ニューヨーク植民地
マンハッタン島の西を流れるハドソン川は、アパラチア山脈を東西に分断して南北に流れています。切り立った崖が続く美しい景観は氷河の名残りです。氷河期末期には、オンタリオ湖の水がモホーク川を経由して、ハドソン川から大西洋に注いでいました。1608年、ヘンリー・ハドソンがオランダ東インド会社の求めでハドソン川を探検します。北米のどこかに太平洋に抜ける水路があると信じて探していたのです。 +++++ モホーク族とイロコイ連邦 +++++
ハドソン川周辺には、モヒカン刈り(アメリカ英語ではモホーク刈り)で有名なモホーク族のインディアンが暮らしていました。話は逸れますが、モヒカン族は19世紀の小説「モヒカン族の最後」に登場するニューヨーク在住の架空のインディアン。ハドソン川中流域にいたマヒカン族とコネチカットのモヘガン族の合成語なのか、あるいはただの誤用だったのかもしれません。 さらにいえば、いわゆるモヒカン刈り…1970年代にイギリスのパンクロックの若者が流行させた髪型に最も近いのは現在のネブラスカやカンザスに居住していたポーニー族のものでしょう。モホーク族は、頭頂を約10p四方だけ剃り残して三つ編みにします。 ところで、モホーク族はじめ当時オンタリオ湖南岸に住みイロコイ語を話していた5部族(後に6部族)は、連邦形態で強い部族同盟を結んでいました。再び余談ですが、イロコイ連邦の合議制度は後にアメリカが13植民地の連邦形式を採用して独立し、合衆国憲法を起草する際のお手本となります。 ビーバー戦争(フレンチ・イロコイ戦争)+++++ ビーバーハットの流行 +++++
ヨーロッパでは16世紀から19世紀半ばにかけて、ビーバーハットが大流行しました。ビーバーの毛皮が柔らかさと弾力性を兼ねそなえ、様々な形状に加工しやすかったためです。シルクハットも元をたどればビーバーハット。18世紀末にビーバーの毛皮が入手しづらくなって発明されたものでした。 +++++ イロコイ連邦の武装 +++++ 1614年、オランダはモホーク川とハドソン川が合流するアルバニーに交易所を開設し、イロコイ連邦には初めてビーバーの毛皮を売るルートができました。フランスは、他のインディアン諸部族と仲が悪いイロコイ連邦を毛皮取引から締め出していたのです。イロコイ連邦はヨーロッパ製品の導入に積極的で、1630年にはオランダから購入した銃器でいち早く武装しました。 ところが、銃による乱獲でハドソン渓谷のビーバーは枯渇の危機に直面します。困ったイロコイ連邦は、1638年、同じイロコイ語族のウェンロー族の勢力圏を侵しました。続いて生き残りのウェンロー族が助けを求めたヒューロン族とも、抗争を起こします。こうして、イロコイ連邦と反イロコイ連邦の部族が対立し、それぞれをオランダとフランスが支援する構図ができあがりました。
オランダ植民地は1664年にイギリスに征服され名をニューヨークと改めますが、イロコイ連邦とオランダの同盟関係はそのままイギリスに引き継がれます。 18世紀の初頭にかけ、イロコイ連邦は、南はケンタッキーから、西はイリノイに至る広大な地域を制圧しました。これがビーバー戦争と呼ばれるイロコイ連邦の一連の領土拡張戦争で、侵略された部族はチリヂリで、一部ははミシシッピー川の西岸やカロライナにまで落ち延びました。 +++++ イロコイ連邦の衰退 +++++ しかし、1682年にペンシルバニアの開拓が始まると、イロコイ連邦の領土がイギリス植民地に脅かされるようになり、関係が複雑化します。現代から振り返って見ると、「イギリス・イロコイ連合」vs.「フランス・反イロコイ連合」の構図が、「イギリス・全インディアン連合」vs.「フランス・アメリカ(植民地)連合」の対立の図式に変わっていく大きな時代の流れでした。 イロコイ連邦は、1701年には南オンタリオと中西部の領土を放棄(形式的にはイギリスに譲渡)して、フランスとも平和条約を結び、60年に及ぶビーバー戦争はついに終結します。 フランスは、イロコイが退くやいなやデトロイトに砦を建設しました。各地に逃げていたインディアン諸部族もそれぞれの故郷に帰還しましたが、イロコイ連邦と隣り合うオハイオだけはしばらく過疎のまま取り残されていました。ショーニー族やマイアミ族が戻ってきたのは、ようやく1740〜50年代になってからのことです。 イロコイ連邦は、その後もイギリスにたびたび領土の割譲を迫られました。フレンチ・インディアン戦争後の1768年に領土はビーバー戦争以前のサイズにまで縮小します。アメリカ独立戦争では一度は中立を望んだものの許されず、イギリス本国に加勢した4部族はアメリカの地を追われ、代わりにイギリスが用意したカナダの居留地に移住するしかありませんでした。 ビーバー戦争は、中西部と周辺の全てのインディアン勢力を衰退させ、その後の白人の西部進出を容易に許す結果につながりました。 ニューイングランドとアカディアの戦争+++++ 第二次英仏百年戦争 +++++
その頃ヨーロッパでは、神聖ローマ帝国の権威が衰え、議会王政のイギリスと絶対王政のフランスの間で第2次百年戦争(1689〜1815年)と呼ばれる一連の戦争が始まろうとしていました。 1689年の名誉革命でフランスに亡命したカトリック信者のジェームズ2世が、フランスの後押しでアイルランドに上陸し、スコットランドの一部勢力とともに反乱を起こしたのがきっかけです。 ヨーロッパを舞台にした戦争には、その都度、英仏の北米植民地戦争が伴って起こり、それぞれに味方するインディアンが巻き込まれて戦いました。 +++++ ウィリアム王戦争 +++++
フィリップ王戦争(⇒植民地時代初期)でニューイングランド南部から一掃されたアルゴンキン語族のインディアンは、ニューイングランド北部〜アカディア(現ノバスコシア州周辺)方面に住む5部族で同盟(ワバナキ同盟=ビーバー戦争の図ご参照)を組み、フランス側に加担して戦いました。 フィリップ王戦争の「フィリップ王」はインディアンの酋長の仇名で紛らわしいのですが、ウィリアム王戦争以下の王名は、各植民地戦争時のイギリス王の名前です。フランス以外の欧州諸国が団結し、絶頂期のルイ14世の領土拡張の野望に対抗した大同盟戦争に伴うものです。当時の北米では、ニューイングランドの英植民地とアカディアの仏植民地が拡大し、両勢力が現メイン州で接触するようになっていました。 +++++ アン女王戦争 +++++
しかし、英仏両植民地の境界争いは次のアン女王戦争に持ち越されます。ヨーロッパのスペイン継承戦争に呼応して起きた戦争で、今回はスペインがフランス側についたため北米でも南部の境界をめぐるスペイン植民地との戦いが加わりました。 戦争は、欧州諸国がフランスとスペインから領土の割譲を受ける代わりに、ルイ14世の孫フェリペ5世のスペイン王位継承を認めることで決着します。北米でも、イギリスはアカディアの一部(ノバスコシア半島)とニューファンドランドを獲得しました。南部では、スペインに加勢したインディアン勢力が一掃され、1934年にはジョージア植民地が建設されます。 +++++ ジョージ王戦争 +++++
といっても、植民地の支配圏は白人の線引きで変わるわけではありません。ニューイングランド植民地の北部は、依然としてインディアンの脅威にさらされていました。 ラル神父戦争とル・ルートル神父戦争はヨーロッパ情勢に関係なく、ワバナキ同盟(ビーバー戦争の図ご参照)のインディアンが土地や漁業権を守るためにフランス人神父の指導の下で戦った戦争です。 イギリスは、ラル神父戦争で現メーン州西部までの支配権を確保しましたが、アカディアでインディアン勢力を駆逐するにはさらに30年の月日を要し、新たな全面戦争を仕掛けなければなりませんでした。 その間にヨーロッパではオーストリア継承戦争が起き、アカディアでも呼応してジョージ王戦争が勃発しましたが、本国主導で和平交渉が進み、決着はつきませんでした。ル・ルートル神父戦争の戦乱は次のフレンチ・インディアン戦争へと続き、アカディアのインディアンは制圧され、フランス系住民は「大追放」を命じられて現ルイジアナ州など各地に離散しました。
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期間 | 北米の戦争 | 主戦場 | ヨーロッパの戦争 |
1754–63 | French and Indian War | Frontier | Seven Years' War |
1763–66 | Pontiac's War | Frontier |
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フレンチ・インディアン戦争はそれまで3つの英仏戦争と異なり、逆に植民地の戦争が引き金となってヨーロッパで本国間の戦争が始まるケースでした。それが、七年戦争です。伝統的に敵対していたフランスのブルボン王家とオーストリアのハプスブルグ王家が手を結び、イギリスと新興のプロイセンが組み、列強の同盟・対立関係が大きく塗り替えられた歴史の転換点でした。
左図…1700年と1750年の北米植民地 右図…フレンチ・インディアン戦争 (⇒拡大) |
George Washington, The French & Indian War |
18世紀前半に北米ではフランスが内陸部の各地に砦を設け領土を拡大していましたが、植民地の人口はわずか7万5千人。しかも、セントローレンス川の周辺とアカディアに集中して入植していました。
一方のイギリス植民地は、地域的にはアパラチア山脈の東部にとどまり広さでも負けていましたが、人口は既に150万人に達していました。
しかも、1740年代には、イギリスの毛皮商人がオハイオの北東部現クリーブランド付近に出没するようになっていて、領土蚕食の危惧を抱いたフランスは、西部ペンシルバニア各地に砦を築き防衛体制を整えていました。
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フレンチ・インディアン戦争は、1754年にバージニア民兵が現ピッツバーグのフランス軍砦を攻撃して、火ぶたが切られました。指揮官は弱冠21歳のジョージ・ワシントン少佐…後年の独立戦争の英雄で初代合衆国大統領です。
戦争に負けたフランスは、北米植民地を全て失います。少しややこしいのですが、ミシシッピー川より東はイギリスに譲渡し、スペインはフロリダを放棄してミシシッピー川以西のフランス領をいったん手にします。
その後、ミシシッピー川以西はナポレオン時代にフランスが秘密協定でスペインから買戻し、あらためて1803年にアメリカに売り渡されるのです。
フレンチ・インディアン戦争は1760年にモントリオールが落ち、事実上終わりました。しかし、その戦功でケベック総督となったアマースト総督が、徹底した蔑視政策でインディアンの反感を買ってしまいました。
中西部一帯の諸部族が決起して、1763年5月にポンティアック戦争が起きます。ポンティアックは、諸部族を代表してイギリス側との交渉に関わったオタワ族の酋長の名前です。
イロコイ連邦は中立を守りました。アマースト総督は更迭され、10月にはイギリス国王の「1763年宣言」で、アパラチア山脈の分水嶺より西はインディアンに留保する旨を保証します。それでも戦いは止まず、1766年にイギリスがフランス領時代のインディアン友好政策の復活を約束するまで続きました。
そもそも「1763年宣言」は、その時点で既にアパラチア山脈西部に入植済みの人々もいたほどですから、守れるはずがありませんでした。前述の通り、イロコイ連邦の領土は1768年のスタンウィックス砦条約で縮小を余儀なくされましたが、英貨1万ポンドと引き換えに「1763年宣言」より大きく西に食い込んだ境界を了承し、さらにオハイオ川以南のケンタッキーや現ウェストバージニア州西部の狩猟地を放棄しました。
期間 | 北米の戦争 | 主戦場 | ヨーロッパの戦争 |
1774 | Lord Dunmore's War | W. Virginia | − |
1775–83 | Revolutionary War |
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Vandalia |
夢と希望でいっぱいの西部開拓者は、勇んで新天地に乗り込んで行きます。しかし、当時のケンタッキーはインディアン諸部族が共有していた狩猟地で、イロコイ連邦と敵対するショーニー族ら他部族はスタンウィックス砦条約を認めていませんでした。
探検家ダニエル・ブーンもチェロキー族と話をつけ、南からケンタッキーに入植していました。ワシントン少佐の下でフレンチ・インディアン戦争に従軍した経歴の持ち主です。
1774年、ショーニー族らがブーンの長男一行を襲って殺しダンモア戦争と呼ばれるインディアン戦争がが起こりました。ダンモアは、当時のバージニア総督の名前です。まもなく翌1775年にアメリカ独立戦争が起こり、この地方のインディアン戦争は独立戦争の西部戦線に組み込まれていきます。
この地域は当初ヴァンダリアの名で新植民地に認められようと努力しましたが、先輩植民地の横やりでかなわず、ケンタッキーは1792年に州として独立するまでバージニアの1カウンティの位置づけでした。ウェストバージニアは、南北戦争時に南部同盟に参加したバージニア州とたもとを分かって独立し北軍に投じました。