モザファロッディン・シャー(1896~1907年)が即位しますが、宰相は留任し、その後も前政権と変わらない政治が続きます。


その後のイラン(ペルシャ)


 ロシアは、1890年代にシベリア鉄道の敷設を本格化し、満州・朝鮮から黄海に進出しようと企みます。日清戦争(1894~95年)で日本が黄海に臨む遼東半島を得ると、あわてて仏独を誘い、三国干渉により清に返却させます。1896年には満州に東清鉄道を敷設。1898年には、清から遼東半島の旅順・大連を租借。1900年の北進事変で、ロシアは兵を引き揚げず、満州を事実上占領してしまいます。イギリスは、ロシアに対抗する立場から、1902年に日英同盟を結びます。

+++++ イラン立憲革命(サマリー) +++++

 そして、日露戦争(1904~05年)と日本の勝利は、ペルシャ社会に大きな影響を与えました。

 まず、開戦とともにロシアからの輸入物資が滞り、凶作も重なって物価が高騰、カジャール朝の専制政治に対する不満が高まりました。次に、日本の勝利は、議会制と立憲主義の確立によるものと理解され、ペルシャでも憲法導入が必要と熱望されるようになりました。

 そして、1905年12月にイラン立憲革命が始まります。民衆はシャーに対して議会開設を求め、翌1906年10月初の国民議会が召集され、12月に死の床のシャーの署名により憲法も成立しました。しかし、議会では、立憲派と専制派の対立に加え、立憲派内部でも穏健派と革命派が対立。議会の外でも武装衝突が起き、シャーのクーデタによりペルシャは内戦状態になりました。

 とはいえ、1909年には各地で勝利した立憲派がテヘランに入城し、シャーも替わり、第二立憲制が始まります。穏健派と革命派の対立はあっても、司法・教育・財政の改革で一定の成果を上げました。

 しかし、日露戦争は、英露の利害関係も変化させていました。ロシアが極東での南下をあきらめた結果、グレートゲームはいったん休戦となったのです。ペルシャでは、反革命で両国が手を握るり、1907年の英露協商で、互いの勢力圏を決めました。

 立憲革命は、1911年に、ロシアの介入により議会が解散させられて終わります。ロシアの南下政策の舞台は、スラブ系民族が住むバルカン半島に移り、オーストリアとの摩擦が増し、1914年の第一次世界大戦に向かって世界は動き出していました。

+++++ 第一次世界大戦(サマリー) +++++

 第一次世界大戦時の西部ペルシャは、オスマン帝国と戦う英露協商の前線基地と化し、南北が英露に分割占領されました。ロシア軍はオスマン帝国領内に深く進攻していましたが、1917年3月に国内で革命が勃発してからは押し返され、ペルシャ北部はオスマン帝国に占領されてしまいます。

 ロシアでは、11月に共産主義のソビエトが権力を握り、新政府はペルシャ権益の放棄と不平等条約の破棄を宣言。ペルシャ北部は、突然、列強支配のくびきから解かれました。イギリスはペルシャの単独支配に挑みますが、ペルシャ国民の反英感情に火をつけてしまい、北部には複数の革命政府が誕生する始末で、穏健路線に転換せざるを得ませんでした。

 しかし、1921年にコサック旅団のレザー・ハン大佐がクーデターを起こし、膠着状況が動きます。レザー・ハンは、カジャール朝の下で自ら主導する政権を興し、英露両軍をともにペルシャから撤退させた上で、軍事力を強化し遊牧民を平定しました。

 1924年には、前年の隣国トルコの共和化に伴いペルシャでも共和制を求める運動が起きましたが、聖職者ら保守層からは世俗化を懸念する声が上がり、世論が分裂します。1926年に、レザー・ハンは、古代ペルシャ語を表す言葉を借りレザー・パーレビと改名、自ら皇帝に即位しパーレビ朝を開きました。

+++++ パーレビ朝初代皇帝時代(サマリー) +++++

 レザー・パーレビは、不平等条約破棄、軍備増強、民法、刑法、商法の西欧化、財政再建、近代的教育制度の導入、鉄道敷設、公衆衛生の拡充などの改革を進める一方、女性のベール着用禁止など、次第に、反共・反イスラムの民族主義的専制政治に傾斜していきました。1935年に、国号を正式にペルシャからイランへと変更しています。

+++++ 第二次世界大戦(サマリー) +++++

 1930年代後半にはナチス・ドイツに接近。第二次世界大戦では中立を維持しようとしましたが、1941年6月にドイツが不可侵条約を破り独ソ戦が始まると、ソ連が連合国に加わり、イランは連合国英ソの重要な補給線となります。8月の連合国のイラン進駐で、イランはイギリスとソ連によって領土を分割されます。

 イラン進駐下で、レザー・パーレビは息子のムハンマド・レザー・パーレビ(いわゆるパーレビ国王)に譲位します。1943年11月には連合国首脳が集まってテヘラン会談が開かれ、戦後処理の議論が始まりました。

 北部のソ連軍占領地では自治運動が高揚し、戦後、アゼルバイジャン自治政府とクルド人の共和国が樹立されましたが、1946年中にイランに再統合されます。

+++++ モサデク政権(サマリー) +++++

 1951年の選挙で首相に就任したモサデクは、反英反植民地主義者でした。石油国有化法を可決させ、イギリス資本のアングロ・イラニアン石油会社から石油利権を取り戻しを国有化し、石油産業を国有化しました。同時に、ソ連との関係強化を進めました。

 しかし、国際石油資本によるイラン原油の締め出しによりイラン政府は財政難に直面します。与党内部にも離反者が出る中、1953年に米英両政府が支援した皇帝派のクーデターで、モサデクは失脚し3年後に自宅軟禁中に死亡しました。石油国有化も頓挫しました。

+++++ パーレビ国王時代(サマリー) +++++

 モサデク首相を追放し、パーレビ国王は権力集中に成功します。1957年には、CIAとFBIとMossad(イスラエル諜報特務庁)の協力を得て秘密警察SAVAKを創設して政敵を弾圧しながら、白色革命と称し、米英の後押しで産業の近代化を推進。1962年の農地改革令にも、大地主の勢力を削ぐねらいがありました。国民の生活を省みない急激な改革によって貧富の格差が拡がり、1970年代後半には、抵抗運動の高まりに対抗し、国王の独裁色も濃くなる一方でした。

+++++ イラン・イスラム革命と米大使館人質事件(サマリー) +++++

 1979年1月にイラン・イスラム革命が起き、パーレビ朝は幕を閉じました。革命の中心人物ホメイニ師は、パーレビ国王の即位直後から、一貫して白色革命に反対。1964年に国外追放となり、その後は主にイラクのシーア派の聖地ナジャフを本拠にイラン国民に決起を呼びかけています。国王が国外に亡命すると、入れ替わりに帰国してイスラム革命評議会を組織し、イスラム法に基づく新共和国を建国しました。

 国王は各地を転々としたあげく、カーター政権下のアメリカに亡命します。イランは米政府に国王の身柄と私有財産の引き渡しを求めましたが、米政府は拒否。そこへ、11月にテヘランの米大使館人質事件が起きます。イスラム法学校の学生らが大使館を占拠し、外交官や警護のために駐留していた海兵隊員とその家族の計52人を人質に取ったのです。米政府はイランからの石油輸入を禁じ、在米資産120億ドルの凍結をしました。

 脱出に成功した6名の外交官を除き、残る人質は館内に軟禁状態で日が経つばかりでした。翌1980年4月に、カーター政権は、空母と艦載機を使った大救出作戦により人質の奪還を試みて失敗し、イラン側は、一層、態度を硬直化させます。7月に元国王が亡命先のエジプトで死んで、11月にカーターが再選選挙に負け、人質は翌年のカーター退任日に、444日ぶりに解放されました。

 この間のイラン政府の対応は、もちろん国際法違反です。以来36年、アメリカとイランの対立が続いてきました。

 イラン・イスラム革命の翌年には、イラクのフサイン政権が、突然、国境を越えてイランに攻め入り、イラン・イラク戦争(1980~88年)が起きます。この戦争は領土争いで、理はイランの方にありそうですが、アメリカもその他の西側諸国もイラクを支援しました。この戦争で財政が苦しくなったイラクが、クウェートに攻め入って湾岸戦争(1990~91年)が始まると、一転してイラクは悪玉になります。

 その結果、90年代のアメリカには、中東でイランもイラクも敵に回す外交的に苦しい状況が発生しました。イラク戦争後のイラクも、少数派のスンニ派フサイン政権が倒れ、親イランのシーア派が主導する政権になり思うようになりません。

 スンニ派が多数住んでいるシリア・イラク国境周辺の地域を、スンニ派系過激派のISIS(ISIL)に占領されて打つ手がないのも、最大の原因はイランとの仲直りが済まないからです。