オレゴントレイルと幌馬車★大西部時代の幕開け ★ノースウェスト ★北カリフォルニア周辺 ★グレートベースン(大盆地)北部 大西部時代の幕開け
アメリカの領土拡大の歴史を振り返ってみましょう(図1)。 1783年のパリ条約で、アメリカはイギリスからミシシッピー川の東の領土(■)を勝ち取って独立しましたが、アパラチア山脈の西はまだインディアンが所有する土地でした。 しかし、白人に抵抗した中西部のインディアンは1812年戦争(米英戦争)後に一掃されてしまいます。白人と共存の道を選んだ南東部のインディアン「文明化五族」も、1830年代にインディアン準州(□現オクラホマ州)へ次々と強制移住させられてしまいました。 ミシシッピー川西岸の一部()は1803年にフランスから購入しました。1805年にはルイス・クラーク探検隊が、セントルイスからミズーリ川を上り太平洋岸に抜けるルートを開拓していました。 フロリダ(■■)とミシシッピー川の河口(■)は、1819年にスペインから購入しました…と、ここまでが前回までの話でした。 ===== オレゴン協定 =====
その後、北の国境はカナダを領有するイギリスと協議して1818年に北緯49度で引き直されます。北に流れるレッドリバーの流域(■)から開拓者が移住してミネソタ地方の開拓が始まりました。双方が領有を主張していたオレゴン地方(■)も、1846年に北緯49度線で平和的に分割されました。 === テキサス併合・米墨戦争 === 一方、南西部では、1812年にメキシコがスペインから独立したのをきっかけに、アメリカの領土が拡大します。メキシコの新政府は奴隷制に否定的でした。スペイン時代に移住していたアメリカ人入植者たちは不満をつのらせて決起。各地から駆けつけた義勇軍の助けを借りて独立し1836年にテキサス共和国が誕生しました。 ついで、1845年にアメリカはテキサスを併合(■)…メキシコを怒らせて戦争に誘い込み、その米墨戦争に勝って(有償ながら)メキシコ全土の1/3に及ぶ広大な領土(■■)を手に入れました。 === オーバーランダーズ === しかし、図2を見ると領土拡大と各州創立の順序が必ずしも一致していないのがお分かりでしょう。東部もそうでしたが、アメリカの西部ではインディアンを追い出し白人開拓者の数が増えた地域から、順を追って州に昇格していったのです。
ミシシッピー川西岸のうちでも、西経100度よりも西は、乾燥して丈の短い草しか生えない高原や砂漠地帯が続き、近代的な灌漑設備なしには容易に開墾できない地域でした。一方、オレゴン地方と北カリフォルニアには肥沃な土地があります。そこで、この時代の開拓者(Overlanders)は、乾燥地帯を素通りし、幌馬車隊を組んで野山を越え、一気に西海岸に向かったわけです。 ユタは全般的に住みやすい土地ではありませんでしたが、その頃全米の至る所で迫害を受けていたモルモン教徒に人々にとっては、安住の地でした。1847年以降、オレゴントレイルの中途で脇道にそれ、ソルトレイク湖の周辺に続々と移住してきます。 === ゴールドラッシュ === 1848年に金鉱が発見されて以降、北カリフォルニアには一獲千金を夢見る探鉱者が殺到し人口が爆発的に増えます。続く四半世紀は、西部各地で金鉱・銀鉱が次々に見つかり、東西を結ぶ幌馬車ルートの周辺にも次第に開拓者の数が増えていきます。1869年には最初の大陸横断鉄道が開通します。
=== 西部各地のインディアン戦争 === ミシシッピー川以西のインディアン戦争は、まずテキサスの開拓者と平原インディアンのコマンチ族との間で始まり、次に開拓者が増えた西海岸や東西を結ぶ街道沿いで頻発するようになります。グレートプレーンズ北部の開拓が後回しになったおかげで、平原インディアン最強のスー族系ラコタ族と白人の決戦は、しばらく先送りされました。
1869年には、最初の大陸横断鉄道が貫通。テキサスからカンザスやネブラスカの鉄道の駅に向け、カウボーイが牛の群れを追い立てる(キャトルドライブ)ルートもできました。大陸横断鉄道の工事を支えたのは、主に太平天国の乱(1850〜64年)で荒れた中国南部から渡米してきた移民でした。1871年(明治4年)の岩倉使節団は、サンフランシスコから誕生まもない大陸横断鉄道に乗って旅したわけです。 1874年には、グレートプレーンズ北部のラコタ族本拠で金鉱が発見され、大スー戦争が勃発します。しかし、騎兵隊に制圧され、ラコタ族もついに狭い居留区に封じ込められてしまいました。1890年に国勢調査局が全米で「フロンティア」が消滅したと宣言します。「フロンティア」とは、当時1平方マイルにアメリカ市民が2人以下の地域を指す言葉でした。 南部でも1886年にアパッチ族のジェロニモが降伏し、大方の戦闘が終息します。しかし、この地域では20世紀に入ってからも小さな衝突が繰り返されました。特にアリゾナ州は、300年に及んだインディアン戦争を通じて最多の310件の戦闘と最多の戦死者を出した地域として知られています。 このシリーズでは、皆さんに説明しやすいように、西部各地のインディアンを大きく3つに分けて記事にしました。記事の順でいうと、 @北西部(■)…オレゴン準州のカユース・ヤキマ・ネズパース族ほか、北カリフォルニアのモドックとクラマス族ほか、オレゴンドレイルやカリフォルニアトレイルの西部にいたパイユート、バノック、ショショーニ族ほか。 Aグレートプレーンズ(■)…北部ではスー3部族(ダコタ・西ダコタ・ラコタ)とシャイアン・アラパホ族、南部ではコマンチとカイオワ族、スー族の敵で白人に味方するポーニー・アリカラ・クロウ・ブラックフットなど。半農半猟の部族は薄色で表示(■)。 B南部(■)…サンタフェトレイル沿いの定住農耕民プエブロ族。プエブロ族に敵対して略奪を繰り返すアパッチやナバホ族。それと近縁性の高いユート族。ユマやモハベなど南カリフォルニアからアリゾナの砂漠周辺に暮らす諸部族。 ノースウェスト(オレゴン北部・ワシントン・アイダホ)ロッキー山脈を越え、スネーク川からコロンビア川に下り太平洋に至る陸路は、1804年にルイス・クラーク探検隊により発見されました。カナダ側でも、1811年にハドソン湾のヨークファクトリーからコロンビア川を下り太平洋に至る毛皮商人の道が切り開かれます。 以来、コロンビア川流域に暮らすワラワラ族、カユース族、ヤキマ族(現ワシントン州)、ネズパース族(現アイダホ州)などユマティラ諸族のインディアンは長い間、米系・カナダ系の商人と友好関係を結んできましたが、オレゴンがアメリカ領となり、開拓者の本格的な移住が始まるとまもなく問題が起きるようになりました。
=== カユース戦争 ===
最初の衝突は1847年のカユース戦争で、きっかけはホイットマン虐殺事件でした。ホイットマンは医師で、1836年に妻とともに現ワシントン州のワラワラに来て、インディアンに医療を施すかたわらキリスト教の布教に努めていました。 しかし、ホイットマンをねたむ新参の開拓者が5人のインディアンを仲間にして夫妻を襲い、夫妻のほかに12人の白人が殺されました。インディアンは「ホイットマンは麻疹(ハシカ)の治療と偽り200人のインディアンを殺している」と聞いてだまされたのです。 1850年に犯人5人は白人側に引き渡されて処刑されましたが、戦争は1855年まで続きカユース族は居留地に追いやられます。 === ヤキマ戦争 === 1855〜56年のヤキマ戦争は、新設のワシントン準州(現ワシントン州・現アイダホ州北部・現モンタナ州西部)の初代知事が、インディアンの広大な土地を奪い、さらに一部の部族を狭い居留区に閉じ込めようとして、功を焦ったのが原因で起きました。名前はヤキマ戦争でも、ヤキマ族中心の戦争のほかに同時期に起きたピュージェット湾戦争と1858年のコーダレーン戦争を一まとめにして呼ぶ歴史家が多いようです。 今はチェリーやリンゴの栽培で有名なヤキマ渓谷で1855年に87名の歩兵隊が300人を超すヤキマ族に襲われたのが始まりでした。翌年、コロンビア川の渡河地点カスケーズラピッズで開拓者14人と兵士3名が殺される事件もありましたが、陸軍がヤキマ渓谷に進駐して事態は平定されます。 === ピュージェット湾戦争 ===
ピュージェット湾戦争は、ヤキマ族の蜂起に続いて、ワシントン州の海の玄関ピュージェット湾周辺の部族が蜂起した戦争です。1856年のシアトルの戦いに先立ち、シアトルの市名の祖となったシアトル酋長が行った怒りと悲しみに満ちた演説(以下は抜粋)が後世に伝えられています。 …幾たびか月がめぐり、幾たびか冬がめぐってくる頃、かつてグレートスピリッツに守られ広大な土地で幸せに暮らしていた人々の血は絶え、かつて皆さんより強く希望に満ちていた人々の墓前で涙する者は一人もいなくなっていることでしょう。 …しかし、不条理を嘆いて何になるでしょう。寄せる波のように、部族の後に部族、民族の後に民族がやって来るのは、自然の摂理でしかたありません。 …皆さん白人の衰亡の時は少し先かもしれませんが、必ず来ます。誰にでも例外はないのです。つまるところ、私たちは兄弟なのかもしれませんね。いずれ分かることでしょう。 港には軍艦が停泊し、2門の大砲を構えて威嚇していました。シアトル酋長に従うスカミッシュ族とドゥワミッシュ族は白人との戦いを回避、不満ながらも居留地への移住を決意します。ピュージェット湾戦争は、双方で比較的少数の犠牲を出して終わりました。 === コーダレーン戦争 === 現アイダホ州北部にはコーダレーン族、現ワシントン州東部にはスポケーン族とパルース族が住んでいました。1855年にコロンビア川上流で金が発見され、この地域にも探鉱者が無断で侵入し始めていました。下流域のインディアンは土地を取上げられて白人と戦っています。そこで、3部族は白人の軍隊がスネーク川を渡ったら協同で迎撃する同盟を結びました。 そうとは知らず1858年5月、一人当たり40発の銃弾を携えた軽装備の部隊が、スポケーン族領内の近道を通ってコロンビア川上流に向かおうとしました。それまでインディアンは友好的で、舟を貸し渡河に協力してくれることもたびたびあったのです。しかし、部隊は交戦目的でスネーク川を越えたものと誤解され、3部族同盟の千人近い戦士に迎え撃たれます(パインンクリークの戦い)。戦いは10時間に及びましたが、日没後にインディアンは引き揚げ、部隊は命からがら逃げ延びることができました。銃弾は一人当たり3発まで減っていました。 もちろん、白人側がこれで引き下がるわけはありません。ライト大佐の指揮下、射程の長い1855年式スプリングフィールド銃を装備した600名の部隊が、9月に報復攻撃を仕掛けます。野原に火を放ち、煙に隠れてインディアンに銃火を浴びせました。二度の戦いで勝敗はつきませんでしたが、5千人もいたインディアンの兵力はひどく打撃を受けていました。追い討ちをかけるように、ライト大佐は戦闘中にインディアンから奪った800頭のウマを殺し、インディアンは、ウマなしで戦えず狩猟もできない事実を悟って降伏します。 === ネズパース戦争 === 現アイダホ州南部に住んでいたネズパース族は極めて白人に友好的な部族でしたが、それでも、この時期に狭い居留地への移住を強制されていました…しかも、苦難が一度きりで終わらないところがインディアンの悲劇の歴史です。
1860年には居留地内に金鉱が見つかり、5千人の白人探鉱者が無断で住みつくようになります。さらにその3年後には、一方的に居留地を1/10に縮小すると言い出したのです。ついに1877年、条約の更新を拒否していた低地ネズパース族の中から白人を襲って殺す者が現れました。
酋長のジョセフは白人の報復を避け、一族を引き連れて戦いながらカナダへ108日間の逃避行を試みましたが、国境を目前についに降伏します。婦女子を交えたネズパース族750人の一行のうち戦士は約250名。死傷者が150名近くに上り、もう戦闘が継続できなくなっていました。 その後を追った千名を超える陸軍部隊の死傷者数はネズパース族のほぼ倍を数えたそうで、ジョセフ酋長は後世に名誉ある「赤いナポレオン」の通称を残しています。 北カリフォルニア周辺=== スペイン領・メキシコ領時代 === スペイン領時代のカリフォルニアでは、太平洋岸沿いにサンフランシスコ、モンテレイ、サンタバーバラ、サンディエゴの4要塞と21の伝道所があり、フランシスコ会の修道士と2万人のインディアン奴隷が牛馬や羊の群れを飼育していました。メキシコ独立後もインディアンの処遇は変わらず、奴隷から解放された者も、南北戦争後のアメリカ南部の黒人と同様にメキシコ人牧場主の下で酷使されていたそうです。 === 米領編入後 === カリフォルニアは1850年に自由州として創設されましたが、1860年代まではメキシコ時代の制度を引き継ぎインディアンを捕え奴隷として使役し、事実上売買することまで認めていました。並行して、各地に居留地を設けインディアンの移住をうながします。
開拓者とインディアンの衝突は、ゴールドラッシュに沸く金鉱地帯の周辺で始まりました。最初の金は1848年にシエラネバダ金鉱地帯のコロマで発見されましたが、2年後の1950年には早くも各地で衝突が起きています。 開拓者を保護するのは少数の連邦駐屯兵とカリフォルニア民兵の役目でしたが力不足で、しばしば開拓者自身が武装するしかありませんでした。 === モドック戦争 === 1860年代には連邦政府の兵力も充実し、インディアン戦争もようやく終息に向かいます。しかし、最後に北東部の少数部族の懐柔に失敗してしまいました。1872〜73年のモドック戦争です。 モドック族は居留区で宿敵のクラマス族の嫌がらせを受け、政府に先祖伝来の地に独立した居留区を設けるよう求めました。しかし、交渉中に小さな衝突が起き、150名のモドック族はオレゴン州境の溶岩地帯に立てこもります。 その後も中途半端な和平交渉と戦闘が繰り返された結果、兵士わずか53名のモドック族に対し、兵力10倍の連邦政府軍が指揮官を含め戦死者73名と負傷者47名の損害をこうむる惨事となりました。 グレートベースン(大盆地)北部
ロッキー山脈とシエラネバダ山脈に挟まれた大盆地はグレートベースンと呼ばれ、日本の国土の1.25倍に及ぶ広大な乾燥地帯です。 グレートベースンの北部にはパイユート族、バノック族、ショショーニ族など近縁性の強いインディアンが暮らしていましたが、この地域でも金鉱、銀鉱が次々と発見されます。 === ピラミッド湖戦争 === 1860年のこの戦争は、パイユート戦争とも呼ばれることもあります。前年に付近で銀が発見されたばかりの頃の出来事でした。 酒場の主人がパイユート族の少女を誘拐したのが原因で、小さな駅馬車の停留所が焼き討ちを受けます。さらなる報復を恐れた周辺の住民は、取敢えず105名の義勇兵を募って備えましたが、民兵隊は戦闘能力の高い500名のインディアンに囲まれ全滅(戦死76名・負傷29名)してしまいます。 しかし、住民はカリフォルニアに助けを求め、翌月には正規兵と民兵を合わせ約750名の大部隊で300名のインディアンを敗走させることができました。 === スネーク戦争 ===
オレゴントレイルはアイダホからスネーク川沿いのルートをたどってオレゴンに入るのですが、1850年代の初めから街道沿いで幌馬車隊が襲われる事件が相次ぎました。 白人側はその都度インディアンに報復攻撃をしてしのいでいましたが、アイダホ南西部に銀鉱や金鉱が発見され開拓者の数が増してくるにしたがい、ネバダからオレゴンやアイダホに至る広い地域でインディアンのゲリラ的な襲撃が増えてきます。仕掛けたのは、パイユート族、バノック族、ショショーニ族などグレートベースン北部に住んでいるインディアンでした。 幌馬車隊にとって、最初は特別な守護者のいない戦争でした。1864年にカリフォルニアの義勇兵が街道を行く移住者の警護に乗り出し、ワシントンの義勇兵やオレゴンとネバダの騎兵隊がこれに続きました。南北戦争終戦後の1866年には連邦政府軍が復帰し、1868年にウィアウェワ酋長が降伏して一連の戦闘は終息します。 個々の戦いは小規模で、南北戦争の影に隠れあまり注知られていない戦争ですが、開拓者とインディアン双方の合計で通算1762名の死傷者は、犠牲者の数だけ比べればインディアン戦争の中でも特に大きな戦争に区分されます。ウィアウェワ酋長と兄弟のワウェベ酋長は、その後1878年のバノック戦争に参画し翌1879年のシープイーター戦争では300名の戦士を率いて戦いました。この地域では、これが最後の戦いでした。 === ゴシュート戦争 === 現ユタ州のソルトレイクシティ周辺はオレゴントレイルの要衝でしたが、連邦政府にとって1850年代にはインディアンよりもモルモン教徒の方が目障りな存在でした。 各地で迫害されたモルモン教徒の集団が新天地を求めて移住してきたのは1847年のこと。連邦政府は1950年に指導者のブリガム・ヤングを知事と認め、現在のネバダ州とコロラド州西部を含む地域にユタ準州を設立します。しかし、その後は全米でモルモン教の一夫多妻制度を否定する世論が沸き起こり、1857〜58年には連邦政府とモルモン教徒の間で戦争が起きたほどです。 しかし、1860年にソルトレイクシティからカリフォルニアに速達郵便を届けるショートカット(ポニーエクスプレス)が通ると、ショショーニ系のゴシュート族が郵便の中継地を襲ってウマを盗むようになります。連邦政府軍は鎮圧を試みますが、襲撃はその後も一向に止みません。
南北戦争が始まり、北軍の戦費調達のために西部の金銀を輸送するルートの重要性は一層高まりました。1863年に連邦政府は、毎年補償金を支払う約束でゴシュート族と合意し、講和しました。カリフォルニア産の金は、南北戦争(1861〜65年)の北軍戦費の1/4を賄ったといわれています。 === ベア川の虐殺 === 同様に、ソルトレイクシティ⇔オレゴントレイルの安全も深刻に懸念されていました。道中のベア川一帯は自然の恵み豊かなショショーニ族の楽園でしたが、1862年にモンタナで金が発見されてから白人の往来が激しくなり、小衝突が繰り返されました。モルモン教徒の人々は北軍に忠誠を誓っていましたが、いつインディアンと結託するか決して油断できません。 そこで派遣されたのが、コナー大佐率いる200名のカリフォルニア第3志願歩兵連隊です。1863年1月、ベア川で300名のインディアン戦士と対戦しました。ショショーニ族はよく戦い、連隊も67名の死傷者を出しましたが、装備が貧弱で、弾薬が尽きた後は一方的な負け戦になってしまいます。 しかし、インディアンの斧や弓矢の必死の抵抗に正気を失った連隊は、ひとまず戦士や子供を殺した上で、婦女に凌辱を尽くしたといわれています。ショショーニ族の死者246名、負傷者も含め捕虜となった者164名。インディアン戦争史の中でも特筆される惨劇の一つでした。 |