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2018年4月15日 (第140号)

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社 会

歴 史

 オランダ史B-1 妻の死で、ハプスブルク家が低地諸国を相続

 中フランク王国復元を夢見たブルゴーニュ公シャルル

 前々号の中世前期(5∼10世紀)から中世盛期(11∼13世紀)に続き、前号では中世後期(14∼15世紀)のネーデルラント(低地諸国=ほぼ現ベネルクス三国)の歴史についてご説明しました。といっても、前号の話題の中心は英仏の百年戦争(1337~1453年)で、15世紀の後半が積み残しになっていましたから、今回はその続きを書くことにしました。

 この時代にはネーデルラント(低地諸国)の領主がフランス王朝の支流ヴァロワ‐ブルゴーニュ家から、神聖ローマ帝国(ドイツ)のハプスブルク家に替わり、その関係でオーストリアやハンガリー・ボヘミア(チェコ)の歴史まで触れないわけにはいけませんでした。最後に、16世紀前半に黄金時代を迎えた現ベルギーのアントワープの歴史についてもご案内します。

 下の表は、前号や前々号でご紹介済みですが、地方名など用語が紛らわしいので参考にごらんください。

ネーデルラント

(低地諸国)

現オランダ

(ホラント地方ほか北ネーデルラント)

現北ベルギー・北フランスの一部

(フランドル地方)

現南ベルギー

(ワロン地方)

ルクセンブルグ

言語

オランダ語

オランダ語系フラマン語

フランス語

ドイツ語

中世

ブルゴーニュ公国→神聖ローマ皇帝ハプスブルク家直轄領→スペイン・ハプスブルグ家領

八十年戦争

オランダ連邦共和国 スペイン領ネーデルラント(その後一部地域をフランスに割譲)

===== ネーデルラント(低地諸国)諸邦議会 =====

 軽く復習すると前回は、政略結婚により仏王シャルル5世の弟のブルゴーニュ公(フィリップ豪胆公)が、イングランドの羊毛を原料に毛織物業で栄えるフランドル地方の領主となり、百年戦争のキングメーカー(黒幕)の立場を利用して代々領土を拡げた末に、3代目のフィリップ善良公がネーデルラント(低地諸国)=ほぼ現ベネルクス三国を統一したところまで、ご説明しています。

 ネーデルラント(低地諸国)では、1464年にフランドルの平民議会の呼びかけで、フィリップ善良公の了承の下に17州の初の議会(スターテン・ヘネラール)が開催され、蘭仏独の3言語が入り混じる地域ながら準連邦国家として、共通の課題について討議する場となりました。

 多少は私の推測交じりですが、これにはブルゴーニュ公国の女系の本家筋で、当時は比類ない繁栄を誇っていたフランドルのエゴが含まれていた可能性があります。イングランドは14世紀に、フランドルの職工の移民を積極的に勧めて、毛織物の自国生産を増やしました。その結果、フランドルのイングランド羊毛への原料依存度は減り、それどころか次第に英製毛織物がフランドル製品と競合するようになってきます。そこで、歴代のブルゴーニュ公はフランドルの毛織物業者に頼まれ、たびたび英国製毛織物の輸入を禁じました。

15世紀後半の技術例

グーテンベルクの

活版印刷機

コロンブスの

サンタマリア号

シャルル突進公のファルコン砲

 しかし、同じブルゴーニュ公国内でも、ブラバント公領のアントワープやホラントのアムステルダムなど、スヘルデ川東岸の神聖ローマ帝国領では、輸入禁止令が効かなかったようです。

 イングランド側でも、羊毛輸出を独占していたステープル商人とは別に、1407年に冒険商人組合という主に白地広幅織物を輸出する特権商人のギルド(職業別組合)ができ、特にアントワープを中心に輸出するようになりました。アントワープも広義ではフランドル地方ですが、フランス領フランドルとはスヘルデ川をはさんで利害が対立していました。

 さて、今回ご説明する15世紀後半に登場する4代目のシャルル突進公は、中央集権化を進める本家筋の仏ヴァロワ朝と正面から対決して敗死します。シャルル突進公に男子の公位継承者がおらず、娘マリーが神聖ローマ(独伊)皇帝のハプスブルク家に嫁し、その子フィリップ美公がスペイン王女と結婚したことが、西欧近世(16~18世紀)の始まりの姿を決めました。シャルル突進公の曽孫カール5世の代に、フランスを仇敵とする大ハプスブルク帝国(独伊西)が誕生し、両国がイタリアの領有をめぐって争いを繰り広げました。

 15世紀後半にはルネサンスの三大発明と呼ばれる印刷術(製紙)・羅針盤(航海術・造船)・火薬(火縄銃・大砲)の技術や性能が向上し、宗教改革の前段ともいえる人文主義や近代科学の芽生え、新大陸の発見、陸海戦の戦術の革命など近世(16~18世紀)につながる社会変化が起きています。

===== 薔薇戦争とシャルル突進公 =====

図@ ブルゴーニュ公国の最大版図 (⇒拡大) 

 薔薇戦争(1455~85年)は、百年戦争終戦の2年後に始まり、イングランド貴族が対仏和平派のランカスター朝と対仏強硬派のヨーク朝の二派に分かれて争った30年にわたる内乱でした。

 仏王とブルゴーニュ公不和の図式も含め、仏国内の戦闘が決着せずに、百年戦争が戦場をイングランドに移して続いたと言っていいほどです。三次に及ぶ内乱のうち第二次では、フランスに亡命した王妃がランカスター派を率い、迎え撃つヨーク朝はブルゴーニュと同盟しました。

 一方のフランスでも、百年戦争の最中の1440年に、中央集権化を進める仏王シャルル7世に対し貴族たちが王太子ルイ(後の11世)を担いで反乱を起こしたほどで、まだ相対的に王権が弱い時代でした。

 父王に歯向かったルイは、1456年にブルゴーニュ公国に亡命していましたが、1461年にシャルル7世が逝去し自らが仏王に即位すると、立場を一転し、父王と同じ中央集権化政策を推し進めました。ブルゴーニュからも、フィリップ善良公が年老いたのを幸いに、父王が割譲したピカルディを買い戻しています。

 しかし、ブルゴーニュの公太子シャルル(後の突進公)は仏王弟のベリー公を立てて不満貴族の同盟(公益同盟)を結成し、1465年に仏王軍を破ります。ルイ11世は王弟ベリー公にノルマンディーを与え、ブルゴーニュ公にはピカルディを返還し、いったん和平を結ぶことにしました。

図Aカロリング朝分国(⇒拡大)

 1467年にフィリップ善良公が亡くなり、ブルゴーニュ公位はシャルル突進公が継承します。突進公は1469年に、自治独立を進めるスイス原初同盟に手を焼くオーストリア(チロル・アルザス方面)大公から買戻し条件付きで、上アルザス周辺の領土を購入しました。また、フランスが裏で手を引くリエージュ司教領の反乱や、仏軍のピカルディ侵攻も武力で押さえ込み、1472年には相続争いに付け込んでゲルデレン公領も買い取ります。

 その上で、カロリング朝時代のロタリンギアの復活を目指し、経済力を背景にいち早く近代的な軍制を整え、イングランドやイタリアからの傭兵と大砲の増強で軍事力を強化、内政でも独立した司法・行政制度を整備しました。

===== ブルゴーニュ戦争(1474~77年) =====

 しかし、その頃から武力外交のツケが回ってきました。1473年にハプスブルク家の神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世を呼び出し、公女マリーを皇太子マクシミリアン(後の1世)に嫁がせるのと引換えに、ブルゴーニュ王(かつてのブルグント王国)の称号を手に入れようとしましたが、皇帝父子は言を曖昧にして逃げてしまいます。翌1474年には、ケルン大司教と自由都市ケルンの争乱に介入し、神聖ローマ帝国を敵に回します。

 一方、一向にスイス牽制の役目を果たさず、譲渡したアルザス領で圧政を敷くシャルル突進公に、期待を裏切られた前オーストリア大公は、逆にスイスと手を結ぶことにしました。それにブルゴーニュの軍事的圧力を受けるロレーヌが加わり、フランスの資金支援の下に反ブルゴーニュ同盟が結成されます。

 シャルル突進公は、1475年にロレーヌを占領しネーデルラント(低地諸国)まで途切れない最大版図を実現しましたが、薔薇戦争の第二次内乱で王位復帰を支援して貸しがあるはずの英エドワード4世は、ブルゴーニュに加勢してフランスに上陸したものの、すぐに講和を決めて兵を引き上げてしまいました。

 しかも、ブルゴーニュ軍は1476年のスイス遠征で思いがけない大敗を喫します。窮地に立ったシャルル突進公は、独立王国建立への執着を捨てて神聖ローマ帝国と和を結び、公女と皇太子の縁談をまとめました。しかし、スイスでは再び大敗した上に、1477年には年明けのロレーヌの戦闘で敗死してしまいました。

===== ブルゴーニュ継承戦争(1477~79年) =====

図B ブルゴーニュ公国の分割 (⇒拡大)

 フランスはシャルル突進公戦死の報に接し、直ちにピカルディ・アルトワと南部のブルゴーニュ公本来の所領に侵攻しました。その上で公女マリーを当時6歳の王太子シャルル(後の8世)に嫁がせブルゴーニュ公国をまるごと乗っ取ろうとしましたが、ブルゴーニュ側は応じません。

 マリーは、諸都市の自治権拡大を容認する大特許状と引換えに議会の承認を得て女公に即位。その上で婚約者で神聖ローマ帝国皇太子のマクシミリアンに助けを求め、フランドルで挙式しました。

 マクシミリアンは、議会や父帝の支援を取り付けた上でフランスと交渉し、休戦と占領地の返還を勝ち取ります。仏軍は翌1478~79年に休戦協定を破りエノーとアルトワに侵入しましたが、迎え撃ったマクシミリアンに撃退されてしまいます。その後ハプスブルク家とフランスの確執は、いわゆる外交革命で1756年に両国がイギリスやプロイセンに備えて手を結ぶまで3世紀近くにわたり続きました。

 新領主夫妻は、女公の生地で神聖ローマ帝国ブラバント公領のブラッセルをネーデルラントの首都と定めました。ブラッセルは、ブルッヘやヘントなどのフランドル諸都市とライン川の商業拠点ケルンをつなぐ交易ルートに当たり、フィリップ善良公が宮殿を建て豪奢な宮廷生活を営むようになって以来、フランドル絵画をはじめ北方ルネサンスの文化の中心として栄えていました。

 一方、フランドル経済の要のブルッヘでは、1480年頃から土砂の堆積により港湾機能が、少しずつ危うくなってきていました。そもそもブルッヘの沿岸は九州の有明海のような干潟で、大型船の通行には向かない場所でしたが、1134年の大嵐で泥が流されてできた天然の入江がブルッヘと北海をつなぎ、それまで2世紀半にわたる繁栄を支えてきていたのです。

 代わりにマクシミリアンは、神聖ローマ帝国領のアントワープを中心に、産業育成と貿易振興に取り組みました。フランス領フランドルのブルッヘやヘントでは他所者の神聖ローマ帝国軍に強い反感があり、マクシミリアンが神聖ローマ帝国領優先の政策を進め、併せて大特許状に反して中央集権化を進め再び諸都市の自治権を縮小したために、不満は鬱積していたものと思われます。

===== フランドルの第一次反乱(1483~85年) =====

 そこへ1482年に女公が落馬事故で、2人の子を残し急死してしまいます。マクシミリアンが摂政となり4歳の公子フィリップ(後の美公)が公位を継ぎましたが、そこにまたフランスが介入。公女マルグリットは仏王太子シャルル(後の8世)と婚約し、1477年にフランスが占領したピカルディ・アルトワと南部のブルゴーニュ公本来の所領を持参金として割譲することになります。マルグリットは、1483年にフランスに誘拐同然に送られ形だけの結婚をしました。

 さらに追い打ちをかけるように、同じ1483年には、フランドルの織工らが幼いフィリップ美公を奪い、フランスの支援を得て反乱を起こしました。しかし、マクシミリアンにとっては幸いなことに、仏ルイ11世が逝去し、フランスはフランドルから兵を引き上げます。また、反乱軍によってアントワープの交易ルートを遮断されそうになったブラバントはもちろん、ネーデルラント(低地諸国)の他州はフランドルに同調しません。

 マクシミリアンは1485年にフランドルに攻め入り、いったんは反乱軍の抵抗に撤退しますが、入れ替わりに再び加勢に来たはずの仏軍も、逆に狼藉を働いて市民に追い出されてしまいます。反乱軍の中でクーデタが起き、フランドルは降伏しマクシミリアンは何とか窮地を脱しました。