予備選前倒し競争
アメリカの大統領選挙は長期戦。ご存知のように、民主、共和の各党が候補者を一本化する予備選挙と、勝ち残った両党候補者が一騎打ちする本選挙の二段階に分かれます。投票日は11月というのに、各党の予備選は1月から50州を転々として始まるのです。通信手段や交通手段が未発達の昔には広いアメリカを候補者が旅して顔を売るのもやむを得なかったのでしょうが、飛行機とテレビやインターネットが当り前の21世紀に、非効率な選挙戦にお金をかける必要があるのか何度も議論が繰り返されています。 にもかかわらず選挙戦は派手になる一方。最近は、序盤の山場=アイオワ州とニューハンプシャー州の予備選で飛び出した候補が勝利を収める傾向が強まり、全米50州中で人口30位と41位の小さな2州の選挙結果に全米が一喜一憂します。2008年の民主党予備選はオバマとヒラリーの一騎打ちが夏までもつれましたが、早ければ2月か3月初旬のスーパー・チューズデイ(各州予備選集中日)に大勢が決まってしまいます。残りの州の党員は既に決まった候補者を受け入れることしかできません。そこで、2008年にはミシガンとフロリダの民主党が党中央の意思に背いて予備選を前倒しで開き、予備選が無効となる騒ぎがありました。 無党派も4人に1人
必ずしも全ての有権者が民主党(Democratic Party)か共和党(Republican Party)に登録しているわけではありません。4人に1人は無党派層(Independents)です。各州の予備選(Primary Election)や党員集会(Caucus)で候補者指名投票の選挙人を選ぶ方法はマチマチで、党員以外が投票に参加できる州も少なくはありません。 各党の大統領候補者は、それぞれの副大統領候補を選び、今度はペアで本選挙を戦います。しかし、有権者は、投票日に、直接、大統領を選出するのではありません。州ごとに選挙人の人数が決まっていて、その選挙人を選ぶ間接選挙なのです。選挙人の数は、各州の上院議員と下院議員の定数を足した数…実は、首都ワシントンの住民には、なぜか上下両院の議員を選ぶ権利が与えられていないのですが、大統領選挙の選挙人の枠は3名分だけ割り振られています。 メーン州とネブラスカ州を除く州では、有権者の投票で過半数を取った候補者が全ての選挙人を獲得する勝者総取り方式(Winner-Takes-It-All)ですから、カリフォルニア州など人口の多い州を制するのが勝利のポイントです。2000年の選挙では、選挙人が25人もいるフロリダ州を500票差でブッシュが獲得して次期大統領に決まるという信じられないほど際どいケースが起きたのです。何でも、全米の総得票数では、民主党のゴア候補が50万票余り勝っていたということです。
したがって、大統領選挙には緻密な作戦が欠かせません。それぞれの候補者が、勝ち目の薄い州はさっさと捨て接戦州に選挙費用をつぎ込んで戦います。 アメリカでは、合法的に寄付で集めた資金ならいくらでもテレビ・コマーシャルにつぎ込むことができます。インターネット利用の選挙運動も自由、相手の足を引っ張るネガティブ・キャンペーンも日常茶飯事ですが、やり過ぎると、往々にして自陣営のイメージを傷つけてしまいます。 民主党(青)と共和党(赤) 共和党にはGOP(Grand Old Party)という通称もあります…政治姿勢は保守で、シンボルは象、シンボルカラーは赤。民主党の政治姿勢はリベラル、シンボルはロバ、シンボルカラーは青です。 保守とリベラルという政治用語は、例えば銃規制や性と人権など倫理的な分野では、共和党は旧来の秩序を重んじる頑固な年配者寄り、民主党は自由で合理的な社会を求める若者寄りといえば少し分かりやすいでしょうか? 外交では、共和党が外国への武力介入をいとわない強硬派に対して民主党が国際協調派、貿易では、共和党が自由貿易推進派で、民主党は国内産業保護派というのが、大雑把な傾向です。 実は、信じられないほどですが、両党の立場は、1960年代を境に180度入れ替わったのです。少し歴史をさかのぼってみましょう。 アメリカの政治は、建国以来、ほぼ一貫して二大政党制を堅持してきました。民主党は、独立後間もない1790年代に、連邦政府の中央集権を進める連邦党(Federalist)に対抗し、州の独立性を尊重する政治勢力として誕生しました。 連邦党は1812年の米英戦争に反対した末に衰退に向かい、「ジャクソン民主主義(Jacksonian Democracy)」と呼ばれる民主党全盛時代がやってきます。1833年にホワイトハウス専制に抵抗する勢力が(注)ホイッグ党を結成するものの、奴隷制問題をめぐって南部諸州に妥協を繰り返す中、1854年にホイッグ党員や北部の民主党員が集まって現在の共和党が登場したというわけです。 (注)ホイッグ党(Whig)は独立戦争時代に、王党派(トーリー党=Tory)に対し、愛国派を指す言葉として使われました。 当時の共和党は、北部の工業を守るため貿易では保護主義を取り西部開拓を奨励する政策を進めて支持基盤を広げました。南北戦争直前=1860年の大統領選挙は、共和党とホイッグ党、分裂した南北の民主党を合わせて4党の候補者で戦われ、共和党のリンカーン大統領が誕生したのです。 南北戦争後も南部の人種差別は形を変えて逆に強まり、多党時代を経て、1880年代には北部は共和党、南部は民主党という色分けが鮮明になっていきます。 変化の兆しは、最初、1930年代に現れます。ルーズベルト大統領の積極財政政策が、大恐慌に苦しむ北部の白人労働者や黒人、カトリックやユダヤ系市民にも歓迎され、民主党の支持層は全米に拡大したのです。 南北の地盤が逆転 ところが、ケネディー政権が黒人の人権を保障する公民権運動を後押しした1960年代から、逆に南部で民主党の退潮が始まったのです。1964年の選挙では公民権運動に反対する共和党候補(ゴールドウォーター元上院議員)が全米では惨敗したものの、南部に限ってみれば5州を制する強さを見せました。1968年には、民主党の人種差別主義者(ウォレス元アラバマ州知事)が第三党を作って立候補して南部5州の票を獲得したのです。 公民権運動の波が去った1976年の選挙では、前ジョージア州知事の民主党カーター大統領が久しぶりに南部票を集めて当選しますが、リベラルで国際協調重視の政治姿勢が不人気で、二期目の選挙では地元ジョージア州を除く全ての南部票を失い大敗しました。 この1980年と次の1984年の選挙で、民主党候補に圧倒的な大差で勝ったのがレーガン大統領でした。倫理面では妊娠中絶に反対し「家族の価値」を訴え、対外的には当時のソ連を「悪の帝国」と呼んで強硬路線を取ったのが、南部白人民主党員の共感を呼び、大挙して共和党への鞍替えが起きたと言われています。 その後の大統領選挙では、常に「倫理」が重要な争点に採り上げられるようになりました。2008年の大統領選挙は、世界同時不況を招いた共和党ブッシュ政権が国民から見離される中で実施されたわけですが、それでも南部の多くの州で共和党マケイン候補が勝つことができたのは、黒人のオバマ大統領の誕生を望まない人々がいたからだけではなく、アメリカ人の倫理観が保守とリベラルに大きく二分化してしまった証しなのではないでしょうか。 |