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2014年5月15日(第95号)


インディアン戦争の歴史シリーズC-3

 カウボーイと騎兵隊(19世紀後半)

 インディアン戦争の歴史シリーズ。先月に引き続き西部劇に度々登場する平原インディアンと騎兵隊の戦いのお話…今回はクライマックスで、カウボーイも、スー族のクレージーホース酋長らにカスター隊長の第7騎兵隊が敗れるリトルビッグホーンの戦いも登場します。努めて公平に書いていますが、どこからどう見てもインディアンがお気の毒です。

第89号

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第91号

第94号

第94号

今月号

次号以降

@ 初期の入植者とインディアンの対立 (17〜18世紀初頭)

A 英・仏・米とインディアンの四つどもえ (17世紀末〜18世紀)

B-1 中西部インディアンの一掃 (18世紀末〜19世紀前半)

B-2 南東部インディアンの一掃 (18世紀末〜19世紀前半)

C-1 オレゴントレイルとゴールドラッシュ (19世紀後半)

C-2 平原インディアンとバッファロー (19世紀後半)

C-3 カウボーイと騎兵隊 (19世紀後半)

C-4 山岳南部ユート・アパッチ族の戦い (19世紀後半)


カウボーイの時代


 平原インディアンは移動して暮らしていたので「遊牧民」ですが、中央アジアの遊牧民のように家畜の群れを率いていたわけではなく、野生のバッファローを狩猟していました。

 逆に、白人は今のように柵に囲まれた牧場で家畜を飼育していたとお思いかもしれませんが、当時の西部では遊牧民のように広い公有地にウシなどの家畜を放牧して育てるのが普通でした。

=== キャトルドライブ ===

Cowboys

 こうした家畜を輸送するベストの手段は、群れにして家畜自身に歩いて移動してもらうことでした。テキサスの入植者は早くから角の長いロングホーン種のウシを放牧し、小規模ながらニューオリンズやミズーリ方面にウシの群れを連れて行くルートを開拓していました。しかし、南北戦争で北軍に孤立させられてしまったテキサスでは、結果的にウシが劇的に増殖…牧牛がテキサスの大産業に発展する基盤ができました。

ニューヨーク向け鉄道貨物

単位米トン  家畜 精肉
1882年 366,487 2,633
1883年 392,095 16,365
1884年 328,220 34,956
1885年 337,820 53,344
1886年 280,184 69,769

 ちょうど同じ頃、西部にも鉄道が延び、ウシをカンザスやネブラスカの駅に連れて行けば、従来の20倍の高値で売れる仕組みができました。シカゴやカンザスシティに精肉工場が建設され、食肉にならない部位も、ニカワ、油脂やマーガリン、肥料、ブラシ、ボタンなどに加工されるようになりました。1880年には実用的な冷蔵車両が開発され、シカゴから全米に食肉の冷蔵輸送が可能になります。

移動キッチン…Chuckwagon

 英語では人々を「ピープル」というように、ウシは集合体で「キャトル」となります。テキサスから鉄道の駅に牛の群れを届ける旅は「キャトルドライブ」で、その専門職が「カウボーイ」でした。キャトルドライブは、急ぐとウシが痩せて商品価値が下がってしまいます。1日15マイル(24q)のスローペースで道々ウシに牧草を食べさせながら、千マイル(1600q)の道のりを2ヶ月余りかけて進む長旅でした。

 平均的なキャトルドライブの構成は、ウシ3千頭に最低10名のカウボーイと医薬の知識もあるコックさんが1名。カウボーイには交代で24時間勤務、1名当たりじウマが3頭必要です。昼間は正しい方向にウシの群れを導き、夜間は牛泥棒から群れを守るのが役目で、経験の浅い若者でもできる仕事でした。

テキサス州ダラス・パイオニアプラザのカウボーイとキャトルドライブ像(ストリートビュー)

lChisholm Trail/Western Trail (⇒拡大)

=== キャトルタウン ===

 ミズーリに向かう古くからのコースは、テキサス牛が疫病を媒介するダニを持ち込むというのでミズーリの農民に嫌われ使えなくなってしまいます。

 代わりに、インディアンに少額の謝礼を払ってオクラホマを横切り、新たに家畜出荷場を設けたカンザス州アビリーンに向かうチズムトレイルが脚光を浴びました。テキサス州ダラスと双子都市の対をなすフォートワースを通るコースです。

 ほかにロッキー山脈の山麓を北上し、コロラド州デンバーに抜けるコースがあり、後に放牧地が西に拡大してからは、カンザス州ドッジシティに向かうウェスタントレイルが有力になります。

 退屈な長旅を終えてアビリーンやドッジシティなどのキャトルタウンにたどり着いたカウボーイたちは、手にした給与で身なりを整え、酒場でポーカーに興じ、売春婦を買い…時には、西部劇映画さながらに撃ち合いが始まることもありました。

 1870年代には有刺鉄線が発明され、牛の群れは四六時中カウボーイに見張らせるより、放牧地を鉄条網で広く囲う方が安上がりになります。1890年代になるとテキサス各地にくまなく鉄道が通じ、キャトルドライブも要らなくなります。しかし、カウボーイたちがテキサスからカンザスに運んたウシは、1866〜86年の累計で2千万頭に上りました。

=== 北部大平原 ===

 1966年にボズマントレイル経由で初めてテキサス牛の千頭の群れがモンタナに運び込まれ、当時から北部大平原でもウシの放牧が行われていました。その後、インディアンとバッファローが消えた大平原でウシは過放牧というほど増えますが、干ばつと1886〜87年冬の異常寒波で打撃を受け、北部でも放牧地が有刺鉄線で囲われ牧場化するようになっていきます。


1874〜75年 レッドリバー戦争


 グラント大統領の「講和政策」が推進されている間も引き続き、インディアン社会の危機は深刻化していました。新開発のなめし皮の製法でバッファロー狩猟の採算が向上し、西部の町にはバッファローの商業ハンターがたむろするようになっていました。

 平原インディアンの生活を支えてきたバッファローは、一気に絶滅しようとしています。追い詰められた南部平原インディアンの中に預言者が現れ、呪術によって銃弾を受けても不死身の身体を得たという信仰が拡がりました。

Red River War (⇒拡大)

=== 第二次アドビウォールの戦い ===

 1874年春、前年と前々年に北部の「大量屠殺」でバッファローを獲り尽くしたハンター200〜300人が、テキサス北部の(注)パンハンドル地方に南下してきました。すると、早速、ハンター相手に商売をしようとする者が現れます。カナディアン川沿いの廃墟となっていた交易所の周りに次々に店や酒場が開き、たちまちアドビウォールズの町がよみがえりました。

(注) テキサス州の地図の形状をフライパンにたとえ、フライパンの柄に当たる地域

 この地方は、かつてコマンチェリアと呼ばれたコマンチ族の勢力圏の中心です。コマンチ族やカイオワ族、さらにシャイアン族・アラパホ族の南部残留組を合わせて約4800人が、白人の指示する居留区に移住せず残っていました。そのうち壮年男子の戦士は、1200人程度だったと推定されます。

Second Battle of Adobe Walls

 6月27日未明、アドビウォールズはインディアン戦士の一群に急襲されました。町には男子28名と女子1名。数では圧倒的に不利でしたが、寝込みを襲われたふたりを含め初日の死者は3名だけで、射程の長いバッファロー狩猟用の銃でよく戦いました。

 しかし、その後もインディアンは寄せては引きを繰り返し、目立った攻撃はないまま連日にらみ合いが続きました。周辺のハンターも集まり町の防御は堅くなりましたが、こちらも決定的な攻撃をしかけられません。結局、ハンターの一団はアドビウォールズを放棄し、パンハンドル地方からいったん撤退します。

 軍事的にいえば(注) この戦いはインディアンの勝利でしたが、預言者の不死身の呪術に効果がないことが分かり、インディアンには情緒的に痛い敗北となりました。

(注) 第二次アドビウォールズの戦いと呼ばれています。ちょうど10年前にも、サンタフェトレイルの通行を妨げるインディアンを討伐する戦いがありました。

=== パロデュロ・キャニオンの戦い ===

Palo Duro Canyon

 グラント大統領の「講和政策」は破綻し、陸軍司令官のシェリダン元帥はパンハンドル地方を流れるレッドリバー支流の流域に部隊を派遣し、インディアンを一掃する作戦を展開します。1874年の夏から秋にかけて、およそ20件の戦闘や衝突が起きました。

 インディアンの集団は、戦闘に足手まといの婦女子や高齢者連れで転々と移動していますから、白人部隊と鉢合わせするたびに戦闘を避けて逃げました。しかし、運よく逃げ切れても、生活に欠かせない大事なウマや食料・備品を捨てて逃げるのが精一杯。遊牧生活は維持できなくなり、集団ごとにあきらめて居留地に移住していくのでした。

 9月28日のパロデュロ・キャニオンの戦いは、中でも典型的な例です。死者は4人に留まりましたが、未明に急襲されたインディアンは、冬に備えて蓄えたバッファローの肉も持たずに着の身着のままで逃げ、450の宿営設備が焼かれ、1400頭のウマが射殺されてしまいました。

 一連の戦争は、翌1875年、コマンチ族のクアナ酋長(第94号コマンチ戦争)の降伏をもって最後に終結します。


1876〜77年 大スー戦争


Mt. Rushmore, Black Hills

 北部平原インディアンの最後の決戦「大スー戦争」は、1868年のララミー砦条約でスー族に保証された聖地ブラックヒルズ地方をめぐる争いでした。後に4人の大統領の顔が断崖に彫られ有名になったラシュモア山があるところです。

=== カスター遠征隊 ===

 ブラックヒルズは地学的に金鉱の存在が期待され、その森林はミズーリ川流域の草原に家を建てる開拓者にとって貴重な建材となるはずでした。連邦政府は、1874年、第7騎兵隊のカスター隊長にブラックヒルズの調査を命じました。総勢1000〜1200名で、幌馬車110台に2ヶ月分の糧食を積み込んだ大遠征隊です。

 金鉱発見のニュースは、遠征隊の帰還も待たず、さっさと全米に広まりました。時は1873年恐慌といわれる世界不況の真っただ中。食い詰めてゴールドの夢を追い求め、インディアンの聖地ブラックヒルズに侵入する不心得な探鉱者が続出します。世論も被害者のインディアンには味方せず、侵入者を取り締まるグラント政権の厳格な対応を非難しました。

=== 1868年ララミー砦条約の破綻 ===

 1875年にレッドクラウド酋長らラコタ・スー族の代表団は、首都ワシントンでグラント大統領と再会し条約の遵守を求めましたが、逆にブラックヒルズの売却を提案され交渉は決裂。帰郷後は、居留地にこもり中立の立場を取ります。

 ラコタ・スー族は7支族に分かれ、この頃の人口はおよそ1万5千人と推定されていますが、白人に敵対したのは主にブラックヒルズ及び隣接のパウダー川地方を拠点とするオグララとハンクパパの2支族で北部シャイアン族と合わせて総数7千人、うち戦士は2千人という勢力でした。

Great Sioux War (⇒拡大)

 1868年のララミー砦条約では、ブラックヒルズを含むサウスダコタ州の西半分が未来永劫の「スー族の居留地」と定められていました。この時にグラント政権が買い上げようとしたのは、地図での地域です。その西でパウダー川地方を含む地域(赤い点線)も、未処分のインディアン領と明記されていました。

 しかし、連邦政府は居留地外のインディアンを討伐する方針を決め、期限付きの無理な要求を突きつけ開戦理由を仕立て上げました。緒戦は1876年3月、厳寒の中をオレゴントレイルのフェターマン砦から雪中行軍したレイノルズ大佐の部隊は、パウダー川沿いの小村を攻撃したものの、さしたる戦果を挙げられず、返ってインディアンの戦意を高めてしまいました(パウダー川の戦い)。

=== 夏の討伐作戦 ===

 1876年夏の討伐作戦では、騎兵隊は西のエリス砦からギボン部隊、南のフェターマン砦からクルック部隊、東のリンカーン砦からテリー部隊と三方からインディアンを挟撃する作戦を立てました。カスター隊長指揮の第7騎兵隊は、テリー部隊の傘下です。

 一方、インディアン側の主な戦闘リーダーはオグララ族のクレージーホース酋長、ハンクパパ族のゴール酋長、北部シャイアン族のトゥームーンズ酋長らで、精神的支柱はハンクパパ族の聖者シッティングブルでした。6月5日頃にイエローストーン川支流のローズバッドクリークで催されたサンダンスの儀式には、居留地に留まる支族からも多数の戦士が駆けつけて参加しました。

 最初の衝突は6月17日、クルック部隊とクレージーホースの一団がローズバッドクリークで正面対決しました。インディアン戦争の常で正確な情報はありませんが、両軍勢力が各々千人を超えていたのは確実で、6時間に及ぶ激戦の末にクルック部隊は100名近い死傷者を出し、兵員補充のために引き返して8月まで戦場を離脱します。

=== リトルビッグホーンの戦い ===

 ギボン部隊とテリー部隊は、クルック部隊の撤退を知らなかったようです。ローズバッドクリークの河口で両部隊は合流、本隊は西上してリトルビッグホーン川を遡上し、分遣隊としてカスター隊長の第7騎兵隊600名あまりにインディアンの背後を突かせる作戦を立てます。装備の中にはガトリング砲(初期の機関銃)もありましたが、カスター隊長は進軍の妨げになるとして携行しませんでした。

1876 Summer Campaign

 そして、300年のインディアン戦争史上で最も有名なアメリカ陸軍の敗戦「リトルビッグホーンの戦い」の日を迎えます。詳細に諸説はありますが、概要は以下の通りです。

 6月25日の朝、第7騎兵隊はリトルビッグホーン川のほとりでインディアンの宿営地を発見します。平均的な説によると、南北3マイル(約5q)に及ぶ大規模な宿営地で、インディアンの総勢6千人のうち1800人が戦士でした。

 騎兵隊の手先で斥候のインディアンは口々に警告しましたが、カスター隊長は白昼の午後3時に攻撃を開始します。敵の兵力をしっかり把握せず、本隊の到着を待たずに急襲したのは、分遣隊がインディアンに見つかったと勘違いしたからだといわれています。

 カスター隊長は騎兵隊を3分割、まずリノ隊に渡河させ南から宿営地を襲わせました。リノ隊は圧倒的なインディアン兵力の前に防戦一方になり、多数の死傷者を残し命からがら4時に東岸に戻ります。そこへカスター隊の救援に駆け付けたベンティーン隊が加わり、両隊は丘の上に円陣を張り27日に本隊が着くまで持ちこたえました。

 カスター隊の210名は北に進撃し、ベンティーン隊の加勢も得られず5時半頃に全滅したと推定されます。分遣隊647名のうち戦死は268名。戦死者の数で、北西インディアン戦争で1791年に起きたワバシ川の戦い(セントクレアの敗戦)の623名に次ぐ決定的なアメリカ陸軍の敗戦でした。

Battle of the Little Bighorn (⇒拡大)

=== スリムビューツの戦い ===

 当時のインディアン戦士の武装は銃と弓矢が半々で、その銃も弾丸先込め式の時代遅れの銃まで様々で不揃い…対する騎兵隊は、45口径(11.5p)の回転式拳銃と射程の長い1873年式スプリングフィールド銃を装備し、インディアンを軽く圧倒できるはずでした。

 ところが、リトルビッグホーンの戦いでは、インディアンが200丁以上の連発銃を持っていました。射程は短くても、数と機動力で勝るインディアンは、至近距離からカスター隊を集中射撃することができたのです。連邦政府は居留地のインディアンからウマや銃器を押収、抵抗派インディアンに支援物資が横流しされないよう締め付けを強化します。

 一方、ローズバッドの戦いで傷ついたクルック部隊は兵力の補強を終え、8月にパウダー川地方でインディアンの追跡を再開します。しかし、雨が降り連日ぬかるみの中をさまようばかりでインディアンは影も見当たりません。インディアンは戦いよりも狩猟を優先して既に散開したものでしょう。

 8月下旬、クルック部隊は東進し、わずかな糧食を携えリトルミズーリ川に沿って北上することにしました。悪天候は続き、部隊は体力を失って倒れたウマの肉で食いつないだことから「馬肉行軍」とか「飢餓行軍」と呼ばれる厳しい作戦だったそうです。

 9月7日、クルック部隊は既に現ノースダコタ州まで到達していましたが、150名の調達部隊に比較的元気なウマを与え、ブラックヒルズの探鉱者の宿営地に行って補充の糧食を持ち帰るよう指令しました。ところが、調達部隊は途中のスリムビューツでラコタ・スー族の宿営地を見つけ、9日早朝に奇襲攻撃をかけます。

 アメリカンホース酋長以下260人のインディアンは、豊富な食料や弾薬まで全てを残しあわてて逃げるしかありませんでした。午後にクレージーホース酋長が周辺の戦士6〜8百人をかき集めて反撃してきたときには、既に2千名のクルック部隊本隊が到着していました。

=== シダークリークの戦い ===

 テリー部隊傘下の第5騎兵隊は、8月にクルック部隊と別れて北上しイエローストーン川の北岸を警戒していました。10月20日、ラコタ・スー族の聖者シッティングブルの要請を受け、隊長のマイルズ大佐がミズーリ川支流のシダークリークで会談に応じます。

 交渉は、シッティングブルが(白人襲撃を控える見返りに)バッファロー狩猟用の弾丸供与を依頼、マイルズ大佐はインディアンの降伏を勧告し、折り合いません。翌日の再会談で決裂した後に小規模な戦闘が起こり、シッティングブルの一団は撤退したかのようでした。しかし、27日に婦女子を含む2千人のインディアンが投降し、居留地へ向かいます。

 シッティングブルは、翌1877年5月、残りのインディアンを連れ国境を越えましたが、カナダでもバッファローの数が激減していて遊牧生活が成り立ちません。4年後にはアメリカに帰還して降伏しました。

=== ダルナイフの戦闘 ===

 一方、クルック将軍は、11月にパウダー川上流の宿営地で、シャイアン族のダルナイフ酋長らが部族戦争の祝勝会をしているとの情報を得て、マッケンジー大佐と千人の部隊を派遣します。暁の急襲で173戸のテント(ティピー)は完膚なく破壊され、500頭のウマも捕獲されました。

 大半のインディアンは薄着で毛布もなしに逃げ凍傷にやられましたが、一部はビッグホーン山地をトング川方面に抜けクレージーホース酋長のラコタ・スー族に合流することができました。しかし、この戦闘を最後にシャイアン族の抵抗は実質的に終了します。

=== ウルフマウンテンの戦い ===

Battle of Wolf Mountain

 クレージーホース酋長は、着の身着のままで逃げてきたシャイアン族の仲間を抱えては冬を越す算段が立たず、ついに連邦政府に講和を申し入れることにしました。しかし、講和使節がクロウ族の斥候に殺され、マイルズ大佐の部隊に報復攻撃を繰返します。

 マイルズ大佐は、1877年1月、435名の兵を引き連れてトング川に進軍。さらにウルフマウンテンの峰に大砲を構えて砲撃を開始したところ、インディアンは総崩れで退却せざるを得ませんでした。

 厳しい冬を生き延びるためにインディアンの人々は、三々五々と居留地に向かいました。2月に連邦議会は、それまでのように条約形式を踏まず、ブラックヒルズをスー族から奪う法律を定め、居留地のスー族に批准させました。

 ダルナイフ酋長とリトルウルフ酋長ら北部シャイアン族は4月、クレージーホース酋長の率いるラコタ・スー族は5月に相次いで投降、ネブラスカ州北西部のロビンソン砦に出頭しました。ここに、大スー族戦争は終結します。 

=== クレージーホースの死 ===

Crazy Horse

 クレージーホース酋長は、居留地の白人の注目を集めました。それがレッドクラウド酋長ら古参の居留地インディアンの妬みを買い、いずれ脱走を企て遊牧生活に戻るという噂が広まります。次いで8月にはネズパース戦争が起き、居留地のインディアンはスー族もシャイアン族も白人に味方しネズパース族のカナダ逃避行を追撃しましたが、クレージーホース酋長は協力を拒否…居留地当局の不信は深まります。

 その後も、さらに些細な行き違いが重なります。そして9月5日、クレージーホース酋長はロビンソン砦の営倉で暴れ、銃剣で刺されて落命しました。享年はおよそ37歳。


1877〜79年 北部シャイアン族の大脱走


Northern Cheyenne Exodus (⇒拡大)

 ダルナイフ酋長とリトルウルフ酋長は、スー族居留地を定める1868年ララミー砦条約にも署名しています。そこで、当然、北部シャイアン族は現サウスダコタ州の居留地で暮らせるものと思っていましたが、南部シャイアン族とアラパホ族が住んでいる現オクラホマ州の居留地に向かうよう勧められました。

 途中で高齢者が亡くなったり、若者が抜け出て北に戻ったり、総勢972人の一行は8月にリノ砦に着いたとき937人に減っていました。南部居留地の貧困は耐えがたいもので、連邦政府は北部シャイアン族に対し特別に狩猟の許可を与えましたが、既に周囲のバッファローは死に絶えていました。

 翌1878年には麻疹(はしか)が流行ります…追い詰められた北部シャイアン族は、ついに集団脱走を計画し、297人(あるいは〜353人)が9月10日の午前3時に跳ね起き、隠し持っていた武器を手に逃げ出しました。

= パニッシュトウーマンズフォークの戦い =

 脱走した北部シャイアン族一行は追撃をかわし無事にカンザスに入ることはできましたが、9月27日の騎兵隊との交戦で60頭のウマと多くの荷駄を失ってしまいます。そして、直後の29日に旅の家畜商が運悪く一行に遭遇。ウシ80頭を奪われる事件が起きました。

 それを機にしたように、続く数日にカンザス北西部で開拓者が襲われる事件が相次ぎます。被害は家畜に留まらず、(白人側の情報では)40人が殺され女性25人が強姦されました。特に東欧から移民してきたばかりでインディアンを知らないの開拓者は格好の餌食で、笑顔で近づき至近距離で発砲したと伝えられています。

 北部シャイアン族はこうして、周辺の5つの砦の兵士1万名と3千人の開拓者に、お尋ね者として日夜追われる身となりました。そして逃亡開始から6週間、疲れた一行は会議を開いて二手に分かれることにしました。

=== リトルウルフ酋長らの降伏 ===

 リトルウルフ酋長に従い逃亡を続けた100人余りはネブラスカの平原で多数のシカや野生のウシに恵まれ、白人にも出会わず平穏に冬を越すことができます。翌春は早々にパウダー川に向かい、そこでキオウ砦の斥候に見つかってしまいますが、砦の司令官はリトルウルフ酋長と旧知の仲で、一行は降伏し、その後は砦の斥候として協力することになりました。

=== ロビンソン砦の虐殺 ===

 10月23日、ダルナイフ酋長ら約150人は、レッドクラウド酋長を頼って居留地に向かっていたところを吹雪の中で兵に囲まれてしまいました。取敢えずロビンソン砦に同行し、あらためて北部居留区への移住を願い出ましたが、またもや交渉は決裂し一行は兵舎に幽閉されてしまいます。

 翌1879年1月9日夜9時45分、「南部に戻るくらいなら死んだ方がマシ」と言っていた一行は、その言葉通りに再び脱走を試みました。翌朝までに65人が捕えられ、さらに6人は数日中に見つかってしまいましたが、残りはひとまず逃げおおせました。

Fort Robinson Massacre

 しかし、それから2週間後の1月22日、150名の追撃隊が逃亡インディアン32人を砦北西35マイル(56q)の川床に追い詰めます。投降を呼びかけても、誰も聞きません。結局、男子18人全員が戦死。婦女子8人は死体の陰で助かりましたが、残る6人は巻き添えになりました。砦の兵も6名が戦死しています。

 ダルナイフ酋長は何とかレッドクラウド酋長のもとにたどり着きましたが、事件の収拾はすぐにはつきません。数ヶ月の後に連邦政府の許可が下り、北部シャイアン族は脱走の罪も許されリトルウルフ酋長のいるキオウ砦に向かいます。その後、リトルビッグホーンの戦いの戦場の東にシャイアン族の居留地が設けられます。


1889年 オクラホマ・ランドラン(ランドラッシュ)


 インディアン準州(現オクラホマ州)は、もとは1830年代にインディアン移住法により南東部から移住を強制された文明化五族の居留地でした。しかし、南北戦争では奴隷制を認める南部を支持した部族が多く、戦後1866年のワシントン条約で準州の西半分を召し上げられてしまいます。

 その後のインディアン戦争で配賦したコマンチ・カイオワ族居留地も、南部シャイアン・アラパホ族居留地も、実は連邦政府がこの時に獲得した土地でした。

Oklahoma Land Run

 さて、前にも述べましたが、リンカーン大統領時代の1862年に開拓者が無償で土地を得られるホームステッド法が設立していました。そこへ1889年のインディアン処遇法で、準州の未処分の土地が、開拓者に先着順で分け与えられることになったのでたいへんです。

 4月22日の正午、アーカンソーとテキサスの州境に並んだ5万もの人々(Boomer)が、ウマや馬車で2百万エーカー(兵庫県や静岡県の広さに相当)の土地をめがけて一斉にスタートしました。しかし、希望の土地には既に指定日前に抜け駆けした人々(Sooner)がいて、各地でトラブルが起きます。

 オクラホマシティやガスリーは、半日で人口1万人の町になりました。開拓者たちは長い列に並んで土地の登記を済ませると、ただちに土地改良に取り組み始めます。翌週には仮の学校が開校し、オクラホマシティにはひと月もしないうちに5軒の銀行と6軒の新聞社が開業しました。1895年まで、こうしたランドランが5回繰り返されます。

赤字はランドランが起きた年 (⇒拡大)

 1890年にインディアン準州の西半分は、帰属が定まっていなかった西部のオクラホマパンハンドル地方と併せてオクラホマ準州となり、1907年に東のインディアン準州を再統合して合衆国46番目の州に昇格しました。文明化5部族は1901年に市民権を与えられています。


1890年 ウーンデッドニーの虐殺


 バッファローの群れは絶滅寸前に追い込まれ、白人開拓者の土地の浸食は止まず、大スー戦争(1876〜77年)から10年を経ても、スー族の生活の不安は解消されていませんでした。

=== ゴーストダンス信仰 ===

Ghost Dance

 その頃、パイユート族の預言者ウォヴォカが唱える「ゴーストダンス信仰」がインディアンの心をとらえるようになります。救世主キリストがインディアンの風体で再臨し、大地から白人は去りバッファローは戻り、先祖の霊もよみがえらせるというのです。

 しかも踊りで着用するゴーストダンスシャツは弾丸を寄せつけないとも信じられ、居留地の白人は、この信仰が反乱の呼び水になることを恐れていました。大スー戦争の英雄シッティングブルがいた居留地の管理官も同様で、主要なリーダーを捕えてインディアンの狂気を鎮めようとします。

=== シッティングブル射殺事件 ===

 1890年12月15日、シッティングブルを逮捕しようとする居留地の警官隊とインディアンがもみ合いになり、はずみで警官7名とシッティングブルを含むインディアン9人が射殺されてしまいます。シッティングブルは享年58〜59歳でした。

 白人の報復を恐れたハンクパパ支族の200人は隣のミニコンジュ支族の居留地に逃げ、ビッグフット(別名スポッテッドエルク)酋長の庇護を求めます。

 ビッグフット酋長は当時としては高齢でおよそ64歳。ゴーストダンスの信奉者として知られていましたから、そのままでは自分も逮捕されてしまいます。肺炎にかかり病の身でしたが、さらなる庇護を求め、ハンクパパ族38人を含む350人のインディアンを連れ、ダコタ南部居留地のレッドクラウド酋長のもとに向かいました。

=== 虐殺事件の顛末 ===

Hotchkiss M1875 Mountain Gun

 しかし、12月28日に一行は目的地のわずか手前で第7騎兵隊の分遣隊に足止めを喰らい、ウーンデッドニー・クリークの騎兵隊宿営地に連行されます。

 宿営地にはフォーサイス大佐と残りの隊員も到着し、インディアンは、500名の騎兵隊と4門のホッチキス速射砲に見張られて一夜を明かしました。

 翌朝、フォーサイス大佐はインディアンに武装解除を命じましたが、その過程で緊張が高まり全面衝突に発展しました。一説によれば、英語を知らないインディアンのひとりが白人兵士に銃を渡さず、兵士がつかみかかったところ銃が暴発したのがきっかけです。

Dead Chief Big Foot

 インディアンは広場に集められていたので、半数は一瞬で射ち倒されました。残る半数にも銃はなく身を隠す場所もない者が多く、続く数分で戦いの決着がつきます。しかし、至近戦に巻き込まれなかった騎兵隊員は、テント(ティピー)から逃げ惑う婦女子にホッチキス砲の銃弾を射ちかけました。

 戦場は無秩序で、士官も制御できない状況下で虐殺が行われました。1時間足らずで戦いは終わり、インディアンは約300人が死亡。生き残った約50人も負傷して居留地に運ばれます。騎兵隊も、戦死31名と負傷33名の犠牲者を数えました。

 この事件を機にインディアンのゴーストダンスの熱も冷め、スー族の抵抗も急速に下火に向かいます。