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2018年3月15日 (第139号)

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社 会

歴 史

 オランダ史A仏ヴァロワ朝の分家が低地諸国(ベネルクス3国)統一

 フランドル民兵が仏軍の重装騎兵相手に劇的勝利

 前号では、いわゆる中世前期(5∼10世紀)と中世盛期(11∼13世紀)のオランダとフランドル(北ベルギーと北フランスの一部)の歴史について書きましたが、この記事はその続きで、中世後期(14∼15世紀)の主にフランドルと英仏の歴史についてご説明します。下の表は、前号でご紹介済みですが、地方名など用語が紛らわしいので参考にごらんください。

===== オランダ独立までの経緯(概略) =====

ネーデルラント

(低地諸国)

現オランダ

(ホラント地方ほか北ネーデルラント)

現北ベルギー・北フランスの一部

(フランドル地方)

現南ベルギー

(ワロン地方)

ルクセンブルグ

言語

オランダ語

オランダ語系フラマン語

フランス語

ドイツ語

中世

ブルゴーニュ公国→神聖ローマ皇帝ハプスブルク家直轄領→スペイン・ハプスブルグ家領

八十年戦争

オランダ連邦共和国 スペイン領ネーデルラント(その後一部地域をフランスに割譲)

 ネーデルラント(低地諸国)の封建諸侯領は、15世紀後半に仏ヴァロワ朝王家の分家により統一され、英仏独から実質的に独立したブルゴーニュ公国の一部となりました。現代のベネルクス3国の原形です。

図@ ハプスブルグ帝国 スペイン(カスティージャアラゴン) 

神聖ローマ帝国(オーストリア公国 ブルゴーニュ公国 )  

 その後、ブルゴーニュ公国はオーストリア大公ハプスブルク家のカール5世が相続し、ネーデルラント(低地諸国)もハプスブルク家の直轄領となります。

 カール5世は神聖ローマ皇帝とスペイン王を兼ね、この時代のハプスブルク家の領土は神聖ローマ帝国の諸侯領まで合わせれば、英仏とポルトガルやイタリアの一部を除く西欧の全域に及びました。

 しかし、カール5世は息子と弟に家督を分割相続し、ネーデルラント(低地諸国)はスペイン・ハプスブルグ家の所領となります。

 その結果、ネーデルラント(低地諸国)の商工業や金融を支える新教徒の都市住民が、旧教国スペインの専制政治に対し反乱を起こし、旧東フランク(ドイツ)のオランダがめでたく独立を回復する一方で、旧西フランク(フランス)のベルギーやルクセンブルグは弾圧と懐柔でスペイン領に留まることになりました。

 オランダの独立戦争(八十年戦争)が始まった16世紀後半にフランドルで最も栄えていた都市アントワープの住民の2/3は新教徒だったそうで、言葉もオランダ語とあまり変わらなかったので、難民の多くはアムステルダムに移住し、オランダは絶頂期を迎えることになりました。

 とはいえ、今回はそこまで話を急がず、3代のフランドル伯と仏ヴァロワ朝支流の5代のブルゴーニュ公が、現在のベネルクス3国や独仏国境地帯に領土を拡げて行った経緯をご説明します。下図で に塗り分けられた地域は、百年戦争(1337∼1453)の終戦までにブルゴーニュ公国が獲得した領土で、そのほかはヴァロワ‐ブルゴーニュ家第5代のシャルル突進公が獲得した領土です。

===== ヴァロワ‐ブルゴーニュ家…百年戦争のキングメーカー =====

図A ブルゴーニュ公国の最大版図 (⇒拡大)

 仏ヴァロワ朝王家の分家が領土を拡大し、本家と張り合う半独立国となった経緯は、英仏の百年戦争(1337∼1453年)を抜きに説明できません。

 形の上でフランス王の臣下でありながら、経済的にはイングランドと強く結びついたフランドルの領主は、代々親仏と親英の立場を行き来しながら政略結婚と金力と武力で、領土を拡げました。

 百年戦争の終盤ではイングランドと同盟し、ジャンヌダルクを捕らえてイングランドに引き渡すかといえば、フランス側に寝返りフランスの勝利を決定づけるという劇的なキングメーカーの役を果たしています。

 百年戦争の前半戦でも、仏王がフランドル伯の娘の英王室輿入れに横やりを入れ、弟のブルゴーニュ公と結婚させたことが、イングランドを仏領土から撃退する再征服戦争の成功につながりました。

===== 仏・フランドル戦争 =====

 百年戦争には、英仏とフランドルの貿易戦争の側面もありました。発端は、フランドル伯がマルグリット女伯だった時代にさかのぼります。

 1270年に女伯は輸入関税の不払いを理由にイングランドの羊毛商人の財産を差し押さえましたが、基幹産業の毛織物の原料をイングランドに頼っていたフランドル経済は、羊毛の輸入が止まり深刻な打撃を受けました。

 1274年に、女伯の息子で共同伯のギーがイングランドからの輸入関税を撤廃し、貿易戦争は一段落したものの、封建制度の下で関税は封土と同じく君主が臣下に与えたものでしたから、仏・フランドルの主従関係にヒビが入り、フランドルの都市同盟を巻き込む仏・フランドル戦争(1297~1305年)に発展しました。

 仏王が1302年に初の三部会(身分制議会)を開いて国民の支持を得た上で、1303年に教皇を捕縛(アナーニ事件)し、1309年に南仏アビニョンに教皇庁を移転させた(アビニョン捕囚)のも、フランドルの戦費調達のために教会に課税したところ、教皇が対抗措置として仏王を破門したのが原因でした。

 経緯は、下の年表でご確認ください。

戦争局面

英王仏王フランドル伯

軍事状況とフランドルの政治状況(獲得領喪失領)

1294~1296

フランドル伯幽閉

(英)エドワード1世

〇母の代に英羊毛商人との間に起きた貿易戦争は、フランドル伯ギーが1274年に関税を撤廃し決着したが、仏王との関係に亀裂が生じた。ギ−が1294年に英王太子と娘の縁組を進めたところ、仏フィリップ4世はギー一家を幽閉し、フランドルを仏封土として認めさせた。

(仏)フィリップ4世

ギー・ド・ダンピエール(親英)

1297~1305

仏・フランドル戦争

 アビニョン捕囚

(英)エドワード1世

〇イングランドと同盟し報復を企むフランドルに対し、仏フィリップ4世は直轄地として併合を宣言。1300年にギーを再び捕らえ、親仏のフランドル総督を任命するも、1302年にブルッヘで反乱が起き、仏人が虐殺される。重装騎兵の仏軍が歩兵隊の都市同盟に敗れ、和睦。1305年にフランドルは、リールほかをフランスに割譲した。

〇仏フィリップ4世はフランドルの戦費調達のために教会に課税。三部会(身分制議会)の支持を得て、破門で対抗する教皇を捕縛。次いで教皇庁を仏南部のアビニョンに移させた(アビニョン捕囚)。

(仏)フィリップ4世

ギー・ド・ダンピエール(親英)

 〇 都市同盟(親英)

1323~1328

フランドル農民一揆

 ヴァロワ朝

(英)エドワード2世

エドワード3世

〇1322年に祖父ギーと父が相次ぎ死去、ルイ1世がフランドルとヌベールを相続、母からもルテル。仏フィリップ4世の娘と結婚し代々の親英から親仏に転換、重課税を機に反乱が起きフランドルから追放される。仏カペー朝が断絶しヴァロワ朝フィリップ6世が即位、1328年にルイ1世は新仏王の助けを得て(カッセルの戦い)、フランドルに帰還。

〇1324年のサンサルドス戦争の敗戦で、英領ガスコーニュが縮小。

(仏)シャルル4世

ルイ1世(親仏):追放

  ✖ 都市同盟(親英)

1336~1340

フランドルの反乱

 

(英)エドワード3世

〇英仏関係悪化により英エドワード3世は対仏羊毛輸出を禁止。毛織物業の原料を英に依存するフランドルで反乱が勃発し、親仏のフランドル伯は仏に亡命。1339年に都市同盟は、羊毛輸出再開を条件に英王に臣従。

〇イングランドは1337年にスコットランド問題を機に対仏宣戦布告。

(仏)フィリップ6世

ルイ1世(親仏):亡命

  ✖ 都市同盟(親英)

===== 金拍車の戦い =====

 この時代には騎士に頼る中世の戦闘方式にほころびが出てきます。最初にそれが明らかになったのは、1302年にフランドル都市同盟がフランスの重騎兵部隊を破った金拍車の戦い(Battle of Golden Spurs)でした。

フランス軍 戦力8000 (重装騎兵 2500 *弩弓兵 1000 *パイク兵 1000 その他歩兵 3500) 損失 1000
フランドル軍  戦力9400 (重装騎兵 400 **民兵 9000) 損失   100

 *弩弓はクロスボウ(ボウガン)、パイクは穂先に約25cmの平たい刃がついた4~7mの長槍で重さ3.5~5kg

 **フランドル民兵の多くは、先がとがった棍棒のような鉄製の武器を手にしていました。

重装騎兵の鎧と馬鎧

 さかのぼればゲルマン民族の戦士には、民族移動時代にヨーロッパに侵入した中央アジアの騎馬民族に学んで重装の槍騎兵が人馬一体で突撃する戦術を導入し、剣と盾で武装した重装ローマ歩兵部隊に打ち勝った歴史があります。とりわけフランク族に8世紀初頭に伝わった鐙(あぶみ)は、騎乗姿勢で武器を振るうことを容易にしカール大帝の大帝国を築く原動力となりました。9~10世紀には蹄鉄や拍車も普及し11世紀後半頃までに戦闘の主役の地位を確立しました。当時の常識では、重装騎兵1名は歩兵10名の戦力と見なされていたそうです。

 戦場で重装騎兵として働くには、馬や防具を維持する経済的負担に耐え、技術や体力を身につけるために、貴族にスポンサーとなってもらう必要がありました。騎士は、小姓従騎士の段階を経て20歳前後で一人前と認められると、主君から叙任され、騎士の身分を象徴する黄金の拍車を許されたのだそうです。

騎士の馬上槍試合

 金拍車の戦いにおける仏軍の敗因は、第一に湿地を無視して重装騎兵に突撃を命じた作戦の失敗にあったようですが、それでも条件によっては、騎士に頼らない戦法が必要なことが明らかになりました。当時の貴族社会には、騎士は捕虜にして身代金を取る慣習がありましたが、フランドル民兵は負傷した騎士にとどめを刺したことも一方的に仏軍の犠牲が増えた原因です。民兵は、散乱した500セットの黄金の拍車をかき集め、戦場に近い教会に奉納したと伝えられています。

 翌1303年の戦闘ではフランドル軍は3千名を失うなど、その後の戦いではフランス軍も戦術を見直しましたが、自軍にも多数の損失を生じ、決定的な勝利は得がたい状況が続きました。1305年にフランドルの都市同盟は、フランスに現フランス領内のリールほか2都市を与える代わりに、事実上の独立を勝ち取りました。

 この戦いで市民や農民が、支配層の貴族や騎士と対等に戦えることが立証されたことは、戦闘方式ばかりでなく、中世の封建社会が崩壊し始めた最初の兆候の一つだったかもしれません。

===== 百年戦争(1337~1453年) =====

 百年戦争については、あらためて丁寧にご説明しますが、取敢えずメモ的な年表を作りましたので参考までにごらんください。右欄の獲得領喪失領を上の図Aと照らし合わせると、フランドル伯やヴァロワ-ブルゴーニュ家が領土を拡大しネーデルラント(低地諸国)を統一した経緯がお分かりになるでしょう。

戦争局面

英王仏王フランドル伯

軍事状況とフランドルの政治状況(獲得領喪失領)

1336~1340

フランドルの反乱

 

(英)エドワード3世

〇英仏関係悪化により英エドワード3世は対仏羊毛輸出を禁止。毛織物業の原料を英に依存するフランドルで反乱が勃発し、親仏のフランドル伯は仏に亡命。1339年に都市同盟は、羊毛輸出再開を条件に英王に臣従。

〇この間、英王は1337年に対仏宣戦布告

(仏)フィリップ6世

★ルイ1世(親仏):亡命

  ✖ 都市同盟(親英)

1341~1345

ブルターニュ継承戦争

(英)エドワード3世

〇1341年にブルターニュ公領で相続争いが勃発、一方が英王に臣従し英軍がブルターニュに上陸。教皇の仲介で休戦するも1345年に英軍が再上陸、戦いは続いた。

〇同年、フランドルでは都市同盟のリーダーが内紛で暗殺され、フランドル伯が再び帰還。

(仏)フィリップ6世

★ルイ1世(親仏):帰還

  ✖ 都市同盟(親英)

1346~1355

英軍の大攻勢

 英仏でペスト流行

(英)エドワード3世

〇1348~49年にフランスとイングランドで相次いでペストが流行し始め、戦争は休戦を挟んで続いた。英エドワード黒太子率いる英軍の攻勢で仏は領土の約1/3を喪失し、フランドル伯ルイ1世も戦死。後継のルイ2世は1348年に反乱を鎮圧するも、改めて英に接近しアントワープほかに領土拡大を図る。1350年仏フィリップ6世死去。

(仏)ジャン2世

★ルイ2世(親英)

1356~1364

ジャン2世の捕囚

(1360ブレティニー条約)

 ジャックリーの乱

(英)エドワード3世

〇1356年にジャン2世は捕虜となり、1360年にブレティニー条約(戦争前半で英最大版図…上図B)でアキテーヌほかをイングランドに割譲しロンドンで死去。ペスト禍に続き重税と傭兵の狼藉に苦しむフランスの農村で1358年にジャックリーの乱

フランドル伯ルイ2世が当時7歳の娘を政略結婚させた相手のブルゴーニュ公は1361年に死去。所領のうちブルゴーニュ公領は仏王の直轄地となったが、ブルゴーニュ伯領(神聖ローマ帝国側)アルトワ伯領はルイ2世の母が相続。

(仏)後のシャルル5世

★ルイ2世(親英)

1365~1369

シャルル5世の改革

(英)エドワード3世

〇仏シャルル5世は「税金の父」と呼ばれるほどで、財政再建や常備軍・官僚機構の整備を進めた。

〇フランドル伯を味方にするため、弟のフィリップにブルゴーニュ公領を与えた上で、1369年にフランドル伯の娘(再婚)を嫁取らせた。 結納代わりにリールほかをフランドルに割譲。

(仏)シャルル5世賢明王

★ルイ2世(親英→親仏)

1369~1381

再征服戦争

 教会大分裂

 アルル王国併合

 ロラード派宗教運動

(英)エドワード3世

リチャード2世

〇1369年に仏シャルル5世は、英がブレティニー条約を破約したとしてアキテーヌを没収。戦争が再開したが、フランスはカレーとノルマンディーを除き百年戦争前の領土を回復した。1375年に2年の休戦が決まったが、その間にエドワード黒太子とエドワード3世が亡くなり、正式な平和条約は交わされなかった。

〇教皇は教皇領各地で僭主が乱立していたイタリアに帰ったが、フランス系の聖職者と対立し1378年にアビニョンに別の教皇が立てられた(教会大分裂)。イングランドはローマ教皇を支持。

フランスが、事実上フランス化していたアルル王国併合

〇主に仏国内の英領ガスコーニュで伝道していた異端ワルド派のロルハルドが1370年にケルンで刑死、その頃から15世紀にかけてイングランドでは反カトリックのロラード派の宗教運動が続く。

(仏)シャルル5世賢明王

★ルイ2世(親仏)

  ✖ 都市同盟(親英)

1382~1411

休戦期

 ワットタイラーの乱

 ランカスター朝

 ブルゴーニュ派vs.

   アルマニャック派

(英)リチャード2世

ヘンリー4世

〇フランドルでは1375~82年に反乱が起きたが、ブルゴーニュのフィリップ豪胆公が舅のフランドル伯ルイ2世を助け、反乱を鎮圧した。舅の死で1384年にフランドルを相続した。1385年には長男(ジャン無怖公)と長女を、エノー伯ホラント伯ゼーラント伯のヴィッテルスバッハ家子女と縁組みし、二組の結婚を通じネーデルラント(低地諸国)の領土を拡大する足掛かりを作った。

〇イングランドではペスト禍で人口が減り、逆に重課税と農奴制の強化で負担の増えた農民が、1381年にワットタイラーの乱を起こした。エドワード黒太子の子で1377年に10歳で即位したリチャード2世は、乱の鎮圧を自らの手柄として、後見役の叔父ランカスター公(エドワード3世の弟)らの評議会を廃し、対仏和平の専制政治で議会と対立した。1388年には側近の追放と処刑により一時的に実権を失ったが、その後1397年には寵臣を訴追した貴族らに報復の粛清を開始。1399年にはランカスター公の死に伴い所領の没収を命じ、貴族層の支持を失った。挙兵したランカスター公の長男ヘンリー(4世)の諸侯軍に敗れ、幽閉先で死去。ランカスター朝が始まる。

〇フランスでもシャルル5世が1380年に死去。11歳のシャルル6世が仏王に即位したが、叔父でフランドル伯の娘婿のフィリップ豪胆公らが摂政となり、フランス財政を私物化した。

シャルル6世は弟のオルレアン公と父の代からの官僚集団に支持され1388年に親政を開始したが、1392~93年にかけ発狂し公務不能となって、ブルゴーニュ派とオルレアン派の主導権争いが続いた。

〇ブルゴーニュ公位を継いだジャン無怖公が1407年にオルレアン公を暗殺すると、オルレアン公の遺児シャルルと舅のアルマニャック伯らがアルマニャック派を結成し、フランスの内乱に発展した。

(仏)シャルル6世狂気王

★フィリップ豪胆公(中立)

★ジャン無怖公(曖昧)

1412~1418

英軍の再攻勢

(英)ヘンリー5世

〇内乱に乗じ、英軍は1412年にフランスに戻ったものの、手を組んだアルマニャック派がブルゴーニュ派と和睦したためにいったん撤兵。

〇新英王に即位したヘンリー5世は、1414年にフランスに旧英領の返還と王位の禅譲を求め、1415年に英軍を再上陸させた。アルマニャック派の仏軍が大敗する間に、ブルゴーニュ派はパリを制圧し、英軍はノルマンディー一帯を掌握した。

(仏)シャルル6世狂気王

★ジャン無怖公(曖昧)

1419~1430

英・ブルゴーニュ同盟

 (1420トロワ条約)

 ジャンヌ・ダルク

(英)ヘンリー6世

ジャン無怖公は、アルマニャック派の王太子シャルル(後の7世)をパリから追放するも、英軍にブルゴーニュ公領を侵略され、王太子との和解を試みる。しかし、1419年にアルマニャック派は無怖公を殺害

〇息子のフィリップ善良公は英・ブルゴーニュ同盟を結び、1420年に英王室の仏王位継承を約束するトロワ条約を締結した。

〇1421年にナミュール伯領購入。

〇1422年に英ヘンリー5世と仏シャルル6世が相次いで死去。前年に生まれたばかりのヘンリー6世が英仏両王位に就いたが、王太子はシャルル7世を名乗り、フランス中部のブールジュで抵抗を続けた。

〇1424年にエノー伯・ホラント伯・ゼーラント伯領をめぐり、イングランドと紛争が起きる。善良公は王太子を仏王と認め、休戦

〇戦局は1429年にジャンヌダルクの指揮で王太子軍がオルレアンの英軍を破って一転。シャルル7世は戴冠。善良公はジャンヌダルクを捕らえイングランドに引き渡したが、王太子とは再び休戦

〇1430年に従弟よりブラバント公領を相続。

(仏)シャルル7世勝利王

★フィリップ善良公(親英→)

1431~1453

英の仏領撤退

 アラスの和約

 ブールジュの詔勅

 東ローマ帝国滅亡

(英)ヘンリー6世

〇1431年にはフランスとブルゴーニュの休戦が決まり、1435年にはアラスの和約で、仏・ブルゴーニュ同盟が結ばれ、1419年以降徐々に占領していたピカルディの領有が承認された。

〇イングランドの報復はフランドルの反乱を誘発したが、1439年にイングランドとも休戦、通商も再開した。1441年にルクセンブルクの抵当権を入手、リエージュ司教に甥を就任させ、ネーデルラント(低地諸国)全域を統一した。

〇シャルル7世は1439年に三部会で徴兵と戦費の徴税を決め、反発する貴族の反乱も平定して軍を再編成。1453年にはイングランドから全土を奪還、百年戦争は終る。

(仏)シャルル7世勝利王

★フィリップ善良公(→親仏)