チェロキー族と鹿皮


 さて、北部と中西部のインディアン戦争史は「イロコイ連邦」と「ビーバーの毛皮」がキーワードで始まりましたが、南部のお話では「チェロキー族」と「鹿皮」が主人公です。

 鹿皮は、帽子用のビーバーの毛皮ほどではありませんでしたが、手袋や本の革表紙などに珍重されていました。特にアパラチア山麓の涼しい地域のシカがよく、チェロキー族は南部でフランスやスペインと交易し、ショーニー族が北東部の英植民地と交易していました。

チェロキー族の故郷…グレートスモーキーマウンテンズ

 しかし、17世紀末にはビーバーが次第に狩り尽くされてきます。ロンドンの流行も節目を迎えて帽子素材が多様化し、鹿皮の需要が一気に高まりました。その頃、新興サウスカロライナ植民地が鹿皮の主要供給源としてデビューします。当初の仕入れ先はヤマシー族でしたが、やがて沿岸部のシカは乱獲で枯渇してしまいます。生計を鹿皮に依存していたヤマシー族は追い詰められ、戦争にも敗れ離散してしまいました。

===== 勢力図の変化 =====

 代わりにチェロキー族がサウスカロライナ植民地の鹿皮仕入れ先として頼られるようになります。しかし、18世紀半ばにはチェロキー族領内でもシカの数が減り、男たちは狩猟地を遠方に求めて旅がちになりました。暮らしにはヨーロッパ製品がかかせなくなります。インディアンの社会構造も変化し、徐々に部族間の抗争の種が増えていきました。

戦争 期間 植民地側 チェロキー 反植民地側

Tuscarora War

1711-15

U. Kingdom

Yamasee

 

South Tuscarora

Yamasee War

1715-16

U. Kingdom

 

Yamasee

1716-17

 

French & Indian War

(Anglo-Cherokee War)

1754–58

U. Kingdom

Iroquois

 

France

Shawnee etc.

1758–61  

Chickamauga Wars

(Revolutionary War)

1776–94

13 Colonies

France

1777~

中立

United Kingdom

Chicamauga Cherokee

 上の表で戦歴をごらんになれば、チェロキー族の立場がその都度めまぐるしく変わっている様子がお分かりでしょう。チェロキー族は、ヤマシー戦争の中途で寝返ってイギリスと同盟を組みますが、フレンチ・インディアン戦争では序盤で不和が生じ、結局は敵対してしまいました。1763年、イギリスは間係修復のためにチェロキー族の代表団をロンドンに招き、国王の名でアパラチア山脈の西への白人の入植は認めないと宣言します。


チカモーガ戦争(独立戦争南部戦線)


===== ワトーガ開拓地 =====

Battle of Kings Mountain

 ところが、1771年に緯度を間違えチェロキー族の旧耕地に入植してきた一団がいました。イギリス政府に退去を命じられますが、チェロキー族長老が気の毒に思い土地を貸与し、残留を許してあげます。これがワトーガ開拓地(下図)で、その後のケンタッキーやテネシー開拓の重要な足がかりになりました。

 1780年に独立戦争の南部戦線で植民地軍の危機を救ったのも、ワトーガ開拓地の愛国派民兵「オーバーマウンテンメン」でした。アパラチア山脈を越えて遠征し、キングスマウンテンの戦いの歴史的勝利で、アメリカの独立に貢献しています。

チェロキー族の旧本拠地(⇒拡大

===== ドラッギングカヌー酋長 =====

 独立戦争でチェロキー族は、開拓者のケンタッキー購入を認める主流の穏健派と、オハイオのショーニー族やイギリスと同盟して植民地軍と戦おうとする武闘派に分かれました。

 チカモーガ戦争は1776年に武闘派の開拓地奇襲で開始されました。しかし、作戦は穏健派女性指導者(ビラブドウーマン)から洩れていて、待ち伏せされたチェロキー族は大敗してしまいます。さらに植民地軍の報復で村落(上図)は蹂躙されてしまいましたが、それでも穏健派は翌1777年に平和条約を結び、以後(一時的なブレはありましたが)大方のチェロキー族は植民地軍に近い立場を維持しました。

 ドラッギングカヌー酋長率いる武闘派は、現チャタヌガ付近のチカモーガに退いて戦いを続けました。1778〜79年にはイギリス軍のジョージア上陸に呼応し、王党派民兵やアッパークリーク族らと遠征。イギリス軍のサウスカロライナ制圧に力を貸します。

===== ナッシュビル砦 =====

 一方で、ワトーガ開拓民の一部はカンバーランド川を西進して1779年に現ナッシュビルに砦を築きます。アラバマ北東部にかけては、チカモーガ・チェロキーを中心に南北各地から反植民地勢力が集まりました。インディアンのほかに、王党派と英仏西の白人や逃亡奴隷も加わって、ケンタッキーやテネシーの開拓地襲撃が繰返されました。

 1783年に独立戦争が終り、南部の諸部族が次々に新生アメリカ合衆国と平和条約を締結しても、チカモーガ・チェロキーは戦いを止めません。北部の諸部族は、1785年にオハイオでインディアン戦争を再開しました(北西インディアン戦争)。

===== ホルストン条約(ノックスビル) =====

 1791年のホルストン条約で、チェロキー族は現ノックスビル周辺を新たにアメリカに割譲しますが、武闘派は認めません。リーダーのドラッギングカヌーの死後も、戦争はさらに続きました。

 しかし、1794年にはヨーロッパ情勢の変化で米英が接近し、イギリスの後ろ盾を失った北部の諸部族が負け北西インディアン戦争は終わってしまいます。勝算がなくなったチカモーガ・チェロキーはあらためてホルストン条約を受け入れ、通算18年に及ぶチカモーガ戦争もついに終わることになりました。

 クリーク(マスコギ)族は1796年まで戦い続けました。親米のチカソー族に仲間を殺されて矛先が変わり、最後はインディアン同士の抗争のようになっていました。


テカムセの南部歴訪


 クリーク族は、アラバマ・ジョージア周辺のインディアン諸部族の緩い同盟でした。アラバマ川と支流沿いに暮らすアッパークリークと州境を流れるアパラチコーラ川や支流域に住むロワークリークに大別されます。

===== 1811年大彗星 =====

Great Commet of 1811(絵)

 1811年10月、3月に現れた大彗星の輝きがピークを迎えていた頃、ショーニー族のテカムセが南部の諸部族を歴訪していました。白人文化を捨て、全てのインディアンが団結してアメリカと戦うよう説得に来たのです。

 しかし、南部のインディアンは連邦政府が勧める「文明化計画」を受け入れ、白人と共存しようとしていました。領土は白人に奪われ少し窮屈になってきましたが、まだ北部のように切迫した状況ではありません。テカムセの話に耳を傾けたのは、アッパークリークの戦士たちだけでした。

 一方、北部では11月にアメリカ軍がテカムセの留守をねらい、インディアナのショーニー族の本拠を焼き払っていました。テカムセ戦争の始まりです。

===== ニューマドリッド地震 =====

New Madrid Earthquakes(絵)

 それに続くように、12月にマグニチュード7〜8クラスの大地震が起きました。震源はミシシッピー川とオハイオ川の分岐点の付近で、翌年の1〜2月まで同規模の余震が続きます。ニューヨークやボストンの教会の鐘も鳴ったと伝えられるニューマドリッド地震です。

 アッパークリークの武闘派(レッドスティックス)は、彗星と地震をスピリットの啓示と畏れ、テカムセに加勢してアメリカを相手に戦う決意をします。北部に帰ったテカムセは、1812年戦争(米英戦争)でカナダのイギリス軍と協力しデトロイト方面の戦線でインディアン戦士を率いて戦いました。


クリーク戦争


 クリーク戦争はクリーク族の内乱として始まりましたが、イギリスと交戦中のアメリカが巻き込まれて1812年戦争(米英戦争)の南部戦線となりました。1813年2月にアッパークリークの武闘派が白人を殺す事件が起きます。犯人の処分をめぐりロワークリークとの間で武力紛争が起きましたが、この時点ではまだ内乱です。

 しかし、7月にアッパークリーク武闘派の1隊がスペイン領フロリダから帰る途中、バーントコーン・クリークでミシシッピー準州(現ミシシッピー州+現アラバマ州の大部分)の民兵に出会い弾薬を奪われそうになります。翌月、武闘派が仕返しにミムズ砦を襲い、開拓者やインディアンを含む約500人ほぼ全員を虐殺します。

Andrew Jackson

 恐怖におびえる南部の開拓民は正規軍の派遣を期待しましたが、連邦政府には兵力の余裕がありません。苦境を救ったのは、3万人の民兵を擁するジョージア州ではなく、後に第7代大統領(20ドル紙幣)となるジャクソン大佐率いるテネシー州民兵でした。

 1814年3月、ジャクソンはホースシューベンドの戦いでアッパークリークの武闘派を壊滅させます。8月のジャクソン砦条約では、ジャクソンに味方したロワークリークの反対を押し切り、クリーク族から現アラバマ州の中心部とジョージア南部の広い領土を奪い取りました。

 11月にはアッパークリークの残党を追い、スペイン領フロリダに侵入してペンサコーラを落とします。翌年1月には、イギリス軍に占領されていたルイジアナ州ニューオリンズを奪還しました。12月のゲント条約調印で既に戦争は終わっていましたが、南部戦線の最前線にはまだ連絡が届いていなかったのです。


文明化五部族


 チェロキー族、クリーク族、チカソー族、チョクト−族、セミノール族ら南部のインディアンは、文明化五部族(Five Civilized Tribes)と呼ばれています。

 独立戦争でイロコイ連邦の殲滅作戦を命じたワシントン大統領も、特にインディアンに残忍だったわけではなさそうです。ただし、インディアンが白人と共存するためには「文明化計画」に基づき白人文化に同化する教育を施す必要があると考えていました。

 基本は、

@ 絶滅の危機に瀕しているシカの狩猟を止め、(土地共有制を廃し)ブタを食用に飼育すること

A (個人所有の)耕地を柵で囲い、(これまで女がしていた)農業を男が担うこと

B 女は糸車で糸をつむぎ、機を織ること

です。

Benjamin Hawkins

 インディアン管理官のホーキンスは、クリーク族の婦人と結婚し7人の子を授かりました。

 プランテーション農法を広めるために自ら黒人奴隷を購入し、ジョージアの現メーコン付近で農場経営に当たったそうです。製材所や製粉所が設けられ、千頭のウシと多数のブタを飼育していました。

チェロキー族国の庁舎

 1804年に完成したチェロキー族のバン酋長の邸宅は、インディアン社会初のレンガ造りの建物として有名ですが、その農場にも42の奴隷小屋と鍛冶工房や薫製場があったことが知られています。

 チェロキー族では、意外にも元武闘派の人々が文明化に熱心でした。1794年に初代族長(Principal Chief)に選ばれたチカモーガ・チェロキーの元戦士リトルターキーは、チェロキー族国家の首都をアパラチア山中からジョージア州北西部の平野部ニューエコタに移転しました。1821年に銀細工師のセコイヤがチェロキー文字を発明し、1828年には英字・チェロキー文字併記の新聞の発行も始まりました。

文明化五族の旧居住地と「涙の旅路」 (⇒拡大)

 ミシシッピー川東岸のチカソー族とチョクト−族は、英仏戦争時代にそれぞれイギリスとフランスを後ろ盾に戦った犬猿の仲でしたが、独立戦争では(チョクトー族の一部を除き)手を携えて植民地軍を支援しました。

 チカソー族には毛皮商人の血を引く7兄弟がいて、長男はジャクソンのテネシー民兵に加わっています。チョクトー族にも家柄のよい婦人の婚姻を通じ白人社会とつながってきた伝統があります。キリスト教が布教され、学校教育が行われるようになっていました。


セミノール族


 これまであまり触れてきませんでしたが、現フロリダ州方面は南部・西部の他の地方と異なり、当時はまだスペインの植民地でした。フレンチ・インディアン戦争(1754〜63年)後に、いったんはイギリスが領有しますが、アメリカ独立戦争(1775〜83年)でアメリカに加勢したスペインがパリ条約で取り戻していたのです。

 フロリダのインディアンといえばセミノール族ですが、母体は18世紀後半に他部族と開拓者の圧力を受けてジョージア・アラバマから逃げてきたロワークリークのインディアンと、ヤマシー戦争(1715〜17年)に敗れサウスカロライナから逃げ込んできたインディアン…実は各地から逃げてきた人々の混成部族です。

 玉突きの原理で、フロリダ土着のカルーサ族やマヤイミ族(北部のマイアミ族とは無関係)は、セミノール族との抗争を避け、スペイン人の助けでキューバに渡りました。

===== 第一次セミノール戦争 =====

 第一次スペイン領時代からフロリダは反米勢力の隠れ家となっていました。イギリスも、独立戦争中はセミノール族を雇ってジョージアの開拓地を襲わせ、戦乱に乗じて逃げてきた黒人奴隷には、自由な身分にした上で土地まで与えていました。再びスペインに領有権が戻ってからもスペインの支配は行き届かず、北フロリダの米国境周辺は反米インディアンと逃亡奴隷の拠点となってしまいました。

 一方、アメリカは1803年にフランスからルイジアナを買収し、ミシシッピー川河口のニューオリンズを手に入れます。しかし、スペインはミシシッピー川以東のメキシコ湾岸の領有を主張し、アメリカは南部諸州を流れる川の河口をことごとく反米勢力に押さえられる心細い事態が生じていました。

 第一次セミノール戦争は、アメリカがいらだって、公式購入手続きを待てずにフロリダを軍事的に制圧した戦争です。始まりに定説はありませんが、1812年戦争(米英戦争)中のイギリス軍が1814年にスペイン領フロリダに上陸し、セミノール族や逃亡奴隷に武器を配ったのが発端と見ることもできます。

 クリーク戦争の最終盤で、ジャクソンが敗残インディアンを追ってスペイン領フロリダに侵入した経緯は既述の通りです。その頃、北フロリダの反米勢力は、ジャクソン砦条約で故郷を追われたクリーク族難民も加わって一層ふくれ上がっていました。

===== 二グロ・フォート(黒人砦) =====

 さて、1812年戦争(米英戦争)の終戦後、イギリス軍は現在のジョージアとアラバマの州境を流れるアパラチコーラ川の河口付近の砦に武器弾薬を残して撤退しました。インディアン戦士も大半は帰郷し、やがて主に逃亡奴隷が守る砦は「二グロ・フォート(黒人砦)」と呼ばれるようになります。

 アメリカは、この砦が評判になって、逃亡奴隷が激増したり、暴動が起きたりする事態を懸念しました。1816年、米軍が上流のスコット砦に物資を補給する口実で艦隊をアパラチコーラ川に送ると、案の定、二グロ・フォートから砲撃がありました。しめたとばかり反撃した一弾が、砦の火薬庫に命中して大爆発が起こります。実に、婦女子も含む砦の守備隊320人のうち250人が即死したそうです。

===== ジャクソンのフロリダ侵攻 =====

 そして、翌1817年にジャクソンのフロリダ侵攻が始まります。

 米軍が、ジャクソン砦条約に従わないジョージアの小部族の集落ファウルタウンを包囲したのがきっかけです。村民は立ち退きましたが、その1週間後にスコット砦に向かう人々がセミノール族に襲われ、婦女子や病人を含む数十名が惨殺されました。

捕えられたイギリス人の軍事裁判

 クリーク戦争でテネシー民兵の大佐に過ぎなかったジャクソンも、今は連邦陸軍を率いる司令官に出世していました。ジャクソンは、モンロー大統領のあいまいな鎮圧命令を拡大解釈して、越境してスペイン領フロリダに深く攻め込みます。

 軍事作戦としては大成功でしたが、その間にスペインのセントマークスとペンサコーラの砦を奪った上に、戦闘中に捕えた英国籍の2名をインディアンを扇動した罪で処刑してしまいました。

 アメリカは国際世論の厳しい批判にさらされましたが、スペインにもイギリスにも、アメリカと事を構えるメリットはありません。アメリカはスペイン領侵攻を公式に謝罪し2つの砦を返還しただけで、いったん中断していたフロリダ購入交渉をスペインに再開してもらうことができました。その後1819年に両国が合意、めでたく1821年にフロリダ購入が完了します。 


綿花プランテーションの増殖


19世紀の綿繰り機

 文明化五部族が白人文化を受け入れて暮らすようになってからも、時代は急速に変化していました。

===== ホイットニーの綿繰り機 =====

 1793年にホイットニーが綿繰り機を発明し、綿花から種を取り除く労働集約的な工程が省かれるようになりました。綿生産の採算は画期的に向上し、南部では奴隷を使役する綿花プランテーション農業が急速に発展します。農地を求めて人々は、未開拓のジョージア州やミシシッピー準州に殺到したのです。

Cotton Field in Oklahoma (1890s)

 1791年にわずか900トンだった綿生産は、年産で1810年には4万2千トン、1830年には16万3千トン、1850年には64万7千トンとうなぎ上りに増えました。1790年に70万人だった奴隷の数も、1850年には320万人に増えています。

 ちなみに、ホイットニーは、このほかにアメリカ陸軍から銃の生産を依頼され、近代的な互換性部品の採用を提案した大発明家です。この「互換性部品によるものづくり」が北部の工業の飛躍的な発展をもたらしたというわけで、たったひとりで南北戦争の原因を作った人物としてアメリカ史に名前を記しています。

===== ジョージア・ゴールドラッシュ =====

 1828年にはジョージア州北部のアパラチア山麓で金鉱が発見され、アメリカで最初のゴールドラッシュが起きます。付近はチェロキー族の居住地でした。文明化五部族といえども、インディアンがアメリカ国内で閉鎖的な居住区を持つことは、一層「邪魔」になってきたのです。


インディアン移住法


 初めてインディアンの強制移住を提案したのは、1812年戦争(米英戦争)を推進したタカ派政治家のカルフーンでした。カルフーンが副大統領に就任した1825年、現オクラホマ州にインディアン準州が設けられ、任意ベースでインディアンの移住が勧められることになります。

 次いで1829年、ジャクソンが大統領に就任します。第一次セミノール戦争の司令官として国際的には非難されたジャクソンも、国内では逆にインディアンを征伐した英雄として絶大な支持を得ていました。ジャクソンは、強制力のあるインディアン移住法を成立させました。カルフーンとジャクソンは政敵ですが二人とも人種差別主義者で、奴隷制度を肯定しインディアンを排斥していました。

 インディアンは、部族とともにインディアン準州に移り住むか、部族を離れアメリカ市民となって先祖伝来の地に残るか二者択一を迫られます。

1890年代のオクラホマ準州とインディアン準州(⇒拡大

===== 最初の「涙の旅路」 =====

 最初に移住を決めたのは、アメリカに最も恭順的なチョクトー族でした。初年度の移住者は全体の1/3で約6千人。10月前半にその年の収穫を終え、新天地では新しい家と家財や家畜が待っているはずですから財産は全て売り払いました。身軽な旅です。

 移住者は2班に分かれ、テネシー州メンフィスとミシシッピー州ビックスバーグに集まります。11月1日に船でミシシッピー川を渡り、そこから幌馬車で移動する計画でした。しかし、豪雨で大洪水が起き、対岸の道が使えなくなってしまいます。そこで、急遽、蒸気船を集めることになりました。船の手配に手間取るうちに余分のない移住者の糧食は尽き、周辺住民のカモにされ高額な食べ物を売りつけられました。

 ようやく11月半ば、メンフィス組は船でアーカンザス川を上り、リトルロックかフォートスミスで降り幌馬車に乗り継ぐことになりました。しかし、乗船して安心できたのもつかの間。船にはほかに急ぎの用が入り、アーカンザス川河口からほんの60マイルの小さな砦で、全員が降ろされてしまいます。

 ミシシッピー川西岸は、洪水に続き吹雪に襲われていました。移住者は軽装で、中には裸同然の子供もいましたが、氷点下のが寒さ6日続く中で、砦は2千人の移住者に60組の小さなテントを貸してあげるだけで精一杯でした。砦の備蓄食はすぐに尽き、緊急に届けられた食料が、ひとり1日とうもろこし一握りとカブ1個の割合で支給されました。

 アーカンソー川は凍りつき、船も迎えに来れなくなっていました。ついに8日目に40台の幌馬車が到着し、インディアン準州と隣接するフォートスミスまで移住者のピストン輸送を開始します。食料と毛布も届きましたが、既に凍死したり肺炎にかかって手遅れの病人も多数に上っていました。

 最初の幌馬車がアーカンソーの州都リトルロックに着いたときに、チョクトー族のひとりが地元新聞の記者のインタビューに答え「涙と死の旅路(Trail of Tears and Death)だった」と語りました。これが、インディアンの強制移住を象徴する言葉として有名になったのです。

===== 「涙の旅路」の全体像 =====

 ビックスバーグ組も難なく移住できたわけではありません。詳しい経緯は省きますが、現テキサス州北境を流れるレッドリバーから支流を北に上り、アーカンソーの南部の町に着くまではまずまず無事でした。しかし、現地では3千人もの移住者が来ると知らず、たった12台の幌馬車しか用意していませんでした。もちろん、食料も足りません。

 一行は、役立たずのガイドのせいで、まだ目的地まで150マイルの道のりを、年寄りと幼児だけ幌馬車に乗せ、迷いながら、高値で食料を売りつけられながら歩きました。悪いことに、赤痢、ジフテリア、チフスなど白人の病気が蔓延し、病人の世話や死者の弔いで歩みが遅れ、目的地に着くまで3ヶ月を費やしました。

 こうして、最初の「涙の旅路」は終わりました。出発時に6千人近くいた移住者の数が、4千人近くまで減っていました。故意ではなかったにしろ、連邦政府のずさんな移住計画が悲劇を招いたのは間違いありません。

 最大の問題は、同じような悲劇が、その後のチョクトー族の移住でも、他部族の移住でも繰り返されたことです。全ての「涙の旅路」を一つ一つ振り返るのは無理ですから、下表の数字(資料: Wikipedia)で悲劇の規模だけでも想像なさってください。

部族

Choctow

Seminole

Creek

Chickasaw

Cherokee

条約

1830年

1832年

1832年

1832年

1835年

移住期間

1831–36年

1832–42年

1834–37年

1837–47年

1836–38年

総人口

19,554人

奴隷500人

5,000人

逃亡奴隷

22,700人

奴隷900人

4,914人

奴隷1,156人

21,500人
奴隷2,000人

移住者

12,500人 2,833人 19,600人 4,000人超

20,000人

奴隷2,000人

うち死者

2〜4千人

3,500人

500–800人 2〜8千人

残留者

7,000人 250–500人 数百人 数百人 1,000人

戦死

700人 ?

 先発隊の苦難を知ってミシシッピー州に残留するしかなかったチョクトー族の人々は、その後10年にわたり家を焼かれたり、襲われて危害を加えられたりしました。

 セミノール族とクリーク族の場合は、移住を拒否する人々が武器を取りました。それぞれ第二次セミノール戦争、第二次クリーク戦争と呼ばれています。

 チカソー族の場合は、アメリカが旧領土を金銭で購入する約束でしたが、代金支払いの遅れから移住の時期が大幅に遅れました。

 チェロキー族は独立した国家としてジョージア州を相手に法廷で争い、結果的に最も弾圧的な移住を強いられました。着の身着のままで狩り集められ、収容所に幽閉された上で護送されたのです。

チェロキー族の涙の旅路