南西部アパッチ族の抵抗★先プエブロ文化 ★スペインの征服とプエブロの反乱 ★アパッチ族とコマンチ族 ★米墨戦争 ★サンタフェトレイルとヒカリージャ・アパッチ戦争 ★ユマ戦争とガズデン購入 ★ウェスタンアパッチとヤバパイ戦争 ★ナバホ戦争 ★ユート戦争 ★第一次チリカウア・アパッチ戦争 ★第二次チリカウア・アパッチ戦争 先プエブロ文化今回の舞台は、ニューメキシコ・アリゾナ・ユタの3州とコロラドの西部です。少し余談ですが、全米広しといえど州境が十字に交わるのはここだけで、この地域はその名もフォーコーナーズ(Four Corners)と呼ばれています。
フォーコーナーズ周辺には、アメリカの世界文化遺産9つのうち3つがあり、うちメサベルデ国立公園とチャコ文化国立歴史公園の2つは先プエブロ文化の遺産。少し東のタオスの町にあるインディアンの集落は、後で説明しますが後プエブロ文化の遺産です。 氷河期が終わってからは、山岳部南部で乾燥化と大地の浸食が急速に進み、動物も、その動物を狩る古インディアンも、雨が降り植物が育つ土地を求めて移住を繰り返しました。 フォーコーナーズに紀元前7千年に来た一団は、狩猟や採集のため季節ごとに住みかを移動していましたが、紀元前1500年頃にトウモロコシ栽培を始め、紀元前500年頃には竪穴式住居を設けて定住し、農業に頼って暮らすようになっていました。 チャコ・キャニオンは、紀元900〜1150年に繁栄した先プエブロ文化の中心です。中でも最高800人を収納できた集合住宅プエブロ・ボニート(写真)はインディアン史最大の住居跡で、ほかに14の大きな遺跡が残ってます。 しかし、チャコ・キャニオンも1130年頃から一段と乾燥化が進み、人々は水を求めて再び移住して行きます。メサベルデのような断崖住居の集落も、少し遅れて同様の運命をたどり、13世紀後半には放棄されてしまいました。 スペインの征服とプエブロの反乱
1540年にニューメキシコを訪れたスペインの探検隊は、期待していた「黄金の7都市」を発見する代わりに、日干しレンガの大規模集合住宅の群落を見つけ、プエブロ(スペイン語で町)と命名しました。それらの集落の一つで、世界遺産にも指定されているタオス・プエブロには、今もプエブロ文化をになったインディアンの血を引く人々が生活しています。 === スペインの征服 === さて、当時はリオグランデ川の上流を中心に約4万人のプエブロ人が暮らしていましたが、スペインは1598年にプエブロを武力で征服し、ニューメキシコ県として植民地に編入してしまいます。ちなみにイギリス最初の北米植民地バージニアの誕生は1607年、日本で関ヶ原の戦いが起きたのは1600年です。 現在のカリフォルニア州と山岳部南部諸州を含む地域にカリフォルニア県の編入は、それから170年も後の1768年。後にテキサスと名を改めるニューフィリッピン県の植民地化も1770年ですから、逆説的にいえば、プエブロがスペインに征服されるほど繁栄していた訳です。 一つだけよかったのは、スペインがプエブロを周辺のアパッチ族の襲撃から守ってくれることでしたが、人々はフランシスコ会の神父を通じて支配され、肥沃な農地を取上げられた上に、入植者のために労働奉仕を強いられました。 === プエブロの反乱 === やがて1675年、プエブロは連年の干ばつで深刻な飢饉に襲われていました。しかも、激化したアパッチ族の略奪をスペインは防ぐことはできません。人々の不満は高まり、災禍のもとのキリスト教を捨て、インディアンの伝統的信仰に戻ろうとする声になりました。 慌てたスペインは、騒ぎを鎮めるために、プエブロで指導的な呪術師47人を逮捕し一部を処刑しましたが、人々は怒り県都サンタフェに押しかけます。これが導火線で後に反乱が起こります。知事は、アパッチ征伐で手薄になった兵力では対抗できず、生き残りの指導者たちを解放しました。 そのうちの一人ポーペイがプエブロ集落を一つにまとめ、あらためて1680年に反乱を起こします。プエブロはスペイン人を追い出して教会を破壊し、スペイン人がもたらしたものは、家畜や農作物に至るまで一切が廃棄されました。 しかし、距離も離れ6つの言語を話すプエブロ集落をまとめるのは容易ではありません。1688年にリーダーのポーペイが死んでからは集落間の対立が深まるばかりで、スペインは1692年に(今度は無血で)、プエブロを再び征服することができたのです。こうしてプエブロ人とスペイン開拓者の共存が始まりました。 アパッチ族とコマンチ族 言語的にみると、アパッチ族は、カナダ西部やアラスカからやって来たのだそうです。記録によれば1541年にスペインの探検隊がカンザス西部でアパッチ族に遭遇していますが、当時は大平原(グレートプレーンズ)でバッファローを狩って暮らしていました。アパッチ族とプエブロは、バッファローの肉や皮とプエブロのトウモロコシや綿製品を交換し、持ちつ持たれつの仲の良い関係でした。
アパッチ族がプエブロを襲うようになったのは、スペイン人からウマを得て劇的に機動性が上がったことと、プエブロがスペインに隷属して、アパッチ族と交易する余剰生産物がなくなってしまったからです。 === コマンチ族 === しかし、ウマをもっと上手に活用したのがコマンチ族です。コマンチ族は、既にテキサスのインディアン戦争の中に登場していますが、元は北部山岳地帯に住んでいるショショーニ族の一派でした。1680年のプエブロの反乱の際にウマを手に入れ、平原で機動性を生かしてバッファローを狩る最初の平原インディアンになりました(この時点では銃は伝わってきていません)。 おかげで人口は急増し、コマンチ族の勢力範囲も広がります。スペイン植民地や跡継ぎのメキシコにとってはやっかいな馬泥棒で、盗んだウマは毛皮商人や開拓者に売られました。平原にいたアパッチ族は、コマンチやカイオワと手を組んだ平原アパッチを除き、平原の南と西に追いやられてしまいます。 === アパッチ族 === 平原の西には、先プエブロ人が放棄した無人の乾燥地帯がありました。狩猟採集にも農業にも適さない土地で生き残るため、アパッチ族も襲撃と家畜や食料の略奪を繰り返し、スペイン植民地やメキシコを悩ませ、ついにはアメリカの騎兵隊と対峙するに至りました。 アパッチ族は弓矢に優れ、岩山の地形を利用して巧妙なゲリラ攻撃を仕掛けて来ます。もともと仲間内でも襲撃し合うほど好戦的で、アメリカは一部アパッチ族を味方に付けて戦いましたが、戦いの主要な舞台となったアリゾナ州は、インディアン戦争史上、格段に最多の犠牲者を出したといわれています。 米墨戦争(アメリカのメキシコ侵略)メキシコは1821年にスペインから独立しましたが、内乱続きで、ニューメキシコ、テキサス、カリフォルニアの北部3県の統治には手が回りませんでした。 テキサスは1836年にメキシコから独立を勝ち取り、さらにアメリカへの併合を望み1845年に合衆国テキサス州となりましたが、メキシコ側はテキサスの独立もアメリカのテキサス併合も公式には認めないばかりか、領土問題も発生していました。 一方、その頃には北カリフォルニアにも、カリフォルニアトレイル経由でアメリカ人開拓者が入植するようになってきていました。時の大統領は第11代のポークで、テキサス併合を公約に掲げて当選した領土拡張主義者でしたが、アメリカ西部で最大限の領土を確保するため、南北で巧妙な外交戦略を取りました。 === オレゴン協定 ===
北の懸案は、オレゴンの英領カナダ国境でした。現在のワシントン・オレゴン両州とカナダのブリティッシュコロンビア州に当たる地域です。 1818年の米英協定で、ロッキー山脈稜線の東は北緯49度と決めたものの、それより西は合意できず、オレゴンは米英で取敢えず"共同領有"されていました。 しかし、その頃オレゴンでは、国籍別人口で 5000人:750人とアメリカがイギリスを圧倒していました。そこで、アメリカは"共同領有"の解消をほのめかしてイギリスをおどします。あわてたイギリスは、北緯49度の国境線を伸ばしオレゴンを両国で分割しようと提案…ポーク大統領は過激な国内世論を収めて同意、1846年6月に「オレゴン協定」に調印します。ねらい通りイギリスとの領土問題を平和裏に解消し、北の太平洋の道を確保したのでした。 === アメリカのメキシコ侵略 === 南は、そう簡単にいきません。アメリカがメキシコからほしいのは、ニューメキシコ・カリフォルニアの2県とメキシコが領有権を主張するテキサスの土地…1845年11月にアメリカはこれら領土をお金で買う提案をしますが、メキシコの民衆は激怒しました。その年の大晦日には民族主義的な政府が誕生、あらためてアメリカのテキサス領有を全面的に否定します。 そこで、アメリカは、領土問題が特に微妙なリオグランデ川のほとりに砦を築き、メキシコを挑発しました。早速、1846年4月、越境してきたメキシコの2千名の騎兵隊が、砦近くで70名のアメリカ兵を襲い16名を殺害します。 連邦議会は5月にメキシコに宣戦布告…こうして米墨戦争(1846~48年)は始まりました。北部・ホイッグ等(後の共和党)が反対しましたが、南部・民主党が押し切りました。メキシコでは「アメリカのメキシコ侵略」と呼ばれています。
メキシコ軍の銃は旧式で、米軍の敵ではありませんでした。東部の都市では、戦勝のニュースを聞いて市民が街に繰り出し、日清・日露戦争下の日本の提灯行列のような騒ぎで喜んだそうです。アヘン戦争が1840~42年ですから、世界中で欧米の帝国主義が全盛期を迎えつつあった時代です。 カリフォルニアのスペイン系の人々は1847年1月に降伏し、ちょうどその1年後に北カリフォルニアで金が発見されました。有名なゴールドラッシュは、米墨戦争が公式に終わる前に始まっていたのです。 一方のメキシコは共和派と帝政派が戦争そっちのけで政争に明け暮れ、ユカタン半島では独立運動が再燃していました。米軍は1847年9月に首都メキシコシティを攻略、翌年2月にメキシコはニューメキシコ・カルフォルニア・テキサスを15百万ドル(現在の価値で約5億ドル)で売却する条約に調印します。開戦前に提示した価格に比べても半額でした。 サンタフェトレイルとヒカリージャ・アパッチ戦争(ニューメキシコ北部) 最初の大陸横断鉄道が開通したのは1869年。アメリカでは、1830〜60年代に50万人の開拓者がロッキー山脈の西を目指し、幌馬車で隊列を組み移住して行ったものです。セントルイスから船でミズーリ川を5〜6日かけて上り、スタート地点のインディペンデンス(現在のカンザスシティ)で、4〜5ヶ月分の食料と家畜を買い揃えました。 === サンタフェトレイル === オレゴントレイルやカリフォルニアトレイルのことは以前に詳しくご案内しましたが、もう一つ、ニューメキシコやアリゾナ経由で南カリフォルニアに向かう開拓者には、サンタフェトレイルという街道がありました。 サンタフェトレイルは、1540年に最初のスペイン探検隊が帰りにたどったルートとほぼ同じです。メキシコ独立の1821年に時を合わせ、当初はメキシコへの通商路として開拓されました。終点のサンタフェで、スペインが整備した王の道(El Camino Real)へと接続し、そのまま南下して行けば首都メキシコシティ…これは、正に米墨戦争で米軍が進撃するルートとなりました。 アパッチ族はメキシコと対立していましたから、米墨戦争では米軍に協力し領地の安全な通行を保証してくれました。アメリカは、1846年にニューメキシコを制圧後アパッチ族とただちに平和条約を締結しましたが、議会が手間取り批准手続きが進みません。もともと危うい信頼関係でしたから、すぐにほころびが出ました === ヒカリージャ・アパッチ戦争(1849〜55年) === 1849年からサンタフェの手前ヒカリージャ(Jicarilla)・アパッチの領地で、開拓者の幌馬車や郵便配達が襲われ、時には虐殺される事件が相次いで起こるようになります。ヒカリージャ・アパッチと仲間のユート族の仕業でした。 1854年3月、盗まれたウシを取り戻すために派遣された60名の騎兵隊が、命令を逸脱しインディアンの宿営地を襲いました。しかし、逆に250人の戦士に待ち伏せされ、ほぼ全員が戦闘で死傷してしまいます。騎兵隊の完敗でした。 そして約10日後、騎兵隊は隊員を200名に増員し、さらに歩兵100名とインディアン斥候32名を従えて報復戦に臨みます。そこで遭遇したのは先日とは別グループのインディアンでしたが、かまわず150人の戦士を蹴散らしました。今度は、米軍は無傷の完勝。インディアンは宿営地を失い、厳しい寒さの下で多くが落命したといわれています。この後、インディアンの襲撃は下火になっていきました。 ユマ戦争とガズデン購入(コロラド川の中〜下流) サンタフェから南カリフォルニアに向かうには、リオグランデ川沿いに王の道を下り、ヒラ(Gila)川南岸のメキシコ領を通って、最後にユマ族の領地でコロラド川を渡らなければなりません。そこで、ユマ族はフェリーの渡し場を設け開拓者の渡河を助けるビジネスを始めました。 === ユマ戦争 (1850〜53年)=== ところが、1850年の初めにグラントン一家という13人のギャングがやって来て、フェリーを奪われてしまいました。さらにギャングは、インディアンも旅の途中の開拓者も、誰彼かまわず襲って奪う殺すの乱行を働きました。ユマ族は報復攻撃で9人を殺害しましたが、カリフォルニアに4人が逃亡するのを許してしまいます。 カリフォルニアはギャングの訴えを聞き届け、4月に142名の民兵を募りヒラ川遠征部隊を派遣します。しかし、民兵といっても、金の探鉱で一攫千金をねらい移住してきた人々ですから戦争なんて上の空。士気は低く、インディアンとの小競り合いに負けて、9月にはスゴスゴと帰ってきました。その月はカリフォルニアが州に昇格した記念すべき月でしたが、失敗に終わった遠征の戦費のせいで、新州は財政破産寸前の状態から始まりました。
結局、後始末には連邦陸軍が乗り出し、あらためてユマ族との講和が成立し、翌1851年2月に、フェリーの渡し場を白人ギャングや他部族から守る砦も築かれます。しかし、その講和も、ユマ族の長老たちが一枚岩ではなかったところに落とし穴がありました。10月には強硬派が主導権を取って砦を襲撃、守備隊は撤退を余儀なくされます。 その後、カリフォルニアではカウイヤ族の蜂起でサンディエゴが脅かされる事件が起き、本格的なユマ族討伐作戦に取りかかれたのは翌1852年2月でしたが、陸軍はコロラド川を遡上してユマ族の村々を破壊、追いつめられたユマ族は10月に和平派が再び強硬派を押さえ降伏を申し出ます。平和条約も、1853年春に調印されました。 === ガズデン購入(1853年) === この1853年には、開拓者の道中の安全を確保するもう一つの大きな成果が得られました。米墨戦争直後のメキシコ領の購入では買い残していたヒラ川の南岸を、購入することができたのです。これをもって現在のアメリカの国境線が南でも確定し、米軍が開拓者の幌馬車をインディアンの襲撃から守れるようになったのです。 この地域は、メキシコ政府と交渉に当たった駐メキシコ大使ジェームズ・ガズデンの名を取って「ガズデン購入」と呼ばれるようになりました。アリゾナ州トゥーソンとOK牧場の決闘で有名なトゥームストーンの町も含まれています。 トゥームストーンは、付近のタフナット銀山に人々が殺到してできたブームタウンです。アリゾナ州南東部で銀が採れることはスペイン領時代から知られていましたが、町の名は、1877年に銀の大鉱脈を発見した男が、かつて仲間に「こんな所じゃ、自分の墓石くらいしか見つからないさ」と嘲笑された故事を懐かしんで名づけたものです。 1890年までにタフナット銀山では、累計40〜85百万ドル(現在の価値で10〜22億ドル)の銀を産出したと推定されています。町の人口は一時1万4千人に達したそうですが、OK牧場の決闘があった頃はおそらく4千人前後だったものと思われます。 === モハベ戦争(1857〜58年) === ユマ族との講和はなっても、コロラド川東岸の諸部族との紛争は、まだ続きました。1857年に、新たにアリゾナ中部を東西に横断してコロラド川の浅瀬を渡り、カリフォルニアに入るルートが切り開かれました。しかし、そこはモハベ族の領地…二組目にやって来た開拓者の一行が、幌馬車を載せるイカダ作りに、インディアンが住居や衣服の材料にする大切な木を伐採してしまいます。そこで、怒ったモハベ族が、上流のワラパイ族とともに開拓者を襲撃しました。モハベ戦争は翌1858年まで続きました。 === ワラパイ戦争(1865〜70年) === モハベ戦争でモハベ族に加担したワラパイ族は、さらにコロラド川をさかのぼったグランドキャニオン西部の南岸に暮らしていた部族です。ワラパイ族の領地にも金に魅せられた探鉱者が多数入り込むようになり、1865年に、今度は周辺のヤバパイ族とウェスタン・アパッチを巻き込み、ワラパイ戦争が起こりました。しかし、1868年には赤痢と百日ぜきが流行り、大方のワラパイ族は降伏して白人の指示に従い居留地に移住します。最後の一人が抵抗を止めた1870年までに、ワラパイ族の人口の1/3が失われたといわれています。 ウェスタンアパッチとヤバパイ戦争(アリゾナ州中部〜東部) 西部劇に興味がなくても、何となく有名なジェロニモ酋長の名前をご存じの方も多いことでしょうが、ジェロニモはニューメキシコ南東部を本拠としていたチリカウア・アパッチの戦争の1880年代のリーダーです。 一言でアパッチ戦争といえば、チリカウア・アパッチの戦争と考えていいかもしれません。1860年に始まり、ジェロニモが降伏した1886年を一区切りに、見方によっては1924年まで続いた大戦乱で、史上最後のインディアン戦争となりました。 そんな訳で、時代の順序が前後することもありますが、取敢えずチリカウア・アパッチの戦争と並行して周辺で起きた三つの戦争(ヤバパイ戦争・ナバホ戦争・ユート戦争)から先にご案内したいと思います。 === ヤバパイ戦争(1871〜75年) === ヤバパイ族はユマ・モハベ・ワラパイと同じ言葉を話す仲間ですが、行動面では白人が混同するほどアパッチ族とよく似ていました。ヤバパイ族とウェスタンアパッチは隣り合って、コロラド高原の裾野の丘陵地帯に住んでいました。しかし、アリゾナでは比較的雨の多い地域とはいえ、集落を作って定住し農業で食べていけるほど肥沃な土地ではありません。 狩猟採集と原始的な農業で得た食料が不足すると、そのたびに小集団で移動を繰返し、時に開拓者を襲うこともありました。部族内の横のつながりが弱いので、一挙に殲滅したり交渉したりすることが難しい点も、インディアン戦争の前線の司令官泣かせでした。
一方、当時のアリゾナ最大の町トゥーソンの経済は、インディアンを懐柔するための連邦政府の援助物資でうるおっていました。しかし、10年来のチリカウア・アパッチの戦争もいったん峠を越えた時代で、商人にとっては、このまま平和が訪れては困ります。再び緊張を高め、連邦政府の危機感をあおるために、根も葉もないインディアンの襲撃事件をねつ造する者さえ現れました。 === グラント駐屯地の虐殺(1871年) === 1871年初め、トゥーソンから50マイル(80km)北の駐屯地の付近に、約500人のウェスタンアパッチが移動してきて友好的におとなしく暮らしていました。駐屯地の司令官は、インディアンの酋長にトゥーソンから遠く離れるように警告したのですが間に合わず、4月に悲劇が起こってしまいます。 トゥーソンの元市長を含む6人の白人がメキシコ人48人とインディアン98人を率いてウェスタンアパッチを襲ったのです。付き従ったインディアンは、ヤバパイ族とは別の言語を話す仲間で、主にヒラ川の南岸に住むパパゴ族…ピマ族とともに、かねてよりアパッチ族と敵対していました。 男たちは狩りに出て留守中で、144人の婦女子が殺され、29人の子供が奴隷としてメキシコに売られました。10月に加害者らは殺人罪で起訴されますが、公判ではわずか19分の陪審の審議で無罪の評決が下されてしまいます。 === ウィッケンバーグ虐殺事件(1871年) === さらなる白人の襲撃を恐れ、トゥーソン付近のウェスタンアパッチは、先祖伝来の地を捨て、ヤバパイ族が住むアリゾナ中央部のトント盆地(フェニックス北方100マイル)に避難しました。しかし、怒りは収まりません。ヤバパイ族とともに、周辺で白人に反撃を開始しました。 この時点では、アメリカの世論はインディアンに同情的でした。ところが、11月にフェニックス北西のウィッケンバーグで、駅馬車がヤバパイ族に襲われ6人が射殺される事件が起こります。犠牲者の中にボストン出身の新進気鋭のジャーナリストがいたために、世論はインディアン討伐論に一転してしまいました。 === ソルトリバー・キャニオンの戦い(1872年) === そこで、グラント大統領はトント盆地のインディアン掃討を命じます。1872年12月、軍はフェニックス東方のソルトリバー・キャニオンの断崖の洞窟に、ウェスタンアパッチの襲撃拠点を見つけて包囲しました。洞内には婦女子を含む110人のインディアンが立てこもっていましたが、投降を拒否。洞窟は一斉射撃の末に崩れ、76人が死亡しました。 === タレットピークの戦い(1873年) === 続いて1873年3月には、白人を襲撃したインディアンを隠れて追跡し、ヤバパイ族の本拠トント盆地のタレットピークを急襲。未明の小集落は大混乱に陥り、あわてて崖から飛び下りる者もいて57人が死んだそうです。 これら2つの戦いでヤバパイ族の士気は急激に衰え、翌4月に降伏します。その後1875年にアリゾナ南東部のアパッチ族の居留地に強制移住されるまでをヤバパイ戦争と呼んでいます。 ナバホ戦争(フォーコーナーズ地方)
ナバホ族は、アパッチ7支族(ほかにチリカウア、ウェスタンアパッチ、メスカレロ、ヒカリージャ、リパン、平原アパッチ)の一つですが、生活スタイルが独特で、かつては別に分類されることが多かったようです。 というのも、ナバホ族はプエブロの人々から農業技術を教わり、定住してトウモロコシや豆類やカボチャを栽培するようになっていたからです。 スペイン人が来てからはヒツジやヤギの牧畜を始め、肉は食用に供し、羊毛は交易用に織って絨毯や毛布に加工し、バッファローの肉や皮を手に入れていました。右の写真のように、芸術性の高いものです。 == メキシコ領時代(1821~48年) == プエブロは、17世紀末以来スペインと折り合って暮らしてきたので、支配者がメキシコやアメリカに替わろうと、暮らしに大きな変化はなかったようです。 でも、ナバホ族の運命は全く違いました。メキシコがスペインから独立して間もなく、ニューメキシコの県知事は、ナバホ族にキリスト教に改宗し、プエブロのような集落に住みよう求めます。しかし、ナバホ族はこれを拒否して、逆に周辺の町を襲い14人が殺されました。 そこで、知事は1500人の討伐隊を派遣し、74日間の遠征でインディアン33人を殺し約30人を捕虜にします。怒ったナバホ族は、仕返しに再び周辺を襲い、今度はアルバカーキや県庁サンタフェの郊外にも迫りました。以降、メキシコ領時代を通じ、メキシコはナバホ族の捕虜を奴隷とし、ナバホ族はメキシコの町を襲って仲間を取戻し、ついでに家畜を掠める敵対関係が続きました。 === ニューメキシコ暫定政府の遠征(1849年) === 米墨戦争が始まった1846年、アメリカは、長老のリーダーシップで、取敢えずナバホ族と平和条約を結ぶことができます。しかし、若者たちは取決めに従わず、相変わらず周辺の町を襲い家畜を掠め続けました。 1849年、ニューメキシコ暫定政府(翌年に準州に昇格)の軍政長官は、1千人の民兵と4門の大砲を従えてナバホ族威圧の遠征に出ます。隊員がナバホ族のトウモロコシ畑を荒らすトラブルが起きましたが、損失は米政府が補償すると言いわけして切り抜け、何とか平和条約の話し合いを持つことになりました。 しかし、協議の席で、隊員の一人が自分の盗まれたウマを見つけナバホ族と取っ組合いの喧嘩を始めます。挙句に、軍政長官が発砲を命じ、リーダーの長老を含む7人が射殺されてしまいました。 === ディファイアンス砦(1851年〜) === さて、ディファイアンス砦を訳すなら「公然たる反抗⇒喧嘩を売る」砦?インディアンの土地に築くには露骨にきな臭い名前の砦ですが、同名の砦は各地にあり全く珍しくありません。とはいえ、今回登場する砦は、北西インディアン戦争でオハイオにウェイン将軍が築いたディファイアンス砦と並んで特に有名です。 現アリゾナ州北東部でニューメキシコ州境のディファイアンス砦は、1851年に、乾燥して草木の少ないナバホ族の領内では非常に貴重な家畜の放牧地を、インディアンから取り上げて築かれました。正に「喧嘩を売られた」形のナバホ族は、その後、アメリカと決定的に対立することになります。 例えば、1857年の夏に、フォーコーナーズ一帯を厳しい干ばつが襲ったことがありました。その冬、ナバホ族は飢餓に見舞われますが、この時代のこの地域では"泣きっ面にハチ"…弱体化したチャンスを逃さず、プエブロやユート族など周辺部族の襲撃が激化します。困ったナバホ族は、砦の周囲の放牧地を返すよう頼みますが、砦の兵は逆にナバホ族のウシやウマ数十頭を射殺。ナバホ族は仕返しに砦の指揮官の使用人を殺害、砦はナバホ族に犯人の引渡しを要求…という具合に、その都度、小さな衝突が軍事衝突にエスカレートしていきます。 1860〜61年にも、メキシコ系住民や周辺部族を巻き込む激しい応酬がありましたが、南北戦争が始まり、米軍はディファイアンス砦をいったん放棄します。その結果、ニューメキシコでは、1862年に3万頭のヒツジがナバホ族とその他アパッチ族に盗まれたといわれています。 === キャニオン・デ・シェリーの戦い(1864年) === ニューメキシコ準州は、各地のゴールドラッシュに刺激され、ナバホ族の土地にも金銀が眠っていると期待しました。そこで、南軍をテキサスに追いやって間もなく1863年、ナバホ族に300マイル(約500km)も先のメスカレロ・アパッチの居留地へ移住するよう命じます。 その上で、最後通牒を無視したナバホ族に対し、容赦ない焦土作戦を実行しました。作物も家畜も住居も全て残らず焼き尽くしたのです。 指揮に当たったのは荒野開拓家のカーソン大佐。カリフォルニアトレイルのサクラメント・ルートを切り開いたことや、ヒカリージャ・アパッチ戦争で拉致された婦人の救出作戦を託されたことで知られていました。
1864年1月、最後にナバホ族が頼った本拠キャニオン・デ・シェリーは(Googleマップ フォトツアー@・A)、コロラド高原に刻まれた大地の溝で自然の要害です。しかし、カーソン大佐の部隊は雪の中を谷間の東西から挟み撃ちし、宿営地を次々に破壊。戦士は岩山の頂上に立てこもり戦いを続けようとしましたが、厳寒の下で糧食も十分ありません。一部は各地に四散して逃げ、残る8〜9千人のナバホ族が夏までに投降しました。一度に投降した人数としては、300年のインディアン戦争史上でも最大です。 === ナバホのロングウォーク(1864年) === 老人や婦女子も含め、投降した人々を待ち受けていたのは「ナバホのロングウォーク」と呼ばれる徒歩18日500kmの強制移住でした。春といってもまだ雪が降る3月早々に、50組に分けられナバホのロングウォークは始まりました。衣類も履物もすぐにボロボロになり、寒さに凍えて死ぬ者もいました。リオグランデ川の渡河で流されたものも合わせて、少なくとも200人が死んだと伝えられています。 しかし、移住後にはさらなる問題が控えていました。定員5千人の想定で設けられた居留地は、仲の悪いメスカレロ・アパッチ400人と合わせ、計1万人近くが暮らしていける環境ではなかったのです。水はまずく林は小さく、飲料水や薪の不足が最も深刻でした。トウモロコシは害虫にやられ、毎年不作が続きました。ピコス川の氾濫で、灌漑用の水門も壊れてしまいました。 1865年には、早くも居留地を離れる者が出てきました。1867年には、居留地に残ったナバホ族も、トウモロコシの作付をしなくなりました。コマンチ族が居留地を襲い、ついにナバホ族もコマンチ族や開拓者を襲うようになります。 多額の予算が費やされましたが、西部で最初にできた居留地はこうして失敗に終わりました。1868年、連邦政府はナバホ族と新条約を結び、ナバホ族は元の土地に戻り平和に暮らす前提で、子供の就学や必要な農業支援を受けることになりました。帰りのロングウォークは全員が一団となって歩いたために、その長さは10マイル(16km)に及んだそうです。 ユート戦争(ユタ州中部〜南部) 第94号の「オレゴントレイルとゴールドラッシュ」の記事で書きましたが、ユタ州北部には、1847年からモルモン教徒が集団で移住を始めていました。 一方、ユタ州の西半分はグレートベースン(大盆地)は太古の氷河湖が干上がった草木が育ちにくい地域ですが、その東には灌木が茂る山地が南北に縦断しています。そこに暮らしていたのがユート族、インディアン語で「山の民」と呼ばれる部族が暮らしていました。 アパッチ族とは近縁性があり、南部ではヒカリージャ・アパッチ戦争(1849~ 55年)に手を貸して戦いましたが、ユート族の主敵は何といっても、北から領地に侵入してきたモルモン教徒でした。 しかし、当時のモルモン教徒は一夫多妻で、異端宗派として各地で迫害を受け新天地に逃げてきた人々です。連邦政府は、モルモン教徒が反乱を起こし、ゴールドラッシュに沸くカリフォルニアへの街道が寸断されることを恐れていました。1857~58年には互いの不信が頂点に達し、実際に武力衝突(ユタ戦争)が起きたほどです。 そこで、連邦政府、モルモン教徒、ユート族の間に三つどもえの関係が生じ、特に1850年代半ばまでは、むしろモルモン教徒とユート族の蜜月ぶりが目立つ時代があったのです。 === ワルカラ戦争(1853〜54年) === ユート族のワルカラ酋長は、ソルトレイクシティ南方のユタ・バレーを拠点に、パイユート族やショショーニ族の戦士を誘い一味で西部各地の牧場や旅人を襲っていました。1840年には南カリフォルニアに遠征し、(一説によれば)6千頭ものウマを盗んだ馬泥棒として悪名をとどろかせています。
アイザック・モーリー率いるモルモン教徒の一団は、ユタ・バレーに招かれて布教に努めました。1949年の冬に麻疹(はしか)が蔓延した際には、献身的な介護でインディアンを助け、感謝したワルカラはモルモン教の洗礼を受けます。 しかし、次第に連邦政府とモルモン教徒の緊張が高まり、連邦政府軍がユート族の領地を取り巻いて備えるようになると、ワルカラ一味の略奪行為も巻き添えを食って、やりづらくなってしまいました。1853年に不満を募らせた一味とモルモン教徒の間で殺し合いが起きました。 戦いは、モルモン教の指導者ブリガム・ヤングとワルカラの信頼関係でいったんは円満に収まりましたが、ワルカラ死後の1856年には干ばつが起き、牛泥棒をきっかけに抗争が再発してしまいます。 === ユート・ブラックホーク戦争(1865〜72年) === ブラックホーク戦争といえば、1828年にソーク族のブラックホークがイリノイ北部で蜂起した戦争が有名ですが、こちらはユート族のブラックホーク酋長がユタ南部のインディアンをたばね、1865年から長期にわたり、モルモン教徒と一般開拓者を相手に約150の戦闘を重ねた戦争です。 この時代になると、モルモン教徒の数はユタ北部のユート族の狩猟地を埋め尽くすほどに増えていて、ワリを食った一部のインディアンは食糧難に直面していました。もともと私有財産の概念のないインディアンにとって、盗みや略奪は単に狩猟の一種類で、罪の意識は希薄なのかもしれません。しかも、インディアンの立場で考えれば、白人は常にインディアンをだまして土地を奪ってきました。白人を追い出すなら、生活の糧の家畜を奪い、あきらめて出て行ってもらうのが平和的で最も手っ取り早い方法です。 大戦争の発端は、1865年4月に牧場から15頭のウシが消えた些細な事件だったともいわれています。和解交渉の席で、開拓者側がウシの損害賠償を求めたのに対し、インディアンのひとりが天然痘で死んだ親族の命の補償を要求したのだとか…。そして、まもなくブラックホークの襲撃が始まります。1865年だけでも、計32名の白人が殺され2千頭の牛馬が盗まれました。 6月、モルモン教の指導者ブリガム・ヤングはインディアンの酋長を集め、金銭給付と引き換えに、ユタ北東部のユインタ盆地に移住するよう要求します。大方の酋長は同意しましたが、肝心のブラックホークは欠席し、ブラックホークの父親も調印を拒否しました。その後ユタ中央部ではブラックホークの襲撃をおびえる日々が2年にわたって続き、翌年には、全ての開拓者が家畜とともに5ヶ所の砦に避難する事態になります。 しかし、戦いで負った傷が癒えず、結核にもかかっていたブラックホークは、ついに和平交渉に応じました。ブラックホークらが盗んだ家畜を買い取り横流ししていた無法者も捕えられて射殺され、ユタ中央部に平和が戻ります。ユインタ盆地へのインディアンの強制移住も、1872年に完了しました。 === ホワイト川戦争(1879年) === 1879年のホワイト川戦争は、コロラド州の北西部で起きました。元来、ユート族は平原インディアンのように騎乗戦闘が得意で、ウマに特別な執着のある部族です。ところが、インディアン監督官のミーカーは、ユート族にむりやり農業を教え、しかもキリスト教に改宗させようと理想に燃えていました。しかし、両者の論争が簡単に折り合うわけもなく、悩んだミーカーはインディアン監督局に支援を求めました。 監督局が約180名の騎兵を派遣すると、ユート族がホワイト川の高所に陣取って侵入を阻んでいます。双方とも戦う意思はありませんでしたが、一発の誤射がきっかけで戦闘が起きてしまいました。数ではユート族が劣勢でしたが、騎兵隊は地の利を取られた上に銃弾も不十分で、指揮官ほか13名が戦死、40名以上が負傷というまさかの敗戦でした。その間に、インディアンの別動隊は居留地に戻ってミーカーと10名の使用人を殺害しました(ミーカー虐殺事件)。 ホワイト川に残った騎兵隊は、死んだウマや馬車でバリケードを築き立てこもりました。斥候が抜け出て助けを求め、1週間後に援軍が到着します。ユート族は降伏し、その後1882年にユタの居留区に移住させられました。 第一次チリカウア・アパッチ戦争(1861~74年)(アリゾナ・ニューメキシコ南部州境一帯) 分かりやすく二つに分けて書きましたが、通常は、後段のビットリオとジェロニモの戦争を合わせて、チリカウア戦争というようです。"第一次"のリーダーはピノスアルトス山地が本拠のマンガス・コロラダス酋長とトゥーソン南方が本拠のコチース酋長で、戦争が始まった1860年には、それぞれ67歳と56歳。ビクトリオとジェロニモは、それぞれ35歳と31歳でした。 === 不安定な平和(1846~60年) === メキシコ領時代には、政府がアパッチ族の首に懸賞金をかけるほど険悪で、マンガス・コロラダスの前任も賞金稼ぎに殺られました。アメリカとは、1846年に米墨戦争で領内を通る米軍の安全を保証し、その後に平和条約に調印したことは前にも一度ご説明しています。 おかげで戦争は起きていませんが、その間、アパッチ族の襲撃も開拓者の仕返しもなかったわけではありません。1857年にも、一触即発の危険な時期がありました。 最初の事件は3月。ニューメキシコ南西部のピノスアルトス山地で、チリカウア・アパッチ族の馬泥棒8人が騎兵隊に追跡され、うち6人が殺されます(クックススプリングの戦い)。同じ頃、トゥーソンの南では、ウェスタンアパッチに拉致された婦人が雪の中に放置され、奇跡的に自力で生還する事件も起きました。 5月に800人の討伐隊が結成され、3月の事件現場の近くで、ヒツジ2000頭を盗んで飼っていたアパッチ族の集団を見つけ懲らしめます。さらに6月末にはアリゾナに進軍し、前年に連邦政府のインディアン監督官を殺した容疑者を殺害しました。 === ミンブレス川の戦い(1860年) === 1860年、カリフォルニアで夢をかなえられなかった男たちが、ピノスアルトス山中で水を飲もうとして金を発見しました。そうなると、アパッチ族領内に金の探鉱者が続々とやって来ます。もともと不安定な平和の均衡が、ついに崩れてしまいました。 12月4日未明、武装した30人の探鉱者がマンガス・コロラダスの宿営地を急襲しました。家畜を盗まれた仕返しです。しかし、インディアンの返り討ちに遭って4人が死亡、13人の婦女子が捕えられてしまいました(ミンブレス川の戦い)。 === バスコム事件(1861年) === 同じ1860年、3月に婦人が拉致された現場から遠くないトゥーソンの南…ブキャナン砦のすぐ近くで、12歳の少年がウェスタンアパッチに誘拐されました。少年は、その後インディアンのもとで戦士として育てられ、ヤバパイ戦争ではアメリカ側に協力して下士官最高位の曹長にまで出世しました。 しかし、ブキャナン砦の指揮官バスコム中尉は、犯人がチリカウアアパッチだと思い込み、翌1861年1月にコチースを呼びつけて問いただしました。身に覚えのないコチースは何とか逃げ出しましたが、同行した兄弟家族が人質にされてしまいました。 2月、コチースはあらためて兄弟家族の開放を求めましたが、バスコムは「少年を返せ」の一点張りで聞きません。翌日、コチースは開拓者3人を捕虜に取り人質交換を申し入れますが、それでも駄目。その翌日には、バスコムの部下を捕えて人質交換を申し入れますが、やはり駄目。 結局、コチースはバスコムの部下を殺し、バスコムはコチースの兄弟家族を処刑…この事件でチリカウア・アパッチの反米感情は決定的になり、史上最大のインディアン戦争が始まりました。 === 南部同盟アリゾナ準州(1861年) === ちょうどそれは、合衆国から脱退した南部の奴隷諸州が南部同盟を樹立した時期に当たっていました。4月には、サウスカロライナの交戦を皮切りに南北戦争(1861〜65年)が始まります。ニューメキシコ準州にも、大きな影響がありました。 もともとサンタフェからリオグランデ川沿いに南に下る道には100マイル続く砂漠の難所があり、州都サンタフェから準州南部を統治するのは難しいという議論がありました。1856年には準州南部の住民がトゥーソンに集まって、南北二分割を決議。嘆願が連邦議会に持ち込まれましたが、結果は人口不足を理由に否決。本当は、南北分割により、奴隷州の数が増えることを懸念したものといわれています。当時のアメリカの政治は、奴隷州と自由州の数の勝ち負けでおおもめにもめていたのです。 1860年7月、待ちくたびれた住民は、新準州の憲法草案を採択し初代知事を決めて代表団をワシントンに送りましたが、連邦議会が認めてくれません。そこへ南部同盟ができたのですから、正に渡りに船です。 新準州の臨時政府は1861年3月に合衆国を脱退を宣言、7~9月の戦いで領内から北軍を追い出しました。翌1862年2月には、南部同盟もアリゾナ準州の加盟を承認します。 === 南北戦争三つどもえの戦い(1861〜62年) === チリカウア・アパッチにとって、南軍も北軍も敵に区別はなかったでしょう。おかげで1861~62の2年間は、インディアンと南軍・北軍が入り乱れて戦う複雑な状況が起こりました。 前もって一つご注意いただきたいのは、当時は最大の町トゥーソンでさえ人口が千人に満たなかったことです。したがって、新準州の兵力も微々たるものだったに違いありません。
チリカウア・アパッチは、1861年8~9月に各地で次々と100人規模の襲撃をかけ、成果を上げていました。しかし、マンガス・コロラダスとコチースの2組の戦士300人を動員したピノスアルトス金山襲撃の失敗が転機となります。金山側はわずか15名の民兵が頑強に抵抗し、チリカウア・アパッチ側は30人の死傷者を出し、退却を余儀なくされたのです。その後の戦いでは、規模を縮小してゲリラ攻撃を繰り返すようになります。
1862年には、戦局が一変します。南軍・北軍ともに、ニューメキシコの外から大規模な兵力が投入されました。南軍関係では、合衆国陸軍のシブリー少佐が、南部同盟の西部テキサス騎兵旅団2510名の司令官に転じ、まずサンタフェを陥れようとリオグランデ川を北上しました。最終的な南軍のねらいは、コロラドの金山とカリフォルニアの港に通じるルートの確保です。 北軍の司令官は、シブリーが前年5月までディファイアンス砦(ナバホ戦争ご参照)仕えていた指揮官のキャンビー大佐。緒戦のバルバーディの戦いでは元部下に敗れますが、翌3月にはサンタフェ近郊のグロリエッタパスの戦いに勝ち、南軍の補給物資を根絶やしにしました。西部テキサス騎兵旅団はニューメキシコから撤退し、南軍の壮大な夢も、いとも簡単に潰えました。 北軍関係では、カリフォルニアで2350名の連隊が組織され、前年まで駅馬車が行き来していた街道を東に進軍しました。乾燥地帯を大軍が移動するのに欠かせない大量の食料を、北軍のスパイが前もって街道沿いに備蓄していたのです。 ところが、南軍もさるもので、街道の駅に先回りして北軍が用意した家畜用の干し草を焼いてしまいます。そのため進軍は遅れましたが、大きな衝突もなくトゥーソンは5月に無血で攻略することができました。南軍は既に撤退していたのです。 しかし、カリフォルニア連隊の真の敵は南軍ではありませんでした。7月に先導役の分遣隊138名が、アパッチパス(峠)でインディアンの戦士500人の奇襲攻撃を受けたのです。状況は最悪でしたが、幸い携えていた2門の榴弾砲が威力を発揮、アパッチ側に66人の戦死者を出す大損害を与え、その場を切り抜けることができたとされています。 8月にカリフォルニア連隊が南部同盟の州都メシージャに着いたときには、アリゾナ準州の政府はテキサス州サンアントニオに退去して亡命政権となっていました。隊員の多くはその後も残って、南軍の反攻に備えます。1863年2月には、連邦議会で、ニューメキシコを南北に区切りアリゾナ準州を新設する法案が通過しました。 === マンガス・コロラダスの死(1863年1月) === マンガス・コロラダスは、1863年1月に白旗を掲げてカリフォルニア連隊の砦を訪ね、休戦を申し出ました。しかし、指揮官の命令でその夜のうちに処刑され、首は切断してゆでられた上、ワシントンのスミソニアン博物館に送られたとか。この事件でチリカウア・アパッチの敵意は一層あおられ、特にコチースの地元アリゾナ南西部では、いつまでも開拓者への襲撃が続きました。 鉱山の町モーリーでは、1863~65年の3年間に少なくとも16人の住民が殺害されています。1865年には付近のブキャナン砦が奪われ、破壊されました。もちろん、カリフォルニア連隊も黙ってはいません。1864年にはチリカウア・アパッチの宿営地を襲って21人を殺害。1ヶ月後の報復攻撃も迎え撃ち、逆に30人を死傷させています。 コチースは、1872年に白人の友人を通じて講和を申し入れました。1874年に、居留地で病気により死亡しています。コチースの戦いの様子は、1848年のジョン・フォード監督制作の映画"アパッチ砦"にも描かれています。 第二次チリカウア・アパッチ戦争(1879~86年)(脱走インディアンの戦争) 300年にわたるインディアン戦争も、1870年代には大方の片が付いてきました。1875年のコマンチ族降伏と1877年の大スー族戦争の終戦で、銃と騎乗の技術に長けた平原インディアンの時代は終わりました。同じ1877年に、アイダホではネズパース族がカナダへ逃避行を試みましたが、国境を目前に降伏しました。旧メキシコ領でもユート族は、ブラックホーク戦争の末、1872年にユインタ盆地の居留地に収容されています。 === アパッチ族の居留地 === アパッチ族関係では、1862年に設けられたメスカレロ・アパッチのフォート・サムナー居留地が初の居留地でしたが、ここにはナバホ族8千人を強制移住させて失敗。ナバホ族は、1868年に先祖伝来の地をほぼそのまま居留地と追認されて、帰還します。 1873年には、メスカレロ・アパッチも新居留地に移りました。ウェスタンアパッチに対しては1872年にサン・カルロス居留地を設け、1891年にはホワイトマウンテン系が多い北半分をフォート・アパッチ居留地として分離しました。以前に比べて狭く不自由になったとはいえ、それぞれの部族の勝手知ったる故郷の一角に居留地が設けられたのですから、あまり文句は言えません。 平原アパッチはコマンチ族やカイオワ族とともにオクラホマの居留地。リパン・アパッチはメキシコのチワワ州に逃れた人々を除き、メスカレロ・アパッチやウェスタンアパッチの居留地に移住しました。ヒカリージャ・アパッチに至っては、1873年に代表をワシントンに送り居留地開設の陳情をしたほどですから、この時代のインディアンは、既に居留地定住の運命を受け入れていたものと見ていいでしょう。 === サン・カルロス居留地 === そんな中、チリカウア・アパッチだけが80年代まで抵抗を続けたのは、居留地への不満が特に大きかったからです。 チリカウア・アパッチは、ニューメキシコ西部とアリゾナ南西部からメキシコのソノラ・チワワ両州にかけての山あいで暮らしていました。住む場所により、4グループに大別されます。マンガス・コロナダスとコチースはそれぞれ、チヘネ系とチョコネン系の指導者でした。 1871年に設けられたチヘネ系の居留地は標高が高く、寒すぎて暮らしていけませんでした。トラブルが相次ぎ、1874年にあらためて、昔から住んでいた地域の中にオホ・カリエンテ居留地が開設されます。
チョコネン系の場合は、コチースが降伏した1872年に、広々とした居留地が地元ドラグーン山地周辺に与えられました。しかし、2年後にはコチースが死亡、さらにその2年後の1876年には、あっさり廃止されてしまいます。 この居留地は、サンフランシスコとニューオリンズを結ぶサザンパシフィック鉄道の予定路線でした。1877年時点で、レールはアリゾナの西の入口のユマまで延びてきます。トゥーソンーエルパソ間は1881年に開通しました。 オホ・カリエンテ居住地も、翌1877年に閉鎖されてしまいます。それぞれの居住地のインディアンは、1872年にウェスタンアパッチのために設けられたサン・カルロス居住地に移住させられます。しかし、サン・カルロスは砂漠地帯でチリカウア・アパッチの住環境とはかけ離れていました。作物は育ちにくく、武器は没収されて狩猟もできません。しかも、隣組のウェスタンアパッチとは仇敵同士です。 そこで、サン・カルロス居留地を脱走し、各地で襲撃騒ぎを起こすヒリカウア・アパッチが後を絶たなくなります。この人たちのことを、英語ではレネゲード(脱党者=renegade)と呼んでいますが、それでは意味が分かりにくいので、私は"脱走インディアン"と表すことにしました。"脱走インディアン"集団は数多く存在したはずですが、今日では、先陣を切ったビクトリオと、最後を飾ったジェロニモの二人が率いた集団が特に有名です。 === ビクトリオの戦争(1879~80年) ===
ビクトリオは、オホ・カリエンテを本拠とする部族の指導者でした。サン・カルロス居留地に移住したのもつかの間で一族を率いて脱走したものの、ナバホ族に道を妨げられて逃げおおせません。捕虜として、今度はメスカレロ居留地があるスタンドン砦に連行されました。 それから2年、1879年になっても待遇は捕虜のままで、オホ・カリエンテ居留地が復活する兆しも見えません。しびれを切らしたビクトリオは、8月末に宣戦を布告。婦女子を含め200人の一族を連れ再び脱走しました。 そして、オホ・カリエンテに戻ったビクトリオは、9月4日に出くわした偵察隊の兵士5名を殺し、約50頭の軍馬を手に入れます(オホ・カリエンテの戦い)。その報を聞き、新たに脱走し仲間に加わる者もいて、ビクトリオの集団は数を増やしました。 ニューメキシコと西部テキサスの騎兵隊が総がかりで追跡しましたが、ビクトリオの集団は山中に身を隠し、容易に姿を現しません。18日には騎兵隊75名がビクトリオの宿営地を見つけて交戦しましたが、地の利を生かした反撃に一矢を報いることさえできませんでした(ラスアニマス・キャニオンの戦い)。 任に当たった第9と第10騎兵隊は、テキサス・インディアン戦争でも活躍した黒人のみで組織された部隊…「バッファロー・ソルジャーズ」の別名を持っていました。 一方、インディアンには国境を越えてメキシコに逃亡する奥の手があります。たまには騎兵隊がメキシコとの紛争のリスクを冒して追撃してきますが、そんな時にも、地の利は一層インディアンに味方します。ビクトリオの集団はニューメキシコ各地で開拓地を襲い2ヶ月暴れ回った末にメキシコに越境し、婦女子に骨休めの機会を与えるかたわらでメキシコの村落を襲いました。 翌1880年にはアリゾナやメキシコから新しい仲間も加わり、ビクトリオの集団の行動範囲も広域化します。4月6日、メスカレロ居留地からホワイトサンズの大砂丘を隔てて西に100kmの丘陵地帯で、インディアンと第9騎兵隊が交戦…騎兵隊は1日の戦闘で渇いたのどを癒しに泉に下りてきた所を狙い撃ちされてしまいます(ヘンブリージョ盆地の戦い)。28日には、アリゾナ州境に近い銀山で41人の開拓者を殺害しました(アルマの虐殺)。 しかし、歴戦の「バッファロー・ソルジャーズ」は、アパッチ戦争でも負けてばかりではありませんでした。ビクトリオの集団は、5月14日にトゥラロサ砦の町を襲いましたが、先回りして待ち構えていた第10騎兵隊に迎え撃たれ、成果なく引き揚げます(トゥラロサ砦の戦い)。 さらに、ビクトリオの集団は、続く24日の未明にオホ・カリエンテ近くの宿営地で騎兵隊の奇襲を受け、初めての大敗を喫しました。騎兵隊は、疲労した軍馬が使えなくなりオホ・カリエンテをいったん撤退していましたから、それを見て油断が生じたのかもしれません。婦女子も含め30人以上が死亡し、ビクトリオ自身も足に銃弾を受け傷つきました。 集団は四散し、ビクトリオは取敢えずメキシコのチワワ砂漠に逃れます。しかし、騎兵隊は泉という泉に兵を配備して国境の守りを固めていました。砂漠伝いにテキサスに入ろうと試みても、その都度押し戻されてしまいます。ついに糧食も弾薬もつき、ビクトリオは、メキシコのシエラマドレ山系が根城のネドナイ系チリカウア・アパッチを頼り、西へ向かいました。そして、その途中の10月13日、トレスカスティジョス山地でメキシコ陸軍と遭遇して討たれてしまいます。
=== ジェロニモの前半生 === ジェロニモが降伏した1886年は明治19年、亡くなった1909年は明治42年…日本では日露戦争の4年後で、アメリカでもT型フォードの大量生産が始まった翌年です。この頃になれば、ジェロニモの写真が数多く残っていても不思議ではありません。ジェロニモの生涯についても、断片的ですが、ジェロニモ自身が語って今に伝えられています。 ジェロニモは、まだニューメキシコがメキシコ領時代の1829年にべドンコヘ系チリカウア・アパッチの家に生まれましたが、チヘネ系のもとで育ち、17歳でネドナイ系の娘と結婚し3人の子を授かりました。21歳の時にメキシコのハノス(Janos)の町で商取引をしていたところ、留守中に宿営地がメキシコ兵に襲われ妻子と母親を殺害されてしまいます1993年の映画「ジェロニモ:アメリカの伝説」にも回想シーンとして登場する有名な逸話です。 ジェロニモは、メキシコ人への報復を誓い、チョコネン系のコチースの傘下に入り、越境して襲撃を繰返しました。こうして、チリカウア・アパッチの全支族と関わりを持つようになっていったわけです。 1876年にチョコネン系の居留地が廃止され、サン・カルロス居留地に移動を命じられた際に、ジェロニモは、メキシコのシエラマドレ山脈に逃げて立てこもります。しかし、翌1877年にオホ・カリエンテ居留地のビクトリオを訪ねていた時に捕えられ、それから1881年まではサン・カルロス居留地で一応おとなしく暮らしていたようです。 当時のサン・カルロスと北隣のフォートアパッチ居留地の人口は、5千人を越えていました。もとはサン・カルロス系ウェスタンアパッチの居留地でしたが、そこにホワイトマウンテン系とシベキュー系が加わり、1875年にはキャンプベルデ居留地が閉鎖されて(アパッチと言語も違う)ヤバパイ族とトント系の計1400人、1876~77年には2つの居留地からチリカウア・アパッチが約700人。 現地事情を知らない連邦政府の居留地統合政策で、仲の悪い者同士がグチャグチャに押し込められたのですから、インディアンもやっていられません。居留地を抜け出して狩りをしたり略奪したりするトラブルが絶えなかったようで、ジェロニモもそれなりに自由にしていたのかもしれません。 === 祈祷師ドリーマーの死 === さて、19世紀の初めに、ショーニー族やイロコイ連邦に預言者が現れ、白人と決別しインディアンの伝統文化に回帰する運動が盛り上がりました。米英戦争のイギリス軍と同盟したテカムセの戦争(1811~13年)も、テカムセの武力・政治力とともに、弟のテンスクワタワの宗教的な求心力が、中西部とカナダのインディアンを同盟に駆り立てたからです。 同じようなことが、西部では19世紀末に起こりました。「救世主キリストがインディアンの風体で再臨、大地から白人は去って、バッファローは戻り先祖の霊もよみがえる」という信仰が、ゴーストダンスという踊りとともに広まったのです。「ゴーストダンスで身にまとったシャツは、弾丸を寄せつけない」ともいわれていました。 1890年のウーンデッドニーの虐殺については、カウボーイと騎兵隊の記事の中で書きましたが、反乱を恐れた騎兵隊の指揮官が、先手を打って無抵抗に近い約300人のゴーストダンス信奉者を惨殺してしまった事件でした。 それでは、話をサンカルロス‐フォートアパッチ居留地に戻しましょう。ゴーストダンス信仰は1889年に始まったものといわれていますが、ダンス自体は昔から伝わるもので、インディアンの宗教指導者にとっては奇跡を起こす儀式でした。1881年にシベキュー族の祈祷士ドリーマーが、死んだ二人の戦士の墓を掘り返し、ダンスの力で死体を生き返らせようとしました。また、そのためにはアパッチ族の土地から白人を追い出す必要があるとも預言します。 そこで、騎兵隊は、8月30日、反乱の扇動を封じるためドリーマーを逮捕しました。しかし、その帰り道でインディアンの奇襲を受け、連行中のドリーマーを射殺してしまいます(シベキュー・クリークの戦い)。翌9月1日には、弔い合戦でインディアンが砦に押し寄せました(フォートアパッチの戦い)。 緊張が高まり、ジェロニモをはじめ一部の指導者らは、居留地に留まれば、過去の罪を問われて処刑される脅威を感じました。そこで、一族を含め700人が居留地から脱走し、その結果、各地で白人が頻繁に襲われるようになります。 === ジェロニモの戦争(1881~86年) === ジェロニモには、チョコネン系のコチースの息子やネドナイ系のジューなどチリカウア・アパッチの多くが付き従い、ビクトリオの戦争で生き残ったチヘネ系のナナも合流し、脱走アパッチのリーダー的存在になっていました。翌1882年には、ジューがサン・カルロス居留地を襲い、捕えられていたチヘネ系のロコと一族700人を解放します。
しかし、ジェロニモの集団がメキシコに潜伏したせいで、インディアン戦争の舞台もメキシコ領内に移ります。その後もインディアンの開拓地への襲撃は20世紀まで続きましたが、アメリカ領内の本格的戦闘という意味では、1882年7月に、騎兵隊350名とホワイトマウンテン系ウェスタンアパッチの戦士60人が戦ったのが、最後のインディアン戦争と言われています(ビッグドライウォッシュの戦い)。 さて、1883年春、しばらく大スー族戦争で留守にしていたクルック将軍が、アリゾナに戻ってきました。クルックは、1872年にコチースを説得してチリカウア・アパッチ居留地を設けた人物です。今回も、メキシコ軍とも協力し、シエラマドレ山脈に潜むジェロニモの集団を追い詰める一方で、何とか話し合いで居留地に戻らせようとします。 クルックはメキシコに遠征し、ジェロニモの集団と会談の末、取敢えずチヘネ系のボニート、ロコ、ナナらをサン・カルロス居留地に連れ帰りました。ネドナイ系のジューは、その年の11月に事故死。翌1884年2月に、ジェロニモもいったん居留地に戻ります。しかし、クルックが計画した居留地の環境改善案を、地元新聞がインディアンに甘すぎると批判…ジェロニモは怒って、再び1885年5月に脱走し、メキシコに立てこもりました。 クルックは、それでもジェロニモを居留地に引き戻そうと努めました。1886年1月には、第3騎兵隊のクローフォード大尉がソノラ州でメキシコ軍に射殺される不幸な事件が起きましたが、ジェロニモは3月にクルックとロスエンブドス渓谷で降伏条件を話し合う旨で合意します。
しかし、連邦政府の条件は、ジェロニモら戦士のフロリダ流刑でした。クルックはジェロニモの嘆願を聞き、2年の流刑後に居留地に帰還させる妥協案を連邦政府に提案しますが、その間に、またまたジェロニモは逃げてしまったのです。クルックは、責任を取って辞任します。 後任のマイルズは、スー族を武力で掃討した将軍です。インディアンの協力者に頼りきりのクルックの作戦を大きく見直しました。4月から5ヶ月の長きにわたり、戦士わずか24人の集団を5千人の大部隊で本州を端から端まで往復できる2600kmも追い回したのです。 戦闘面では実りの乏しい作戦でしたが、休みのない逃避行に疲れ切ったジェロニモらは9月にアメリカ領に戻り、スケルトン・キャニオンで戦士19人と婦女子28人が投降します。3人の戦士と3人の女性はあらためて降伏を拒み、国境に戻りメキシコ兵に射殺される運命を選びました。 ジョロニモはその後虜囚のまま、1904年のセントルイス万博や1905年のセオドア・ルーズベルト大統領の就任パレードなど晴れがましいイベントに参列しましたが、最後まで故郷に帰ることは許されませんでした。 インディアン戦争は、その後もアパッチ族やユート族の小蜂起を含めれば1924年まで続きました。1973年には2件のスー族インディアン殺人事件の不当判決に抗議して、約300人のインディアンが1890年のウーンデッドニーの虐殺現場にあった教会などの建物を71日間にわたって占拠。FBIや州警察と交戦状態になり、インディアン側の2人が亡くなる事件がありました。詳細は、またいずれ別の機会にご案内します。 |