映画007シリーズの第一作「007は殺しの番号」が公開されたのは1962年。当時は、米英ソ各国の秘密諜報員が暗躍し、時にはテロを行うことも半ば公然と認められていたのかもしれません。実際、アメリカはカストロ暗殺の計画を何度も練っていたようですし、ケネディ暗殺の黒幕についても、反カストロ勢力という説がある一方で、真逆のキューバ政府関与説があります。

 2004年に、ブッシュ大統領は、イラク戦争開戦の口実にした大量破壊兵器が見つからなくて非難されましたが、40~50年前なら理由なく他国に攻め込んでも居直っていられたかもしれません。今は、人権、人権とうるさいアメリカですが、当時は、南部諸州で合法的に黒人を差別していた時代ですから、何があっても驚かないでください。


カストロのキューバ革命


Che Guebara & Fidel Castro

 キューバ革命の英雄は、現元首で国家評議会議長のラウルの兄フィデル・カストロとアルゼンチン生まれの革命家チェ・ゲバラです。1960~70年代、まだ共産主義が弱者の味方と信じられていた時代に、ゲバラは若者にカッコいい存在でポップカルチャーの寵児でした。

 最初にカストロが決起したのは1953年、26歳の年でした。130人で南東部の都市サンチャゴ・デ・クーバの兵営を襲いますが、80人以上が殺されて失敗。カストロも投獄されてしまいました。しかし、バチスタは国際世論に配慮し、1955年に恩赦でカストロを釈放。メキシコに亡命したカストロは、ゲバラら同志を募り、アメリカで資金を集め再起を準備しました。

 1956年11月に、カストロら82人の戦士は12人乗りのクルーザーで出港しましたが、定員オーバーでキューバ到着が2日遅れ、現地の仲間とともに決起することができませんでした。政府軍に追われマエストラ山地に逃げ込みましたが、消衰した戦士は次々に捕えられ最後に残ったのは19人だけでした。

 それから2年、革命軍は山中に潜み、政府軍にゲリラ戦で挑み続けます。兵力は2~3百人対3万7千人と比較になりませんが、退却するのは常に政府軍。革命軍はラジオで宣伝放送を始め、アメリカも大使の引揚げや武器禁輸で圧力をかけ、バチスタの権力にかげりが見えるようになります。1959年の元日、サンタクララに迫る革命軍に追い立てられ、バチスタは空路ドミニカに逃亡…キューバ革命の第一幕は終了しました。 


CIA支援のピッグス湾侵攻作戦


 カストロの革命政権は、最初から進んで共産主義陣営に組したわけではありません。アメリカは、1月7日に新政府を承認しています。しかし、キューバは徹底的な農地改革と農業の集団化など社会主義的な政策を推進/成行きでアメリカはキューバを敵視/その結果、キューバはソ連に接近し、1960年に外交関係を樹立/アメリカとの対立が決定的になり、キューバはアメリカ資本の土地と産業を国有化/そして、冒頭に書いたように、1961年1月3日にアメリカは国交を断絶し、砂糖の輸入も全面禁止。

 …と、ここまでが共和党アイゼンハワー政権。ただし、冒頭ご紹介したピッグス湾侵攻作戦も、もとは次期大統領の本命でカストロ嫌いのニクソン副大統領(当時)が、CIAと1年かけて練り上げたキューバ反攻作戦でした。キューバでは、革命直後から(CIA等海外からの資金援助の下で)反革命の抵抗運動が起きていたのです。

 大統領就任から5日、1月25日にニューヨーク・タイムズがCIAの計画をスクープし、ケネディは初めて作戦の全貌を知ったと言われています。選挙戦で前政権のキューバ政策を非難していたケネディは、反革命に武力で手を貸すことをためらいました。最終的に作戦を承認したものの、上陸地点を一般市民を巻き込む心配のない無人地帯に変更し、航空支援を大幅に制限しました。

 こうして侵攻作戦は、当事者のキューバやソ連も含め、国際社会にバレバレの状況下で進められました。4月17日未明、グァテマラでCIAの訓練を受けニカラグアで待機していた2千人の亡命キューバ人部隊が、ピッグス湾に上陸します。しかし、キューバ側は2万5千人の正規軍に加え民兵20万人を動員し、既に全海岸線を警戒していました。戒厳令が敷かれ、侵攻作戦に乗じて決起を期待する反革命派10万人も拘束されていました。

 亡命キューバ人部隊は内陸に深く進撃する間もなく劣勢に陥り、翌朝を待って上陸地点に退却します。国際連盟では安保理事会が開かれ、キューバとソ連の非難に対しアメリカは申し開きできず孤立してしまいます。ケネディは、18日以降の作戦を中止を指示しました。アメリカは関与せず、亡命キューバ人が勝手に侵攻したという立場で押し通します。戦闘は72時間で終わり、侵攻部隊の1122人が生き残って捕虜となりました。


キューバ・ミサイル危機


 カストロは、安全保障のためソ連や東欧諸国との関係を深め、その年の5月のメーデー宣言で、キューバ革命を事後的に社会主義革命と認めました。アメリカは、極秘裏に再びカストロ政権の転覆計画を進めます。ヨーロッパでは8月にベルリンの壁が建設され、東西ドイツの自由な往来ができなくなっていました。10月にソ連は史上最大で100メガトンの水爆実験を行い、東西冷戦は新たな段階に進んでいました。

 翌1962年2月に、アメリカは、対キューバ全面禁輸に踏み切ります。カストロは、アメリカのキューバ侵攻に備えソ連に武器供与を依頼しましたが、代わりにソ連は核ミサイル基地を設ける約束をしました。アメリカは、夏からソ連の貨物船の往来が増えたのを不審に思いキューバ偵察飛行を強化します。10月14日に建設中の核ミサイル基地が発見され、翌15日にCIAが、航空写真の解析で、アメリカ本土全域を射程に収める中距離・準中距離弾道ミサイルの存在も判明しました。

+++++ 緊迫の13日間(10月16∼28日) +++++

 翌16日朝に報告を受けたケネディ大統領は、国家安全保障会議を招集し、国防総省やCIAが主張するキューバ空爆の強硬論を押さえ、先制攻撃を避け海上封鎖で対抗する基本方針を決定しました。同盟国には航空写真を見せて支持を求める一方で、ソ連には証拠がないふりをしてミサイル撤去に否定的な言質を得ます。

 ケネディは、米国民に核戦争につながる非常事態の勃発を訴える22日夜のテレビ演説の中で、キューバ向け艦船の積荷を検疫し攻撃兵器があれば入港を阻止すると宣言。ただちに海上封鎖を始めました。アメリカでは食料や日用品の買いだめで全米のスーパーの棚が空になり、中には核シェルターを掘る人も現れました。ソ連は準戦時体制に入り、キューバは民兵の動員を発令します。

 25日にアメリカは国連安保理事会の緊急招集を求め、ソ連にミサイル持ち込みの事実を詰問しますが、回答は得られません。ミサイル基地の完成が近い証拠をつかみ、ケネディは戦略空軍の国防準備レベルを引き上げ核装備することを許可。翌26日にアメリカは戦略空軍の爆撃機1436機の1/8が空中、残りは滑走路で待機、大陸間弾道弾145基も発射準備を整え、防空軍の迎撃機161機は全米各地に散開しました。さらに核搭載のB-52爆撃機23機がソ連ののどもとに配備され、アメリカの本気をアピールしました。

 国防準備レベル3は、1973年の第4次中東戦争と2001年の同時多発テロの際にも発令されましたが、通常戦争に対応する措置です。レベル2は核戦争に備える対応で、6時間以内に軍が展開し交戦に備えることを求めています。キューバ危機の際にも戦略空軍と防空軍以外はレベル3止まりで、1959年にできた制度ですから、後にも先にもこの時以外に発令されたことはありません。

 海上では、およそ30隻の船舶がキューバに向かっていました。25日に空母エセックスが軍事物資搭載の疑いの薄いタンカーの通過を見逃しますが、26日にはレバノン船籍の貨物船を強制停船して検疫しました。ソ連は、この頃、軍事物資を運ぶ14隻の貨物船を引き返させたと見られています。

 解決の糸口は、26日にソ連のフルシチョフ首相から届いた長文の電報でした。アメリカがキューバ侵攻をしなければ、ミサイル基地を撤去しキューバ駐留の軍事顧問団を引き揚げると言ってきたのです。しかし、27日の国内ラジオ放送を通じたメッセージには、アメリカがトルコとイタリアに配備している準中距離弾道弾を撤去する条件が追加されていました。ソ連の政府内で異議が通ったものと解釈されました。

 さらに同じ日の昼頃に、米軍偵察機が、キューバでソ連の地対空ミサイルに撃墜されてしまいます。また逆に、米海軍は、キューバの海上封鎖線で、核を搭載しているとも知らずソ連潜水艦に対し爆雷を投下していました。冷静な艦長のおかげで、幸い核魚雷は発射されませんでしたが、この日は後に「暗黒の土曜日」と呼ばれ、関係者は第三次世界大戦の勃発を覚悟したと言われています。

 ところが、28日早朝に事態は急転します。フルシチョフが二度目のラジオ・メッセージでミサイル撤去の決定を伝えたのです。ケネディも、今後はキューバに干渉しないと返信します。こうして、13日にわたるキューバ危機が終わったのです。ソ連は、キューバのミサイル基地とミサイル42基を解体し、11月上旬に船積みしてソ連に送り返します。アメリカは、偵察機で基地の撤去を確認し、11月20日に海上封鎖を解除しました。

 しかし、ソ連は、まだキューバに戦術核のロケット砲を残していました。本来なら、アメリカには内緒でキューバの安全保障に役立てるはずでしたが、カストロは米ソがキューバの頭越しに危機を回避したことに激高していました。キューバの暴発をおそれてソ連は戦術核も回収し、それを知ったアメリカは非公式にトルコのミサイル撤去を約束します。

 その後も米ソの緊張緩和が進み、キューバ危機からちょうど一年後の1963年8月には、米英ソ3国間で部分的核実験禁止条約が調印され、さらに米ソ首脳を直接電話で結ぶホットラインも開設されて、ケネディとフルシチョフの信頼関係は国際紛争の危機回避のモデルとなりました。


テロ支援国家


 アメリカとキューバは、1965年に反体制派キューバ人のアメリカ亡命を認めることで合意。1973年までに26万人以上がキューバを去り、米・キューバ両国の直接の緊張関係は緩和されます。しかし、冷戦下の間接対決は長く続きました。

 1960年代、キューバは共産国の盟主ソ連とともに、北ベトナムやギニア・アルジェリア・コンゴ・ボリビアなど世界中の紛争地域で社会主義勢力を支援しました。1967年には、ボリビアでキューバ革命の功労者ゲバラが戦死してしまいます。

 同じ時代、チリでは社会党・共産党連合のアジェンデを支持する人々が増えていました。1970年の選挙で、ニクソン政権下のアメリカはCIAを通じチリ軍部に反共クーデターを働きかけますが、司令官の反対で実らず、国民の一般投票でアジェンデの得票率が対立候補を僅差で上回ってしまいました。

 議会での決選投票を控え焦ったCIAは、軍部の反共勢力に手を回し司令官を拉致させようとします。しかし、結果的に司令官は射殺され、世論は軍部を許さず議会はアジェンデを支持。世界史上初の自由選挙による社会党政権が成立しました。キューバも平和革命を支持し、それまでの武装闘争路線を一度は放棄します。

 しかし、この記事で深く触れることはできませんが、アメリカは、米西戦争以来、中南米諸国の親米独裁政権と結託し、各国経済を牛耳るシステムを築いてきました。これまでアメリカは、暴力革命の違法性を理由に共産主義を非難してきましたが、合法的な社会主義政権が誕生してしまったのは一大事です。他の中南米諸国に平和革命が伝染する前に、新政権を転覆させなければなりません。

 アメリカは、キューバをお手本に産業国有化を進める新政権に経済制裁を課しました。チリ経済が依存する銅の国際価格を低く誘導し、さらなる痛打を加えます。折から、社会保障の拡大など無理な改革を進めていたチリは、インフレと物不足で混乱に陥っていました。しかし、1973年春の総選挙でもアジェンデ人気は衰えません。CIAは再び軍部に手を回し、軍事クーデターで反共政権を復活させました。

 キューバは、70年代半ばから再び武装闘争路線に戻ります。エチオピア内戦やアンゴラ内戦に積極的に介入しました。一方、アメリカは、1979年にリビア、イラク、南イエメン、シリアの4ヶ国を初めてテロ支援国家と指定し経済制裁の対象と定めましたが、1982年にレーガン政権の下で、キューバがリストに追加されます。

 しかし、1979年12月に始まったソ連のアフガニスタン侵攻は、その後10年にわたって泥沼化し、80年代には次第に冷戦どころではなくなっていきます。キューバも、当時南アフリカ領だったナミビアの独立を手土産に、1988年にアンゴラから撤兵しました。

 1991年のソ連崩壊後は、それまでソ連から砂糖と引き換えに石油を輸入してきた経済の根本がゆらぎ、キューバは深刻な不況に陥ります。政府は、土地の私的所有を認めるなど各種自由化策で何とか苦境を乗り越え、厳格な共産主義体制にはひびが入りましたが、アメリカとの距離は少し縮まりました。

 伝統的にキューバ系アメリカ人の支持を受けてきた共和党は、表向きキューバとの国交回復に反対してきましたが、仇敵のカストロも病気で2008年に引退しており、今や国交回復は潮時でした。今年5月30日にアメリカは、キューバのテロ支援国家指定を解除。7月20日に両国大使館が再開し、ようやく国交が回復しました。