アラバマ州・e-ガイド
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アラバマ・e-ガイド目次 |
アラバマ州
アラバマの地形/アラバマの歴史
ハンツビル ロケットシティ・ハンツビル/W・C・ハンディとヘレン・ケラー
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バーミングハム 新興重工業都市バーミングハム/アラバマ大学とタスカルーサ
モンゴメリー バスボイコット運動(1955)とセルマ‐モンゴメリー行進(1965)
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アラバマ州
State
of Alabama (Heart of Dixie)
早分かり・e-マップ集/アラバマの地形/アラバマの歴史
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アラバマの地形
★アパラチア山系 ★フォールライン ★ブラック・ベルト ★ピードモントとノースアラバマ ★ガルフコースト
複雑なアラバマ州の地形を理解するには、アパラチア山脈とミシシッピー川の形成について知る必要があります(⇒「自然と歴史・e-百科」北米6億年の地史)。
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アパラチア山系 ===
アパラチア山脈の形成は4億8千万年前に始まりました。2〜3億年前のピーク時には、超大陸パンゲアの背骨で、高さでも現在のロッキー山脈に負けない超巨大山脈でした。
その後、地球は大陸の分裂期に入り、フロリダ半島を境に東はアフリカ大陸、西は南アメリカ大陸となって離別していきました。アパラチア山脈の東の端は、モロッコの小アトラス山脈となりました。西では、現在のミシシッピー川を境に大陸が分裂しかけた時期があり、遠くアーカンソー州のオザーク山地にアパラチア山脈の最西端が残っています。
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フォールライン ===
アラバマ州の北東部は、アパラチア山脈の古い地層に覆われています。南部は沿岸平野で、大陸が分裂を始めた2億年前以降に堆積した土砂で形成されました。
二つの地層の境界では各河川に滝ができ、水力を利用しやすく下流から船も遡行しやすいこれらの地点には、フォールライン・シティズ(滝線都市)という工業都市が軒を連ねました。アラバマ州では、モンゴメリーやタスカルーサが該当します。
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ブラック・ベルト ===
フォールラインの南は、土地の肥沃な黒土地帯で古くから「ブラック・ベルト」と呼ばれていましたが、やがて綿花のプランテーション農業が発展し黒人奴隷の人口が増えるにつれ、自然に黒人が多い地域を表す言葉に転用されるようになったのだそうです。モンゴメリーで1955年に起きた市バスのボイコット事件が、黒人の差別の解消を訴える全米の公民権運動に火をつけました。
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ピードモント・ノースアラバマ ===
バーミングハムは、アトランタやシャーロットと同じアパラチア山麓台地(ピードモント)の都市で、近隣で石炭が産出され、南部鉄鋼業の中心地として発展しました。
さらに北のハンツビルやフローレンスはテネシー川の中流部で、地域としてはノースアラバマに分類されます。テネシー川は、ノックスビルやチャタヌガ方面からアパラチア山脈の谷間を流れ下り、ノースアラバマで西に流れた後、沿岸平野の境界を北上し、ケンタッキー州のパドゥーカ付近でオハイオ川に注いでいます。
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ガルフコースト ===
南のモービルは海の幸の宝庫です。映画「フォレスト・ガンプ」でトム・ハンクスが演じる主人公がエビ漁をした所として、覚えておられる方も多いことでしょう。アラバマ州に行くと、海から400qも離れたセントラルアラバマのバーミングハムあたりにもシーフード・レストランがいっぱい。海のないケンタッキー州に住む私たちにはうらやましい限りです。
アラバマの歴史
★デ・ソトの探検とマビラの虐殺 ★クリーク戦争と涙の旅路 ★綿花王国の盛衰と公民権運動
北米探検は、1492年にコロンブスがカリブ海の島々に到達してから間もなく始まりましたが、しばらくは沿岸部に留まっていました。
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デ・ソトの探検とマビラの虐殺 ===
最初の内陸部への探検に成功したのはスペインのデ・ソト隊で、1539年にフロリダ半島に上陸、金鉱を探す目的で現ノースカロライナ州まで北上した後、アパラチア山脈の山麓伝いに南行したといわれています。
デ・ソト隊はセントラルアラバマのマビラという村でタスカルーサ酋長率いるモービル族の待ち伏せを受け、村を焼き尽くし2〜6千人のインディアン戦士を殺戮しました。
これが、その後1890年まで続く白人とインディアンの争乱の中で最初に起きた大虐殺となりました。デ・ソト1行も、総勢620名で馬220頭を越える大探検隊でしたが、戦闘で200名と1/4の馬を失ったそうです。
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クリーク戦争と涙の旅路 ===
18世紀半ば…独立戦争前夜の頃から、アメリカの西部開拓史が始まります。当時の西部といえばアパラチア山脈の西の全地域で、独立戦争によりイギリスから領土を得たとはいえ、インディアンが支配する土地でした。開拓者たちはケンタッキーからテネシーに入りチェロキー族を追い出して支配地を拡大していきますが、アラバマはミシシッピー準州の一部で、クリーク族と呼ばれるインディアンが実効支配していました。
一方で、アメリカ政府はインディアンを文明化して懐柔しようと努めていましたが、1811〜12年にかけてミシシッピー川とオハイオ川の合流点付近を震源とする大地震が起き、地震を神の怒りと信じた保守派の人々と文明開化を進める人々の間で争いが起きます。
そこに第二次米英戦争(1812〜14年)が結びついて、保守派クリーク族+イギリスvs.アメリカ+開明派インディアン連合のクリーク戦争が勃発。後の第7代大統領ジャクソン将軍が、ホースシューベンドの戦いに大勝し、アラバマの大半とジョージアの南部が白人に譲渡されました。
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アラバマフィーバーと涙の旅路 ===
時は、ホイットニーが発明した綿繰り機が普及し、綿花栽培の採算性が飛躍的に改善した南部プランテーション農業の発展期でした。クリーク族が立ち退いたアラバマに黒人奴隷を連れた白人が殺到し、アラバマフィーバー(熱)というアラバマ入植ブームが起きます。
一方、ジャクソン将軍はその後もスペイン領フロリダに侵入してインディアンの弾圧を続け、大統領になるとインディアン移住法を制定して南部の5部族を現在のオクラホマ州に追い立て、南部全域をついに白人の支配下に入ったのです。これが、アメリカ史に悪名高い「涙の旅路」と呼ばれるインディアンの強制移住です(ジャクソンは大統領ベストテンに入る人気者ですが…)。
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綿花王国の盛衰と公民権運動 ===
ブラック・ベルト
黒人人口比率 |
1820 |
38% |
1860 |
64% |
1900 |
73% |
2000 |
44% |
南北戦争(1861〜65年)前に、アラバマの綿花生産は全米の約1/4を占めるまでに発展しました。アラバマ州内では陸上戦もなしに戦争は終わり、黒人は奴隷から小作農と身分を変えたものの戦後も貧しい生活を強いられ、綿花王国を支え続けます。
1910〜30年に第一次の黒人大移動が起き、ブラック・ベルトの黒人も中西部や東部・西部の都会に出て行くようになりました。南部では人種差別が激しくリンチが横行していたことや移民法が厳しくなり都会では労働力の確保が難しくなってきたことが主因です。
1955年に、モンゴメリーでローザ・パークスが市バスで白人に席を譲るのを拒否して逮捕されると、キング牧師を中心に市バスのボイコット運動が起き、これが全米を動かす公民権運動に発展しました。
綿花栽培は機械化が進み、最近はテキサスが全米の3割を生産。アラバマは、すっかり脇役に徹しています。
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