【イラン核協議合意@】 アラブとトルコに支配されたペルシャ
国教のシーア派はイスラム教正統を名乗る旗印
今年7月にアメリカはイランと核協議で合意し、来年1月には経済制裁も解除されると予想されています。今回の一連の特集記事は、これまでの米・イラン両国のこじれた関係を説明するのが目的でしたが、背景を調べるうちに、世界史の研究のようになってしまいました。
この記事では、7世紀にイラン(ペルシャ)がイスラム帝国に征服され、その後、イスラム教のスンニ派とシーア派が分派した歴史について説明します。イランが、中東各地のシーア派武装組織を支援しているのは、本当に宗教上の理由だけなのでしょうか?何かヒントをつかんでいただければ、幸いです。
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スンニ派vs.シーア派 +++++
記事が長いので、特に注目していただきたい点をいえば、ウマイヤ朝時代に起きたアラブ2部族の対立です。大雑把に図式化すると、
アラビア半島南部出身 イエメン族 シリアに移住 アラブ中心 スンニ派の流れ
アラビア半島北部出身 カイス族 イラク南部に移住 異民族に寛容 シーア派の流れ
イランでは、サファビー朝時代にシーア派の中の12イマム派が国教化されました。ちなみに、現レバノンのシーア派武装組織ヒズボラは12イマム派で、現イエメンのシーア派武装組織フーシも、12イマム派に近縁性の強いザイド派です。
ただし、(記事にないことですが)現シリアのアサド政権が信奉するアラウィー派は、キリスト教とペルシャ系の宗教やシリアの土着宗教の教義が混じった宗派で、歴史的に、多数派のスンニ派イスラム教徒に差別されてきた経緯があります。
反スンニ派で一致するため、シーア派の一派とされていますが、本質的には別の宗派ないしは全く別の宗教と捉えないと国際情勢を見誤ります。
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スンニ派のワッハブ派 +++++
スンニ派も、数々の諸派に分かれています。詳しく知る必要はないとたかをくくっていたのですが、サウジアラビアのワッハブ派については勉強しないといけないようです。また、別の機会にご説明します。
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メディア王国
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アケメネス朝
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セレウコス朝シリア(アレクサンダー大王)
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アルサケス朝パルティア
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ササン朝
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ウマイヤ朝(最初のイスラム帝国)
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アッバス朝
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タヒル朝
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サッファル朝
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サマン朝
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ブワイフ朝
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ガズナ朝
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セルジュク朝・ホラズムシャー朝
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ゴール朝
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イルハン国
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ムザッファル朝
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ティムール帝国
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白羊朝・黒羊朝
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サファビー朝
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アフシャル朝
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ザンド朝
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カジャール朝
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パーレビ朝イラン
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イラン・イスラム共和国
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BC3200~539 |
BC715~550 |
BC550~330 |
BC312~63 |
BC247~224 |
226~651 |
661~751 |
750~1258 |
821~873 |
861∼900 |
873∼999 |
932∼1062 |
1038∼1308 |
1258∼1353 |
1314∼1393 |
1370∼1507 |
1375∼1508 |
1501∼1736 |
1736∼1796 |
1750∼1794 |
1794∼1925 |
1925∼1979 |
1979∼ |
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支配王朝
■ペルシャ系
■アラブ系 ■モンゴル系
■トルコ系
■アフガン系 ■ギリシャ系
■系統不明 |
ペルシャvs.アラビア
私自身深く考えたことがなかったのですが、皆さんの中にも、イランがアラブ国家の仲間かどうか曖昧に思っている方がおられませんか?
イランの旧国名はペルシャ。1935年に改名したせいでややこしいのですが、図1に示すように、イラン人が話すペルシャ語は英語と同じインドヨーロッパ語族で、アラブ民族のアラビア語とは別系統です。
勘違いの原因は、一つにはペルシャ文学の古典「千夜一夜物語」がアラブ系イスラム帝国時代にアラビア語に翻訳され、後に「アラビアンナイト」の題名で欧米や日本に伝わったせいかもしれません。
しかし、図2の地形図をごらんください。イランの国土の大半は海抜900〜1500mの高原地帯で、アラブ民族の多くが暮らすアラビア半島や北アフリカの砂漠地帯とは、住環境も大きく違います。
イランと周辺アラブ諸国の仲が悪いのは、シーア派とスンニ派のイスラム教宗派の争いと説明されることが多い中、私には、本質が歴史的な民族紛争にあるように思えてなりません。一時期を除き、ペルシャ系とアラブ系の歴代王朝は、特に今のイラク…古代文明発祥の地のメソポタミアの領有をめぐって対立してきました。シーア派とスンニ派が分かれた経緯も含め、少しペルシャとアラブの歴史を振り返ってみましょう。
地図1
世界の言語分布地図
■ペルシャ語
■アラビア語 ■トルコ語
■クルド語 ■コーカサス諸語 (⇒拡大)
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地図2
シルクロードと中東・東欧油田地帯の地形図
ユーラシアの石油開発は19世紀後半にルーマニアやカスピ海周辺のコーカサス(カフカス)地方で始まりました。 (⇒拡大)
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ムハンマドの時代(622∼632年)
私たちの子供の頃は、イスラム教の開祖は「マホメット」と習ったものですが、今は学校で「ムハンマド」と教えているようですね。一般に「アラビア(Arabian)」は地理的にアラビア半島を表す形容詞として使われますが、「アラブ(Arabic)」はアラビア語圏の文化について広く使われる言葉です。
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ハシム家の系図 +++++
ムハンマドは、西暦570年頃に現サウジアラビア西岸のメッカで生まれました。メッカを統治するクライシュ族の12名家の中でハシム家の4代目です。話がそれますが、ハシム家の血統は今も現ヨルダン王家に脈々と受け継がれています。イスラム王朝の盛衰や諸宗派分裂の経緯を知る上で貴重な資料なので、最初に抜粋の系図を掲載しておきましょう。世界的にも、日本の天皇家や出雲大社の宮司さん並みに由緒正しい系図と言えるでしょうね。
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東ローマvs.ササン朝ペルシャ +++++
その頃、アラビア半島の北では、キリスト教(ギリシャ正教)の東ローマと、善悪二神のゾロアスター教を奉じるササン朝ペルシャの二大帝国が抗争を繰返していました。半島の沿岸部も両勢力の奪い合いになっていましたが、中央部の砂漠地帯は喧噪をよそにベドウィンと呼ばれる遊牧民族がラクダや羊を放牧していました。
といっても、遊牧生活は血縁で結ばれた小部族単位の社会で成り立っており、部族間の紛争は絶えませんでした。宗教も部族の氏神を奉じる多神教です。メッカは古くからアラビアの交易の中心地で、今はイスラム教の聖地として世界中から巡礼者を集めるカーバ神殿も、当時は360もの神々を祭る多神教の神殿でした。
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ムハンマドの聖遷(ヒジュラ) +++++
ムハンマドは、神の啓示を受けてイスラム教を説き始めますが、クライシュ族の中にも改宗する者は少なくメッカでは迫害を受けます。そこで、西暦622年に400km北のメディナに移って布教し、諸部族をまとめて立法者と軍事指導者を兼ねた存在となりました。聖遷(ヒジュラ)と呼ばれ、イスラム帝国の快進撃が始まった瞬間です。イスラム歴元年で、日本では、この年に聖徳太子が亡くなっています。
ムハンマドのイスラム軍は、メッカ軍と対決するに当たりアラビアで伝統の一騎打ちを禁止して、弓兵隊で迎え撃ったと言いますから、信長が鉄砲隊で武田の騎馬隊を破った長篠の戦と同じ戦法ですね。イスラム教の一夫多妻制は、メッカ軍との戦いで夫を失った多くの寡婦とその子供たちを、生き残った男らで養うために生まれたと言われています。
イスラム軍は、630年についにメッカを占領し、カーバ神殿の多神教の偶像を破壊してイスラムの神殿としてしまいます。しかも、アラビア人共有の神殿を奪われて怒る諸部族の連合軍を返り討ちにし、その勢いでアラビア半島のほぼ全域を制圧しました。
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地図3
東ローマ・ササン朝ペルシャ (⇒拡大) |
地図4
ウマイヤ朝∼アッバス朝 (⇒拡大)
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正統カリフ時代(632∼661年)
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初代カリフ アブ・バクル…アラビア半島再統一 +++++
632年にムハンマドが亡くなって、親友のアブ・バクルが選挙で後継者に決まり、初代カリフ(代理人)の座につきます。以来、カリフは、初期のスンニ派王朝の最高権威者の称号となりました。しかし、ムハンマドの個人的権威に従っていた諸部族はイスラム教を捨てて離反。アブ・バクルは武力でアラビア半島を再統一、イスラム教共同体の分裂を阻止する功績を残しましたが、在位2年で病死してしまいます。
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第2代カリフ ウマル…東ローマ・ペルシャ領侵攻 +++++
互いの抗争で疲弊しきった東ローマとササン朝ペルシャの領土に侵攻し、アラブの大征服に乗り出したのは第2代カリフのウマルでした。征服地の住民は、税金さえ払えばイスラム教への改宗を強制されず、特に東ローマに異端扱いされていたシリアやエジプトのキリスト教徒には、寛大な条件として受け入れられました。ウマルは、642年に現テヘランの南方でササン朝ペルシャを破り領土を大きく東に拡げましたが、2年後に私的な恨みを買って刺殺されてしまいます。
イスラム帝国の首都は依然としてメディナでしたが、この時代には、イスラム帝国の軍事拠点としてシリアのダマスカスが改造され、イラクのバスラとクーファ(バグダッド南方)やエジプトのカイロには新たに軍営都市(ミスル)が建設されました。
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第3代カリフ ウスマン…イスラム帝国完成 +++++
ウマルの死で、東ローマの反攻やコーカサスのアルメニアやアゼルバイジャンで反乱が起きましたが、第3代カリフのウスマンはこれらを鎮圧。さらに東ではペルシャを滅亡させ、西では海軍を整備して東地中海を制圧し、650年頃に征服戦争は一段落します。各地に様々な版があったコーランを統一し、イスラム帝国は唐に使者を送るまでになりました。
しかし、広大な領土を統治する体制は未熟です。そこで、ウスマンは政府と地方の要職に自らの出身のウマイヤ家一族を多数登用。しかも、厳格で知られた前カリフのウマルに比べると、ウスマンは私欲に寛容だったため、結果的に縁者の奢侈な生活が目立つようになりました。
一方で、平和な時代が訪れ、兵士の収入は戦利品の分配から俸給制度に替わり、庶民の生活は以前より厳しくなっていました。人々の不満は高まり、656年6月にウスマンはメディナの反乱民に殺害されてしまいます。
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第4代カリフ アリ…第一次内乱 +++++
■アリの支配下■ムアーウィヤの支配下■アムルの支配下 |
第4代カリフには、ハシム家出身でムハンマドの従兄弟に当たるアリが選ばれました。しかし、ウスマンの再従兄弟でシリア総督のムアーウィヤが、盟友で元エジプト総督のアムルと組んで反旗を翻します。アリがウスマン殺害犯を罰せず、逆にウマイヤ家一族を冷遇し始めたからです。
しかし、その前にアリは、別の内紛を片づけなければなりませんでした。メディナでウスマンに近かった人々も、殺害犯を許したアリに反発し、メッカのムハンマド未亡人を奉じて蜂起したのです。
656年12月、両軍は戦場にイラクを選び、それぞれにウスマン支持者が多いバスラと、反ウスマンのクーファに陣取りました。アリは和解を試みますが、ウスマン殺害に加担した一団の夜襲で戦いが始まってしまい、カリフ軍が大勝しました(ラクダの戦い)。歴史的に初のイスラム教徒同志の仲間討ちと言われています。
第2幕は、ムアーウィヤの討伐です。アリはクーファにとどまって8万の兵を整え、ユーフラテス川を北上し翌657年7月にシフィンの戦いで12万のシリア兵に対し優勢な戦いを進めました。しかし、不利を悟ったシリア軍がコーランを掲げて和平を呼びかけたのをきっかけに、カリフ軍の結束が乱れてしまいます。結局、カリフ軍は決着をつけずに兵を退き、交渉相手としてムアーウィヤに対等な立場を認めたことになってしまいます。遠征費用も重く財政負担となり、アリの権威は失墜しました。
特に和平協議を否定し「裁定は神のみに属す」と主張する強硬な一団(ハワーリジュ派)はカリフ軍から離脱し、アリとムアーウィヤの双方と対決します。カリフ軍は戦いで強硬派に勝利したものの、アリが661年に刺客に暗殺されてしまいます。ムアーウィヤの方は、危うく難を逃れました。
ウマイヤ朝初期の内乱時代(661∼692年)
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初代カリフ ムアーウィヤ…ハシム家と和解 +++++
既に660年に、ムアーウィヤはカリフ就任を宣言しています。ハシム家のアリと、ムハンマドの娘のファティマの間に生まれた息子のハサンは、次代カリフに推され、反ウマイヤ家勢力を率い、イラク南部でシリア軍と対峙します。しかし、イスラム帝国の分裂を避け、一代限りを条件にムアーウィヤをカリフと認めることにしました。ムアーウィヤはダマスカスを首都と定め、ウマイヤ朝を創始。後にハサンとの約束は破られ、14代にわたり世襲のカリフが続くことになります。
ムアーウィヤは反乱の芽を摘むため、部族集団の連合体に過ぎなかったイスラム帝国の国家体制を整え、東ローマ領への征服戦争を再開しました。
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カルバラーの悲劇…シーア派の誕生 +++++
680年にムアーウィヤが死んで、息子のヤジドがカリフを世襲してから第5代のアブダルマリクの時代の半ばまで、各地で反乱が続きます。
きっかけは、新カリフのヤジドが、アリの息子フサインの反乱を恐れ、先手を打って虐殺した事件です。当時、ムアーウィヤとカリフの座を競った兄のハサンは既に死んでおり、フサインは反ウマイヤ勢力によりカリフに推されていました。
乳児を含む一行が、反ウマイヤ勢力の待つクーファに向かう途中、カルバラーでウマイヤ朝軍の大軍に襲われ、フサインと戦士の72人が首をはねられました。シーア派の分派を決定づけたカルバラーの悲劇という伝承です。
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第2次内乱 +++++
しかし、反ウマイヤ勢力は各地に根を張り、ウマイヤ朝の安泰は長く続きません。683年に、初代正統カリフのアブ・バクルの血を引くアブドラが、初期イスラム社会への回帰を訴え、メッカでカリフに即位すると、アラビア半島やイラクばかりかシリアやエジプトの一部まで、またたく間に勢力を拡大しました。
ウマイヤ朝は反撃し、アブドラ政権の本拠でイスラム発祥の地のヒジャズ地方に深く攻め込みます。激戦の末にメディナを攻略し、次いでメッカを包囲しましたが、ヤジドが乗馬中の事故で急死して、ウマイヤ朝軍はシリアに撤退します。人々は、ヤジドが戦火でメディナの大モスクとカーバ神殿を焼いた呪いと噂しました。急遽、息子のムアーウィヤ2世がカリフ位を継ぎますが、この人も翌684年春、失意のうちに死んでしまいます。
ムアーウィヤの系統は途絶え、ウマイヤ朝は長老のマルワンが継承することになりました。マルワンは、シリアに攻め入ったアブドラ政権軍を撃退し、何とかエジプトも奪回したものの、翌685年に在位1年9ヶ月で死亡。息子のアブドルマリクが、ウマイヤ朝第5代カリフの座につきます。
一方、その年には、(後にシーア派のカイサン派と呼ばれる)クーファの反ウマイヤ勢力が、カルバラーで死んだフサインの従兄弟に当たるムハンマドを奉じて蜂起していました。三つどもえの権力争いの下、シーア派は、メディナにウマイヤ朝が出兵したのを聞いて援軍を送りましたが、逆にアブドラ政権軍に挟み撃ちにされてしまいます。
その後、アブドラ政権はクーファのシーア派を倒しましたが、アブドルマリクの下で攻勢に転じたウマイヤ朝に追い詰められ、692年にメッカで戦死。内乱は幕を閉じ、ウマイヤ朝の最盛期を迎えます。
スンニ派とシーア派
スンニ派は、その後、ウマイヤ朝・アッバス朝と代々カリフ位を継承してイスラム帝国に君臨。アッバス朝が衰退し帝国が分裂してからも、各地の権力者に称号を与え、名目的な権威でイスラム世界の世俗秩序を裏打ちしてきました。中世の天皇の役割と同様ですね。
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シーア派の諸系統 +++++
シーア派によれば、アリこそがムハンマドから直接後継者として指名されたイマム(指導者)で、ハシム家の血を引いていない3人の正統カリフの権威も否定されています。スンニ派諸国の歴史を全否定しているのも同然です。教義や戒律の詳細については私も門外漢ですが、それぞれに諸派があり、どちらが厳格とは一概に言えないようです。
第2~3代は、アリと、預言者ムハンマドの娘ファティマの息子のハサン・フサイン兄弟、その後はフサインの子孫が代々イマムを継いだとされますが、シーア派はさらに分派し、今ではイマムの系統も複数あります。
ウマイヤ朝末期に叛旗を翻したザイドからは、現イエメンのイスラム武装組織につながるザイド派が分派。シーア派教義を確立した第6代のジャファルがアッバス朝に暗殺された後にはイスマイル派が分派しましたが、主流は何といっても現イラン国教の12イマム派です。
教えによれば、第12代ムハンマド・ムンタザルの時代にイマムが人々の前からお隠れになり、最後の審判の日に再臨なさるそうです。史実と比べると、第9代のムハンマド・ジャワードはアッバス朝の庇護を受けカリフの娘婿となりましたが、後に関係が悪化し死因に暗殺の疑いもあるようです。第10~11代のイマムは、アッバス朝に自宅軟禁されていました。第12代の実在は確認されていません。
少し話はそれますが、イラン・イスラム共和国の初代国家元首となったホメイニ師は、第7代イマムのムーサーの末裔でした。
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ペルシャ国教化はサファビー朝 +++++
10~11世紀に現イラン・イラクを支配したブワイフ朝はシーア派(12イマム派)でしたが、既に名目化していたアッバス朝カリフの権威を借りていたので、民衆に改宗を迫りませんでした。
現イランとイラク南部やアゼルバイジャンが完全にシーア派化したのは、16世紀初頭のサファビー朝ペルシャの時代です。サファビー朝を築いたイスマイル1世は、殉教死を恐れない過激なシーア派のトルコ系遊牧民を味方につけて領土を拡大しました。征服戦争一服の後には、古い権威を守るスンニ派のイスラム法学者を粛清し、シリアから穏健な12イマム派指導者を招いてシーア派を国教化します。宗教で、新しい権威を打ち立てた名君でした。
ウマイヤ朝最盛期∼滅亡(692∼749年)
アラブ再統一(692年)を果たしたアブドルマリク(685∼705年)は、アラビア語の公用化と貨幣の発行で中央集権化が進め、次の第6代ワリド1世(705∼715年)の時代にウマイヤ朝の領土は最大に達しました。東は中央アジアと北インド、西は北アフリカの東ローマ帝国領を奪いモロッコを平定、イベリア半島に侵攻して西ゴート王国を滅ぼしました。
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アラブ同士の部族対立 +++++
しかし、ウマイヤ朝には2つのアキレス腱がありました。一つは、アラブ同士の部族対立です。シリアでは南アラブ出身のイエメン族、イラクでは北アラブ出身のカイス族の勢力が強かったのです。イラクのカイス族は、シリアのイエメン族に比べ異民族に協調的で親シーア派です。初代ムアーウィヤはイエメン族を重用し、第5代アブドルマリクはカイス族を重用するなどしているうちに、次第にカリフ位をめぐる権力闘争にも関わるようになってきていました。
第7代スレイマン(715∼717年)は、兄ワリド1世の実子をカリフに擁立しようとしたカイス族の武将を粛清し、そのせいでウマイヤ朝の領土拡大時代も終わりました。
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非アラブ人の不平等 +++++
もう一つは税制…コーランに「神の前では平等」とあるのに、イスラム教に改宗しても、非アラブ人はアラブ人より多額の税を納めなければなりません。このため、異民族改宗者の間に不満が高まっていました。第8代ウマル(717∼720年)が税制改革を試みますが在位が短く、第9代ヤジド2世(720∼724年)が旧税制を復活してしまいます。モロッコでは、怒ったベルベル人に総督を殺害されても反乱を鎮圧できないほど、ウマイヤ朝は無力になっていました。
第10代ヒシャム(724∼743年)は干拓と灌漑でイラクの農地を拡大して財政を再建し、ウマイヤ朝の危機は一服しましたが、中央アジアではトルコ系民族の攻撃を受け、イラクのシーア派(フサインの孫ザイド)とペルシャやモロッコの反乱や反政府運動に脅かされました。
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1年で4人のカリフ +++++
親イエメン族のヒシャムの死後1年の間に、目まぐるしく4人のカリフが変わります。発端は新イラク総督が前任を殺害する事件でした。それを黙認した親カイス族の第11代を、親イエメン族の従兄弟が殺して第12代に即位。ところが半年後に脳腫瘍で死んで、親イエメン族の弟が第13代に即位。そこへ進軍してきたアルメニア総督の従叔父(大おじの息子)が、第11代のかたきを討ってウマイヤ朝最後のカリフに即位しました。親カイス族の第14代マルワン2世(744∼750年)です。
しかし、動乱はさらに激しくなります。新カリフは、ウマイヤ朝の首都を、ダマスカスから、シリアとイラクの中間点のハランに移しました。すると、シリア住民が失望して反乱を起こし、それに乗じて東ローマが小アジア(現トルコ)に侵入。マルワン2世は手堅く粛々と反乱を鎮圧し外敵を撃退していくのですが、それを追いかけるように新たな内憂外患が帝国全土で次から次に起きました。
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アッバス革命 +++++
その頃、預言者ムハンマドの叔父アッバスのひ孫に当たるムハンマドが、第二次内乱で蜂起に失敗したカイサーン派のイマム位を継ぎ、パレスチナの小村でおとなしく暮らしていると見せながらも、裏では各地に教宣員を送り、シーア派を巻き込み反乱を扇動していました。
その中で、747年、ペルシャ東部ホラサン地方のメルブ(現トルクメ二スタン)で、教宣者アブ・ムスリムが起こした反乱が実を結びます。ウマイヤ朝の白い旗に対し、黒旗を掲げてイラクに進軍、749年9月にクーファを降しました(話はそれますが、イスラム武装組織ISISの黒旗も、この故事にならったものかもしれません)。
ウマイヤ朝も、ようやくアッバス家の動きに気づきました。既にムハンマドは他界して息子たちの代でしたが、長男のイブラヒムは捕えられ処刑されてしまいます。逃げおおせた弟のアブアルアッバスが、サファフと改名してクーファでカリフに推戴され、アッバス朝が始まりました。
アッバス朝
初代カリフ(750∼754年)のサファフの命で、叔父のアブドラがシリアに進軍してウマイヤ朝を滅ぼし、さらにエジプトに逃れたマルワン2世の殺害をはじめ過酷な残党狩りを続けました。
アッバス朝は、カリフに権力を集中し強力な官僚体制を築きました。異民族にも公平な税制を設けてペルシャ人を懐柔する一方で、ウマイヤ朝を支えたスンニ派アラブ人の処遇にも配慮しましたから、アッバス革命を支援したシーア派の人々には不満が出ました。その微妙な距離感のために、サファフ時代の首都は、シーア派の拠点クーファの周辺を転々としています。
第2代マンスール(754∼775年)は、カリフ就任時に叔父のアブドラと功臣のアブ・ムスリムを粛清し、さらに758年にはアリの息子で第2代イマムのハサンの曾孫を奉じて起きた反乱を弾圧し、バグダッドに新首都を開いて政権を安定させました。
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千夜一夜物語の時代 +++++
アッバス朝ではアラビア語が公用語となり、宮廷にはペルシャ人官僚が多数登用されたために、国際色豊かなイスラム文化が花開きました。その頂点が、第5代ハルン・アル・ラシッド(786∼809年)の時代で、バグダッドの人口は150万人を超え、産業革命以前における世界最大の都市であったと言われています。同時代の唐の長安が最盛期で100万人、初期の平安京の人口は10万人と推計されていますから、いかに大都市であったかお分かりでしょう。
「千夜一夜物語」は、この頃にアラビア語に翻訳されました。アラビア数字と同じくインド生まれの説話集で、王妃で語り手のシエラザードは名前からしてペルシア系で、アリババがアラブ系で、シンバッドはインド系。ギリシャ人やエチオピア人、黒人も登場します。シンバッドは、バスラから船出しています。
アッバス朝は、建国翌年の751年に現キルギスで唐の大軍を破りシルクロードの支配を確立しましたが、領土拡張についてはウマイヤ朝ほど積極的ではありませんでした。早くも第2代マンスール時代のうちに、ウマイヤ朝の王族で一人生き残ったアブドラフマンがイベリア半島で後ウマイヤ朝を開き、アルジェリアにはルスタム朝が興りました。
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地方政権乱立時代 +++++
しかし、アッバス朝が衰退の道をたどったきっかけは、栄華を極めたハルン・アル・ラシッドが残したややこしい遺言でした…遺志に基づき、母系の血筋のよい弟が第6代のカリフとなり、ペルシャ人の母から生まれた兄は皇太弟として帝国東部を統治するとの誓紙が取り交わされます。しかし、まもなく弟が実子を皇太子に立てようとして、兄弟の戦いに発展したのです。兄は、ターヒル将軍率いるペルシャ人部隊をバグダッドに差し向けました。弟は捕えられて殺され、813年に兄マムーンが第7代カリフに即位しました。
ところが、マムーンは、その後も東部ホラサン地方のメルブに留まります。しかも、816年にメディナからシーア派第9代イマムのアリを呼び寄せて娘婿とし、自らの後継カリフに指名。しかも、翌年には帝国旗をアッバス家の黒からシーア派のアリ家の緑に替える暴挙に出ました。意図は不明ですが、アラブとペルシャのハーフのマムーンが、シーア派の多いイラクで、カリフとして受け入れられるためによかれと思ってした行為かもしれません。
しかし、意に反して帝国全土で反乱が起こります。イラクではマムーンの叔父がカリフに推されました。追い詰められたマムーンはバグダッドに向かいますが、同伴していたアリが途中で急死…シーア派は、これを毒殺による殉教死と信じています。マムーンは、即位6年でついにバグダッドに入りました。
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地図5
地方政権乱立期 (⇒拡大) |
とはいえ、各地の反乱はその後も納まりません。さらに東ローマとの抗争に手が離せないマムーンは、821年に帝国東部を統治するホラサン総督ターヒルの独立を実質的に認め、ペルシャに初めてペルシャ系イスラム王朝が誕生しました。
ペルシャ系イスラム王朝は、サッファル朝、サマン朝、ブワイフ朝と続きます。アッバス朝は945年にブワイフ朝にバグダッドを奪われ、その後は各地の実力者を大アミールに任じ、地方王朝の権威を名目的に支えるだけの存在となります。
トルコ系・モンゴル系帝国時代
イスラム帝国が四分五裂し国々が覇を競う戦乱の時代となっても、都市生活に慣れたアラブ人はかつての戦闘能力を失っていました。サマン朝やブワイフ朝の軍事力を支えたのは、トルコ系のマムルーク(軍事奴隷)です。こうしたマムルークの中から、エジプトでは868年にトゥルン朝が自立。955年には、サマン朝からガズナ朝が自立し、インドに侵攻しました。
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セルジュク朝 +++++
1055年には、もとはサマン朝に仕えていたセルジュク朝が、ブワイフ朝を倒してバグダッドを占領。カリフからスルタンの称号を許され、イラクとペルシャの支配権を握りました。アミールは地方総督の称号ですが、スルタンはカリフの代理でイスラム帝国を統治する役職に与えられる称号で、アミールより一段上です。
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地図6
セルジュク朝の征服 (⇒拡大)
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地図7
イルハン国の征服 (⇒拡大)
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地図8
ティムールの征服 (⇒拡大) |
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イルハン国とティムール帝国 +++++
しかし、中央アジアでは、1206年にチンギスカンがモンゴル高原の遊牧民を統合し、モンゴル帝国を創設していました。第4代モンケハンの弟フレグの西征で、ペルシャは1256年に制圧され、1258年にはバグダッドも攻略されアッバス朝が滅亡しました。イスラム文化の中心は、この頃にはエジプトのカイロに徐々に移りつつありましたが、バグダッドは戦いで灰燼に帰し、その後数百年にわたり長く衰微しました。
その後、モンゴル帝国は4つに分かれ、西アジアはイルハン国となります。イルハン国は、1335年に第9代のスルタンが暗殺されてから解体し、地方政権が乱立しました。その頃、東西に分裂した中央アジアのチャガタイハン国を再統一し、現ウズベキスタンのサマルカンドに本拠を置くティムールがペルシャに侵攻します。
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