北米カナダ史(1)
16世紀の北米探検時代
反仏・親スペインで遅れたイングランドの北米進出
この記事は、カナダを中心に北米史を説明するシリーズの第1回です。便宜的に16~18世紀の世紀末ごとに区切り、次の4章にまとめました。
イギリスでは、1603年にイングランドとスコットランドが同君連合(同一君主)の関係になりましたが、1707年にグレートブリテン王国に統合されるまでは別々の国で、互いに対立する事態も頻繁に起きました。そこで、1~2章では「イギリス」という表現を避け「イングランド」と記しますが、「英」と短縮して書く場合は「イングランド」の意味ですから、注意してお読みください。
また、日本人の皆さんに馴染みのない欧米の地名や探検者・国王の人名などは、できるだけ地図や図表で説明しています。地図や図表をパソコンの画面上でいちいち参照なさるのはたいへんですから、必要に応じ印刷して手元において読み進めるようお勧めします。
1.
16世紀の北米探検時代
スペインとポルトガルが世界の覇権を二分した大航海時代。英仏の初期の北米探検は、植民地建設よりアジアに向かう近道や金銀・宝石の発見が主目的だった。
2.
17世紀の植民地建設時代
英仏の北米植民地建設が本格化したが、イギリスは清教徒革命と名誉革命が起きた大動乱時代で、英仏の関係が目まぐるしく変わった。英仏の植民地はそれぞれ敵対するインディアンと戦う一方で、17世紀末まで直接衝突はなかった。
3.
18世紀の英仏戦争時代
立憲君主制が確立したイギリスと絶対王政のフランスが正面衝突した時代。フランスはスペイン王位を継承する代わりに北米から撤退し、イギリスの13植民地が独立…連邦共和制のアメリカ合衆国が誕生した。
4.
19世紀のカナダ自立時代
アメリカのカナダ併合の野心にたびたび火が付く一方、カナダの反米ナショナリズムも高まった。軍事・経済でアメリカに対抗する力を養うため、カナダ植民地が中央集権的な連邦自治領に統合された。
今月のテーマ「16世紀の北米探検時代」
【目次】 (注)
英…イングランドの略
【要約】
北欧の英雄詩にはA西暦1000年頃にカナダのニューファンドランド島に植民したノルマン人の記録が残っていますが、当時の西洋人はそれが新大陸だと気づきませんでした。@イングランド王のヘンリー7世はアジアの黄金の国に至る近道を見つけるようカボットに期待しましたが、Cカボット父子が探検した北米の東海岸にはBグランドバンク(浅碓)で大漁のタラ以外に目ぼしいお宝はなくDヘンリー7世はポルトガルのニューファンドランド島領有を見とがめませんでした。
ヘンリー8世の治世は、スペイン王と神聖ローマ皇帝を兼ねるハプスブルク家のカール5世とフランスのフランソワ1世が覇権を争った時代です。フランスと敵対していたイングランドは、新大陸でスペインと競おうとはせず、イングランドの海外進出は停滞しました。フランスはEセントローレンス川を探検し、フロリダ北東部に砦を築きましたが短命に終わり、代わりにスペインが北米初の恒久植民地を建設しました。
ヘンリー8世の専制期が終わりイングランドは海外進出を再開しましたが、F最大の関心は北極海経由東回りで行くアジア航路(北東航路)でした。結果的にモスクワ大公国との貿易が始まります。
エリザベス1世の時代にはフランスでユグノー戦争(新教と旧教の対立による内乱)が始まり、イングランドは新教勢力を支援し、旧教勢力に味方するスペインと対立します。そのスペインは1580年にポルトガルを併合し、世界中に領土を持つ「日の沈まない国」と呼ばれるようになりました。エリザベス1世の命でG海賊ドレーク船長がスペイン領の南米西海岸で略奪を繰り返しながら世界一周を成し遂げ、ついでにアメリカの西海岸を探検しました。
南西イングランドの地主貴族ギルバートの勧めで、イングランドは再び北西航路の探検に乗り出し、カナダ極北のバフィン島を発見、H英西戦争中にニューファンドランド島をスペインから奪取します。現ノースカロライナ州のロアノーク島に開いた植民地は、入植者全員が行方不明となり消滅してしまいました。
西暦1000年頃にノルマン人が入植していたニューファンドランド島
コロンブスの5年後、英国が北米のタラの島を再発見
【寄り道】ローマ時代にケルト系ブリトン人が住んでいたイングランドには、5世紀にゲルマン系のアングル人・サクソン人・ジュート人が侵入し、一部ブリトン人はフランスのブルターニュ半島などに移住します。次いで9世紀からはノルマン人の侵攻を受け、11世紀にはノルマン人のフランス貴族ノルマンディー公に征服されてしまいました。ノルマン人がニューファンドランド島に移住を試みたのもその時代です。その後、イングランド王のノルマンディー公が、母系の血筋によりフランス王位の継承を主張し百年戦争が起こりました。
=====
@英国王の命でカボットがニューファンドランド島発見
=====
カナダ史は、北米最東端のニューファンドランド島から始まります。イタリア人のコロンブスがスペインのイサベラ女王(1474~1504年)のために船出し、アメリカ(西インド諸島)を発見したのは1492年のことでしたが、5年後の1497年には、ポルトガル人のジョン・カボットが息子のセバスチアンを伴い、イングランドのヘンリー7世(1457~1509年)の命で西回り航路を探す旅に出ます。この探検で、カボット父子はニューファンドランド島を発見し「テラノバ(ラテン語で新しい陸地)」と命名しました。
コロンブスは死ぬまで「アジアを発見した」と言い張り続けたそうですから、大陸と認識していたかどうかは別として、カボットこそが西洋に初めて「新しい陸地」の発見をレポートした人物です。
図1
ジョン・カボットの推定航路
(⇒拡大)
=====
A
1000年頃…ノルマン人の遺跡ランス・オ・メドウズ
=====
800~1050年
ノルマン人の侵攻
(⇒拡大) |
もっとも、ニューファンドランド島北端のランス・オ・メドウズには、科学的な年代測定で西暦1000年前後にできたと推定されるノルマン人(バイキング)の村の遺跡も残っていて、カボットの「発見」も正確にはヨーロッパ人による「再発見」ということになります。
北欧の英雄詩によれば、ノルマン人は850年頃に少し先に入植していたアイルランド人を追い出し、無人島のアイスランドに住み始めました。次いで985年に「赤毛のエリック」なる人物がグリーンランドを発見し、西岸に植民地を建設します。
10~14世紀は世界的に温暖期で、当時のグリーンランドは農牧に適していましたが、その後19世紀まで続く小氷期(Little
Ice Age)の訪れとともに、「赤毛のエリック」の植民地の消息も途絶えてしまったそうです。遺跡からは、教会堂や数百軒の家が発掘されています。
「赤毛のエリック」の息子レイフは、1000年にノルウェー王からキリスト教布教の命を受け、グリーンランドに向かう途中で暴風雨にあって遭難し、ブドウや麦が自生する桃源郷「ヴィンランド(ワインの土地)」を見つけました。それを聞いたノルマン人ソルフィン・カールセフニの一行がアイスランドから「ヴィンランド」への移住を試みますが、*ブドウの自生地は見つかりません。しかたなく上陸した入江で冬を2回越しますが、先住民との折合いが悪くて撤退しました…この「ヴィンランド」が、ランス・オ・メドウズの遺跡かもしれないのです。
平均気温 |
2月 |
8月 |
ニューファンドランド島
(セントジョンズ) |
-4.9℃ |
16.1℃ |
フランス・ブルターニュ半島
(レンヌ) |
9.6℃ |
24.3℃ |
*緯度は同じでも、寒流に洗われるニューファンドランド島と暖流の恩恵を受けるフランスのブルターニュ半島では気温が大きく違います。
ノルマン人がグリーンランドの「赤毛のエリック」の植民地を放棄したのはおそらく1400年前後ですが、当時の西洋の地図にはグリーンランドもヨーロッパの一半島として描かれていました。ポルトガルが西洋諸国の先陣を切り近海を離れて海洋進出したのがやっと1410年代…それより400年も前にノルマン人が植民した「ヴィンランド」が、まさか「新大陸」だったとは誰も気づいていなかったのです。
世界遺産
L'Anse aux
Meadows
入植地の模型 |
土盛りのロングハウス |
ロングハウスの入口 |
再現ボート |
=====
B上 グランドバンク(浅碓)のタラ漁 =====
世界の島の面積
順位 |
所属国 |
島名 |
面積 |
1 |
デンマーク領 |
グリーンランド |
2,175,600
㎢ |
7 |
日本 |
本州 |
227,970
㎢ |
8 |
カナダ |
ビクトリア島 |
217,291
㎢ |
9 |
イギリス |
グレートブリテン島 |
209,331
㎢ |
14 |
ニュージーランド |
北島 |
113,729
㎢ |
15 |
カナダ |
ニューファンドランド島 |
111,390
㎢ |
16 |
キューバ |
キューバ島 |
105,007
㎢ |
18 |
アイスランド |
アイスランド島 |
102,828
㎢ |
20 |
アイルランド・イギリス |
アイルランド島 |
84,406
㎢ |
21 |
日本 |
北海道 |
78,073
㎢ |
|
ニューファンドランド島はカナダの東の端っこであまり知られていませんが、面積は本州の半分近くあり、ご近所のアイスランド島やアイルランド島よりも大きい島です。
図1のカボットの推定航路でお分かりのように、イギリス南部のブリストル港を出帆し、緯度をそのままに西に進むとニューファンドランド島の北端に着きます。直線距離で約3500km…日本列島なら北端から南西諸島南端までの距離で、コロンブスの旅程の半分くらいですから、この時代のヨーロッパの漁船でも無理なく行き来できる場所でした。
ニューファンドランド島沖には、グランドバンクと呼ばれる浅碓があります。ここは北極からカナダ沿岸を下るラブラドル海流(寒流)と、メキシコ湾流の流れを汲む北大西洋海流(暖流)がぶつかる世界有数の漁場で、英仏やポルトガル、スペイン・バスク地方の漁民が夏のタラ漁に訪れるようになります。タラを保存食に加工するために、ニューファンドランド島やその南西のケープブレトン島(現ノバスコシア州北部)に上陸することもありました…ケープは英語で岬ですが、ブレトンは6世紀頃にイギリスのブリテン島南西部からフランスのブルターニュ半島(図1
Brittany)に移住したケルト系ブレトン人の呼び名です。
図2
ニューファンドランド・ラブラドル・アカディア・カナダ・ニューイングランド
(⇒拡大) |
=====
B下
カナダ東部の古地理学と景観 =====
図3
カレドニア造山運動 |
図4
ヘルシニア造山運動 |
ここで、カナダ東部とアメリカのニューイングランド地方の地形を、古地理学でご説明しておきましょう。地球の年齢は46億歳ですが、セントローレンス川の北はカナダ楯状地と呼ばれる先カンブリア時代(地球誕生から40億年)にできた極めて古い地殻です。
大陸はゆっくり移動し、時に一つの超大陸に合体し時に分裂して成長してきましたが、5億5千万年前に超大陸パノティアが分裂を始め、4億9千万年~3億9千万年前にかけ北米(ローレンシア)と北欧(バルティカ)が接近。さらに南から小大陸のアバロニアも来て衝突し、アパラチア山脈のもとになるカレドニア山系が生成されます(図3)。
続く3億8千万年~2億8千万年前には、ゴンドワナ大陸が加わり超大陸パンゲアが誕生…その際にカレドニア山系は部分的に大きく変形しました(図4)。
その後ゴンドワナの南米やアフリカの部位は、1億8千万年~1億3千万年前にかけ分裂し北米から遠ざかっていきます。北米とユーラシアが大西洋の中央海嶺を境に分裂し始めたのはおよそ5千5百年前で、カレドニア山系も分化。北米にはアパラチア山脈やニューファンドランド島が残り、ユーラシアにはスカンジナビア山脈やスコットランド高地などが残りました。
下の写真で、カナダ東部とイギリス北部の景色を比べてごらんください。海岸線は、全般的に谷が沈んでできたリアス式海岸で、所により砂丘もあります。よく似ていませんか?
セントローレンス川河口のガスペ半島・ケープブレトン島・ニューファンドランド島・アイルランド・スコットランドの山河
Gaspésie
National Park, Quebec |
Cape
Breton Highlands
National
Park |
Western
Brook Pond
Newfoundland |
Hare's
Gap
Ireland |
Loch
Long
Scotland |
プリンスエドワード島・ケープブレトン島・ニューファンドランド島・アイルランド・スコットランドの海岸線
Prince
Edward Island
National
Park |
Cape
Breton
Highlands
NP |
Elliston
Newfoundland |
Omey
Strand
Ireland |
Isle
of Harris Scotland |
セントローレンス川やオタワ川、リシュリュー川‐シャンプレーン湖‐ハドソン川は、セントローレンス地溝帯に沿って流れています。ケベックシティはセントローレンス川を見下ろすカナダ楯状地の丘陵上、またモントリオールはオタワ川が合流する早瀬と、軍事的にも商業的にも有利な場所にあります。
セントローレンス川(ケベックシティ・モントリオール)・オタワ川(オタワ)・リシュリュー川河口付近
教皇子午線を根拠にポルトガルがニューファンドランド島を領有
スペイン・ポルトガルの大航海を支えた塩ダラの干物
【寄り道】グランドバンクで獲れたタラは、ニューファンドランド島やケープブレトン島の季節居留地で塩漬けの干物に保存加工されました。生魚を消費地に運搬できるできるようになるのは、産業革命で蒸気船や鉄道が発達し冷凍技術が向上してからで、イギリス名物のフィッシュ&チップスが誕生したのも19世紀半ばになってからでした。
=====
C イタリア人・ポルトガル人の探検 =====
さて、下の表1をごらんください。注目していただきたいのは、大航海時代初期の探検はコロンブスとカボットらジェノバ生まれのイタリア人を除き、全てポルトガル人が担っていたことです。
表1
大航海時代の探検と北米植民地 (■イギリス■フランス■オランダ■ポルトガル■スペイン)
⇒印刷
探検者ほか |
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国籍 |
西暦 |
探検ほか (…カナダ地域
…米地域) |
赤毛のエリック |
− |
ノルマン人 |
985 |
グリーンランド発見・植民(~1400頃) |
レイフ・エリクソン |
− |
ノルマン人 |
1000頃 |
ヴィンランド発見 |
ソルフィン・カールセフニ |
− |
ノルマン人 |
1010頃 |
ヴィンランド植民(短期で放棄) |
マルコ・ポーロ(ベニス商人) |
− |
イタリア |
1276~91 |
シルクロード(東方見聞録…黄金の国ジパング) |
マロチェ―ロ(ジェノバ生) |
ー |
イタリア |
1312 |
カナリア諸島(北緯28度)に入植 |
ベタンクール(フランス人)ら |
スペイン |
- |
1402 |
カナリア諸島占領開始 1495
スペイン領有完了 |
エンリケ航海太子ら |
ポルトガル |
ポルトガル |
1418~ |
西アフリカ・大西洋諸島の探検事業開始 |
ジョアン・ゴンサルべス・ザルコ |
ポルトガル |
ポルトガル |
1419 |
マデイラ諸島(北緯33度)発見 |
ディオゴ・デ・シルベス |
ポルトガル |
ポルトガル |
1427 |
アゾレス諸島(北緯38度)発見 |
ジル・エアネス |
ポルトガル |
ポルトガル |
1434 |
初めてボハドル岬(北緯26度)を越えて南下 |
アントニオ・ノリ(ジェノバ生) |
ポルトガル |
イタリア |
1456 |
ヴェルデ諸島(北緯15度)発見 |
ロペス・ゴンサルべス |
ポルトガル |
ポルトガル |
1473 |
初めて赤道を越えて南下 |
バーソロミュー・ディアス |
ポルトガル |
ポルトガル |
1488 |
アフリカ南端の喜望峰到達 |
コロンブス(ジェノバ生) |
スペイン |
イタリア |
1492 |
西回り航路探検…新大陸(西インド諸島)発見 |
ジョン・カボット(ジェノバ生) |
イギリス |
ポルトガル |
1497 |
西回り航路探検…
ニューファンドランド島発見 |
1498~50 |
西回り航路探検…
デラウェア・チェサピーク湾発見 |
フェルナンデスら |
ポルトガル |
ポルトガル |
1498 |
ラブラドル発見・グリーンランド探検 |
バスコ・ダ・ガマ |
ポルトガル |
ポルトガル |
1498 |
東回り航路探検…インド到達 |
ペドロ・アルバレス・カブラル |
ポルトガル |
ポルトガル |
1500 |
ブラジル到達 |
コルト・レアル兄弟 |
ポルトガル |
ポルトガル |
1501 |
西回り航路探検…
ニューファンドランド島再発見 |
アメリゴ・ベスプッチ |
ポルトガル |
イタリア |
1501∼02 |
南米探検…新大陸「アメリカ」 |
セバスチアン・カボット |
イギリス |
英帰化人 |
1508~09 |
西回り航路探検…
カナダ極北~チェサピーク湾 |
アフォンソ・デ・アルブケルケ |
ポルトガル |
ポルトガル |
1510 |
ゴア(インド)占領 |
1511 |
マラッカ占領 |
バスコ・ヌニェス・デ・バルボア |
スペイン |
スペイン |
1513 |
パナマ地峡横断…太平洋発見 |
ポンセ・デ・レオン |
スペイン |
スペイン |
1513 |
フロリダ東・西海岸発見…領有宣言 |
エルナン・コルテス |
スペイン |
スペイン |
1519∼21 |
アステカ(メキシコ)征服⇒ヌエバエスパーニャ副王領 |
フェルナンド・マゼラン |
スペイン |
スペイン |
1519~22 |
西回り航路探検…世界一周(マゼラン海峡) |
ホアン・A・ファグンデス |
ポルトガル |
ポルトガル |
1520∼21 |
ノバスコシア周辺探検 |
ジョバンニ・ダ・ヴェラッツァーノ |
フランス |
イタリア |
1524 |
北西航路探検…
フロリダ北部~ニューヨーク付近 |
ルーカス・バスケス・デ・アイヨン |
スペイン |
スペイン |
1526~27 |
現サウスカロライナ州サンティー川植民地 |
パンフィロ・デ・ナルバエス |
スペイン |
スペイン |
1528~29 |
フロリダ西海岸・帰路(テキサス再上陸⇒メキシコ) |
フランシスコ・ピサロほか |
スペイン |
スペイン |
1531 |
インカ(ペルー)征服開始 1579
インカ滅亡 |
ジャック・カルチエ |
フランス |
フランス |
1533~35 |
北西航路探検…
セントローレンス川 |
エルナンド・デ・ソト |
スペイン |
スペイン |
1539~42 |
南部(フロリダ~オクラホマ)探検 |
フアン・ロドリゲス・カブリージョ |
スペイン |
スペイン |
1539~43 |
西海岸(サンディエゴ~サンフランシスコ付近)探検 |
フランシスコ・V・デ・コロナド |
スペイン |
スペイン |
1540 |
南部(グランドキャニオン~カンザスシティ)探検 |
フランシスコら |
ポルトガル |
ポルトガル |
1543 |
日本に漂着…種子島に鉄砲伝来 |
ザビエル(イエズス会) |
ポルトガル |
スペイン |
1549 |
日本…キリスト教伝来 |
トーマス・ウィンダム |
イギリス |
イギリス |
1551~53 |
モロッコ・西アフリカベナンにに到達
|
リチャード・チャンセラー |
イギリス |
イギリス |
1553 |
北東航路探検…白海→ロシアに到達
⇒
1555年 モスクワ会社(初の勅許会社) |
アンソニー・ジェンキンソン |
イギリス |
イギリス |
1558~71 |
カスピ海に到達
|
ルナ・イ・アレヤーノ |
スペイン |
スペイン |
1559~61 |
西フロリダ植民地(現フロリダ州ペンサコーラ) |
ジャン・リボー |
フランス |
フランス |
1562 |
現フロリダ州ジャクソンビル探検 |
ルネ・G・ド・ロードニエール |
フランス |
フランス |
1564~65 |
カロリーヌ砦植民地 |
ペドロ・メネンデス・アビレス |
スペイン |
スペイン |
1565~ |
サンアウグスティン植民地 |
マーティン・フロビッシャー |
イギリス |
イギリス |
1576 |
北西航路探検…バフィン島・フロビッシャー湾 |
フランシス・ドレーク |
イギリス |
イギリス |
1577~80 |
史上2回目の世界一周(ドレーク海峡)
北西航路探検…
現サンフランシスコ~北米西海岸 |
フランソワ・グレーブ・デュポン |
フランス |
フランス |
1580頃~ |
セントローレンス川トロワリビエール付近で毛皮交易 |
ハンフリー・ギルバート |
イギリス |
イギリス |
1583 |
ニューファンドランド島領有宣言(帰途に遭難) |
ウォルター・ローリー |
イギリス |
イギリス |
1584~91 |
バージニア探検・ロアノーク植民地 |
バーナード・ドレーク |
イギリス |
イギリス |
1585 |
ニューファンドランド島の西・ポ居留地一掃 |
ジョン・デービス |
イギリス |
イギリス |
1585~86 |
北西航路探検…バフィン島~グリーンランド |
ホアン・ダ・ガマ |
ポルトガル |
ポルトガル |
1588~90 |
マカオ~北海道~北太平洋~アカプルコ |
フアン・デ・フーカ |
スペイン |
ギリシャ |
1592 |
北西航路探検…現米加国境の海峡 |
ウィレム・バレンツ |
オランダ |
オランダ |
1594~96 |
北東航路探検…スピッツベルゲン島に到達 |
フアン・デ・オニャーテ |
スペイン |
スペイン |
1598 |
南西部探検・副王領サンタフェ・デ・ヌエボメヒコ州創設 |
ピエール・ド・ショーバン |
フランス |
フランス |
1600 |
トンテュイット交易所(サグネ川河口) |
バーソロミュー・ゴスノルド |
イギリス |
イギリス |
1602 |
ニューイングランド探検(カティハンク島植民地…放棄) |
サミュエル・ド・シャンプラン |
フランス |
フランス |
1604 |
アカディア植民地(ノバスコシア・ポートロワイヤル) |
1608 |
カナダ植民地(セントローレンス川ケベック) |
バージニア会社(ロンドン) |
イギリス |
ー |
1606 |
バージニア勅許植民地(バージニア州チェサピーク湾) |
バージニア会社(プリマス) |
イギリス |
ー |
1606~07 |
ポパム勅許植民地(メーン州ケネベック川河口) |
ペドロ・デ・ペラルタ |
スペイン |
スペイン |
1607 |
ヌエボメヒコ州の州都サンタフェ建設 |
ヘンリー・ハドソン |
オランダ |
イギリス |
1609 |
北西航路探検…
ハドソン川 |
イギリス |
1610 |
北西航路探検…
ハドソン湾 |
ロンドン・ブリストル会社 |
イギリス |
イギリス |
1610
1620~37 |
ジョン・ガイ…初のニューファンドランド領主植民地
ジョージ・カルバート(初代ボルチモア卿)
アバロン領 |
ニューネーデルラント会社 |
オランダ |
オランダ |
1614 |
ニューネーデルラント勅許植民地 |
ウィリアム・バフィン |
イギリス |
イギリス |
1615 |
北西航路探検…バフィン湾 |
ピルグリムファーザーズ |
イギリス |
イギリス |
1620 |
プリマス勅許植民地(マサチューセッツ州南東部) |
ジェームズ・ヘイ |
イギリス |
イギリス |
1625 |
バルバドス領主植民地(小アンチル列島) |
マサチューセッツ湾会社 |
イギリス |
イギリス |
1629 |
マサチューセッツ湾勅許植民地 |
C・カルバート(ボルチモア卿) |
イギリス |
イギリス |
1632 |
メリーランド領主植民地 |
Reconquista
(⇒拡大) |
イベリア半島は718年に西ゴート王国がイスラム帝国に滅ぼされて以来、キリスト教勢力が足かけ8世紀にわたる「レコンキスタ(再征服)」の戦いを続けてきたのですが、その中核のスペインがイスラム勢力を完全に駆逐できたのは、正にコロンブスがアメリカを発見する1492年のことでした。
Ottoman
Empire
(⇒拡大) |
ポルトガルは元はスペインの臣下筋でしたが、「レコンキスタ」ではスペイン(カスティージャ王国等)が内紛でモタモタしている間に、1249年、さっさと領内を平定しいち早く王権を強化しました。イベリア半島の南端にはまだイスラムのグラナダ王国が踏ん張っていましたが、ジブラルタル海峡を自由航行できるイタリアのジェノバ商人は大西洋に商機を求めポルトガルのリスボンやポルト進出してきました。
13世紀後半のバルカン半島の情勢はイベリア半島と真逆で、キリスト教勢力がオスマントルコに圧倒され、ジェノバの生命線たる黒海の奴隷貿易も商権を脅かされていました。ローマ教皇はカトリック教徒の奴隷売買を禁じていましたが、ジェノバはクリミア半島南部を領有してスラブ人ら正教徒の奴隷を買い付け、イスラム諸国に売って代わりに香辛料や東洋の奢侈品を仕入れて持ち帰っていたのです。
1400年当時のジェノバ共和国の領土及び同国の経済的影響下に置かれた地域
(⇒拡大) |
ポルトガルはイスラム時代に習得した造船技術を活かし、またジェノバ商人に交易のノウハウと航海技術を学んで、英仏やオランダなどフランドル地方を相手に地道に交易の経験を積み重ねました。その上で1418年、エンリケ航海太子の指揮の下に、西アフリカや大西洋諸島の探検と植民地活動に乗り出します。
アイスランドとグリーンランド、それにモロッコの沿岸からほんの100km沖合のカナリア諸島を除き、大西洋の島々は全く未知の時代でした。カナリア諸島にはスペイン(カスティージャ王国)が触手を伸ばしかけていましたが「レコンキスタ(再征服)」の戦いは継続中。英仏は百年戦争(1337∼1453年)の最中で、オランダも諸侯領の統一前の段階でしたから、大西洋の探検と植民地化は正にポルトガルの独壇場でした。
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D ポルトガルのニューファンドランド島領有=====
しかし、ポルトガルの植民地圏拡大のスピードは緩慢でした。当時は、カナリア諸島の南250kmのボハドル岬を越えると海が煮えたぎっている…仮に生きて帰れても白人が黒人になってしまうと船乗りたちが恐れおののいていた時代で、初めて赤道を越えるまでに55年、バーソロミュー・ディアスがアフリカ南端の喜望峰に到達するまで、70年もかかりました。コロンブスが西回りでインドを目指したのはその4年後で、まだ東回りのインド航路もなかったわけです。
コロンブスはポルトガルに支援を断られ、スペインの資金援助で西インド諸島を発見しました。しかし、1481年の教皇シクストゥス4世の回勅で、スペイン領カナリア諸島以南の新領土は全てポルトガルに与えると定められています。そこで、1493年にスペイン出身の教皇アレクサンデル6世が、新たに「教皇子午線」を定め、それより西はスペイン領という回勅を出し直しました。翌1494年にスペイン・ポルトガルが直接話し合い、「教皇子午線」を少し西にずらして、ポルトガル領ヴェルデ諸島とコロンブスが発見した島々の中間点に引き直しました。
「教皇子午線」というと、普通は下の図5のように、スペインとポルトガルが東西2本の子午線を境に世界を分割したと説明されますが、2本目の「教皇子午線」ができたのは、1522年にマゼラン探検隊が世界一周を果たして戻ってきた後の1529年です。当時はまだコロンブスの「インド」発見の直後でしたから、下の図6のように、ニューファンドランド島の先には、黄金の国ジパングがあるものと信じられていました。
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図5
教皇子午線…一般的な説明 (⇒拡大) |
図6
教皇子午線…当時の理解 (⇒拡大) |
スペインのインド航路発見に焦ったポルトガルのマヌエル1世は、1497年にバスコ・ダ・ガマを司令官に任じ東回りで艦隊をインドに派遣します。しかし、その同じ年にイギリス(カボット)が西回りでニューファンドランド島を発見したと聞いて、心安らかにはいられません。
ポルトガル領アゾレス諸島(図1)の農夫(ポルトガル語でラブラドル)フェルナンデスに勅許を与え、教皇子午線より東の自国領の土地を探検させました。一行は大陸の一部(ラブラドル地方)を発見し、さらにグリーンランドを探検して周辺の沿岸地図を作成しました。1501年には、西回り航路発見の探検に出たコルト・レアル兄弟がニューファンドランド島を再発見します。
Bacalhau |
上述のように、ニューファンドランド島沖のグランドバンク(浅碓)はタラの宝庫で、早くも1400年代のうちにポルトガルのほかフランスのブルターニュ半島やノルマンディー半島、スペインのバスク地方、イギリスや北欧の漁民が漁にやって来るようになりました。そこで、各国の漁民がニューファンドランド島やケープブレトン島に季節居留地を設け、バスク地方の漁民に教えを請うて始めたのが塩ダラの干物バカラオです。
バカラオは、今でもポルトガルはじめスペイン、イタリア、ブラジルなどのカトリック国やノルウェーなどで愛されている食材ですが、当時は特に謝肉祭の翌日から復活祭まで40日間の肉断ちの期間に口にする蛋白源として貴重でした。加えて、大航海時代の果てしない航海を支える保存食としても大量に必要とされたのです。
ポルトガルは「教皇子午線」を盾に1506年に漁業税を設け、他国の漁民にも課税するようになりました。1520~21年にはファグンデスがケープブレトン島周辺の島々を探検したことが知られています。スペインの漁民は1563年に、島の南東部に自前の居留地を設けました。
アジアへの海峡探しで、仏人カルチエがセントローレンス川を探検
金銀・宝石に代えゲットしたビーバーの毛皮が大ヒット
【寄り道】18世紀末に至るまで、北米にはアニアン海峡という大西洋と太平洋を結ぶ海峡があると信じられていました。当時の人々の身になって海峡の東の入口を探すなら、本命は川幅も広く悠々と水をたたえるセントローレンス川でしょう。ほかにハドソン湾は別格として、ニューヨーク湾‐ハドソン川、チェサピーク湾、デラウェア湾など内陸に深く切り込むリアス式の広い湾口が候補に挙がりました。西の入口候補は、カリフォルニア湾‐コロラド川、サンフランシスコ湾、コロンビア川、カナダ・バンクーバー島の南のフアン・デ・フカ海峡。
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E上
仏人カルチエのセントローレンス川探検 =====
図7
セバスチアン・カボットとヴェラッツァーノらの航路 (⇒拡大) |
しかし、コロンブスが発見した大陸が「旧大陸」でないことは、次第に明らかになってきます。まず1500年にポルトガルのカブラルが、インドに行く途中でブラジルを発見しました。次いでアメリゴ・ベスプッチは、マニュエル1世の命で南米の東海岸に沿って南緯50度まで下ります。アフリカ最南端の喜望峰が南緯34度ですから、南米がアフリカでもアジアでもない「新大陸」であることが証明され、「新大陸」は「アメリカ」と呼ばれるようになりました。1513年にはスペインのバルボアがパナマ地峡を横断して太平洋を発見し、1522年にマゼランの船団が世界一周を果たし議論は最終的に決着します。
となると、これまでは金銀など一攫千金の美味しい話がなく中南米ほど注目されていなかった北米が、どこかにアジア行きの近道がないか再び人々の関心を集めます。
既にヘンリー7世時代末期の1508~09年にカボット(子)が、カナダのハドソン湾の入口から現バージニア州のチェサピーク湾まで沿岸を調査(図7)し、スペインはフロリダからデラウェア湾まで探索していましたが、フランスのフランソワ1世(1515~47年)は1524年にイタリア人のヴェラッツァーノに命じ、あらためてフロリダ北部からニューヨーク付近の沿岸を探索させています。
図8
カルティエの航路 (⇒拡大) |
次いで、1534年にフランス・ブルターニュの航海士ジャック・カルティエがセントローレンス湾(図8)を探検し、セントローレンス川河口のガスペ半島に十字架を建てフランスの領有を宣言しました。
翌年の2回目の探検では、太平洋につながる北西航路と目星をつけていたセントローレンス川をさかのぼり、現ケベックシティと現モントリオールにあったイロコイ族の村に到達しましたが、その先は急流に行方をはばまれ引き返します。イロコイ語で「村」を表す「カナダ」を、この地方の地名にしたのもこの人です。
イロコイ族は友好的でしたが、カルチエ一行はヨーロッパの感染症を持ち込んだり、酋長の息子らを強引にフランスに連れ帰ったりして反感を買います。帰国したカルチエからインディアンの黄金郷伝説を聞いたフランソワ1世は、カルチエを最後の航海に送り出します。1541年にカルチエは現ケベックシティ付近に植民地の建設を志しましたが、イロコイ族の対応ぶりが冷淡に変わったのを見てとり一冬で断念して帰国しました。
Beaver
Hats
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カルティエは所期の目的の北西航路発見を果たせず、おまけに水晶をダイヤモンド、黄鉄鉱を金と信じてフランソワ1世に持ち帰って笑い者にはなりましたが、インディアンとの交易でヨーロッパにビーバーの毛皮を持ち帰ることができました。
Beaver
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ビーバーの毛皮は柔らかさと弾力性を兼ねそなえ、自由な形状に加工することができました。ヨーロッパでは、その後19世紀半ばにかけてビーバーハットが大流行します。有名なシルクハットも元をたどればビーバーハット…ビーバーの毛皮が入手しづらくなり、18世紀末にやむなく発明されたものでした。
カルティエの探検は、一気に植民地創設に進みはしませんでしたが、その後は漁民が布地や鉄製器具や装飾品などインディアンが好む物品を携えて漁に出かけ、ケープブレトン島やニューファンドランド島で獲物のタラを保存加工する折に、毛皮と交換してヨーロッパに持ち帰るようになります。1580年頃には専業の毛皮商人がセントローレンス川をさかのぼり、インディアンと交易するまでになっていました。
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E下
夢と消えた仏カロリーヌ砦植民地 =====
1539~42年
デ・ソトの米南部探検ルート (⇒拡大)
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16世紀後半のフランスは宗教改革の波に呑みこまれ、ユグノー戦争(1562~98年)で内乱状態になります。カルティエの植民地構想も立ち消えになってしまいます。しかし、そんな時代なればこそ、新大陸にユグノー(フランスの新教徒)の理想郷を築こうという試みがありました。
1562年にジャン・リボーが現フロリダ北東部ジャクソンビルの周辺を探検し、翌々1564年にカロリーヌ砦(図7)植民地を設けました。これには、約50年も前にフロリダ領有を宣言し、北は沿岸をデラウェア湾まで上り、内陸もアパラチア山脈からミシシッピ川まで探索していたスペインが激怒し、フランス植民地はわずか1年でスペインに奪取されてしまいました。
スペインはフランスの動きに触発され、カロリーヌ砦の40km南にサンオーガスティン植民地を開き、これが北米で初のヨーロッパ諸国の恒久的植民地となりました。フロリダは、その後イギリス領となり、一時期再びスペイン領となり、最終的にアメリカ領となります。
北極海東回り航路より西回り航路…エリザベス1世が方針転換
ニューファンドランド島奪取、ロアノーク島に初植民地
【寄り道】ロアノーク島の失われた植民地(Lost
Colony)の砦の柱には、インディアン部族の名前だけ書き残され、イギリス人初の新大陸生まれのバージニアちゃんも含め、住民全員が失踪していました。家屋も整然と解体された様子で、何者かに襲撃されて慌てて逃げたようではありません。住民はインディアンと同化したとか、自力で帰国しようとして海上で遭難したとか諸説あり、周辺のインディアンの姓やDNAの分析なども進められ、現代に至るまでミステリー真相解明の動きが止みません。
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F 英モスクワ会社とカナダ極北バフィン島の発見 =====
ヘンリー7世時代のカボット父子の探検は(図1・図7)は、イギリスの北米東海岸領有の根拠として、後に重要性を増します。しかし、後継のヘンリー8世(1509~47年)は戦争と宗教改革に忙しく、未知の土地の発見や探検に消極的でした。やむなくカボット(子)はスペインに移住し南米を探検しましたが、成果を挙げられずに投獄の憂き目に遭います。ヘンリー8世の亡くなった年に、イギリスに帰国していました。
図9
北極海と海氷
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次のエドワード6世(1547~53年)は、わずか9歳で即位。しばらくは母方の伯父の監督下で、ヘンリー8世の好戦・強硬外交が踏襲されました。しかし、1549年に実権を奪ったジョン・ダドリーは、一転してフランスやスコットランドとの和平を進め、海外領土の開拓にも積極的でした。カボット(子)とペルー遠征計画などを語らったそうです。1551~53年にはトーマス・ウィンダムをモロッコやギニア海岸探検に送り出し、イングランドは探検活動を再開しました。
カボット(子)はというと、北東航路(北極回りのアジア航路)に興味を持ち、1553年にチャンセラーらと「新発見地冒険商人組合(Company
of Merchant Adventurers to New Lands)」という勅許会社を設立し、総裁に就任します。資本は民間富裕層の出資で調達するものの、国王が新発見の土地との貿易や植民地開拓について独占権を与える準国家事業で、以降は各国の東インド会社など17世紀の西欧海外進出のモデル形態となります。
しかし、ご存じのように北極海には夏でも海氷に閉ざされた難所があり、当時の帆船が通り抜けられるはずもありません。チャンセラーは盟友を失いないましたが、何とか白海の入口を見つけ、アルハンゲリスクからソリでモスクワ大公国に至り、イワン雷帝(1533~84年)に謁見することができました。
モスクワ大公国といえばロシアの前身ですが、当時はまだモンゴル帝国の支配から脱したばかりで、西にはリトアニア・ポーランド・スウェーデンら強国が控え、バルト海への進出さえままならなかった時代です。しかも、中欧・西欧との交易は、バルト海のハンザ同盟都市に独占されていましたから、白海経由の交易路は大歓迎だったのです。
帰国したチャンセラーは、エドワード6世が亡くなりダドリーが処刑されたと聞いて驚きますが、新女王メアリ―1世も勅許を更新し、会社は「モスクワ会社(Muscovy
Company)」と改名して存続することになりました。こうして、イギリスの羊毛とロシアの毛皮の交易が始まります。
モスクワ会社はその後も北東航路を開拓し切ることはできませんでしたが、翌17世紀にハドソン湾を発見するヘンリー・ハドソンら北極海の航海士を育てました。図9で注目していただきたいのは、北極海でも大西洋側は、1年中海氷に覆われるわけでははなく、少なくとも夏ならハドソン湾やバフィン湾の奥まで航行可能だという点です。エリザベス朝(1558∼1603年)のイギリス海洋探検の口火を切り、1576年にグリーンランドとハドソン湾の間の巨島バフィン島に達したマーティン・フロビッシャーも、北西航路探索の目的ながら、モスクワ会社に頼み込んで航海に出たものです。
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G
英ドレーク船長のアメリカ西海岸探検
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セントローレンス川を探検したカルティエは、海賊の巣窟として悪名を馳せたブルターニュ半島の城塞都市サンマロ(図1)の出身です。もともとは6世紀にイギリス西部から移住してきたケルト系カトリック修道士の居所でしたが、フランスの内乱ユグノー戦争(1562∼98年)の最中には一時独立を宣言したほどで、英仏海峡を通るイギリス船に通行料を課していたこともあります。日本の村上水軍も、瀬戸内海で通行料を取っていましたね。
こうした海賊は、国家が免許を与えるだけで、私掠船という「海の民兵部隊」に早変わりします。大航海時代にまだ確固たる海軍力を欠いていた英仏・オランダは、新大陸の銀を運ぶスペインの宝物艦隊やポルトガルの奴隷船を私掠船で襲い、スペイン・ポルトガルの海上覇権に風穴を開けました。スペインは一連の植民地征服を終え今や銀鉱山の開発に注力し、ポルトガルはブラジルでサトウキビのプランテーション農業の拡大に腐心していましたが、白人が持ち込んだ感染症や重労働によりインディオの人口は急減し、労働力を埋めるには西アフリカから黒人奴隷の輸入が必要となっていたのです。
バフィン島を発見したフロビッシャーも私掠船の船長でしたが、エリザベス朝の繁栄を支えたイギリスの海軍力を鍛えあげたのは、現代日本の漫画「ワンピース」に名を貸すほどに名高い海賊団船長のフランシス・ドレークでした。宿敵スペインでは、名前のゴロでドラコ(スペイン語でドラゴン)と呼ばれ、怖れられていました。
当時のスペインは、フェリペ2世(1556∼98年)が神聖ローマ皇帝で父のカール5世から、スペインとネーデルラント地方(現代のオランダ・ベルギー・ルクセンブルグと周辺)を相続。さらに1580年にはポルトガルを併合し、海外領土も地中海から新大陸やアジア・アフリカに及ぶ「太陽の沈まない国」となっていました。フランスの宗教内乱ユグノー戦争(1562∼98年)で、イギリスとスペインはそれぞれ新教(プロテスタント)派と旧教(カトリック)派を支持し対立していましたが、八十年戦争(1568~1648年)にイギリスが介入し、オランダのスペインからの独立運動を支援し英西関係の破綻は決定的になりました。
スペインはチリの銀をマニラ-マカオ経由で明に運び、モルッカ諸島の香辛料や明の磁器・象牙・漆器・絹製品を持ち帰った。 |
ドレークのはとこ(再従兄弟)ジョン・ホーキンスは、1562年にアフリカでポルトガルの奴隷船を拿捕し、カリブ海で奴隷を売って利益を出しました。これがイギリスの私掠船による奴隷貿易の先駆けで、1564年の航海には25歳のドレークが初めて参加します。1568年にはスペイン海軍に遭遇してメキシコから命からがら帰る経験もしましたが、1570年には独立して海賊行為を再開。1573年にはパナマ地峡で20トンの金銀を運ぶラバの隊商を襲い、山道を引きずって運べるだけしか持ち帰れなかったとはいえ、巨額の戦利品を手にして凱旋しました。
この快挙を聞いてエリザベス1世はスペイン領西岸(太平洋岸)への遠征を命じ、ドレークは1577~80年にマゼランに次ぐ世界で二度目の世界一周航海を達成します。途中、チリやペルーでスペイン領を襲い、銀26トンと金や金貨などイングランドの国家予算並みの財貨を奪って帰国し女王に献上、海軍中将を拝命しました。
探検家としては、マゼラン海峡の南に南米大陸と南極大陸を区切る海域(ドレーク海峡)があることを確認しました。私たちには当たり前のようですが、マゼランは、通路のように細いマゼラン海峡の南が島(フエゴ島)ではなくて、別の大陸が続くものと考えていたのです。
ドレーク湾 |
ドレーク海峡 |
また、北米の西海岸は1539~43年にスペインのカブリージョが、サンディエゴからサンフランシスコ近くまで北上して探検済みでしたが、ドレークはサンフランシスコ付近からオレゴンやカナダのバンクーバーあたりまで沿岸を航行し、太平洋側から北西航路の有無を探索しましたが、これでイギリスは北米両岸の広域で領有権を主張する根拠を得たわけです。
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H上
イギリスのニューファンドランド島奪取 =====
フロビッシャーやドレークの北西航路発見の試みを理論的に支えたのは、南西イングランドの地主貴族(ジェントリー)ハンフリー・ギルバートが1566年にエリザベス1世に謁見し奏上した「中国向け新航路の発見」という論文です。ギルバートは北東航路の発見は危険で見込みがなく、イギリスは北西航路の発見に注力すべきだと主張し、自らもまずニューファンドランド島を領有し、その上で、その先にあるはずの北西航路を探そうと、冒険の旅に挑みました。
エリザベス1世は1578年に、ギルバートに対し「入植者が本国に準ずる法律の下で、イギリス人と同等の特権を保持する」条件付きで、新たに発見した未開地を所有する特許状を与えます…これは、その後のイギリスの植民地政策の基本となりました。ギルバートはエリザベス朝で歓迎されないカトリック貴族らの出資を得て、1583年にプリマス港を出航しニューファンドランド島に上陸しました。次いで、スパイン・ポルトガルの漁民に対しイングランドの領有を宣言したものの、ギルバートは帰途に遭難して亡くなり、恒久的な占領はなりませんでした。
しかし、翌々年にドレークの遠戚に当たるバーナード・ドレークが、ニューファンドランド島からスパイン・ポルトガルの漁業拠点を一掃します。英西戦争(1585∼1604年)が始まり、エリザベス1世がイングランド配下の私掠船に命じた一連のスペイン領攻撃の一環でした。バーナードのおかげで、イングランドはスペイン・ポルトガルの漁民を追い出すことはできましたが、自らのニューファンドランド島植民地建設は1610年まで始まりませんでした。
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H下
バージニアの「失われた英植民地」 =====
一方、道半ばで死んでしまったギルバートの特許状は、異母弟でエリザベス1世の寵臣だったウォルター・ローリーが相続しました。スペイン領フロリダを除く北米大西洋岸の広大な処女地を、未婚のエリザベス1世にちなんで「バージニア」と名づけた人物で、ノースカロライナ州の州都ローリーの市名の由来です。
ローリーは1584年に出した調査隊のよい報告を踏まえ、翌1585年に現ノースカロライナ州のロアノーク島(図7)に100人余りの移民遠征隊を送り出しました。インディアンとの関係は出だしから悪く、食料も足りない心細い冬を越え、翌年、フランシス・ドレークの大艦隊がカリブ海のスペイン領を平らげて植民地に立ち寄った際には、ほぼ全員が帰国を懇願しました。
それでもあきらめずにローリーは1587年に第二陣を派遣しましたが、時は英西戦争の真っただ中です。イギリス中の艦船がスペインとの海上決戦に動員されていて、物資や人員の救援ができないままに植民地は放置され、3年後にようやく救援隊が到着した時には、人ひとり見つかりませんでした。今日まで「失われた植民地」のミステリーとして語り継がれています。
こうして16世紀は、「スペイン領フロリダのサンオーガスティンを除き恒久的植民地なし」で暮れ、17世紀初頭の植民地建設ラッシュの時代がやって来ます。
ドレークは、1588年のアルマダの海戦で英軍の指揮を取り、スペインの無敵艦隊を打ち砕く歴史的な勝利を収めました。しかし、巷で言われるように、この戦いでスペインが海洋覇権を失ったわけでも、スペインの凋落が始まったわけでもありません。
1589年にドレークの艦隊は、スペインの港湾を襲って無敵艦隊の残存艦船を殲滅し、ポルトガル独立派を連れてリスボンに上陸しようと試み、逆に甚大な損害を被ります。スペインは短期間で艦隊を修復、むしろ十二使徒と呼ばれる12隻の新型巨船で攻防能力を強化し、イングランド私掠船隊の襲撃を挫折させました。
スペイン艦隊撲滅の課題は、それから2世紀余り後のナポレオン戦争に持ち越されました。1805年のトラファルガーの海戦でフランス・スペイン連合艦隊はイギリスに大敗し、残敵掃射により壊滅します。その後の海軍再建に手間取るスペインの中南米植民地では、1809年のラプラタ(現アルゼンチン)を皮切りに、1810年のメキシコ、1811年のベネズエラ、パラグァイと、独立運動が相次いで勃発しました。
アメリカとの関係でも、スペインは1819年にフロリダやメキシコ湾岸の領土を割譲し、オレゴンやアラスカの権益を放棄することに合意しています。
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