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20175月15日 (第129号)

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随筆

ツレヅレグラス

シンシナティ

 ジョン・A・ローブリング吊橋はNYブルックリン橋の先輩格

 蒸気船で栄えたシンシナティのオハイオ川を歩いて渡る

 2月には10年に一度のパスポートの更新でナッシュビルに出かけたが、先月も10年に一度のグリーンカードの更新の用があり、車で1時間ちょっとの距離ではあるが、久しぶりにシンシナティに一泊旅行をすることになった。ナッシュビルのダウンタウンを流れるカンバーランド川の朝の散歩に味を占め、シンシナティでも、その本流に当たるオハイオ川のど真ん中から両岸の景観を楽しむ計画を立てた。

===== 橋梁技師 ジョン・A・ローブリング =====

 オハイオ川には7本の橋がかかっている(下図)が、対岸のケンタッキー州側に歩いて渡れる橋が3本ある。その中で最も西の橋が、由緒深いジョン・A・ローブリング吊橋だ。

オハイオ川にかかる7本の橋(⇒拡大)

 ジョンはドイツ生まれの土木技師で主に橋梁設計を勉強したが、ナポレオン戦争で荒廃し才能を活かす機会のない故郷を見捨て、1831年、24歳の年にペンシルバニア州ピッツバーグ近郊に移民した。不況のせいでしばらく農事にいそしんだ後1837年に本業に戻り、19世紀前半の内陸の運輸を支えていた運河の建設に携わることになる。運河といっても、当時のアメリカの運河の多くは川に並行して設けられ、水門で仕切られた静水の上を、舟が土手を歩くラバに曳かれてのんびりと進む実に地味な交通手段だった。

 しかし、ペンシルバニア州ではアパラチア山脈に阻まれ、楽々と運河を東西に縦貫させることができない。曳舟が最難関の峰を越えるには、いったん貨車に載せ急傾斜の線路をケーブルカーのように引っ張り上げてやっていたが、麻製の曳き縄が頻繁に切れて困る。そこで、ジョンはワイヤーロープを開発し、その技術がその後の吊橋建設に役立った。

 1867年に完成したシンシナティのジョン・A・ローブリング吊橋は、当時は世界最長の吊橋だった。

 ジョンは続いてニューヨークのブルックリン橋を設計したが、建設開始を目前に現場で事故に遭遇。その傷がもとで破傷風を病み、1869年に亡くなった。工事を引き継いだ息子のワシントンも、橋脚を埋める工程で無理を重ねて潜水病を発し、後遺症で下半身不随となる。しかし、妻のエミリーが土木工学を勉強し、夫に代わって現場監督の務めを果たしたおかげで、橋はついに1883年に完成した。

 実際、ジョン・A・ローブリング吊橋の外見は、ブルックリン橋にそっくりだ。ご存じの方も多かろうが、ブルックリン橋の歩道は、両脇の車道より一段高い所にあって足元は心細い木の板を連ねただけ。下が透けて見えて高所恐怖症の方々にはお勧めできないが、ジョン・A・ローブリング吊橋はといえば、逆に車道の方が金網状で下が透けて見える。両脇の歩道を行く私たちには他人事のはずだが、車道が今にも外れて落ちそうで内心ヒヤヒヤして見ていた。十分丈夫にできているのだろうが、やはり精神衛生にはよろしくない。

ブルックリン橋の歩道

ジョン・A・ローブリング吊橋の車道

===== オハイオ川は南北の境界、流域は初の西部開拓地 =====

National Underground Railroad Freedom Center

 ジョン・A・ローブリング吊橋の上からシンシナティの市街を振り返って眺めると、全米地下鉄道自由センター(National Underground Railroad Freedom Center)の文字を大きく掲げた博物館のビルが目に入る。南北戦争前の時代に自由を求める黒人奴隷の北部諸州やカナダへの逃亡を手引きし、隠れて助けていたのが、当時地下鉄道と呼ばれていた各地の人道支援組織だ。オハイオ川は、北部自由州と南部奴隷州の境界だった。

 と同時に地域的に捉えれば、オハイオ川の流域はアメリカにとっての最初の西部開拓地(フロンティア)だった。初期の開拓者(パイオニア)らはイギリス国王の意に反し、独立戦争の以前からインディアンの土地に足を踏み入れていた。順を追って語り始めると地理と歴史の壮大な話になってしまう。続きは次回以降に先送りするが、この際、ことあるごとに使えるよう汎用のオハイオ川流域の地図を作ったので、便利にご活用いただきたい。

オハイオ川流域図(⇒拡大)

===== オハイオ川の蒸気船 =====

 ジョン・A・ローブリング吊橋を外から眺めるなら、一つ東のテイラーサウスゲート橋を歩いて渡るといい。吊橋の脇の斬新なデザインのコンドミニアムが、手前河岸の年代物の邸宅群とよい対照をなしている。中には、19世紀半ばに大挙してやって来たドイツ系移民が建てた家も残っているのだろうか?

テイラーサウスゲート橋から西のジョン・A・ローブリング吊橋とケンタッキー側の河岸を眺める

 さらにリッキング川の河口を隔てて手前には、ベル・オブ・シンシナティ号という船が停泊している。ディナークルーズや観光クルーズのご予約はこちら。毎年5月の第1土曜日に催されるケンタッキー・ダービーに先立って、ルイビルの蒸気船ベル・オブ・ルイビル号と大蒸気船競走(Great Steamboat Race)を競い合う。ベル・オブ・シンシナティ号にも煙突は立っているが、こちらは残念ながら本物の蒸気船ではない。

 とはいえ、南北戦争後にシカゴと鉄道が運輸の主役に躍り出るまで、シンシナティは蒸気船と運河の水運の賜物で中西部随一の農畜産物の集積地だった。1830年代末から20年にわたる最盛期には、毎年30隻の蒸気船がシンシナティから進水した。通算で1千隻、全米の蒸気船の4隻に1隻を建造した実績があるという。

 さて、潜水艦を発明したことでも知られるアメリカ人の造船技師フルトンが、パリのセーヌ川で実用的な蒸気船を走らせたのは1803年のことだった。フルトンは帰国後の1807年にワットの蒸気機関を搭載した全長46mの蒸気船をハドソン川で就航させ、ニューヨーク‐アルバニ―(オ―ルバニ)間を片道2日で結ぶことに成功する。

 当時の河川の水運はといえば、下りは流れにゆだねればよいが、上りは1804∼05年に太平洋に続く道を開拓した探検隊のようにキールボート(下の動画ご参照)で漕ぎ上るか、人畜の力で陸上から舟を曳くほか手段がなかった。オハイオ川でもバーボンウイスキーはじめ上流の産品は、フラットボート(下の動画ご参照)という平底の箱舟に積んで下流のナッチェスの河港まで運び、外洋船に積み替えられて東部やヨーロッパに出荷された。フラットボートはナッチェスで解体して、木材として売ってしまう。帰途はナッシュビルに向かう山あり谷ありの街道を、徒歩または馬に乗って戻る陸路の旅だ。

フラットボート (Flatboat) ルイス・クラーク探検隊のキールボート (Keelboat)

 フルトンは1811年には蒸気船ニューオリンズ号をオハイオ川支流のモノンガヒラ川で建造し、10月にピッツバーグを出航させた。目的地はミシシッピー川河口のニューオリンズ。途中ルイビルには、フォールズ・オブ・オハイオという高低差8mの滝があったが、蒸気船は川が雨で増水するのを待って急流域を乗り切る。

Falls of Ohio 現在のルイビルの水門 (McAlpine Locks and Dam)

 しかし、春に天空に現れた彗星が最も強く光を放ち輝いていたのも正しくその頃で、各地のインディアンは不吉な予兆に騒然としていた。ショーニー族のテカムセ酋長の戦争が始まり、蒸気船の行手にはチカソー族の戦士も姿を現す。さらに12月には、ニューマドリッド地震というミシシッピ川が流路を変えたほどの大地震に遭遇したが、蒸気船は数々の苦難を乗り越えて翌年1月にニューオリンズにたどり着き3ヶ月の処女航海を終えた。ニューオリンズ号は、ナッチェス‐ニューオリンズ間を3週間に一度往復する路線に就航する。

 その後オハイオ川は本格的な交易路として急速に発展を遂げるが、ルイビルの難所だけは、1830年に滝を迂回する運河ができるまで、推力の強い蒸気船でも乗り切ることができなかった。フルトンらはルイビルの上流と下流にそれぞれ定期航路を設けたが、初期の運賃は高くしばらくはまだフラットボートやキールボートが活躍する時代が続いた。

National Steamboat Monument

 ところで、対岸シンシナティ側の川沿いには全米蒸気船記念碑という建造物がある。地上12mに掲げられたのは、メンフィスで今も運行している史上最大の蒸気船アメリカンクイーン号の外輪(パドル)のコピーだ。

 周囲に立ち並ぶ24本の煙突は、人が近寄るとセンサーが働いて煙を吐いたり、蒸気オルガン(カリオペ)から汽笛や船員のつぶやきまで様々な音を出してくれる。私たちは知らずにそばを通り過ぎてしまったが、いつかまた機会があれば、次は子供心に帰ってあれこれ試してみようと思っている。