17世紀…スペイン・ポルトガルから蘭・英・仏に覇権国が代替わり
中世西欧経済を支えたオランダとフランドル(北ベルギー)
16世紀はスペインとポルトガルが世界を二分して、海外植民地と貿易の覇権を独占した時代でした。北米でも英仏の恒久植民地建設の試みは失敗し、16世紀末時点ではまだスペイン植民地がフロリダとニューメキシコに存在するだけでしたが、17世紀初頭のたった20年で、その後の北米各地の文化の源流となる英仏蘭3国の主要植民地が勢揃いしました。
スペイン…フロリダ植民地(1565)、ニューメキシコ植民地(1598)
フランス…アカディア植民地(1604)、カナダ植民地(1608)
イギリス…バージニア植民地(1607)、ニューファンドランド植民地(1610)、ニューイングランド植民地(1620)
オランダ…ニューネーデルラント植民地(1614)
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17世紀…イギリス・オランダとフランスの北米進出
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17世紀のイギリスとオランダのアジア進出は、ポルトガルに代わって、それぞれインドやインドネシアから綿織物(キャラコ)や香辛料などを持ち帰るのが主目的で、フランスとオランダの北米進出も、つまるところはビーバーの毛皮が目当ての交易植民地でしたが、イギリスの北米植民地の場合は移民植民地でした。バージニアは主に産業構造の変化によって生じた食糧難民、ニューイングランドは主に宗教難民の受け皿で、後にアメリカとなる両植民地は、創成期から独立した産業経済圏として発展していきます。
西暦1600年は日本で関ヶ原の戦いが起きた年ですが、ヨーロッパではイギリスが東インド会社を設立し、イギリスとオランダの海外進出が本格的に始まった節目の年でした。東インド会社は国王が勅許によりアジア貿易や植民地経営を一任した会社で、それまでも似たような貿易会社はありましたが、地域貿易の独占権ゆえに民間から潤沢な投資資金が集まりました。オランダも1602年に東インド会社を設立しましたが、航海ごとに出資と配当の清算をせず、永続的な資本を民間から広く小口単位で集めたことから、世界初の株式会社といわれています。
イギリスとオランダは、北米向けにもそれぞれバージニア会社とニューネーデルラント会社という貿易会社を設立し、組織的な植民地建設に乗り出しました。フランスは、ヌーベルフランス(ニューフランス)の父と呼ばれるシャンプランの個人努力でいち早くカナダ植民地の建設に着手したものの、国内の新教・旧教の宗教対立が尾を引いて、その後の規模の発展に後れを取りました。
スペイン・ポルトガルと英仏蘭の植民地帝国
欧米日植民地帝国の時系列推移
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時系列的に厳密ではありませんが、18世紀(1700年代)を中心に描いたイギリス・フランス・オランダとスペイン・ポルトガル5ヶ国の植民地です。その後(スペイン・ポルトガルやドイツ・イタリアの植民地だった地域も含め)英仏蘭3国が一度でも支配したことがある地域は、別の色で色塗りしました。イランのようにイギリスに半植民地化された地域や中国の租借地までは含んでいません。(⇒拡大)
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新興国オランダの勃興 =====
八十年戦争時代のネーデルラント
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人口的にも面積的にも小国なので意外かもしれませんが、17世紀初頭のオランダ東インド会社は、インドネシア(いわゆる東インド諸島)でライバルのイギリス東インド会社を蹴落とし、ポルトガルから香辛料貿易を奪うほど強大な軍事力を誇っていました。まだ中国の明王朝さえ手をつけていなかった台湾を初めて植民地化したのもオランダで、徳川幕府の出島の対欧貿易を独占したのも当然の成行きでした。時は移って300年後に、インドネシアの石油をめぐり日本と太平洋戦争で戦火を交えることも、運命づけられていたのかもしれません。
その頃、オランダはまだスペインからの独立をかけた八十年戦争(1568∼1648年)の最中で、西洋史に精通した方でなければ、@当時のオランダがなぜスペイン領だったのか、Aなぜ新興国が植民地建設競争の先頭に立てたのか、あれこれ疑問は尽きないことでしょう。
この記事では一気にその解答にたどり着けませんが、いわゆる中世前期(5∼10世紀)と中世盛期(11∼13世紀)を通じ、もともとオランダとその周辺は、西欧の政治経済の上で極めて重要な地域だったというところまでご説明したいと思います。
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ローマ時代のネーデルラント(低地諸国) =====
オランダの国名は、国の成り立ちとともに少しやっかいです。上の図をごらんください。日本語でオランダという国名が、首都アムステルダムを含むホラント(Holland▮)地方の名に由来することはご存知かもしれませんが、英語ではネザランズ(Netherlands)、オランダ語ではネーデルラント(Nederland/Nederlanden…複数)が正式です。
ネーデルラントは低地諸国(英語ではLow
Countries)と訳され、中世にはオランダだけではなく、ライン川ほか大河の河口が集まる現代のベネルックス3国(オランダ・ベルギー・ルクセンブルグ)周辺の封建諸侯国を一括して呼ぶ言葉でした。
このうちオランダはオランダ語圏、ルクセンブルグはドイツ語圏ですが、ベルギーは混合言語で、主にオランダ語系のフラマン語が話されている北部はフランドル(フランダース)地方、主にフランス語が話されている南部はワロン地方と呼ばれています。
さかのぼってローマ時代のネーデルラント(低地諸国)は、ライン川を境に西はローマ領ベルギカ、東はゲルマン系フリース人が住む古フリースラントの南部で、当時のフリースラントは北海とライン川の水運により、北部西欧の交易ネットワークのハブ(中心拠点)として栄えていました。
しかし、西暦250年頃から地下水位の上昇による北海の海進(海岸線が陸側に移動)が始まり、土地を失った古代フリース人は民族移動時代(300∼700年)に先駆け、ローマ領ベルギカのフランドル地方やブリタニアのケント地方(イギリスの最南東部)に農奴として移住しなければなりませんでした。
この記事で特にご説明したいのは、ホラント地方とフランドル地方の文化(民族・言語)と産業を中心とした歴史です。地方名など用語が紛らわしいので、下の表を参考にお読みください。フリースラントやフリース王国の頭に古・新とつけたのは、皆さんに分かりやすく区別したまでで、世間一般の呼び方ではありません。
ネーデルラント
(低地諸国) |
現オランダ
(ホラント地方ほか) |
現北ベルギー・北フランスの一部
(フランドル地方) |
現南ベルギー
(ワロン地方) |
現
ルクセンブルグ |
言語 |
オランダ語 |
オランダ語系フラマン語 |
フランス語 |
ドイツ語 |
北海の海進 |
古フリースラント南部 フランドルや英ケント地方に移住 |
ローマ領ベルギカ 古フリース人が農奴として移住 |
− |
− |
(フランク族) |
(ローマ防衛の任務で一時滞在) |
(メロビング朝発祥) |
− |
− |
海進回復後 |
アングロサクソン人の新フリース王国 |
カロリング朝フランク王国 |
カール大帝 |
カロリング朝フランク王国 |
分国 |
東フランク(デーン人の侵入・大水害) |
西フランク(フランドルの毛織物業繁栄) |
中世 |
ブルゴーニュ公領→神聖ローマ帝ハプスブルク家直轄領→スペイン・ハプスブルグ家領 |
八十年戦争 |
オランダ連邦共和国 |
スペイン領ネーデルラント |
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民族移動時代のネーデルラント(低地諸国) =====
やがて気候の寒冷化やフン族の襲来ほかの要因で、ゲルマン諸民族のローマ領への侵入が始まりますが、そのうち親ローマのフランク系サリー族は、ネーデルラント(低地諸国)から出発して領土を拡げ、仏独伊三国の基礎となる大王国を築きました。
西ローマ帝国滅亡直後のヨーロッパ
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358年にサリー族は、ローマ帝国に辺境の守備を託され、ライン川の下流に移住。440年にはローマ軍の撤退に伴ってフランドル地方に移動しました。451年にはメロビング家の始祖メロビクスの下でローマ軍と協力し、パリ南方のオルレアン付近でフン族を撃退。孫のクロービスがカトリックに改宗して先住の人々と融和を図り、弱体化したローマから現フランスの大半を含む領土を奪い、パリを首都にメロビング朝のフランク王国を開きました。
一方、海進の危機が去ったフリースラントには、同時代にイングランドで七王国を築いたアングロ人・サクソン人やユート人が移住してきました。650年に新フリース王国が誕生、ローマの砦跡に建てた交易都市ドレスタッドが北海経済圏の中核となります。
フランク系サリー族の原住地
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ドレスタッドの交易路
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中世のネーデルラント(低地諸国) =====
フランク王国の弱点は相続制度でした。長子相続ならよかったのですが、男子全員の分割相続でしたから、王が亡くなるたびに国は分割され、分国の王が子をなさずに亡くなれば直ちに争いが起きる仕組みで、フランクを統一する強い王権を築く妨げになっていました。代わりに分国ごとに実権を握ったのが、それぞれの家老職「宮宰」でした。
そのうち分国アウストラシアの宮宰ピピン2世が頭角を現し、ネウストリアの反乱を鎮圧して688年に王国の宮宰に就任。その子カール・マルテルは、732年に西ゴート王国を滅ぼして王国領に侵入したイスラム軍をトゥール・ポワティエの戦いで破ります。フリースラントと交易都市ドレスタッドも、734年に征服されました。
次のピピン3世は、ローマ教皇の支持を取り付けた上で、751年に教会や貴族に推戴されてカロリング朝の初代国王に即位します。ちょうどその年は、イタリアに存在した東ローマ帝国領がランゴバルド王国に奪われた年で、ピピン3世はランゴバルド王国を滅ぼし、756年に旧東ローマ帝国領を教皇に寄進。さらに次のカール大帝が800年のクリスマスに教皇から戴冠し、ローマ皇帝の称号が復活しました。カトリックの権威に支えられた中世西欧の封建体制の完成です。天皇と将軍の関係に似ているところがあります。
フランク王国の分国と領土の拡大
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フランク王国の分割
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しかし、カール大帝の死後に再び分割相続騒動が起きて、フランクは843年に東西フランクと、イタリアとアルプス以北のライン川周辺部を含む中フランクの3王国に分裂してしまいます。さらに869年の仕切り直しで、アルプス以北の中フランクが東西フランクに再分配され、今日の仏独伊の国境線の原型が定まりました。
それぞれの王国は国王の直轄領と諸侯領の集まりで、日本の戦国時代のように頻繁に領地の奪い合いが起きました。特にネーデルラント(低地諸国)はじめアルザス・ロレーヌなどライン川周辺の地方は、アルプス越えでイタリアと北海経済圏の物流や文化交流を結ぶ要路で、各地で商工業も発達し、仏独のみならずイギリスやイタリアも巻き込む国際紛争の火種が尽きませんでした。
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ノルマン人の侵入と北海交易の停滞 =====
ところが、9世紀のその頃、ゲルマン人の民族移動時代にもスカンジナビアから動かなかった、北ゲルマンのノルマン人が移動を開始します。ヨーロッパが温暖期に入ったのも一因といわれていますが、人口増加に誘発されて各地で海賊行為を働きながら、北海やバルト海の沿岸はもとより、地中海や黒海、はては北米にまで足を伸ばして移り住みました。
ヨーロッパの平均気温の推移
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ノルマン人の移動
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1180年のフランス
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▮フランドル
▮シャンパーニュ ▮ブルゴーニュ
▮フランス王直轄領
▮▮
英プランタジネット朝領 |
民族移動時代に栄えた交易都市ドレスタッドもノルマン系のデーン人に奪われ、北海交易は停滞。代わりにヨーロッパの交易は陸路で網目状に発達し、12~13世紀にはフランドル地方の南で開かれる「シャンパーニュの大市」が、アルプス以北の経済圏と地中海経済圏を結ぶ役割をになうようになっていました。
イタリア商人は東方貿易で得た香辛料、染料、医薬品、宝石、絹織物など稀少価値の高い物品を持ち込み、アルプス以北のヨーロッパからは、衣料、ワイン、ビール、小麦、塩、海産物、木材、金属製品、蝋、蜂蜜などの食物や大量消費材、イングランドからは羊毛、ロシアからは毛皮など主に原材料が集まりました。
しかし、1161年にバルト海貿易を独占していた北ドイツの商業都市同盟(ハンザ同盟)がノルマン人と和解し、ロンドンやフランドル地方のブルッヘ(ブリュージュ)に商館を建て、北海の海上交易を復活させます。1277年には、羅針盤を手にしたイタリアのジェノバ商人がポルトガルを経てブルッヘに寄港するルートができて、ネーデルラント(低地諸国)は再び西欧北部の交易のハブに返り咲くチャンスを得ました。
ハンザ同盟の主要都市…北海とバルト海はエルベ川とシュテクニッツ運河(ハンブルグ‐リューベック)で連結
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フランドルの毛織物とイギリスの牧羊 =====
ノルマン人侵入で北海交易が停滞していた間も、西フランク(フランス)に帰属した南ネーデルラント(低地諸国)のフランドル地方では毛織物業が発展し、北イタリアと並ぶ「ヨーロッパの工場」の地位を築いていました。フランドルの繊維産業は、もともとスヘルデ川河口の湿地帯に自生する亜麻草を使ったリンネル(麻の一種)の生産から始まったもので、ベルギーのレースといえば今でも有名です。
麻・綿・絹・毛の四大天然繊維の中で、日本では江戸時代末期まで牧羊がされず、軍服用に毛織物の生産が本格化したのは明治になってからですから、少し不思議な気がしますが、西欧では逆に日本と比べて綿織物の普及が遅く、イギリスがインド植民地のカリカット港からキャラコ(綿布)の輸入を始めた17世紀以来のことでした。
養蚕は北イタリアで11世紀、南フランスでは13世紀から次第に盛んになってきていましたが、絹は高級品でしたから、中世の庶民の間では、リンネルとウール(毛織物)が衣料と、寝具・絨毯やカーテンなど家庭用繊維製品のほぼ全てだったと想像してもよさそうです。
毛織物の原料の羊毛を特に大量に供給したのはイングランドでした。イングランドの羊毛は11世紀に初めてフランドルに輸出され、まもなく国の主軸産業に昇りつめます。言語的にも民族的にも近縁性が高く、原料と製品の生産で相互依存するイングランドとフランドルの絆は強く、フランドルの都市同盟は百年戦争(1337∼1453年)の際にも親仏の領主を追い出し、イングランド王をフランスの正当君主と奉じる立場をとりました。
フランドル伯は形の上ではフランス王の臣下でしたが、もとは中フランク王国に属し、英仏の新・旧王朝ばかりか周辺諸侯の血まで交えて引く名家で、13世紀初頭のフランドルは、ボルドーワインで知られるフランス南西部ガスコーニュの英王領とともに、フランス国内でも高い独立性を保っていました。
しかし、次第に中央集権を強めるフランスは、1294年にガスコーニュを直轄領に併合しようとイングランドに戦争を仕掛けます。英仏の百年戦争は、事実上この時に始まっていたといえるかもしれません。フランドルもこの戦争の流れで一時はフランスに併合されかけましたが、1302年にフランドル都市連合の歩兵部隊がフランスの重装騎兵部隊を破り、独立性を回復しました。
もともとネーデルラント(低地諸国)の諸都市には、ノルマン人の侵入に対抗して市民が自衛組織を築き、引換えに領主から税の免除や一定の自治権を認められてきた歴史があります。フランドルでは、1323~28年の農民と都市同盟の反乱など、百年戦争にかけ、その後も親仏領主と親英市民の緊張した対立関係が続きました。
14世紀にはイングランドの奨励を受け、フランドルから多数の織工がイングランドに移民しました。おかげで毛織物業はイングランドの国家的な産業に成長、1430年代には製品輸出が原料輸出を上回り、後の産業革命の萌芽となる工場制手工業(マニュファクチャー)が次第に発達し各地に農村工業都市が現れ始めます。
原料の羊毛の需要も増え、荘園領主が農村の共有地を羊の牧場に変えてしまう第一次囲い込み(エンクロージャ)が進み、16世紀後半のエリザベス朝の下で耕作地を失った農民が都市に出たり、アメリカに移民したりする社会構造の変化をもたらしました。
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ホラントの風車と造船業 =====
フランク王国が三分裂してから約100年の後、962年にはネーデルラント(低地諸国)の東に隣接するザクセン公国のオットー1世が東フランク王とイタリア王を兼ね、教皇の戴冠を得て神聖ローマ帝国の皇帝と称されるようになりました。
1100年頃のネーデルラントの地形
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一足早く発展した南ネーデルラントのフランドル地方に対し、東フランク(ドイツ)に帰属した北ネーデルラントの諸地方も、10世紀末にはノルマン人の支配から完全に脱し、神聖ローマ帝国の下でナイメーヘンを中心に繁栄を取り戻します。ナイメーヘンはライン川河口の三角州の頂点で、カール大帝も王宮の一つを設けた軍事上の要衝…もっとさかのぼれば、建国前のフランク族がローマ帝国の守備を託された由緒ある基地の場所でした。
北海交易の拠点はかつての交易都市ドレスタッドから20km下流のユトレヒトに移り、さらに13世紀末にはアムステルダムに外洋港が開かれ、その後は北ネーデルラント経済の中心都市として発展を遂げます。
現在は海水をせき止め人口湖となっていますが、中世のオランダ中央部にはフレヴォ湖という湖があり、その西岸は未開の泥炭地でした。しかし、フランドル地方やユトレヒトから移り住んだ農民が堤防を築いて沼地を干拓し、12世紀にはホラント(語源は「中空の土地」?)と呼ばれる農業地帯が出現します。12世紀末にかけフランドル地方で開発された風車が伝わり、北海からの強風を利用し排水する試みも行われるようになっていました。
Windmills
in Zaanse Schans, Netherlands |
ところが、ちょうどその頃から北海の海面上昇が始まります。大嵐や高潮のたびに北部海岸の砂丘が波で削られ、1170年の洪水でクレイルの森が水没して以来、一度に数万人の犠牲者を出し地形を激変させるほどの破滅的な水害に5回も見舞われました。アムステルダムはフレヴォ湖に注ぐアムステル川をせき止めて築かれた漁村でしたが、1287年の大水害で北海と直接つながり、大型船の就航が可能になりました。
14世紀には自治的な防災組織が発達し、干拓地の排水と灌漑のために風車の建設が促進されます。その風車の動力が転じて、ライン川上流からイカダで運ばれる木材の製材や、挽きうすによる穀類の製粉、食用油の製油、染料の生産などに使われ、ひいては造船業や繊維産業はじめホラントの諸工業を発展させることになりました。
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